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 少女の足元では、魔方陣が蒼い燐光を放っていた。それは、どこの魔導書にも載っていないものであり、少しでも知識のある者が見れば、魔方陣として成立していないと指摘するだろう代物だった。
 だがそれが十分に機能した事は、魔方陣の中央に蒼い燐光に包まれた一人の男が立っていることからも明らかだった。慣れてさえいれば一目で判る、いわゆる「魔物」の気配をしている。
 少女は、気圧されたように、しかし隙なく取り囲む山賊を一瞥すると、すぐ隣に目を移した。燐光が収まって見られるのは、角刈りのオレンジ色の髪と、紅い瞳を持つ長身の男。自分よりも背の高い男に対して、少女は平手を振りかぶる。
 小気味のいい音が、今は静まり返った森に、響いた。

「しっかし不便だよね―。こっちからの介入がなきゃ、陣からも出られないなんてさ。檻の猛獣だね。あ、魔術使う分、こっちの方が厄介かな?」
「うるせーな、バカ」
 温泉だけが名物の小さな村の、とある酒屋だった。夏の今は村全体で客が少なく、この酒屋にも数えるほどしか人がいない。二人は、他に誰も座っていないカウンターで隣り合っていた。
「それにしたって、お前、力強すぎ。触れるだけで十分だっての。俺の繊細な手が吹っ飛んだらどうしてくれるんだ」
「繊細ねえ?」
 グラスを傾けながら、そう呟いた。男が不機嫌そうに、その実笑いをかみ殺しながら頷く。こちらも、グラスを片手にしている。
「そうだ。どうするんだ」
「逃げるさ。勿論」
「へ―。この俺から逃げられると思ってるのか」 
「当然」
 伸ばしっぱなしの長い髪を無造作に束ねた少女が、にっこりと微笑む。傍から見れば無垢な子供の笑顔そのものだが、この場合は嫌味意外の何物でもない。
 オレンジの髪を短く刈り込んだ長身の男は、少し前に少女と打ちあわせてしびれたままの右手でグラスを握り締めた。たやすく割れてしまったグラスを見て、少女がわざとらしく溜息をついて見せる。
「未熟者だねえ」
「たかだか三十そこらのガキが」
「彼女いない暦三百十二年野郎」
「・・・・やるか?」
「やろうか?」
 そっぽを向いていた二人は、この一言で悪戯を仕掛ける仲間かのように、同時に顔を見合わせて、破顔した。
 少女はカウンターに身を載りだし、男は平然とグラスの破片を空いた皿に集め、新しいものを手に取る。
「おじさん、飲めるお酒全部出して」
 密かにこの異色の組み合わせをうかがっていた店主が、驚いた顔をする。せいぜい十二、三の少女の口にする台詞だろうか。
「お嬢ちゃん。そんな事を言ってもだね・・・・」
「必要金額、ここに書いてね」
 出された白紙の振り込み用紙を、胡乱そうに見る。とてもではないが、こんな子供が大金を持っているとは思えなかった。用紙を持って行って申請したところで、それだけの金が振り込まれていなければ、受け取る事は出来ない。
「現金がいいならそうするけど・・・足りないかもしれないよ?」
 少女は、そう言って足元に投げ出していた袋を引っ張り上げた。袋の口を開けて、店主に向ける。中身は全て紙幣。足りないどころか、この店を買い取っても釣が出るほどだった。
「は、はい、今すぐに!」
 店の奥に書け込む店主を認めて、少女と男が目で笑い合う。この頃には、他の客たちもこの異変に気付き始めていた。
 自分たちに集まる視線を感じながら、少女がくるりと後ろを向き、笑顔で告げる。
「飲みたいなら一緒にどうぞ。今日はあたしがおごるよ」
 その言葉のすぐ後に、店主が持てるだけの酒を持ち、姿を現す。最初は戸惑っていた客たちが酒盛りを始めるまで、長くはかからなかった。

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第一場

「きゃーっっ!」
 女の悲鳴に、シュムは剣を取って立ち上がった。しかしそれは反射的な行動であって、一瞬、自分の居場所が判らず不信そうに視線を巡らせ、宿の一室であると判断する。
 そうして、部屋の戸を開けようとして――毛皮を踏んだ。
「だーっ!」
 毛皮が叫ぶ。正確には、毛皮を身につけた小動物。オレンジ色で、子狐か小犬のような生物だった。
「っっ、カイ! なんだってこんなとこにいるんだよ!」
「お前、ヒト踏んどいてそんなこと言うか?! しかも今思いっきりだっただろ! 内臓出るかと思ったじゃないか!」
「・・・カイって、人だっけ?」
「いや、揚げ足取らなくていいから」
 オレンジの尻尾を上下に動かして、愛称・カイは、呆れ声で言った。
 常識人が見れば度肝を抜かれる光景だが、シュムは、至って不思議そうに見返しただけだった。本当に、「人」という表現でいいのかと考えているかのようだ。これがわざとなのだから、性格が悪い。
 はあ、と観念して、カイが溜息をつく。
「そもそもお前、どこ行くつもりだ?」
「悲鳴上がったから、とりあえず・・・」
「その格好で行くのか?」
「へ?」
 言われて、首を傾げる。
 見てみれば、上が下着のシャツだけなのはまだいい。しかしさすがに、ズボンもはいていないのはどうだろう。
 あはははは、と渇いた笑いを漏らして、シュムは昨日脱ぎ捨てたままになっていたズボンをはいた。ついでに、裾の長いシャツを着る。そしてベルトで剣を固定すると、それなりに外出準備は整う。
 しかし、そんなシュムをあくびをしながら見やって、カイは訊いた。
「で、どこ行くつもりだ?」
「だから、悲鳴が・・・」
「あれ、覗きが出たかららしいけどな。しかももう逃げられた」
「―――へ?」
 思わず、間の抜けたかおをカイに向ける。するとカイは、紅い瞳でぎろりと睨みつけてくるのだった。 
「ついでに、お前、荷を全部置きっぱなしでどうするつもりだったんだ。気をつけなきゃならないんだろう、今は。まあ、それでなくても無用心だけどな」
 確かに、宿で荷物を預けるのではなく部屋に置いたままにするなど、無用心極まりない。寝起きで、ついうっかりとしていたらしい。
 外見だけは愛らしい友人にきつく言われ、シュムは力なく座り込んだ。起きたばかりでそのままの長い髪が、鬱陶しいくらいに顔にかかる。
「つまり、起こされ損ってこと? 昨日寝たの遅かったのに。・・・じゃああたし、もう一回寝るよ。おやすみ、カイ」
「おまけに現状認識能力がない。もう昼だぞ」
「・・・あれ?」
 首を傾げながらも窓の外の太陽の位置を確認して、シュムはもう一度、渇いた笑い声を上げるのだった・・・。

 昼食を、宿の一階――宿代とは別料金で食事を作ってくれる――ですませると、シュムはカイを伴って宿を出た。
 寝起きとほぼ同じ格好だが、髪は簡単にまとめて束ね、少ない荷もしっかりとリュックに詰め込んで持っている。いつもであれば宿に預けるところだが、今は大金が詰めこんであるため、そうもいかない。そもそも、それでは意味がないのだ。
 しかし、本当に何もないところだ。
 まだこれが、真冬の閑農期であれば保養地として名高いだけに客も多く、それを見込んだ商売人もいるのだが、今はそれには早すぎる。貴族の中には、むしろそういう時期に来る者もいるらしいが、そんな人々は各自の別荘地を作っており、専用の温泉も引いている。旅人にすぎないシュムが、顔を合わせることはまずないだろう。
 そうなると、ただの狭い田舎村。一周するのはすぐだし、回ってしまえば他に見るものもない。
「・・・長閑だねえ、カイ」
 わかってはいたけど、と退屈そうに呟く。
 閑なのは嫌いではないが、物足りない思いがするのも確かだ。小高い丘で若木を背にして、膝の上に乗せたカイをなんとなく撫でながら、溜息をつくシュムだった。
 そして不意に思い出して、カイの頭をつついて注意を引く。
「あのさ、セレンと会った? この間会ったとき、カイと連絡取れないって淋しがってたよ」
「お嬢さん、動物と喋る癖があるのかい?」
 背後からの声に、シュムは咄嗟に、外には表れないものの臨戦体勢をとっていた。張り詰めない程度に緊張し、警戒する。
 後ろは森だ。夏という季節柄、虫も多い。例え野生の獣といえど、シュムに気配を悟られずに近付くのは困難なはずだった。それを易々と。カイは、毛を逆立てて声のした方を睨みつけているようだった。
 まだ若い。せいぜい、二十半ばの男だ。
 声からそう判断して、シュムはゆっくりと振り返った。
「・・・なんだ」
 呟いて、体を戻す。すると男は、断りもなくその隣に腰を下ろした。
 仕立てのいい、ふんだんに布を使った服が、ふわりと風をはらんですぐに、戻る。長い金髪をゆるく編んでいるさまからも、どこかの裕福な貴族のぼんくら息子だろうと予想がつく。
 見覚えはないが、確実に知っている相手だ。姿を変えたところで、判るものは判る。
 シュムよりも先に誰なのかに気付いていたカイは、やはり毛を逆立てて、男を睨みつけていた。
 しかし、男は冷たい二通りの対応にも一向にひるむことなく、にこりと笑いかけた。普通に見れば、羨望と嫉妬を浴びそうなくらいには、魅力的な笑顔だった。そこそこの都市では、さぞもてはやされることだろう。
 もっとも、シュムには効かず、顔を背けてしまった。
「酷い対応だなあ。久々の再会だっていうのに」
「久々ねえ。ふうん、三日って、久々なのかあ」
「君に会えなければ、一日でも永遠のようだよ」
「それじゃあ、あたしに恋してるみたいだよ。薬飲ませて何かしようとした相手に言うことじゃないと思う」
「何?!」
 嫌味たっぷりのシュムの言葉に、男よりも先にカイが反応する。
 可愛らしいオレンジの小動物は、シュムの膝から跳ね起きると、空中で一回転して草地に着地した。ただし、人形の、立派な体格で長身の、オレンジの髪を刈り上げた体を持って。
 一瞬の変身に密かにシュムが眼を丸くして、驚きつつ感心していたのだが、男二人がそのことに気付いた様子はなかった。小さく拍手をしてみたが、あえなく無視される。
「何考えてんだ、テメェ!」
 絞め殺しかねない勢いで、カイが男の襟首を掴む。男は、それでも笑みを浮かべたままだった。余裕のある態度が、余計にカイの神経を逆撫でする。
「ああ、君、いたんだ? 小さすぎて気付かなかったよ」
「テメェ・・・!」
「あー、はいはい。そこらへんでやめとこうね。無事だったんだし。それに多分、今アルを殺しちゃったら、ハーネット家ともめることになるんじゃないかな」
 これ以上手が出る前にと、シュムは大儀そうに立ち上がって、カイの体を、申し訳程度に押し留めた。力では敵うはずもないが、十分に意思表示にはなる。応じて、カイが一応勢いを緩める。
 おや、とアルと呼ばれた男が不思議そうな表情をした。
「どうしてわかったんだい?」
「紋章」
 一振りの剣に蛇が巻きついた意匠のカフスボタンを指し示す。
「物によっては出回ってるけど、その細工は違うでしょ。立派すぎる。小間使いが盗むとかってのも、いくつも使ってあって量として難しいだろうから、ハーネット家の内部の人が依頼主か協力者かなんでしょ」
「こんなもので判るとは。やはり君は、僕に相応しく聡明だ」
 伸ばされた手を、カイを盾にしてするりとかわす。それを好機としてアルに掴みかかろうとしたカイに、「やめなって」と釘を刺すことも忘れない。
 シュムは、うんざりとした目を向けた。
「今まで何回も言ってきたけど、あたしは子供じゃないんだからね。アルの範疇からは外れてる」
「いや、問題は見掛けだからね。その外見で、子供でないと言っても意味はないよ」
「そうだったのか・・・。じゃあ、聡明どうこうって関係ないじゃないか」
 溜息を一つ。
 そして、にっこりと笑いかけた。
「最後の警告をしよう。もしも今度またあんな真似をしたら、再起不能にするよ?」
 さらりとした言葉に、瞬間、確実に空気が凍った。
 アルはもとより、その必要のないはずのカイまでもがかおを引きつらせ、シュムを窺う。しかしシュムの笑顔は、張りついたかのように動かない。それが、一層こわい。
 本当なら、三日前に言っておくべきだったのだ。だがあのときは、突然のことにシュムも気が動転していた。あまり認めたくはないが、事実だ。いつ敵対することがあってもおかしくないとは思いながらも、裏切られたように感じたのだ。不意打ちのような真似でなければ、そうでもなかったはずなのだが。
 硬直している二人を放置して、シュムは方々から向けられた視線の先を、軽く見渡した。
「うーん。人目引いてるなあ」
 目立つオレンジ頭の男に、明らかに貴族の男。付け加えるなら、アルほどではないにしても、カイも見栄えは悪くはない。いくら田舎とはいえ、いや、逆に田舎だからこそ、これで注目されない方が不思議だろう。
 向けられる視線が、好奇や好意なのをみとって、カイの変身は見られなかったらしいと、その点では胸を撫で下ろした。見られたら、どんな騒ぎになるか。得体の知れないものは、在るだけで、十分に恐怖や排除の対象となる。
 物足りないからといって、厄介事まで起こす趣味はない。

 その夜二人は、昨日と同じ酒屋に足を運んだ。もっとも、この時期にやっている酒屋は村に一軒しかなく、それはつまり、宿を取っているところでもあるのだが。
「おじさん、ここにももう一杯」
「あ、俺も」
 つまみだけでなく、しっかりと食事をとりながら酒を飲む。その呑みっぷりは凄いものがあるが、酒場にいるほとんどが、既に昨日の呑みっぷりを目撃しているため、誉めはしてもそう驚きはしない。
 何しろ昨日は、店中の酒の半分ほどが二人の胃袋に消えた。ついでに言うと、ほとんどなくなった酒の補充を手配したのも飲んだ本人だった。知り合いがいるからと、近くの酒蔵への紹介を書いたのが、昨日の夜のことだ。
 そんなわけで、ここではちょっとした英雄、もしくは化物視されている感がある。
「ところで今更だけどさ。ここいていいの? 仕事は?」
 豆と臓物の煮込みをつつきながら、黒眼鏡をかけたカイを見やる。
「ああ、それなら大丈夫。この間大きいの終わったばっかだから、むしろヒマしてた。じゃなかったら来ないって」
 具だくさんのシチューをすすって、軽く笑う。
「それならいいんだけどね。この間、食べてなくって倒れたでしょ。びっくりするんだから、あれはもう無しにして欲しいね」
 瓶を二本まとめて運んできた、そろそろ頭の寂しくなってきている男に明るくお礼を言って、一つを自分の前に、一つをカイの前に据える。
「いや、さすがにあれはないから。二度と」
 干し肉のサラダを口に運ぶ。
「二度とねえ?」
 きのこのスープを飲んで、シュムは疑わしそうに首を傾げた。
 今ここで、二人はごく普通に話をしている。しかし実は、省略したり代用したりしている言葉が幾つかあった。 
 例えば、「契約」。「命」。
 そんなことを話していたら、誰が聞いてカイの正体を知るともわからない。
 「契約の獣」、俗に言う「魔獣」あるいは「魔物」だと知られると、この場合はいいことなど一つもない。人にはまずいない、赤い瞳を色付きの眼鏡で隠しているのもそのためだ。
 通常、「契約の獣」もその契約者も、忌まれるものだ。特に、こんな田舎では。
 シュムも出身は随分と奥まったところだったが、他の村人はともかく、自身にはそういった意識はなかった。むしろ、他者よりも長生きして年を取らないという体質から、仲間意識のようなものを持っているとも言える。もっともこれは、育った場所の問題ではないのだろうが。
 体の成長が止まるという、呪いのような特異体質のシュムが、まだ年齢と外見が相応だった頃に喚び出した最初の「魔物」が、カイだった。気まぐれを起こしたカイと契約を結ばないまま、それでいて時々会うような関係が、今までずっと続いている。シュムにとって最大の友達だ。
 描き出す魔方陣と同じように、こんな関係も常識外れだった。
「ああ、そうそう。セレンが。本当に淋しがってたよ?」
 共通の知人――人、ではないのだが――の名を、昼に続いて出すと、眼を隠していてもわかるほどにあからさまに、カイは厭そうなかおをした。
「あいつ苦手なんだよ。やたらおどおどしてて」
 そのくせ、俺より強いし。
 情けないので、その一言は口にせずにサラダに手を伸ばす。
 魔物と呼ばれるカイたちは、基本的には生命そのものを動力源にしているため、生きた兎や魚というならともかく、料理されたものでは力は得られない。だが、味覚は存在する。一種、趣味のようなものだ。
 ふうん、とシュムは呟いて、薄焼きのパンをかじった。
「そんなこと言ってるから、彼女いない暦三百十二年にもなるんだよ」
「・・・お前、それを蒸し返すか」
「え? 蒸し返すって何のこと? あたしはただ、事実を述べただけだよ?」
 酒場には不似合いなほど、無邪気な幼い笑顔。カイはげんなりと、食器を持ったまま肩を落とした。
「と、まあ、冗談はこのくらいにしといて」
「冗談か・・・?」
「セレン、この頃厄介な奴に追い回されてるらしくてさ。苦手だって言うなら会いに行けとは言わないけど、ちょっと気にはしておいてよ」
「いや、それって意味あるのか?」
「だから、気に掛けといて、少しでも異常があれば駆け付けるんだよ」
 カイの皿からパンを一枚掠め取り、そのままぱくりとかじりつく。
 カイは、それを恨めしげに見つめた。
「何で俺が」
「やっぱり、助けてもらうなら好きな人でしょ」
 にこりと、今度は掛け値無しに無邪気に微笑むと、いつの間に飲み干したものか、酒の追加を頼むシュムであった。

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第二場

 翌朝。
 今日はちゃんと朝に目覚めたシュムは、簡単に身支度を整えると、カイの泊まる隣室をノックした。そのくせ、返事を待たずに開ける。朝に弱いと知ってのことだ。
「おはよ。少し荷物、預かっといてくれる?」
「んー」
 布団から顔だけ出して、眠そうに、首をこくりと縦に振る――落とす、と言った方が正確かもしれない。カイは大体、太陽の時間よりも月の時間の方が得意なのだ。
 そんな状態にはお構いなしに、「じゃあよろしく」と言って、リュックを置いて部屋を後にする。これで持ち物は、腰に履いている剣と、大きな布のたった二つになった。
「おはよう、嬢ちゃん。ご飯食べるかい?」
「おはようございます。後で食べに来ます。温泉って、あっちでよかったんでした?」 
 日のあるうちは女主人、日が沈むと男主人になる夫婦が基盤のこの店で、声をかけてきた女主人に言葉を返すと、その表情がわずかに曇った。
「温泉・・・行くのかい?」
「そうだけど・・・え、今掃除中?」
 この時期、開放されているのは天然の岩風呂だけだ。基本的には、掃除も何も要らないのではないかと、シュムは不思議そうに首を傾げた。
 まだ働き盛りの女主人は、そうじゃないけどねえ、と言葉を濁らせた。そして、シュムの腰の剣にちらりと視線を向ける。
「嬢ちゃん、それは・・・飾り剣かい?」
 旅は物騒で、かといって下手に武器を持たせても危ないからと、子女では、見掛けだけは立派な剣を持ち歩く者もいる。実際のところ、そんなものはほとんど意味を為さず、その名の如く装りでしかない。そういった小細工に金を使える、生活の裕福な者の間では、飾り剣を装飾品として身につけることが流行り、今では主流にすらなっている。
 シュムの質素にすぎる格好では飾りも何もあったものではないが、呼び名として定着してしまっているのだから仕方がない。せいぜい十ちょっとにしか見えない少女が剣を使いこなすとは、考えにくいと思ったのだろう。
 シュムは、苦笑した。言われ方は違うが、慣れた反応ではある。
「使えるよ。剣自体もだし、あたしもそれなりには。飯の種だから」
「そうかい・・・。じゃあ、話してもいいかねえ。・・・覗きが、出るんだよ」
「はあ・・・」
「一月くらい前からになるかねえ。何度も捕まえようとしたんだけど、いやにすばしっこくて・・・」
 声をひそめ、深刻そうではあるが、シュムとしてはなんと返して良いのかわからない。客商売だけに、今のうちに片を付けたいのだろうが、よく知りもしない子供に話してしまうあたり、かなり嫌気がさしているのだろう。
 そういえば、昨日カイがそんなことを言っていたなと、思い返す。あれだけ悲鳴を響き渡らせておいて今更、とも思うが、カイの聴力が優れていることを考えると、悲鳴の理由を訊きにも行かなかったのだから、何も知らないと思っているのだろう。普通、よほどの大声でもない限り、いくつもの壁と空間を隔てた場所の声は聞こえないものだ。
 それなら、と、シュムは無邪気に、且つのんびりとした台詞を言う。反感は買わないように、少々の無知を装って。
「何も、今の時期を狙わなくてもいいのにね」
「うちではそう悠長なことも言ってられなくてねえ・・・。早く捕まえないと、客が寄り付かなくなっちまうよ」
「そうか・・・大変ですね」
「ああ。・・・それを飯の種にしてるって言うなら・・・ちょっと、捕まえてもらえないかい?」
 かかった、と思う。
 少しくらい動きたい気分だが、そのときに何かあった場合、自分から言い出したのと相手から言い出したのとでは、対応に差が出る。大騒動にしたいわけではないが、大雑把な性格故に、なかなか捕まらないという覗き魔を相手に、大立ち回りということも考えられる。そのときの責任を全て負わなければならないのはごめんだ。
 そういったところ、シュムは狡猾だ。ただ、セコイだけともいえる。
「いいけど、仕事になるよ?」
「・・・・・・いくらだい?」
「うーん。そうだなあ・・・覗きの退治なんだし、そう取るものでも・・・そうだ、ここ泊まってる間のご飯ただってのは? あたしと連れの分。それと、ちょっと何か壊すとかしても見逃して欲しいんだけど。それでもいい?」
「・・・」
 シュムたちがよく食べることが既に知られているためか、考え込んでいる。
 温泉で収入があるといっても、他の村よりもいくらか裕福な程度で、やはり税でごっそりと持って行かれるのは変わらないのだ。それに、どのくらい逗留するのかも判らない分、不安にもなるだろう。
「ああ、ちょっと高いかな。じゃあ夜の分はいいや。たくさん飲むから悪いしね。それと、失敗しても損害分はそっちでよろしく。報酬は、当然なしで。どうする?」
「そうだねえ・・・」
「腕が心配なら、知り合いを紹介しようか? ちょっと、時間とお金かかるけど」
 まだ少し迷う素振りを見せる主人に、害意も含みもないように聞こえるように、しかし承諾してもらえるように言う。これで紹介してくれと頼まれたなら、面倒だが本当に誰かを呼ぶだけのことだ。
 剣ひとつで世間を渡り歩いたり、何でも屋のようなことをしていたりという知人は多い。街中の酒屋に剣を引っ提げて入れば、何人かはちょっかいをかけて来る。そこで実践の剣技でも披露すれば、知り合いを作るのは比較的簡単だった。
 主人は、探るようにシュムを見て、小さく息を吐くと、少しだけ笑顔を見せた。
「とりあえず、あんたがやってみてくれないかい?」
「じゃあ、きまり。契約書作るから、ちょっと待ってね」
 商談成立。
 こうして、シュムは嬉々として温泉へ向かうのだった。その際、ふと思いついて、一旦宿を出た。

「気持ち良いわねえ・・・」
 のんびりと、女が息をつく。
 湯を掬い上げる手は白く、ほっそりとしている。金色の見事な髪は、今は頭上で巻き上げた布の中に押し込められており、深い、青とも緑ともつかない瞳が、今はうっとりと細められていた。
 二十歳よりは上くらいだろうか。
 女は、肩まで湯につかり、満足そうに溜息をついた。
 そのときに突然、近くの茂みが音を立てて揺れた。女がそちらに鋭い視線を投げかけると、黒い人影のようなものが見えた。素早く、その影に向けて何か弾くような仕草をした。
「誰!」
 非難の声に、影は茂みから盛大に音を立てながら遠ざかっていった。その後を、別の小さな影が、こちらはあまり音を立てることもなく追って行く。
 それからしばらくの間、女は先ほどのようにのんびりと湯につかり、温泉を満喫していた。
 ぺたりとした、素足の音に顔を上げる。温泉を囲む天然の岩に手を置いて、女は少し首を傾げた。
「どうだった?」
 衣服は脱いでいるが、剣と布を手に持ったシュムが首を振る。
「駄目。すばしっこいっていうか・・・あれ、猿とかじゃない?」
 言って、シュムは掛け湯をしてから温泉に入った。「うわー、あったかい」と声をあげて目を細めるが、女とは違って、そこには色気というものは皆無だった。
 首まで湯につかりながらも、シュムは剣と布をいつでも掴める場所においている。必然、二人は岩場に近いところにいることになった。これはもう、身に染み付いた習慣だ。剣を習って以来、シュムは剣を手の届かないところに置いた事がないとさえ言える。
「猿には見えなかったわよ? かといって、人にも思えなかったけど」
「え?」
 意外そうに、シュムは女、セレンを見た。湯煙に、お互い少しはかすんで見えるが、近くにいるから表情もしっかりと判る。
 セレンは、困ったように肩をすくめた。
「とにかく、標はつけたわ。後で確認すればいいでしょ」
「うーん、そうだね。ありがと、セレン」
「ううん、こっちこそ。呼んでくれてありがとう。こうやって温泉に入れたし」
「カイにも会えるし?」
「・・・・・・ええ」
 セレンは、恥ずかしそうに、少し俯いた。そうすると、男が見たらのぼせそうな見事な体つきで、しかも裸という今の状態にも関わらず、色気よりも可愛らしさが先立つ。
 シュムは、そんなセレンに微笑みかけた。
「ほんと、セレンって可愛いね」
「ちょ、ちょっと何よ、突然!」
「いやあ、ねえ。あたしが男なら絶対にほれてたのにさ。カイも馬鹿だなーって」
 今や真っ赤になっているセレンを置いて、シュムは深深と溜息をついた。
「本当に、心配してくれるのは嬉しいけどさ。自分の幸せを追求して欲しいよ」
「え、何?」
 シュムが何か呟いたことは判ったが、ほとんど聞き取れず首を傾げる。
 シュムは、苦笑して湯を叩いた。
「この後、どうしようかと思って。ご飯食べるのと、覗き魔追うのと、カイ起こすのと。どれからしようか。とりあえず、カイを起こす? ・・・どうかした?」
 盛んに自分の頬を叩くセレンに、訝しげに視線を向ける。セレンは、温泉の熱さだけではなく、上気した顔を俯かせた。
「そ、そうよね、会えるのよね・・・やだ、緊張してきちゃった・・・」
「セレン」
「だ、だってっ」
 意味もなく、手の平で湯を跳ね上げるセレン。それに少し笑って、ふっと、真顔になる。
「ところで、言ってた変な奴、どうした? まだあのまま?」
 それまでは照れていたようなセレンの顔が、途端に曇る。しかし、そんな表情すらも綺麗なのは、美人の特権だろう。
 シュムは、その変わり様に一層真剣な眼差しを向ける。反応から、問題が解決していないのは明らかだ。果てることもなく湯気の上がるのどかな光景が、逆に異様かのようだった。
「ディーはセレンのこと知らないし・・・ゼダはセレンより大分弱いし・・・意外に、何かあったときにたのめそうなのっていないなあ・・・」
 種族の違う友人たちを思い浮かべながら、シュムは知らずに眉間にしわを寄せていた。そもそも仲間意識が薄いから、頼んだところで引き受けてくれるとも限らない。自分では、言葉通りに住む世界が違うから駆けつけられない。
 カイに言ったのは次いでのようなもので、あの反応では駆けつけてくれるとも思えない上に、駆けつけたところで力になるのかも怪しいところだ。
 うーん、と、シュムは頭を抱えて唸っていた。
「そのことなんだけど、ちょっとおかしいの。なんだか・・・私が目的じゃ、ないみたいで」
「どういうこと?」
「私にも、よくわからないんだけど・・・確証もないし。ただ、なんとなくだけど・・・他に何か狙いがあって、その為に私を付け回してるんじゃないかと、思うの」
 戸惑ったように、自信なく言うが、シュムは、それを受けて低く唸った。
 シュムがセレンと会ったのは一月ほど前のことで、誰かに付け回されているようだ、と聞かされたのもそのときのことだった。
 それなりに能力の高いセレンだというのに、その姿さえ捉えられていない。至難とまではいかなくとも、誰にでも出来るものではない。それでも、そう心配はないと思ったのだが、一月以上にも及ぶとなると、直接の害はなくてもかなり不気味だ。
「何か、それらしいことでもあったの?」
「そういうわけじゃなくて・・・なんて言うのかしら。・・・やっぱりそんな感じがする、としか言えないわ」
 もどかしげに溜息をつく。
 最初に話を聞いたときには、セレンに惚れたものの言い出せず、付け回している輩でもいるのかと思った。
 手っ取り早く能力を上げようとしている同族喰らいかとも考えたが、能力が低いなら姿さえ見えないことが、高いならセレンよりも上級者を選ばないことが腑に落ちず、違うだろうと思った。セレンは敢えて位置付けるなら中の中といった強さで、弱くはないが、そう強くもない。
 だからこそ、カイが出ていけばセレンも喜ぶし、ひょっとしたら諦めるかもしれないと、話を持ちかけたのだ。
 今でも、下級者ならまずありえない尾行で、自分よりも弱いものを慎重に喰う上級者やセレンと同等の者としても、一月は時間をかけすぎで妙だと思う。そんな同族喰らいがいれば、身の危険からも、セレンたちの間で噂になっているはずだ。
「・・・いや、これがはじめてなら話は別か?」
「え?」
「あ・・・いや。同族喰らいって、最近は出てないんだよね?」
「ええ。最近はいないみたい。これがはじめてっていうのも考えたけど、それだとあの感じが引っかかるのよね」
 シュムの危惧を受けて、眉をひそめる。
 他者を喰らって己の能力を上げる同族喰らいは、情や仲間意識を軽んじる傾向の強いセレンたちの世界でも、忌まれる。死活問題となるだけに、この情報だけは、互いのつながりの薄い彼らの中でも積極的にやり取りされる。時には、数名で組んで共同戦線を張るほどだ。
 同族喰らいになるのに特別な資格も体質も要らないのが余計に厄介だが、救いでもあった。そうでなければ、合致した者は発覚次第殺され、なんとか生き延びた者は、憎しみを抱いて、必ず同族喰らいとなったことだろう。
「ただの思い違いかもしれないわね。姿だって見てないし」
「まあねえ」
 とりあえずは、ゆったりと湯につかる二人だった。

 まずはカイを起こして、女主人にはごく簡単に経過を報せて、人のまばらな食堂で軽く昼食を取ると、三人は宿を出た。
 今日もシュムは荷物を全て背負っているが、カイとセレンは至って身軽だ。セレンなど、大きな布を日除けに頭から被っている以外、護身具すら持っていない。もっとも、カイの腰にあるのも飾り程度のなまくらにすぎないのだが。
「おいシュム、なんだってこいつが・・・」
「協力してもらったの。惰眠むさぼってた奴が、後で文句言わない」
「そんなこと言ったって、仕方ないだろ。体質なんだから! そもそも俺は、あいつは苦手だって言ってるだろ」
 小声で言い合う二人に遠慮して、一歩下がっていたセレンの肩が、ぴくりと怯えたように持ちあがる。声が届いてしまったらしい。それに素早く反応して、シュムは拳骨を降り上げた。しかしそれを使うことなく下ろすと、ひたと、冷たい目でカイを睨みつけた。
 更に文句を言い募ろうとしていたカイが、思わず身を引く。
「な、何だよ」
「それ、本気で言ってる?」
「冗談なんかで言わねえよ」
「そう。でも、嘘は言うんだ?」
「何でそうなるんだよ!」
 思わず、声を押さえることも忘れて半ば叫んだカイは、氷点下の瞳に見つめられ、勢いを失って黙った。
 子供に呑まれる遊び人風兄ちゃん、というのはなかなかに珍しい図式だが、本人たちはそれに構うでもない。少ないながらある人目も、あまり気にしていないようだった。
 シュムは、眼差しに見合った、冷たい声を出した。
「苦手だって言う前に、ちゃんと向き合ったことある? セレンからも、カイと向こうで会ってるなんて聞いたことない。二人が出会ったのはこっちで、あたしがいたときで、顔を合わせるのもいつもあたしがいるときでしょ。でもそんなときのカイは、苦手だとかって言って、逃げてばかりじゃないか」
 押さえた声ではあるが、殊更に声をひそめているわけでもない。大分離れたところにいる通りすがりの人たちには聞き取れないだろうが、少し離れているだけのセレンには十分聞こえた。  
 セレンとカイの顔が強張ったのは判ったが、シュムは淡々と言葉を継いだ。
「何を、怖がってる?」 
「シュム!」
 叫んだのは、セレンだった。碧の瞳に涙を浮かべて、幼い子供のように首を振る。
「もう、やめて。はじめから、無駄だって判ってたの。それでも・・・夢を見てた私が悪かったの」
「セレンは悪くない。悪いのは・・・セレンじゃない」
「いいの、それでも。もうこれ以上責めないで」
 セレンが、止めようとするようにシュムの腕を掴んで泣いている。
「・・・ごめん」
 止まらない大粒の涙を見て、シュムはただ、綺麗だとだけ思った。本当に、綺麗だ。
 さすがに、これだけの美人が泣いていれば注目が集まる。わざわざ見に来た者もいて、中には、昨日もシュムたちを目撃していた人がいたらしく、「また兄ちゃんか。泣かすなよ」と声をかける者さえいた。    
 カイは、ぴたりと口を閉ざしてしまったシュムと泣いているセレンを見比べて、密かに、溜息をついた。そうして、セレンの肩に手を伸ばす。
 びくりと、その肩が揺れた。
「少し話、しよう」
「・・・」
 顔を上げたことで表れた、ふちが少し赤くなった碧の瞳には、不安や恐れの中に、わずかに喜びが映っていた。それと気付いて、躊躇いが頭をもたげるが、無理矢理に押し込める。
 カイがセレンの肩を抱いて森に消えていく様は、平凡な画家が描く恋人の絵のようで、シュムはそれをぼんやりと見送ってから、ふう、と溜息をついた。集まっていた人たちも、シュムに何か話しかけたり仲間内で話をしたりしながら、方々に散って行く。ずっと遊んでいられるほど、暇ではないのだろう。
 そうして人がいなくなると、二人の行った方に背を向けて、大きく伸びをした。深呼吸を、一つ。
「さあて、しばらく雲隠れでもするかー」
「お嬢さん。僕が、お供しましょうか?」 
「一体いつから、立ち聞きも趣味になった?」
 振り返りもせずに冷たい一言を投げかけた相手は、昨日と同じくアルだった。昨日と同じ姿のままということは、まだ契約中なのだろう。
 アルは、わざわざシュムの前に回り込んできてから、心外だと言うように大袈裟に肩を竦めて見せた。
「修羅場だったから、気を利かせたんだよ。それなのに立ち聞きだなんて」
「じゃあ聞いてなかった?」
「聞こえたけどね」
「やっぱり立ち聞きだ」
 あっさりと斬って捨てて、シュムは目の前に立ち塞がるアルを押しのけて歩き出した。その後を、当然のようにアルが追う。歩幅の差で、わずかな距離はすぐに埋まって、二人は肩を並べていた。
「置いていくなんて、ひどいな」
「先に言っとくけど、今、機嫌悪いから。邪魔でもしたら、叩きのめす」
「つれないなあ」
 笑って、アルはごく自然に指を弾いた。軽い音がして、シュムの顔のあたりに白いもやのようなものが出現した。咄嗟のことで吸い込んでしまい、シュムは意識が遠退きそうになるのを感じた。
「邪魔、するなって、いうのに」
 声に出すことで必死で意識を保とうとするところに、鳩尾への一撃がくる。昏倒したシュムの体を抱き止めて、アルは微笑した。
「少し、眠ってもらうよ」
 そう言って、シュムの小さな体を大切そうに抱き上げると、そのままの方向に、ゆっくりと歩いて行く。途中、村人などともすれ違ったが、彼らは何故か、アルとシュムが見えていないかのように振舞っていた。実際、見えていなかったのだろう。

    
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第三場

 シュムが目を覚ますと、豪奢な天蓋が目に入った。壮麗なレースで縁取られているが、何年か使われていなかったかのように古びている。
 体を起こそうと一瞬だけ考えて、手首を捉えている固い感触に、あっさりと諦める。
「・・・またここか」
 溜息とともに呟く。
 先日、アルに監禁されかかったのもこの部屋だった。あのときは薬が十分には効いておらず、辛うじて逃げられたのだ。扉に空間を繋ぐ仕掛けを使っていたらしく、部屋を出ると、アルに出会った酒屋の外にいた。
 まさか、もう一度連れてこられる羽目になるとは思わなかった。
「ここまで腐ってるとは思わなかったんだけどなあ」
 深深と溜息をついて、頭を振る。両手を頭の上にある支柱に一本ずつ枷で固定されている為、腕を組むわけにもいかない。だが、足までは固定されてはいないようだった。
「っていうか、事情の説明して欲しいんだけど?」
 早々に当て擦りに飽きて、シュムは呼びかけるように声をあげた。それに応じて、人の動く気配がした。
「なんだ、居ると判ってたのか」
 ゆるく波打った黒に近い深緑色の髪に、赤に近い瞳。肌が透けるように白く、折れそうに細い体をしている。アルは、そんな本来の姿で、寝台に強制的に寝かされているシュムを見下ろした。元から細い眼が、笑っているようにも見えた。
「判るよ。今は、気配消してないじゃないか。それより、近くにセレンがつけた標の感じがする。アルの契約相手が覗き魔?」
「まあ・・・そういうことになるかな」
「・・・って言いながら、頬撫でるのやめてくれない?」
「勇ましいな」
 囚われて拘束されながらも、自分のペースを崩さない。そんなシュムに苦笑して、アルは言われた通りにした。代わりに、軽く少女の頭を撫でる。聞き分けのない子供をあやすかのようだった。
「だけど、勇ましいのも考え物だな。こんなふうに首を突っ込んで、危険な目に逢うなんて。番犬はどうしてるんだ?」
「どうしてそう、カイで遊ぶかなあ」
「反応が面白いからね。それに、随分と君に親しいところも気に入らない」
 椅子を引いて、寝台の傍らに座る。
 シュムは、顔をアルの方に向けて、呆れたような声を出した。
「だからそういうのは、好きな人に言うことだってば」  
「好きなんだよ」
「じゃあ薬なんか盛るなよ」      
「まあ色々あってね」
 そう言って、アルは複雑な表情になった。困っているようにも見える。深く、息を吐いた。
「――甘いよ、君は」
「よく言われる。だけど、そんなことはないんだよ、本当は」
 そう言って、自嘲じみた冷笑を浮かべる。アルは、ぞくりと背筋に寒いものを感じた。
 そうして、躊躇いながらも、シュムの目を見つめる。
「シュム。僕は、君に薬を使いたくはない」
「――判ったよ」
 シュムが溜息をつくと、アルは微苦笑した。それだけで、張りつめていた何かが、わずかに緩む。
 不意に、アルは何かに気付いたように顔を上げて、立ちあがった。椅子を元の位置に戻す。そうして、シュムの右側を指差した。
「呼んでるの?」
「ああ。――好きなだけ抵抗すればいい」
「うん、そうする」
 左側の扉に笑顔で消えていったアルの姿を見送って、顔を天蓋に向ける。枷は、なるべく手首が痛まないように布を挟んでくれているとはいえ、長さに余裕がない。横を向いているのも少し、辛かった。首の筋が強張っている。
 アルの気配が遠離ってから、シュムは溜息をついた。
 アルへの敵意は消えていた。示してくれた言葉に、今の拘束も方法も、依頼者の意図と知る。
 「契約の獣」という呼称の由来は、彼らが契約を絶対視しているところにある。シュムの推測では、それは肉体的なものではなく、精神での絶対だった。
 判りにくいあれが、精一杯だろう。対峙したときに遠慮はいらないとの言葉に、甘いのはどっちだと言いたくなる。どんなものであれ、確実に好意を抱いてくれているのは本当らしいが、その理由が判らない。何故だろう。
 今日何度目になるか数える気にもなれない溜息をついて、シュムは、とりあえずどうしようかと考えるのだった。     

「ごめん、なさい・・・」 
 少しばかり、時間は遡る。
 消え入りそうな声で謝るセレンを連れて森に入り、カイは密かに溜息をついた。
「どうして謝る?」
「知ってた・・・判ってたの。・・・私のことなんて全然見てないって・・・それなのに、諦められなくて・・・。そのせいで、シュムに・・・あんなこと、言わせた。・・・私が、・・・悪いの」
「それは、シュムも言ってただろ。お前は悪くない」
 言い切ったものの、カイは、頭をかきむしるのをどうにかこらえているような状態だった。確かに、シュムの言葉に血の気は引いたが、あれは、形は違っただろうが、いつかは似たようなことを言われただろう。それがたまたま、今回、セレンと関わる形になっただけのことだ。
 少し考えてから、諦めたように溜息をついた。そして、黒眼鏡を外すと、紅の瞳でセレンの碧の瞳を覗き込んだ。
「単刀直入に訊く。お前は、俺のことが好きなのか?」
 恥ずかしさに顔を朱に染めながら、どうにかセレンは、肯くことで応えた。そうか、と言ってカイが、覗き込んでいた眼を逸らす。少しだけ、照れて頬が染まっていた。
 困ったように頭に手をやる。
「何故だ? 俺はお前より、弱いんだぞ? ・・・自分で言ってて、情けないけど」
 自分よりも背の高いカイをわずかに見上げて、セレンは優しく微笑した。涙は、ようやく止まりつつあった。一度深呼吸して息を整えて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私がシュムの魔方陣に応えたとき、あなたは戦っていたわ。勝ち目のない相手だって、判ってたわよね。私とあなたと、シュムと、三人がかりでどうにか倒せた。そんなものを相手にしていたのに、あなたはシュムを叱りつけたの。俺がいるんだから無駄なことに命を使うな、って」
「そう・・・だっけ?」
 わざとか本当にか、どちらにしても決まり悪げに言うカイに、セレンは笑いかけた。
 その髪を、風が揺らしていく。
「そうよ。それを聞いて私、なんて馬鹿なんだろうと思ったの。人間との契約に自分の命をかけるなんて、愚かだと思ったわ。でも、契約をしてないって知って驚いた。そんな人間がいるって事にもだけど、あなたに。凄く、驚いたの」
 そこでセレンは、また、泣き出しそうに顔をゆがめた。
「気付いてたけど、目をつぶったの。あなたがそんなにも強くて真っ直ぐなのは、シュムがいるからだって知ってたけど、だけど、って・・・思ったの」
「そういうのじゃねえよ」
 憮然として、カイが口を開いた。セレンが、一瞬、戸惑った目を向ける。
「あいつとは、約束をしてるんだ」
「約束?」
「ああ。暇だったんだよ。それがあるから、放っておけないだけだ。全部、お前の思い過ごし」
「でも・・・」
「大体、成長しないなんて変な体質で長生きするって言っても、ほんの二、三百年だろ。そんな奴をどうこう思うなんて、無意味じゃないか」
 その言葉に、セレンは眉を跳ね上げた。睨むようにして、カイを見上げる。
 そこには、涙の跡以外は、先程までの泣き顔は微塵も読み取れない。
「その言い様には異論があるわ。シュムは、私には大切な友達よ。例え、すぐに死んでしまうとしても。無意味なんて言わないで」
「・・・ほんの、一瞬なのに?」
「だからといって、無意味だとは言えないわ。その死ぬまでの時間にあったことが大切なんでしょう? それともあなたは、短い時間ではどうにもならないと言うのかしら。だったら、永い時間だと全てどうにかなると言うの?」
「・・・なかなか、言うな」
「まあね」
 にっこりと、非情な独裁者でさえ心を動かされそうな微笑みを浮かべる。きっとこの人が恐れていたのは、いつかは来てしまう別れなのだと、セレンは思った。そしてやはり、思い違いではないとも。
 しかしそんなことはおくびにも出さず、カイに向かって、ほっそりとした白い手を差し出す。
「せめてシュムと一緒にいるときだけでも、友達としてくらいは、付き合ってくれるかしら?」
「まあ・・・これが地だって言うなら、な。今まで避けてたのだって、そっちだし」
「そうね。もう、開き直ったわ」
 互いに苦笑して、握手を交わす。白い手に、浅黒い手が重ねられた。
 そしてセレンは、名残のように薄く、頬を染めた。
「いつか・・・本当の名前を教えてもらうことを夢見ていても良いかしら」
「物好きだな、セレン」
「ありがとう・・・・・・カイ」
 軽く肩をすくめると、カイは手を下ろした。元来た方へと背を向けると、ごく自然にセレンがその隣に並ぶ。
 人が呼ぶ「魔物」には、知られることを避ける真の名がある。彼らにとって、本名を全て知られることは、相手に命を委ねることになる。だからこそ、本名の扱いには慎重にならざるを得ないし、例え通り名や愛称でも、相手の名を呼ぶのには注意が払われる。
 「カイ」も「セレン」も、本名には近いが、飽くまで仮の名だ。それでも、そう呼ぶのを許す相手は限られる。
 セレンは、カイに名を呼んでもらえて嬉しかった。自分の本名を教えてもいいと思うが、今それをするのは、両方にとって重荷になるだけだろう。とりあえず、この機会を作ってくれたシュムに、ありがとうと言うつもりだった。
 しかし森を出ても、シュムの姿はなかった。代わりに、シュムが片時も手放さずにいるはずの剣が、鞘に入ったまま地面に突き立てられている。二人とも、顔色を変えた。
 酔っていても寝ぼけていても、手羽なさいないものだ。その上、わざわざ地面に刺してある。誰かの手が加わっているのは明白だった。
「・・・先に行った、というわけではないみたいね・・・」
「ああ・・・」
「ねえ、これ」
 剣を抜きかけていたセレンが、羊皮紙の切れ端を差し出す。鞘と柄の間にわざとらしく挟まっていたものだが、そこには短く、カイやセレンの種族にだけ読み取れる方法で「覗き魔を追え」とだけ書かれていた。
 セレンが、困惑気味に眉をひそめる。
「罠かしら」
「いや」
 低く簡潔に、否定する。
 彼らの種族には、それぞれ固有の気配というものが、人よりも濃く残る。それである程度、各自の占有地を荒さないようにするのだ。そしてカイは、この気配を知っていた。
 据わった目で、セレンを見る。セレンは、睨みつけられて思わず身を縮めた。  
「案内しろ」
 セレンには、肯くより他になかった。

  シュムは、枷が外れると、手首をさすりながら「あ―あ、あとになってるや」とぼやいた。
 そうして、外してくれた相手に向き直る。
「ありがとう、助かったよ。今度何か、美味しいものおごるね」
 キーキーと甲高い鳴き声で応えたのは、ハリネズミに似た生物だった。とげの具合といい色といい大きさといい、ありふれたハリネズミそのもの。
 これが枷を外したと言っても、信じる人は少ないだろう。だが事実は曲げられないし、実のところ、この生物はハリネズミではない。
「じゃあ、また今度。本当に、ありがとう」
 もう一度礼を言ってから、シュムは右手の人差し指でくるりと中空に円を描いた。そこに、青い燐光を放つ小型の複雑な模様の魔方陣が表れる。
 ハリネズミもどきは、最後にもう一声鳴いて右手を振ると、その魔方陣の中に飛び込んで行った。そのまま、姿が消える。同時に、魔方陣も跡形もなく消えた。
 シュムの描く魔方陣は、言ってしまえば滅茶苦茶だ。
 無駄に溢れていた魔力を制御する為に師事した先では、何故これで魔獣を呼び出せるんだ、と頭を抱えられた。しかし、生まれて以来勝手に生じていたものなのだから、シュムにもわかるわけがない。
 とりあえず師に正式な魔方陣を多数教わり、それを描けもするのだが、やはり、慣れ親しんだ「無茶苦茶な」魔方陣の方が簡単に描ける。緊急事態や、手があまり動かせないなどの不具合があるときには、かなり重宝している。
 そもそも、シュムが意識して正式な魔方陣を使うのは、魔物と契約を結ぶときで、それはほとんどなかった。
「いや、見事なものだ」
 アルが出て行ったのとは逆の方向、指差していた方向から、男の声がした。見ると、壮年の紳士を絵にしたような人物。いささか声が高くて細いのが、玉に傷と言えば言えるだろう。
 男は、寛大を装うかのように、ゆっくりと歩み寄ってくる。一方シュムの、男を見る目は少々疲れ気味だ。
「全く、見事だ。下等な低級魔獣とはいえ、ああも易々と使役するとはね」
「あんたが、一応の黒幕?」
 使役や契約ではなく、手を借りたのだと訂正する気にもなれない。言ったところで、わかりはしないだろう。非常識甚だしいことだ。
 うんざりとした様子を隠しもせずに言うと、男は一瞬顔をしかめ、思い直したように再び笑顔を貼りつけた。 
「是非とも、その力を私のために役立ててくれ」
「あんたがどのくらい偉くて、何ハーネット様なのか知らないけど、とりあえずそれ、口説き落とす台詞としては最低だと思う」
「私は、協力を請うているわけではないのだよ。君に選択の余地はない」
「それを本気で言ってるなら、よっぽどおめでたいね」
「戯言もそこまでだ」
「・・・いちいちお決まりの台詞を口にしなきゃ気が済まんのか、あんたは」
 精神的な頭痛を堪えて呟くシュムの声も耳に入れず、某・ハーネットは、右手を演出たっぷりに振り上げた。扉の奥から、やはり疲れた顔をしたアルが出てきた。
「やれ」
 短く言って、自分は一歩下がる。その演出に満足しているらしいのが、傍目にも判る。
 シュムとアルは、お互いにやる気のない目を見交わして、力なく笑った。
「変な雇い主、掴んだね」
「僕も、そう思うよ」
 溜息をついて、同時に動いた。
 溜めも無く駆けて、一気にシュムとの距離を無くす。
 一方シュムは、それを見越して寝台へと身を倒す。
 そのまま寝台へと向きを変えるアルに、枕を投げつけた。
 易々と左手に弾き飛ばされた枕が落ちるよりも先に、今度は掛け布団が舞う。
「ちっ」
 視界を覆う布につい舌打ちをもらし、顔を覆う前に左手をぶつけて引きずり落とす。
 しかし、その一瞬の間にシュムの姿は消えていた。
 代わりに死角に、気配がする。
 気付いたときには遅く、天蓋の古いフリルの布が視界をよぎった。
 首から上を布の中に収めて、シュムは、身長差を利用して背中合わせに首を締めにかかる。
 当然の如く暴れるが、それを少し堪え、唐突に手を離す。
 布を外そうと伸ばされた手に、シュムはフリルの残骸の長細い布を巻きつけた。
 固く結び、ついでに頭を覆っている布も解けないようにくくる。
 すうと息を吸い、古い言葉を唱える。眠れと囁くと、アルの動きが止まった。
 そうしたアルを寝台に突き飛ばすと、間髪置かず「雇い主」に駆け寄り、その首に木片をつきつける。天蓋から布を引き剥がしたときに落ちた寝台の一部だが、ささくれ立って尖っている。
「死にたかったら、動いていいよ」
「っ・・・!」
「とりあえず、温泉の覗き魔はお前だな」
 黙り込む男の体は、細かく振るえている。左手で筋張った首を押さえているシュムは、煩わしそうに顔をしかめると、右手で木片を更に深くつきつきつけた。     
 小さな、血の玉ができる。
 それが判ったのか、男はかすれ声の悲鳴を上げた。
「どうなんだ」
 声を荒げたわけでもないのに、男は更に怯え上がった。
「の、覗いていたわけでは・・・わ、私は、そんな低俗なことなどしない!」
「じゃあ何をしていた?」
「こ、香草だ! 香草をとっていただけだ!」
「香草?」
 胡乱そうな声を出すシュムに、男は必死になって抗弁しようとした。
 そのときに、シュムは体の異変に気付いた。考えることが困難になり、体が重く感じられる。
 そこに至ってようやく、薬草に思い及ぶ。遅効性のものを呑まされたか、焚いているのか。
「わかりにくいって・・・」
 眠ってしまって聞こえないアルに、気力で文句を呟く。
 足が重く、手にも力が入らない。あやふやな思考で、この男の付近に元があると閃いて、突き飛ばそうとする。しかし既に遅く、軽く押すくらいにしかならなかった。
 シュムの異常に気付いて、男は残虐な笑みを浮かべた。細い腕を、易々と捻り上げる。
「っ・・・!」
「摘んだ薬草は、乾燥させて焚くと繰人術に使えるのだ。何、すぐに何も感じなくなる」
 ともすると途切れそうになる意識の中で、派手な足音が聞こえてきた。次いで、扉が吹き飛びかねない勢いで開く。
 訝しげに見遣った男は、驚愕に目を見開いた。
「シュム! 無事だな!?」
 掛け込んできたのは、怒りを顕にしたカイとセレンだった。

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第四場

 カイは、男――ハーネット家の四男のガルヴォア・ハーネットを拘束して、セレンが術の解けかけていたアルを眠らせた。ともすればかすむ意識で、シュムが窓を開けさせ、ガルヴォア・ハーネットとアルを殺しかねない二人を制して、それぞれの指示を出したのだった。
 そのシュムは、床に片膝を立てて座っている。喚起がされて大分ましにはなったが、意識がはっきりとしてくるにつれて、気持ち悪さが強くなってくる。カイから手渡された剣ごと、ガルヴォアが出てきた扉のある側の壁を背に、膝を抱きかかえる。旅先で休むときのような体勢のそれが、倒れないでいる精一杯だ。
 カイが、心配するように覗き込む。
「何かできることはあるか?」
「んー、へーきへーきだいじょーぶ。香がまだ少し残ってるだけだから。立ち回りしも少し疲れてたし」
 そう言って、疲れを隠し切れない笑みを浮かべるシュムの顔の横には、剣を握る手があり、細い手首に残る手枷の痕に、カイは眉をひそめた。手枷の件では既に激怒しており、シュムになだめられている。
 じっと、睨み付けるようにして見つめる。
「本当だろうな?」
「うん」
 やはり笑って応えるが、カイがとりあえず信用するよりも先に、セレンが首を傾げて、歩み寄ってきた。寝台では、アルが音も立てずに眠り込んでいる。
「ねえ。あの手枷、どうやって外したの? 変な壊れ方してるけど」
「えーっとー・・・・・・噛んで・・・とか・・・」
 手枷には、あのハリネズミもどきの魔獣が鉄を噛み切った跡が、はっきりと残っている。しまった、と思ってももう遅い。折角、魔方陣を中空に書いて痕跡が残りにくくしたというのに、これでは意味がない。
「おい。シュム」
 セレンの言葉を聞いて即座に手枷を見に行ったカイが、据わった目で睨みつけてくる。シュムは、心底この場を飛び出したい衝動に駆られた。
 しかし、そういうわけにもいかない。
「ま、まあまあ、落ち着いて。あ、そういえばこの屋敷って、あいつ以外の人っていたの?」
「シュム。あの魔方陣はよほど緊急のとき以外開くなって、言ったよな?」
「いやほら、緊急事態だよ? 両手が動かせないなんて致命的じゃないか」
「ほう。しかし、あのくらいの鉄に力を使わない程度の奴を呼ぶ魔方陣なんて、手首が固定されてたって描けただろう? ん?」
「いや、ほら、こんな状況だから、気が動転してたんだよ!」
「へえ。お前がねえ。へええ」
 嫌味たっぷりに言うカイに、シュムは引きつった笑顔を返す。セレンが一人、よくわからずに首を傾げていた。
 そこに、シュムが唐突に声を上げる。
「あ! 道具がなかった! そうだよ、描くもの何もなかったよ!」
 宙に描いたところで、普通は、発動しない。
 しかしカイは、じろりとシュムを見つめた。
「・・・お前、それ、今気付いただろ」
「結果は一緒だし! さあ、さっさと話聞き出して、ご飯でも食べよう!」
「シュム!」
 立ち上がった拍子によろめいたシュムを、カイが咄嗟に支える。思わず声を上げていたセレンは安堵の息を吐いたが、カイは逆に、怒った表情の奥で、瞳だけが心配そうに揺らめいていた。
「お前・・・他に何か、召喚したか?」
「してないよ。だから、立ち回りとか香とか。疲れただけだってば」
 そう言うのに、応えがない。短く考え込む。
「セレン」
「は、はい」
 いきなり声をかけられて、反射的に返事をする。
 カイは、シュムを無理矢理座らせなおすと、真剣なカオで振り返った。
「ひょっとしてお前を喚んだときの魔方陣、歪んでなかったか?」
「ええ。それが何か・・・?」 
 実のところ、シュムがセレンを喚ぶときの魔方陣は、最初の一回以外は全て歪んでいた。だからむしろ、最初のときが例外で、そういう癖があるのだろうと思っていた。
 しかし、カイが顔をしかめたことで、何かまずいことだったらしいとわかる。
「・・・問題があるの?」
「ああ。でもそれは後だ。先にこいつを片付けて、シュムをちゃんと休ませよう。どうせ、片付くまで居座るつもりだろう」
 そうして、縛り上げてあるガルヴォアの目の前まで移動すると、それまで律儀にかけていた黒眼鏡を外し、笑って見せた。肉食獣のような笑みだ。
「いいか、知ってることは洗いざらい吐け。俺はシュムほど、優しくも気が長くもないからな」
 ガルヴォアは、かすれて奇妙に高い悲鳴を上げた。 

 宿に戻ると、カイは有無を言わせずにシュムを寝台に寝かせた。女主人に、覗きの心配は無くなったとの報告をすることすら許してはくれない。
「ちょっと、カイ! 大袈裟だよ、もう大丈夫だって」
「それを本気で言えるなら、好きにしろ」
 言われて、束の間考えるように斜め上に目を向けてから、シュムは、溜息をついて薄い布にくるまった。ようやく、カイの眼光がいくらか和らぐ。
 そんな二人を見ながら、セレンは首を傾げた。
「そろそろ聞かせてもらってもいいかしら? それとも、私は蚊帳の外にいたほうがいい?」
 気になるのも確かだが、この微妙な空気を、どうにかしたいと思ってのことでもあった。セレン自身、シュムの様子は厭になるほど心配なのだが、二人のやりとりの真意がわからないところに苛立ちもあった。浅ましい――と思う感情も、シュムが与えたものではある。
「ああ、そうだったな。言うぞ?」
「うー・・・言わなきゃ駄目?」
「そりゃ、知ってる奴は少ないにこしたことはないだろうけど」
「だよね?」
「で、本音は?」
「・・・セレンにまで、怒られそう」 
 却下、とあっさりと言い切って、カイはセレンに向き直った。 
「正式な手順を踏まない魔方陣は、寿命を縮めるんだ」
 え、とセレンが首を傾げる。
 セレンたちは、ごく一部の者を除いては人間の使う術には詳しくない。何がどんなことを引き起こすか、どんなものがあるかくらいは知っているが、人間がそれらをどうやって扱っているかは知らない。
 自分たちが喚ばれ、契約する召喚の術に対してさえも、半ば本能的にその本質を「知って」いるだけに、手順などを知ろうとする者も少ないのだった。
 この話の始め方には、シュムの方が呆れた。
「カイも随分、人間臭くなったねえ」
「なっ・・・?」
「そんな説明じゃ解らないって。大体、普通は正式な手順を踏まない魔方陣なんて、成立しないんだよ?」
 寝台から上半身を起こして、まだ寝ていろというカイを手を振ってかわす。
「起き上がれるくらいには回復してるよ。で、魔方陣のことだけどね」
 セレンの方に向いて座り直す。寒いためか寝台の上掛けの布を頭から被っているせいで、今から怪談でも始める子供かのようだった。こうしていると、ただのただのいたずら好きな子供に見える。
「魔方陣っていうのは、まあいろんな種類があるんだけど、それは大体、どのくらいの力を持ったどんな相手を喚ぶか、っていうのを選り分けるためにあるんだよ。水系の力が必要なのに火系の力を持ってる奴を喚び出しても仕方がないし、自分の手におえないような者を喚んだりしたら、下手をしたら無契約で外に出られちゃうしね。だから、ちゃんと魔方陣を使い分けられればそう危険はないんだよ、お互いにね。基本的に、力が足りなかったりちゃんと結界が張れない状態になってたりしたら術が発動しないようになってるし、一番力を消耗しない作りになってるんだから」
 言いながら、ちらりとカイを見る。案の定、そこまでわかってるのに横着をするなと言わんばかりに、睨み返された。
 シュムが、小さく肩をすくめる。
「それだけ沢山の役割があるからかは知らないけど、とにかく魔方陣ってのは、恐ろしく細々とした手順が大切になるんだよ。例えば、文字をひとつ書き忘れても、線を一本引く順番を間違えても、詠唱の呪文を一語発音し損ねても、発動しない。しないはずなんだよ。まあ実際には、例外ってものがあって、多少失敗しても発動することもあるんだけどね。そのときは、手に負えない奴を喚んじゃったりして大変なことになるんだけど。で、あたしの場合はなんて言うか・・・例外の塊って言うか、存在そのものが非常識って言うか。何しろ、一時は本人の知らない間に魔方陣描いてたんだから」
「え?」
「まだ正真正銘に子供だったときのことだけどね。特異体質は一つでも大変だって言うのに、更に、魔力垂れ流しっていう物凄い体質でさあ。それがどこでどうなったのか、勝手に魔方陣生成してくれてたわけだよ。しばらくしてそれをどうにかするために弟子入りしに行ったんだけど、長寿の体質じゃなかったら死んでたかも知れないって言われたなあ。まあ、ほんとのところはどのくらいずつ減っていってるのか判らないんだけど」
 最後の方は、半ば苦笑になっている。
 それでね、と、シュムは、理解しようと一生懸命になっているのが傍目にも判るセレンにぱたぱたと手を振った。
「魔方陣が勝手に描かれる体質はとりあえず直ったんだけど、描こうと思えば描けもするんだよ。あんなの魔方陣じゃないって方々で言われるけど、これが凄く楽でさ。道具なしでも大丈夫だし。ただ、生命力を消耗するのが困りものって言えば困りものなだけで」
「・・・え?」
「具体的にどのくらいかは判らないけど、昔のまま寿命が削られるらしいね。あと、一時的な体力の消耗が激しいのと。おかげで子供のときなんて、ひ弱でさー。てっきり、病弱なんだと思い込んでたよ」
「ちょっと待ってよ、シュム。・・・つまり、その・・・正式じゃない、っていう魔方陣を使うと・・・私たちと小さな契約を結んだような状態になるということ・・・に、なるのかしら・・・?」
「うん、多分そういうこと」
 あっさりと、首肯する。逆にセレンは、血の気が引いた。どこに、「閑だったらあそぼ―」と言って、自分の寿命を減らす人間がいるというのか。
 セレンは、思わずシュムを睨みつけていた。意識せずに零れる強い声が、かすかに震える。
「何やってるのよ!」
「・・・ほら、怒る」
「当たり前でしょう! いくら長生きするからって、そんなの、私からすればずっと短いのよ。少しの間しか、一緒に生きてられないのよ。それなのに・・・どうして、そんなことするのよ!」
 泣きそうになって怒るセレンを、シュムは見つめた。カイを見上げる。そうして、セレンに視線を戻した。
「ねえ、セレン」
 いつの間にか、被っていた布を肩まで引き下げていた。
 そうして、シュムは小さく首を傾げる。まるで、子供が素朴な疑問を口にするかのようで、冷静なあどけなささえある。
「あなたたちには短くても、あたしには十分永いんだよ。この姿のまま、知り合いが死んでいくのを見るのには永い。だったら、友達に会うついでに少しくらい減らしたいって、思うのは駄目かな?」
 何も言えず、セレンは言葉を呑んだ。反論はいくらでもあるのだが、シュムの眼を覗き込んだセレンは、気付いてしまった。性急に死を選ぶつもりはないのだろうが、自然に定められたものよりは早く、緩慢な自殺を、既に選んでしまっていることに。届く言葉はあるだろうかと、そこに迷う。
 気付くと、カイの手がそっと肩に置かれていた。見ると、目線だけで頷き返す。
 そうして、シュムを軽く睨みつけて。
「で、本当のところは?」
「だって面倒なんだよねー、あれ。時間かかるしわけのわからない呪文唱えなきゃならないし」
「阿呆」
 一転して面倒そうな声に、間髪入れずカイが突っ込む。それでもシュムは、だってさあ、とぼやいていた。カイは、それに構わずいつもと変わらない調子で続ける。
「女将さんに報告してくるな」
「行くよ。仕事受けたのあたしだし」
「お前は休んどけ。いいな、そこから一歩たりとも動くんじゃねえぞ」
「えーっ」
「いいな」
 強く言い置いて、部屋を出て行った。殺風景な部屋の中に残されて、シュムは、振り仰ぐようにしてセレンに目線を向けた。
「セレンも。行って」
「でも・・・」
「寝てるから。喋るの疲れるし、いても閑だよ? カイが余計なことまで言わないように見張ってて欲しいしね。考えなしなところあるから」
「・・・ちゃんと、寝ててね」
 そう言って部屋を後にすると、一瞬、苦笑するようなシュムの表情が見えた。それに少し、胸が痛む。
 カイは、階下へ続く階段で、手すりにもたれるようにして立っていた。セレンは、そっと近付いた。それに気付いて、カイがどうにか微笑する。それが、自嘲にも見える。
「猿芝居だ」
「・・・」
「俺は、シュムがやり方を変えないことを知ってるし、シュムも俺が知ってることを知ってる。馬鹿げた話だ」
 今度は、間違いなく自嘲だ。カイは、セレンよりもずっと、あんなシュムの瞳を覗き込んできたのだろう。
 セレンは、そんなカイを見てまた泣きそうになった。顔が歪んでしまい、思わず下を向いた。ニ、三度、深呼吸をして感情を整える。そうしてから、顔を上げた。
「どんなに馬鹿げていても、やらないよりはきっと、いいと思うわ。いつか、変わることもあるかも知れない。言わないで、認めてしまったら・・・それが来たとき、きっととても辛い。私も・・・これから何度だって、怒るわ。絶対に」
「・・・そうだな」
 カイが、笑う。
 今度は、わずかにではあるが明るい笑顔だったことに、セレンは安堵した。

 二人が出ていくと、シュムは布を被りなおした。再び、頭から被る。
 自分のためにセレンを追い払ったことに、軽く自己嫌悪も感じていた。そうかといって、あのまま二人でいても、気詰まりなだけだっただろう。
 そうして、溜息をつく。
「心配をかける人なんて、増やしたくなかったんだけどなあ」
 怒ってくれるのが判っていたからこそ、あまり言いたくはなかった。そのことに甘えて、傷つけているだろうことも知っている。わがままといえば、その通りだ。
 そんなに簡単に死ぬつもりもないのに。信用ないなあ、と言ってみても笑えない。
 しかし、もし本当のことを――まだ、自分の中の力を完全には押さえきれないのだと、長く、寿命を削る方法で魔法陣を描かずにいると昔のように勝手に召還してしまうのだと、告げることはしたくないと思う。これは、ただの意地なのだろう。それに、さっき言ったことも、嘘ではない。友人や知人、家族が成長して子供を産んで、去っていくのを、変わらない姿で見送るのは、淋しく辛いと思う。
 ふと、カイは約束を覚えているだろうかと思う。
 はじめて出会ったときの約束。飽いたら、生きることが辛くなったら、殺してくれると。なんとなくシュムは、自分がそう言い出さないことと、約束を守ってもらえることと、守ってくれないこととが、等分にあるような気がした。
 そこまで考えて頭を振って、思考を切り替える。
『騙されたんだ!』
 それが、ハーネット家四男の言い分だった。
 騙されて魔物の肉を食わされ、必死にもとの体に戻る方法を探していたのだと。男の背と両腕には、びっしりと水色の鱗があった。セレンの言った「人でもない感じ」というのは、このためのようだ。
 その騙した男に、不老者を喰えば元に戻ると言われ、様々な手段で探したようだった。そこに、シュムが引っかかってきたのだ。
 しかしそれは、上辺だけの「本心」だ。シュムの肉を喰らい、その後も生かし続け、「魔界」との通路を確保しようとしていたことは、つつけば容易に知れた。家族の誰からも邪魔者扱いされていて見返したかったということだが、他の方法はいくらでもあったはずだ。
 十分すぎるほどに腹は立ったが、シュムの分までカイとセレンが激怒したものだから、その止め訳に回ったシュムには、怒る余裕はなかった。せいぜい、呆れるくらいだ。
 ちなみに、自分を騙したという人物のことはよく知らないようで、よくもそんな相手からもらった肉を食ったものだと、ほとほと呆れた。巻き込まれたアルが、いっそ気の毒だった。
 シュムとしては、アルをあのまま放置しておくのも忍びなくて、魔方陣で送り還したかったのだが、まだ体力も万全でないとカイに睨まれ、断念した。しかし、契約に反すると知りながらも、いくらか手加減してくれたのだ。それは、かなりの負荷だっただろう。感謝すべきだろうと、思うのだった。カイもセレンも、そのことには気付いているはずだった。
 喚び出したのとは別の出入り口、別の魔方陣から還してしまえば、大体の契約は自動的に破棄される。そのことを考えても、送り還したかったのだが。一番の問題は、体力の消耗だ。昨夜から、一度は小さいとはいえ、三度も開いた上に立ち回りをやってのけたものだから、動けないほどではないにしても、怠い。あそこでアルを還せば、しばらくは自力で歩くのもおぼつかなかっただろう。
「あーあ」
 溜息を一つ。
 あの男は、もう心配はいらないだろう。本家へ手紙を出したから、以降は良くて軟禁というところか。悪くすれば内密に抹殺されるかもしれないが、そこまではシュムの知ったことではない。
 しかし、あの役立たずに魔獣の肉を与え、以降もつながりを持っていた人物――長身の、顔を布で覆ったこもった声の男だという――は何者なのか。ただの覗きだったはずが、妙な具合に話が進んでしまっている。
「あ―・・・だるいな―・・・」
 考えるのにも倦んで、しかし体調も今だ万全ではなく、シュムは布を被ったまま寝台に寝そべった。
 そして急に、身を起こす。「扉」――魔法陣の開く前兆があった。
「・・・なんだ・・・これ・・・」
 寝台の横の床に描かれていく黒い魔方陣を凝視して、シュムは思わず声を漏らしていた。
 型は、知っている。大雑把に言えば、属性を問わず、中の中程度の魔物を喚ぶ魔方陣。しかし、明らかに気配が違う。何かを間違えているというのでもなく、ただ、違和感がある。なにかが違う。
 術が完成したらしく、黒い魔方陣が完全に表れ、黒い燐光を放つ。
 シュムは、そこから出現したものを、半ば呆然と見つめていた。出現の風で、束ねた長い髪が好き勝手に乱れ、被っていた布がばたばたと風を含んで音を立てる。そしてそれは、いつの間にか頭からずり落ちていた。
「やあ。はじめまして」
 魔方陣に立つのは、長身で手足の長い男。長い髪が不吉な影を落とし、笑いかける瞳は、爬虫類じみている。
「アル!」
 男の足元に倒れ伏すアルの姿に、シュムは知らずに声をあげていた。まだセレンに眠らされたままの状態なのか、白い顔は目を閉じたまま、何の反応も示さない。
 思わず身を乗り出しかけたシュムは、だが、咄嗟に寝台の枠を掴んで体を止めて、魔方陣に近付くことを回避した。発動中の魔方陣に踏み込む危険性は、知っている。不用意に踏み込み、命を落とした魔導師はいくらでもいる。そんな常識に、思わず歯噛みする。
 男は、そんなシュムの様子に満足したかのように、薄く笑った。
「この男を助けたければ、私の後を追ってくるといい。この男で足りないというのであれば、そうだね、金髪の美しいお嬢さんかオレンジ頭の下郎でも用意しようか」
 ぎりと、唇を噛んで、シュムは男を睨みつけた。そんなことしかできない自分が、心底悔しく情けない。
「賢明な君であれば、もう気付いているだろう。だからこそ私は、飽くまで君自身の意志で来て欲しいのだよ。選ぶのは君だとだけ、言っておこう」
 爬虫類か、昆虫めいた印象を与えるその男は、そう言うと姿を消した。いや、そもそも、実体を伴ったものでなかったことは判っている。本体は、別の所――おそらくは、「魔界」にあるはずだ。違和感の正体は、この世界で開かれたものではないというところにもあったのだ。
 シュムは、寝台の足下に置かれたカバンから皮紙とペンを取り出すと、短くカイとセレンへ宛てた手紙を書き、寝台の上に判るように置いた。セレンは読めないが、シュムの「勉強」一般に付き合ったカイは人の文字も読むことができる。
 そうして剣をいつも通りに腰に佩いているのを確認すると、シュムは先ほど黒い魔方陣の出現した床を一瞥して、窓から滑り降りた。近くにいた村人が、二階から降ってきた少女に目を丸くする。
「ああ、気にしないで」
 にっこりと笑いかけてから、表情を消して走りだした。まずは確認で、男の言うことに従うのはそれからだ。体の奥は、まだ鈍く疲れていたが、気力がそれを押しやった。 

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