
術の発動を察知して部屋へと駆け上った二人は、開け放された窓を見ることとなった。カイが、走ってきた勢いのまま窓枠に身体を当てて止めて、念のために通りに目をはしらせるが、それらしい人影はない。
実際のところはかなりの僅差で、シュムが建物の裏に回ったために見えないだけなのだが、そんなことがわかるわけもない。
「カイ、これ」
シュムの期待通りに皮紙を発見して、セレンが手渡す。
まだインクも乾いていない文字は、走り書きで「例の男からお誘いが来たから乗って来ます。心配しなくてもちゃんと帰るつもりだけど、万が一のことがあったとき用に、最後の魔方陣は描いておきました。前に言ったやつ。では、そういうことで」と記されていた。
低く呻いてから、不安そうに窺うセレンのために読み上げる。途端に、セレンも小さく呻いた。少しの間、二人は、風が気まぐれに吹き込む部屋に、無言で立ち尽くしていた。
「さっき開いた扉で、シュムがあっちに行っちゃったってこと?」
「・・・だと、思う」
相手を言いくるめたか、発動する召喚魔方陣を睨みつけながら、この伝言を書いたのだろう、と。
二人は、シュムがまだ向こうへ行っていないことを知らず、眉根を寄せた。あのシュムがそう簡単にどうにかなるとは思えないが不安は大いにあるし、今は体調が万全ではない。それに、置いて行かれてのだという悔しさがある。
すぐにでも追いかけたいところだが、術師がいなければ、二人には二つの世界を繋ぐことはできない。
ふと思いついて、セレンが顔を上げた。
「魔方陣は、描いて行ったんでしょう? それで行けないの?」
「無理だ」
「どうして? 使えなければ意味はないわけだし・・・」
「無理なんだ。シュムの描いて行った魔方陣は、術師が死んだ場合に発動するものなんだ。最後の、っていうのはそういうことだ」
今自分たちが立っているあたりに描かれていると見当をつけて、カイは床を睨みつけた。年月を経た床だけが、目に映る。
しばらくはそうしていたが、やがて、諦めたように深く息を吐いて顔を上げた。セレンを見る。
「・・・一つ、方法はある」
だったら、と畳み掛けるように言葉を継ぐセレンを、頭を抱えるようにして額に置いたのとは逆の左手を上げて制する。酷く気の進まない様子だ。
再び、重い溜息をつく。
「術師が必要なんだ。シュムほどとは言わなくても、セレン、お前を喚び出せる程度には力を持った奴がな」
大きな問題としては、二つある。
一つには、それなりの実力者となればおいそれとはおらず、当然この街を出なければならない。その上で、この世界も詳しく知らないままに探し出さなければならないのだ。どれだけの日数がかかるのか見当もつかない。
もう一つは、二人が無契約の魔物ということだ。経験を積んだ者ほど、魔物に対する目は厳しくなる。問答無用で攻撃を受けるということも大いに考えられた。
更に言えば、あまり考えたくもないことだが、二人がここを離れている間に魔法陣が発動した場合、最悪、一生こちらに残されることになる。
それらのことを察したセレンは、カイと同じように額を押さえた。大海から小さな指輪を見つけ出すほどの困難さだ。可能性がないわけではないが、それよりも先に、シュムの方で決着がつく可能性の方が、ずっと高かった。
「また、厄介なことをしてくれたぜ・・・」
「本当に。一体何者なのかしら、その男って・・・男?」
言ってから、セレンは考えもしなかったことに気付いた。顔を上げたカイと目が合って、同じ事に気付いたことを知る。
「人間じゃ、ないのか・・・?」
開かれたのは、あちらと繋ぐ扉。組成は似ていても、同じ世界を繋ぐものと異界を繋ぐものでは、根本的な性質が異なる。カイたちからすれば、その気配の違いは歴然としていた。
二人は、顔を見合わせた。
ハーネット家の四男に魔獣の肉をもたらした者が、自分たちの同類だったとする。おそらくは、四男が誰かの手を借りるか何らかの方法で、喚び出したのだろう。もしくは、向こうから接触してきたか。そうして、シュムがそれに気付いて向こうへの扉を開いたのだとすれば。
「――噂を、聞いたことがあるわ」
セレンが、いやに蒼褪めて、呟くように言った。
「変わり者の同類喰らいがいる、って。随分と人間に、興味を持っていたって・・・シュムに会う前のことだったから、あまり気にしていなかったけど・・・」
「ああ・・・。随分と、魔方陣にも詳しいってのが、いたな・・・」
もし、喰らう対象を人に向けたとすれば・・・そのまま、生き長らえているかもしれない。そして、不老者のことを知ったとすれば・・・。
お互いに蒼褪めた顔を見合わせていたが、期せずして同時に、首を振る。
「まさか、ね」
「ああ、考えすぎだ」
言葉に出して言うが、一度浮かび上がった不安は消えなかった。どこに証拠があるわけでもないのだが、いくらそんな偶然がと、思っても駄目だった。そしてシュムの名は、一部にではあっても確実に、あちらで知られている。大まかにではあるが、その性格や、性質も。
想像が、悪い方向に転がる。
そうして実のところ、そのあてずっぽうともいえる推論は、見事に的を射ていたのだった。しかし二人には、確認すらする手立てがない。
何とはなしに、二人は顔を俯かせた。
「そうよ。考えすぎよ、そんなこと。あるはずがないわ・・・」
「ああ・・・」
宿の床石が音を立て、開け放されたままだった戸口に人が立ったのは、そんなときだった。
「うわ、いきなりか」
空間を越えるのと同時に横に跳んで、シュムは半ばぼやき、半ば叫んだ。まだ名残の燐光を放っている魔方陣の中央は、黒く抉れている。よけていなければどうなったかは、考えるまでもない。
片膝をついた体勢で、シュムは、自分を笑って見ている男を睨みつけた。これと言って特徴がないこと、それが特徴と言えば言えた。
シュムが今いる場所は、本来いる場所とは、おそらく層が違う。それは、言われなくても空気の感覚や雰囲気でわかった。肌がざわつく。気温は高く、湿気も高くてむしむしするほどなのに、寒気すらした。
人のものと大差ない建物の作りに、逆に違和感を感じさせられる。今いる部屋の中で判る違いと言えば、妙に天井が高いことくらいか。これは偶然なのか、どちらかがどちらかに倣ったものなのだろうか。
「・・・後で観光でもして帰ろうかな」
呟く口調は、本気とも冗談ともとれない。シュム自身、どうなのかよくわからない。
ハーネット家の別荘には、アルの姿はなかった。そして、四男は殺されていた。少なくともこれでアルの契約は切れたと、冷静になろうとしたシュムは考えた。その死に同情することはなかったが、脆さに呆然とする。そんなことは知っているはずなのに、慣れることがない。
即座に、黒い魔方陣の痕跡を頼りに自分用の扉を開けたシュムだが、その意味は十分にわかっているつもりだった。
過去にも、魔方陣を使って異界へと行った者がいないわけではない。しかしその中に、生きて帰って来た者はない。向こうからだと術が発動しないのか、魔物にやられたのかは、生還者がいない以上判らない。
そして、この男がシュム自身に来させたかった意味も、判る。
黒い魔方陣の姿が実体でなかったことから考えても、それだけの能力がなかったのだろう。あるいは、この世界からの干渉はそれが精一杯なのか。どちらにしても、シュムが来ない限り手の出しようがなかったのだ。
「まさか、本当に来るとはね」
「呼んだのはそっちだろう。文句を言われる筋合いはない」
「文句など言ってはいないさ。歓迎しよう」
自ら罠にかかった蝶を見るとき、蜘蛛はこんな表情をするのだろうか。シュムは、そんなことを思い浮かべてしまってから、ぞっとしないなと、打ち消した。想像を膨らませて、敵を必要以上に恐れることほど馬鹿なことはない。
嬉しくないことに、体力はまだ完全には回復していない。むしろ、正式な魔方陣では無理だと判断して独自の方で描いたために、より消耗している。
「随分な歓迎だ」
呟くような声が素っ気無いのは、半分は意図してのことだが、半分は疲れのせいだ。片膝は、まだ地面についたままだった。
「とりあえず、アルを渡してもらおうか」
「何故?」
「・・・まあ、言ったくらいで開放するとも思わないけど」
「渡してもいい」
笑い顔のままの、唐突な一言だった。シュムは、素っ気無いと言うよりも心底疲れたようなかおをした。男を見る目も、どこか投げやりだ。
「で、条件は?」
「話が早い」
悦に入った笑い。
ハーネット家の四男といいこの男といい、厭になるほど芝居がかっている。シュムは頭痛を感じた。
そうと気付かず、あるいは気付かない振りをして、男は片頬だけを上げて、いやに爬虫類じみた笑みを閃かせた。
「簡単なことだよ。ただ、それをつけてもらうだけだ」
示されたのは、壁に取り付けられた、何かの文様の刻み込まれた拘束具。両手と両足とを嵌めるようになっており、御丁寧に重りまでついている。またかよ、と声にならない呻きをもらす。
紋様には、見覚えがあった。魔封じのときに使う紋だ。
「よくまあ、調べたな・・・こんなのまで」
力なく首を振る。シュムは、がっくりと肩を落として、そうして、顔を伏せて、笑った。
「本当に、よくやるよ」
喉の奥で、音を立てて笑う。
ようやくシュムの異変に気付いた男は、それでもまだ、余裕の笑みを浮かべていた。己の優位を、微塵も疑ってはいない。どうやったらこんな風になれるんだろうなあと、シュムはやや無軌道に考えていた。羨ましくはないが、感心はする。
依然として片膝をついたまま、シュムは顔を上げた。
「断る、って言ったらどうする?」
「手間が増えるな」
「あ、そ。ところで、ひとつ忠告をしてあげよう。悪役というのは、姿を見せずにいる方が、得体の知れない恐怖感を植え付けられるものだ。例えば、姿を隠して私の友人を追い掛け回したように」
「・・・よくわかったな」
ひくりと、片頬が歪む。それに対してシュムは、おやおや、と言って肩をすくめた。
「カマかけただけだったけど、図星だったらしいな。それも、今の状況から察するに、目的は私か。彼女も貧乏くじを引いたな。しかし、何がわからないって、なんだってこんな変な事態になってるかってことだな」
「ふっ、知りたいか」
いや、興味ないけど。本心をあっさりと覆い隠して、シュムはゆっくりと頷いた。
「ああ。こんなことになったんだ。理由もなしじゃあ話にならない」
平然とそんなことを言うが、干渉してくるから対抗するだけで、本当は知りたいとも思わない。だが、もしここで、男が三流役者よろしく説明を始めれば、体力回復の時間稼ぎにはなる。
男が、にやりと笑った。あの、爬虫類じみた笑顔だった。
「その話は後にしよう。君はどうも、何かたくらんでいそうだ。もっとも、そんな身体で、何が出来るとも思わないが」
「そ」
軽く受け流す。残念ではあるが、まあ仕方ないだろうとあっさりと諦める。
そうして、男を見て、にやりと笑い返した。
「では、もう一つ忠告。勝ちたいと思うなら、悪役にはならないこと。何故なら、悪役というのは常に倒される立場の者を言うからだ。悪役とは、勝利できなかった側、敗者を言う」
言葉遊びのような自分の言葉が消え去るのを待たずに、シュムは前に跳んだ。鋭く、足払いをかける。
いくらか予想していたのか、男はそれをわずかに動くだけで避け、逆にシュムの身体を捕らえようと手を伸ばす。
だがシュムは、絶妙の間合いでその手を跳ね除けると、壁を蹴って反転し、男に相対した。男はまだ、笑っていた。
「無駄だということが、判らないのかい?」
「とりあえず、何でも試してみるたちなんでね、悪役さん。例えば――」
右手で素早く印を結んで、目晦ましの光の術を発動させる。男は、咄嗟のことに視力を奪われた。その隙にシュムが、目を堅く閉じたまま後ろ手に扉を探り、こじ開ける。
扉があることまでは視認していだが、鍵がかかっていないかは、半ば賭だった。ほとんど幸運に乗った状態で、シュムは、部屋を出ることに性交した。
シュムを追った男が部屋を出てしばらくしてから、部屋には黒に近い緑の魔方陣と、同じ色の燐光に包まれたカイが出現した。身構えていたカイは、慎重に周囲を見渡して誰もいないと判ると、眉根を寄せた。
「ここ・・・じゃ、ないのか?」
己の世界独特の、馴染みの空気を感じながら、低く呟く。
と、不意に聞こえてきた小さな爆発音に、驚いてその方向を見る。続いて聞こえた悪態。どうやら、離れたところで怒鳴っているらしい。
「合ってる、か・・・」
少なくとも、一度はここに来ているはずだ。焦る気持ちをどうにかなだめて、先ほどの経緯を思い出す。
カイがこちらの世界に戻って来れたのは、宿を訪れた術師の協力を得てのことだった。彼はシュムへの伝言を伝えに来たらしいのだが、この際そんなことはどうでも良かった。素質としては、シュムには及ばない。しかし、セレンは無理でもカイ程度ならどうにか召喚できる腕と、何より、術の改変や復元を得意としていた点が幸いした。
はじめは、シュムの用意した「最後の」魔方陣の、抑圧を解いてもらうつもりだった。設定してある条件を解除すれば、発動する。だが、勢い込んでそう言ったカイに、二十代とおぼしき術師は、眉をひそめた。
『そんなものはここにはない。騙されたか、他の場所の間違いだろう』
そんなはずがないと言っても、無いものは無いの一点張り。果てには、お前が隠したのかとでも言わんばかりの態度に、案を出したのはセレンだった。
『ねえ、あのお屋敷は? それか、私を喚び出した林の中か。他の場所だと人目につくけど、そこならそうでもないでしょう?』
『ふむ。屋敷というのは?』
『いけ好かない奴がいたところなんだけど・・・行った方が早いわ。行きましょう』
『ああ』
『・・・なんだよ、その態度の違いは』
結果を言えば、ハーネット家の別荘にも目的の魔方陣はなかった。ただ代わりに、先刻見た男のすでに命を失った躯と、術師曰く「無理矢理こじ開けられ」た魔方陣の痕跡。そんなことは易々とできはしないとも付け加え、『あの人は無茶をする』ともらした。
そこでカイとセレンは、一つの可能性に思い至った。若い術師の言った、「騙された」という言葉。行く方法も無くて諦めるだろうということを当てにして、嘘をついたということも、シュムなら大いに考えられた。
『しかし、そのうち俺が来るだろうことは知っていたはずだが?』
術師の言葉に、カイとセレンは顔を見合わせた。戻れなかったときのことを考えて、この術師を「最後の魔方陣」の代わりにしようと目論んだのかもしれない。そうなると、すぐに後を追う心配もしそうなものだが、術師が来るのはまだ先だと思ったのか、それとも、これも計算のうちか。
しかし、今は考えるよりも先にすることがあると、カイは自分よりも少しばかり背の低い術師に、改めて頼んだ。既に一度はつながっているのだから、シュムの利用した魔方陣を使えばシュムの向かった先に出るだろうと。
だから、ここで合っているはずなのだ。そしてさっき聞こえた悪態と合わせると、シュムを相手に梃子摺っている可能性が高い。
「・・・仕方ないか」
苦々しく舌打ちして、カイは左手を振った。奇術のように、小鳥が出現する。鳥は、出現すると即座に、羽ばたいて開け放されているドアから出て行った。これで、出口を見つけて伝言を伝えに行くだろう。会いたい相手ではないが、確実に力にはなる。己の実力を知っているからこその、保険だった。
弱い自分は情けない。しかし、今回はその「弱さ」故にここに来れた。セレンは、「強さ」のおかげで居残りだった。代理の術師の開く扉では、セレンの能力に堪えられるかは怪しかったのだ。そういうことも、ある。
「さて」
ここに来て、ただ無力を嘆くのは馬鹿以下だ。カイは、部屋を後にした。
屋敷は、今では奇妙な狩場へと変貌していた。問題なのは、ただ狩られるだけのはずの「獲物」が、逆にあちこちに罠を仕掛けていることだろう。おかげで男は、自邸というのに、部屋から部屋への移動にも梃子摺っていた。
視力が回復するまでにそうはかからなかったはずなのだが、部屋を出てすぐのところに閃光弾と爆裂弾。そこでまた少し、時間を取られた。それだけの短時間で効果的に、逃げながら罠を仕掛けていく手際は大したものだった。
男は、知らず知らずのうちに悪態をついていた。
最後には仕留められるとの確信はあったが、これほどにてこずるのも、わずらわしい罠に手間取るのも、腹立たしい限りだ。
「出て来い、小娘! こいつがどうなってもいいのか!」
どうにかたどり着いた部屋の中に、変わらず横たわっていた体の細い男――アルの咽喉を掴んで、声を張り上げた。
正直、こんな者につられて、シュムがこちらに来るとは思っていなかった。そもそも人と魔物の関係など、どちらにとっても一方的なものだ。主導権を取るのがどちらになるか、その一点にかかっているといってもいい。そして主導権を握られた方は、相手を憎むのが常だ。
それが、シュムには通用しない。
知り合いというだけの魔物の、しかも、一度裏切っている奴のために、自らの身を投げ出す。――考えようもないほどに愚かだ。
そしてその愚かな人間は、やはり愚かにも、姿を現したのだった。
「薄っぺらい化けの皮だな。予想通りだけど、あまりにも予想通りすぎて、逆に予想外な気がする」
そう言って現れた少女の様子に、先刻と変わったところは見られない。幼いほどに、小さな少女だ。
男は、手荒くアルの体を引き立てた。咽喉元に、ナイフ状に変形させた爪先をあてる。
「こいつの命が惜しければ、俺の言う通りにしろ」
「ほんっと、薄っぺらい」
「な・・・俺が何を言ってるのかわかってるのか!?」
「むしろわかってないのは、そっちでしょ」
わざわざ、勝ち目の少ないこちらの世界へと大人しく来たのとは打って変わって、シュムは挑発するかのような言葉を発した。
男は、困惑した。魔方陣で体力を消耗したというのも、この男のためにここに来たというのも、全ては嘘なのか、との疑念が過る。あれだけ時間をかけて調べ上げた全てが、嘘だというのか。
しかしシュムは、知らずにその疑念を打ち破った。
「ここまで罠が張ってあったって意味、理解してる? なんだってここまでしておいて、人質放置するんだよ」
突き放した口調に、疑念の半分は去ったものの、はっとして捕らえている「人質」を見る。
「偽物」
にっこりと、小憎らしく笑う。
青白い、生気のない顔。全く力の入っていない体。眠らされているとはいえ、生死さえ定かではないような「それ」は、そう言われても納得がいった。
舌打ちをして打ち捨てようとして、ふと冷静になる。
そうして、視線をシュムに向ける。向けた途端に笑いを含んだものになったが、一瞬の真剣な眼差しが残った。そうか、と、口の端を持ち上げて笑う。
「いいだろう、それならこれは、要らないな」
爪先をきつく当てるが、シュムの表情は変わらない。面白そうに笑うような、ある意味での無表情。
しかし、男の爪先が咽喉にいくらか食い込んだところで、制止する声がかかった。溜息をついて両手を上げる。小さく、顔をしかめている。
「わかった、こっちの負けだ」
にやりと笑う。やはり、ただのはったりだったのだ。そこまでの時間はなかったのだろう。いや、この部屋の存在を知っていたのかさえ怪しい。アルの咽喉に当てた爪をそこで止め、そうは見せまいとしながらも悔しそうなシュムを見た。
「さっきの部屋に戻ってもらおう」
しぶしぶ背を向けると、シュムは迷うそぶりもなく歩を進めた。まだ罠が残っていることも考えて、男はシュムの後を慎重にたどった。一度も立ち止まることなく最初にいた部屋まで戻ると、厭そうに男を振り返る。
「手枷を嵌めろ」
肩を竦めて、壁に繋がれた、魔封じの印の彫られた重い枷を手に取る。深深と溜息をつくと、まず右腕に嵌めようとして、「あ」と呟いた。
面白くもなさそうに、男を見る。
「これ、閉じちゃったんだけど。鍵は?」
「・・・先に、左腕を」
「あ、そ」
無感情に、枷を嵌める。がちゃりと、重い音がした。男は笑って、邪魔な「荷物」を投げ出した。途端に、シュムがすっと、右手を上げた。くすりと笑みをもらす。
次の瞬間には、「扉」が開いていた。思わず目を細めた男が見たのは、アルを包む蒼い燐光だった。
光が収まると、床に描かれた出鱈目な魔方陣と、その場所に倒れていたはずのアルがいないことだけを除いて、数秒前と全く同じ状態だった。
「何故・・・」
枷で魔力は封じたはずと、言葉を失う男に、シュムはにやりと笑いかけた。依然左手は壁に繋がれたままだというのに、男はそれにも気付かずに、二度目の形勢逆転を感じていた。
扉を開けたカイが見たのは、見知らぬ男の背中と、その向こうに立つシュムだった。
魔方陣の発動を知ってこの部屋に駆け戻ってきたのだが、シュムがとりあえずは生きているらしいことに、胸が詰まった。それだけで安堵してしまいそうになる自分に、喝を入れる。
カイが部屋に入って来たのにも気付かないのか、男は、ただ前方にだけ意識を集中しているようだった。そのせいで、背中はがら空きだ。
とりあえず背から心臓部を突いて、腕を掴んで足を払うと、その勢いのままに地面に叩きつける。両手は、当然のように後ろ手にねじり上げる。呪力の発動には主に声か手が使われることから、口には爪先を突っ込む。
「カイ」
男を押さえつけたまま顔を上げたカイと目の合ったシュムは、短く呟いて、笑顔を見せた。
「やっぱり、カイが来たんだ」
「そうじゃないだろ、お前・・・っ!」
「それ、こっちまで持って来てもらえる? ここの枷に、手を嵌めたら丁度いいと思うんだけど」
意識してかせずか、男を物扱いして、シュムは右手で足元の枷を示した。男の予定としてはシュムの足に嵌めるつもりだったのだろうが、魔封じも施してあることだし、使わないテはない。
不承不承ながらも、カイはそれに従った。念を入れて、もう一度心臓を突いておく。男の口から、くぐもった呻き声が漏れた。その口に、男自身のシャツを突っ込む。
「で、ついでにこれ、外せる? 鎖切るだけでいいんだけど」
「・・・!」
「調べ上げたわりには誤算だらけだったみたいでさ。こんなので封じられるほど弱い力じゃないんだけどねー」
本日二度目になる手枷に目を見張るカイをよそに、シュムは笑顔のまま、今では足元につながれている男の首を踏みつけた。気管を塞がれたのか、男の声が詰まった。シュムはすぐに、足を上げた。
半ば呆然と、それを見ていたカイに左手を上げて見せる。
「で、これ」
「あ、ああ・・・悪い」
「いやいや、全然。――ありがと」
掴んだだけで鎖を断ち切ったカイに、はにかむように笑いかけた。しかしそれも一瞬で、冷たい一瞥を床の男に向ける。
滅多にお目にかかることのない敵意を直裁に表わしたシュムに、カイは思わず一、二歩後ずさった。シュムに対しても男に対しても、カイ自身腹を立てていたはずなのだが、それすらも遠くに霞む。こういうとき、敵にはまわしたくないと、心底思うのだった。
「よくまあ、好き勝手やってくれたね? 覚悟は出来て――な?」
怒りのためか低くなっていた声が、素っ頓狂なものに変わる。
突然出現した小さな黒い竜巻を、シュムとカイは、揃って呆気に取られて見ていた。しかし、それも竜巻の中にあった黒いもやが霧散するまでで、風が収まった後に佇む黒衣の長身の男に、二人はそれぞれ違った反応を示した。シュムは、意外さを隠し切れないながら嬉しそうに出現した男に駆け寄り、カイは厭そうに、むっつりと腕を組む。
「どうしたの、ディー。どうしてここに?」
「・・・元気そうで何より」
「うん、それはそっちも。久しぶりだね。滅多に合えないから、前に会ったのは・・・ユタ村の奇祭のとき? ほんと、久しぶりだ」
こちらの世界での友人の一人との思いがけない再会に、シュムは、十二、三という外見にふさわしいような笑顔になった。カイが一層憮然とするのだが、そんなことには気付いていない。
全身黒ずくめで、どこか神職者を思わせる服装と身のこなし。本当に久しぶりに会うというのに、変わっているのは、後ろであっさりと束ねただけの濃紺の髪が少し伸びたくらいではないかと思えた。
「ええとそれで、どうして?」
「むしろそれは、私の方が聞かせてもらいたいものだ。何故お前が、こちらにいる?」
「あー、いやそれは長くなるんだけど・・・まあ簡単にいえば、あれのせいかな」
「これもか?」
ちらりと、うつ伏せに壁に繋がれた男を見てから、ディーはかがんで、シュムの左腕の枷を掴んだ。硬い音を立てて、ディーの手の中で枷が割れる。シュムの腕にぴたりとはまっていたはずの枷だが、カケラ一片たりとも、シュムを傷つけることはなかった。
それをカイが、悔しそうに睨んでいる。自分には出来ないことだと、知っているからこそ余計に悔しい。カイでは、シュムの腕まで潰しかねない。だから、シュムは鎖だけでいいと言ったのだ。
情けないが、たとえ微量としても、シュムに害を成していただろう枷が外れたことには安堵した。この少女が傷つくのには、耐えられない。だからこそ、様々な感情を押しやってこの男への伝言を飛ばしたのだ。
「ありがとう」
「そこの奴が、お前をここへ連れてきたというのだな」
「まあ、そんなところ。少なくとも一月以上は、あたしのこと調べてたみたいでさ」
「お前を?」
「うん。多分、食べるつもりだったんじゃないかと思うんだけど」
カイとディーは、思わず顔を見合わせた。
そもそもカイは、そうかもしれないと疑ってはいた。しかし確証があるわけでもなく、増してや本人がこんなにもあっさりと言ったとなると、話は違う。
「そう言ったのか?」
「ううん、言ってない。会ったことのある同族喰らいに、感じが似てるから。そうじゃなくても、どうせろくでもないことだろうね、目的は」
友好的なら、一月以上も調べていた相手に、わざわざ神経を逆撫でするような接触の仕方をするとは思えない。セレンを、遠巻きに見張っていたらしいこともだ。
言い切って、シュムはカイとディーから、わずかに顔を逸らした。
「正直、このまま餓死でもさせてやりたいくらいには腹立ってるんだよね」
飽くまで淡々と言って、シュムは男の繋がれている壁に近付いた。
「っ!」
その瞬間に、男が体を跳ね上げた。咄嗟に後方に飛び退ったシュムだったが、その足元を、男の足先が払う。シュムは、後ろに倒れかけた体を捻って、どうにか床に手をついて跳ね上げ、一回転して立ち上がることに成功した。
その間に、ディーとカイがシュムと男の間に割り入る。男により近い位置にいたカイが、真っ向から対峙する。
立ちあがった男の両の手は手首ごとなく、骨の見える肉塊が血を滴らせていた。手は、見るまでもなく床に近い二つの枷に残されている。
カイは、低く呟いた。
「・・・マトモじゃねえな、両手を犠牲にするなんて」
手がないため、口の布までは外せないようだ。見ようによっては滑稽だが、笑えるような状況ではない。
カイは体を沈め、男の心臓部を狙って蹴り上げようとした。しかしかわされ、カイと男の位置が入れ替わる。
入れ替わった一瞬、男がディーに背を向けた。
その背に、ディーの放った火球がぶつかる。一瞬のうちに、血よりも明るい赤が、男を覆い尽くす。凄まじい悲鳴が上がり、男が悶え苦しんでいる。
そこを、カイが切り裂いた。肉片が、ばらばらになってまだ消えない炎を纏いつかせ、炭となっていく。
炎が完全に消えるまで、三人はそれを見ていた。不思議と、建物は燃えていない。
沈黙を破ったのは、シュムだった。
「・・・二人がかりで後ろからは、ちょっと卑怯かも」
「馬鹿かお前!」
「馬鹿なことを言うな!」
シュムは、やけに呼吸の合った二人にめいいっぱい叱り飛ばされ、思わず首をすくめた。叱られた子どもそのものの様子だが、カイもディーも今更騙されはしない。見掛けは子供でも、中身はそんなものではないのだ。
「お前、あれが何か判ってるのか!」
「勝てる方法を捨てて、無駄に命を捨てるつもりか!」
「あんなの相手に、道義だ何だって言う馬鹿はいないぜ!」
「大体お前はいつも、物事を甘く見過ぎなのだ!」
・・・長々と怒鳴られ、説教をされ、シュムがまともに口を利かせてもらえたのは、随分と経ってからのことだった。
それほどに同属喰らいは変則的で、危険なのだ。仲間意識の薄いものの間でも、一対一は避けるのが鉄則とされているほどだ。シュムもある程度はそのことをわかっているつもりだったが、そうは言わずに笑い顔を作った。
「ディーとカイがいてくれて運が良かったよ。ありがとう、ディー。カイも、来てくれてありがとう」
「礼は、そいつにだけ言えばいい。私は、伝言を受けて来たまでだ」
「それって結局、来てくれてありがとうってことになるでしょ。カイが言ったって、来てくれなかったら駄目なんだし」
にっこりとシュムが笑いかけると、ディーはふいと目線を逸らした。しかし、付き合いの長いカイも短いシュムも、照れ臭いんだろうなと、反応を読み取る。
そう思われていることに気付いているのかいないのか、ディーは、カイに向いた。
「・・・おい、カイラス」
「なんだよ?」
「さっきのはまだまだだ。もっと鍛えた方がいい」
「・・・判ってるよ、デル」
「それならいい。では、また機会があれば会おう」
それだけ言うと、シュムが別れの挨拶を口にする間もなく、ディーは現れたときと同じように、黒い竜巻を呼んで消えた。
残された二人は、なんとはなしに顔を見合わせて、ついと目を逸らした。
「・・・戻るか?」
「うん。まともな方は使わないけど、仕方ないんだからね。怒らないでよ?」
「あ・・・そうか。・・・俺、こっちに残ろうか?」
その方が負担が少ないだろ、と言うと、シュムは頷いて、しかしカイの服の端を掴んだ。アルに使った魔方陣で、またもや体力を削られているせいか、いつもよりも弱々しい気がした。
「それは、そうなんだけど・・・もう少し、付き合ってもらえない・・・?」
「あ、ああ。いいけど」
「・・・一人で行くのはいやだからなー、ちょっと」
「は?」
「いやいや、気にしないで。じゃあ、戻ろうか」
右手で無造作に自分たちの足元を指す。指の軌道に沿って蒼い線が引かれ、二人を燐光が包んだ。扉が、開いた。
「助かったよ、カイ。・・・ありがとう」
エバンス・リードと名乗った魔術師は、蒼い燐光に包まれてシュムとカイが出現した途端に、説教を始めた。もっとも、説教されている本人が聞き流しているため、あまり効果は望めない。なにしろ、今日は説教日だと嘯いているくらいだ。
ちなみに、二人よりも先に出現していたアルは、眠りの術もそのままに、一人床に転がされていた。それを、説教の合間を縫ってシュムが、術をかけたセレンに術を解くよう頼んでいた。セレンがカイと共に他の部屋に移ると、シュムは話を聞いていないとして、更に説教をされている。
「ところでエヴァ、どうしてここに?」
一区切りついたところを見計らって、シュムが訊く。エバンスは、げんなりと肩を落とした。
「だから、その呼び方はやめてくださいって・・・」
「ああ、そうだっけ? で、どうして? 一月くらいは後だと思ってたんだけど」
おかげで目論見が外れたよ、と言って睨まれて、急いで助かったけど、と言い添えた。カイであれば更に大目玉だっただろうが、まだ戻らない。エバンスは、溜息をつくに留まった。
「若者らしくないよ、エヴァ」
「誰のせいだと思ってるんですか」
据わった眼で、即座に切り返される。
笑って誤魔化すシュムに、眉間を揉んで頭痛を和らげようとする様は、確かに二十三という年齢よりも年配に見えた。あまりにも、堂に入りすぎている。
それでも説明を始めるあたり、律儀だ。
「数日前に、例の盗賊が捕らえられたんですよ。あなたから連絡がこないから、こうして知らせに来たというわけです。それなのにあなたときたら・・・」
「えっ、捕まった?」
再び始まりかけた説教に耳も貸さず、シュムは意外そうな声を上げた。今回シュムがこの村を訪れたのは、そもそもその盗賊退治が目的だったのだ。宿の泊り客を狙うという盗賊。そのために、わざわざ大金を見せびらかしたというのに、とんだ予想外の事態だった。
その上、エバンスは怪訝そうに眉をひそめて付け加えた。
「報告では、まだ幼い黒髪の少女が、縛ってあるから捕まえに行けと言ったとなっていましたが・・・」
そう聞いて、シュムは絶句した。思い出すのは、ここに来る途中でやりあった山賊。カイをこちらに呼ぶきっかけとなった、あれだ。
「・・・あれ、だったってこと?」
「山賊と盗賊を兼業してたのか。まめな奴等だ」
そこで戻ってきたカイが、平然と言う。耳のいいカイには、全て聞こえていたのだろう。シュムも今更驚かないが、エバンスは顔をしかめていた。カイが人ではないと気付いており、その事自体への不快感もある上に、盗み聞きをされたようで、あまりいい気がしないのだろう。
「もっと、強いと思ってたのに。弱いから違うと思ってた。そっか、あれだったのか・・・」
嘆息ともため息ともつかないふうに息を吐く。エバンスは、呆れ顔でそれを見やった。
「あなたより強い人間というのを、探す方が大変だと思いますよ」
「そこまでうぬぼれるつもりはないよ。いや、それにしてもあれは弱すぎ・・・カイ呼ばなくてもなんとかなったかと思ったくらいなのに。あの人数であれはないよ。ああ、で、目は覚めた?」
「覚めたけど、お前に会いたくないと。とりあえず見張りにセレン置いてきた」
「うっわー、カイ最低」
「何がだよ!」
「セレンに何かあったらどうするの」
「それ、お前なあ、あいつの方が俺より強いって判ってて言ってるのか、おい!?」
ついでにいうならば、カイはアルと戦っても勝てるかどうか怪しいところだ。シュムもそのことは知っているはずだが、忘れているともわざととも考えられるから始末に負えない。
シュムは、そう言って怒るカイの脇を抜けて、セレンとアルのいる部屋へと向かった。ハーネット家の別荘はやたらに部屋数があるが、とりあえずドアの開いているあそこだろうと、見当をつけてのことだった。
後ろから、むっつりとした表情でカイとエバンスがついてくるが、一向に気にしていないようだった。
「あ、いた」
なんとも間の抜けた台詞だが、声を聞いた途端に、窓の外を見ていたアルが緊張するのが判った。しかしそれは、とりあえず措いておく。
扉のすぐ横に立っていたセレンは、驚いてシュムを振り返った。そこに笑顔を向ける。
「ありがとう、セレン。それにしてもひどいよねー、カイって。見張りに置いてきた、って。どうせなら自分が残ればいいのに」
「シュム、からかうのもほどほどにしてあげて。それより、動いて大丈夫なの?」
「うん。そりゃあもう、説教中はひたすら座って聞いてるしかないからね。たっぷり休ませてもらったよ。ねえ?」
後ろを振り返って、笑みを見せる。これは明かに、嫌味だ。
実のところ、どうにか平静を保って動けるくらいでしかないが、こうでもしないと、二人がかりあるいは三人がかりで、強制的に休まされるに違いない。
そしてエバンスの反論を待たずに、ついてきた二人とセレンに部屋を出て行ってくれるよう頼んだ。説得には少し時間がかかったが、結界を張るという強硬手段に出ずに済んだのは幸いだっただろう。
「ところで、もう聞いてるかもしれないけど、契約は無効だよ。契約者がいなくなっちゃったからね。これだけ色々あって、報酬をもらえないのは残念だけど」
まずそう言って、シュムは椅子を引っ張ってきて背もたれを前にして座った。足が今少し届かず、子供の体だなと、改めて実感させられる。
「アル、ありがとう」
驚いた顔が、信じられないと言うように、シュムを振り返る。やった、と言ってシュムは笑った。
「やっとこっち見た」
「何故・・・」
「何故って何が?」
「だって、僕は・・・君を、傷付けた。それなのに、何故・・・礼を言う?」
「あれは契約してたからでしょ。むしろ、契約のぎりぎりのところで助けてくれたと思うんだけど? 手加減してくれたから助かったんだし。助けてもらったのに自力で何とかしたなんて言うほど、恩知らずでも厚顔無恥でもないつもりだよ」
不思議な生き物を見るようなかおをするアルに、思わずシュムは苦笑した。
「やだなー、そんな珍生物でも見るみたいなカオして」
「・・・シュム。ありがとう・・・」
「お礼を言うのはこっちだってば。あ、それで一つ気になってるんだけどさ。どうしてそこまで色々してくれたの?」
今回、シュムに取り計らったせいで、アルの契約は潰れている。いくらかの前払いはもらっているとしても、ただ働きも同然だろう。それでなくても、契約を破ることに繋がる行為は、かなりの負荷が加わるはずだ。
はぐらかされるだろうか、と思いながら、シュムはアルを見た。
しかしアルには、そんなつもりはないようだった。懐かしむように、遠くを見る目でシュムを見る。
「・・・昔、妹がいてね。家族といっても、人のように一緒に暮らすということもないけれど、妹は、不思議と僕を慕っていた。保護者に僕を選んだ、というだけのことかもしれないけれどね。――妹を思い出すんだ。シュム、君を見ていると」
それで見かけなのか、と、シュムは胸の内だけで呟いた。そういえば、はじめて会ったときにも少し驚いたような反応をしていたなと、思い出す。
どうせカイもこれを聞いているのだろうから、少しは風当たりを和らげたくれるといいけど、と、密かに思った。
その後、宿に移ってから、カイとエバンスに半ば見張られつつ、エバンスの補助を受けて正式な魔方陣でセレンとアルを還して、宿を引き払った。
女主人に覗きの件を多少の嘘や誤魔化しを交えながら話している間に、エバンスが役人に連絡して、ハーネット家の遺体を知らせた。はぐれた魔獣の仕業とし、魔獣は始末したと伝えたようだった。
本来なら、そういった件は役所付きの魔導師が確認をするものだが、このときは、エバンスがその代わりとして手続きを行った。検証されると、魔方陣の多さに全てを話さざるを得なくなる。つまりは、面倒が増えるということだ。エバンスが宮廷魔導師だからこそ通用した無理だが、本人は終始、苦い顔をしていた。濫用も甚だしい。
そうして、シュムは渋々と、エバンスは当然のものとして王都へと向かった。国王直々の依頼のため、報告に向かわなければならないのだ。カイは、シュムに連れられてなんとなく同行している。すっと、エバンスに警戒されているのだけが難点だった。
二日ほどの距離だった。
「姉さん!」
王都に入って、そのまま城へと直行した三人を迎えたのは、ふわりとした柔らかな白のスカートを身にまとった、濃茶の髪にとび色の瞳の二十歳ほどの女性だった。セレンのような美人ではないのだが、柔らかな笑顔が、目を引くものがある。
姿形よりも血のにおいから察して、カイは納得した。これが、言っていた自慢の妹か。そうすれば、年齢は二十代後半ではなかっただろうか。若く見えるものだと、カイは感心した。これで子供が二人もいるというのだから、尚更だ。満面の、心からの笑みも、若く見える要因かも知れない。
「お帰りなさい、姉さん」
「王妃サマ。何度も申し上げているはずです、名前で呼んでくださいと。周りが驚きます。そもそも、こんなところまで出迎えるというのが非常識にすぎます」
太ってはいないがふくよかな体に抱きしめられかけながら、シュムは、よそよそしく固い口調で言った。すぐに、するりと抱擁をかわす。しかし、妹は笑顔を崩さなかった。
嬉しくてたまらないというのが、全くの部外者のカイにも見て取れた。
「王妃、そのくらいで。まずは陛下に報告を申し上げに行かなければなりませんので」
「まあ、エヴァまで。昔は姉君って呼んでくれたのに。姉さんも。私はどこに行っても私だって言ってくれたのは、姉さんのはずよ?」
「それとこれとは話が別です。行こう、エバンス、カイ」
「いや、その必要はない」
「あなた」
「・・・なんであんたまで・・・」
頭痛を覚えて額を押さえ、シュムはひっそりと呻いた。
ここはまだ、門をくぐっただけの前広場にすぎないというのに、こうも軽々しく王と王妃とが姿を見せていいものなのか。大体、こんな開けた場所では、いつどこから毒矢が飛んでくるとも限らないというのに。
シュムがじっとりと睨みつけるが、まだ若い、赤い髪をした国王は、無言の非難などどこ吹く風だ。
「何だ、その顔は。案ずるな、幸いにもこの国は平和だ」
「威厳というものをどこに置き忘れてきたんですか」
「それなら、心配することはない。威張りたてずとも、私のことは皆がよく知っている。それに私は今、ここにはいないことになっているからな。ここで見たものはすべて、気のせいか幻だ」
「ですって、姉さん」
いよいよ頭が痛い。
シュムと、王弟であるエバンスは、そろって溜息をつくのだった。この夫婦は、揃って人がいいのか悪いのか。
「しかし、一応、けじめはつけねばならんな。報告は執務室で聞こう。アン、少し姉君をお借りするよ」
「少しだけよ。姉さん、お茶とお菓子を用意して待っているわ。早く来てね」
笑顔を残して、少女のような女性は軽やかに去って行った。一人去っただけで、急激に空気が変わった。それを察してか、エバンスは旅装を改めると言って去り、残されたシュムは、冷ややかに国王を見やった。
「相変わらず仲がいいようで、そこだけは安心したよ。アズを泣かせたら赦さないっていうのは、死ぬまで有効だからな」
「心得ているさ。アンジーは、最愛の妻だ。何故泣かせるようなことがある。それよりも、そこの青年は?」
「ああ・・・友人だ。今回の件に協力してもらって、まだ礼もしてないから一緒に来てもらった。悪いけど、少しこれと話があるんだ。先にアズのところに行っておいて。これを見せれば、誰か案内してくれる」
幾分素っ気無く、カイに王家の紋章の刻み込まれたメダルを投げ渡す。王族しか持つことのないメダルのぞんざいな扱いに、国王は、わざと苦い顔をして見せた。
「おやおや。仮にも、国家のものだぞ。もっと丁寧に扱ってくれてもいいだろう」
「うるさいな。いいんだよ、紋章なんて。見て判ればいいんだから。じゃあ、後で」
最後はカイに向けて言い置いて、自分よりも頭二つか三つ分は高いだろう国王の服の裾を掴むと、問答無用で引っ張って行く。
「おい。さっき、威厳がどうこう言っていなかったか? 子供に引っ張られる方が、威厳がないと思うぞ」
「・・・やっぱあんた、嫌いだ」
睨みつけながらも、シュムは手を放した。しかし足は止めず、先に立って歩いている。周囲の者も、すぐ後ろを国王が笑顔で歩いていることもあって、咎めることもしないようだった。普通だったら不敬罪じゃないのかと、シュムは半ば呆れていた。
執務室は、城の中心部にあった。華美を好まない国王夫妻の傾向か、国王の執務室にも関わらず、警備長などのものと大差ない。あるとすれば、一応は肖像画がかけられており、隣には護衛の者が控えているくらいだろうか。
「それで、今回は何をやったんだ?」
「人聞きの悪い。こっちは王サマと違って、厄介事を引き起こしたことはない。巻き込まれてるんだ」
椅子に座った国王を睨みつけて、シュムはわざとらしく溜息をついた。
「まあとりあえず、人間と向こうの奴とに喰われそうになったよ。詳しいことは、エヴァに話したからそっちから訊いて。ああ、お金返しとく」
背負っていたリュックを、執務机の上に置く。全て、国庫からの借り物だ。国王は、紙幣の詰まった袋を、つまらなさそうに見た。
「今回の給料として、あげようか?」
「給料分はきっちりもらってる。そんなことをするから、家臣が泣くんだろう。しっかりしてろ、王サマ。そろそろ、アズのところに行くか?」
「ああ――そうだな。・・・シュム、辛くはないか?」
「あんたを思いっきり殴れば、少しはすっきりするかもね」
さらりと流すと、やはりシュムが先に立って、二人は執務室を後にした。
散々国王夫妻につき合わされ、城に泊まれというのを固辞して、シュムとカイは町へ出た。安い宿屋権居酒屋に、宿をとって食事をとる。
「つき合わせて悪かったね。何日も」
「面白かったからいい。それよりも・・・」
付き合ってほしいと言ったのは、エバンスの説教ではなく、妹に会うことのほうだったのか。訊きかけて、カイは口をつぐんだ。多分、当たっている気がしたのだ。
シュムの体は、何年も前に成長を止めてしまった。稀にあることらしいが、だからどうというものでもない。
カイが初めてシュムに出会ったとき、妹に年齢を抜かれたのだと、無表情に語った。それから年月は流れ、妹は、見掛けはシュムの母といっても通用するかもしれない年齢になり、子供もいる。それが、シュムには辛いのではないかと思えた。妹を大切に思っているだけ、余計に。
「それよりも?」
カイがそう考えていることを知っているかのような不思議な瞳で、シュムはカイを覗き込んだ。
何とはなしに、肩をすくめる。おそらくシュムは、同情は、望んでいない。それに、そういったことを考えると、交わした約束のことを思い出してしまう。守るつもりなど、はじめからなかった約束だ。しかし今となっては、本当に守らないのか、自分でも判らなかった。絶望と死では、果たしてどちらが楽か。
馬鹿な事を考えていると、カイは苦笑した。それらを振り払って、シュムを見る。
「もうしばらくこっちにいることにする。その分の路銀、頼むな」
「いいよ。どこか見物する? 今なら、まだ次の仕事引き受けてないから、好きなところに案内するけど」
シュムの仕事は、言ってみれば何でも屋だ。十年程前までは、町のギルドに属していてそこから仕事を受けていたが、今では、王家の――正確には、国王の直属となっている。エヴァンスも似たようなものだが、あちらは一応、宮廷魔導師だ。シュムがある程度一般的に知られているのは、どうやら妃の身内らしい、ということくらいでしかなかった。
「好きなところって言ってもなあ。師範の墓参りでも行くか?」
「あー。そっか、カイは行ったことなかったんだっけ?」
「ああ。・・・死んだってのも、お前に聞いただけだしな」
「行けば多分、ラティス師匠にも会えるよ」
「あいつも死んだのか?!」
あまりに意外そうな反応に、シュムは、危うく飲んでいた酒を吹き出すところだった。
師範というのは、ファウス・グラント。師匠というのは、ラティス・グラント。ファウスは剣術を、ラティスは魔術を飯の種としていた。シュムはこの二人の兄弟を師としたが、カイが師事したのはファウスの方だけだった。ラティスの方はむしろ、嫌っている気配がある。
酒をどうにか飲み込んで、俯いて笑う。
「そりゃあ、いつかはそうなるだろうけど、勝手に殺したら怒るって。墓の近くに住んでるんだよ」
「お前が紛らわしい言い方するから」
「別に紛らわしくはないと思うけどな。でもさ、カイ。何だって、師範は敬うのに、ディーにはつんけんしてるの?」
「なんだよ」
「ディーだって、師匠みたいなものなんでしょ? それなのに」
いつも、この話題になるとカイは口を閉ざす。このときも黙り込んでしまい、シュムは、込み合う店内で人を捜した。色々な人であふれ返った、年季の入った店内を見回す。
「おーい、ニナ!」
見知った店員に、手を振る。向こうも、気付いて客の間を縫って近づいてきた。
「来てたの、シュム!」
「親父さんには、挨拶したんだけどね」
「駄目よ、一番に私に教えてくれないと。父さんなんて、何も言ってくれないんだから。訊かれなきゃ言わなくていいと思ってるのよ」
まだ二十歳手前といったところの飲み屋兼宿屋の三女は、そばかすの浮いた顔に笑みを浮かべた。長い赤毛を高い位置で束ねて、それを揺らしながら首を傾げて、カイを覗き込んだ。
相変わらず掛けている黒眼鏡越しにではあるが、しげしげと見られて、カイは思わず身を引いた。
ニナという少女は、じっくりと見てから、再びシュムを見た。
「友達?」
「うん。カイっていって、割と長い付き合いになるかな。カイ、この子はニナ。ここの親父さんの娘」
「そして、シュムの友達。正確には、シュムが恩人なんだけど。借金で、厭な奴と結婚しなくちゃならなくなったときに助けてくれたの」
「ちょっと口を出しただけじゃないか」
シュムはいささかぶっきらぼうに言ったが、ニナは、意に介さずに事の顛末を語りだした。シュムは、それを遮ってにっこりと微笑んだ。
「宿を取ったんだけど、もう一部屋頼める? 無理なら相部屋でいいけど」
「大丈夫だと思うけど・・・待ってて、確認してくる」
「よろしく」
器用に人の間を小走りに駆け抜けていくニナの後ろ姿を見送って、シュムはミートパイに手を伸ばした。ふと気付くと、カイが半眼で睨み付けていた。
「・・・何?」
「お前、自分の分しか部屋取ってなかったのか?」
「だって、帰るって言うと思って・・・」
「二日間歩いて、その前に散々魔法使って。そんな状態で、また扉を開くつもりだったのか?」
「あ」
「『あ』って何だ、『あ』って」
「いや、それは、ほら。ね?」
「・・・笑って誤魔化すな」
冷や汗をかきながら笑うシュム。カイは、それをじっとりと睨み付けていた。
そうして、夜は更けて行く。
「きゃーっ!」
女の悲鳴に、シュムは剣を取って立ち上がった。即座にズボンをはいてシャツをとると、部屋を出る。
その間に、ほぼ反射だった行動に次いで、眠っていた頭が動き出す。二階の手すりから一階を見下ろしたときには、さっきの悲鳴がニナのものだったことに気付いていた。
ついでに、数日前の一件に伴う既視感も憶えたが、そのことにはほとんど注意を払わない。あのときは、色々と判断を誤った。飲み過ぎていたのだ。
「離れて!」
入り口を囲むように立つ四、五人に鋭く言って、自分は、シャツを被って飛び降りる。着地と同時に駆けて、すぐに、腰を抜かしてへたり込むニナの横に立った。その目線の先には、腐りかけの死体のような、奇妙な物体が立っていた。
それを距離を置いて取り囲むのは、どれも旅装の武器を手にした者たちだった。出立するところだったのだろう。腕に自信のない者は、遠巻きに見るか、テーブルについたまま、固まったようになっていた。
ニナが取り囲む中にいるのは、目の前のものが入ってきたときに近くにいて、そのまま動けなくなってしまったのだろう。
「いたのか、台風シュム」
「久々だな、その二つ名。だけど再会を喜ぶのは後にしよう、キドニー。何が起きた?」
「人が一人、あれに取り込まれた。一瞬でだ。店を出ようとして、軽く接触しただけで、大きな体があれに埋まってた。心当たりは?」
「ある。厭だけどね。こいつはあたしの領分だ。下がっててくれないか」
「そうはいくか!」
誰もが、咀嚼するように体を蠢かせる、辛うじて人の形を保ったそれから目を離さずにいた。迂闊に手を出せないと、判りきっていた。人型のそれの立つ床は、足の形にそこだけ、どろりと腐り爛れていた。
声を上げたのは、まだ若い男だった。
「こいつは、マーシュを・・・殺しやがった! 大人しく引き下がれるか!」
「下がってろ。これは、人も喰う質の悪い同族喰らいだ。しかも、知力はほとんど残っていない。そんなものに立ち向かって、無駄に命を落としたいか!?」
やはり目は逸らさずに、シュムは短く怒鳴った。ほとんどの者が息を呑んで、見掛けだけは幼い少女に圧倒された。それには、「人も喰う」という言葉も一役買っていただろう。
「キドニー、連れを起こしてきてくれないか。寝起きが悪いから、剣を忘れないで。ニナ、案内を」
返事はなかったが、まずキドニーが、そしてそれに促されてニナが、行動を起こした。友好的な昔馴染みがいて良かったと、ちらりと思う。
シュムは、体の蠢きが徐々に治まっていく物体から、一歩引いた。
「誰か、結界の張れる人は? 視界遮断、それか幻術でもいい」
シュムにもやれないことはないが、得意ではない。人型を威嚇しながらやってのける自信は、正直なところ全くない。
「・・・幻術なら、少し・・・」
おぼつかなげに、一人が手を挙げる。シュムはそちらは見ずに、もう一歩引いた。人型の物体が、ゆっくりと、シュムに近付いた。
「じゃあ、外に出て目眩ましを。これが出ても、騒ぎにならないように。人を散らして。火を使うから、できるなら水以外の属性で」
「それなら、眠り術でも・・・」
「やり合う間に人が取り込まれる」
口を挟んだ一人に冷静に言って、シュムはもう少し下がった。人型の前進に伴って、取り囲んだ輪は崩れていた。
「早く。これは、あたしに惹きつけられてる。外に出すから、術を」
「でもどこから?!」
半ばパニックに陥ったらしい男は、入り口と人型との距離を測るように見ていた。この距離では、飛びかかってこられかねない。そう判じたのだろう。瞬く間もなく捕らえられた獲物の、必死なのに澱んだ瞳は、悪夢を見せるには十分だった。
「窓がある」
「触れれば喰われるのに!?」
「距離はあるだろう!」
苛立って、とうとうシュムは声を荒らげた。そこに二階から剣戟の音が聞こえ、男たちはますます身をすくめる。
シュムは舌打ちして、もうこのまま外に出すかと、そう決めかけていた。しかしそこで、古い記憶を呼び起こす。
「ミーシャ! いないか、ミーシャ! 金は払う、外の人を追い払てくれ!」
「仕事?! いいわよ、いくらで・・・あれえ、シュム?」
場違いに華やかな女性は、流行の格好をして、しかし、術師に共通の野暮ったいローブを乱雑に羽織っていた。寝起きらしく、縮れた肩までの髪が、好き放題にはねていた。
記憶通りに、剣士のキドニーと術師のミーシャが組んでいたことに感謝して、シュムは振り返らずに同じ言葉を繰り返した。
「高いわよ!」
「相場通りでね!」
「待ってて、すぐ済ませる」
短い言葉の応酬は、どちらも笑うかのようだった。久々の再開だ。
ミーシャは、踊るように階段を駆け下りて、目を見張る男たちの横をすり抜けて窓から外に出た。
「シュム!」
「おはよう、外に出たら炎を貸してね」
待っていた二階からの声に、笑みを含んで返す。それだけの余裕が生まれていた。
今では、人型は入口から大分離れ、シュムは壁際に追いつめられそうになっていた。一度に飛びかからず、ゆらゆらと揺れるようにして距離を縮める。もしくは、俊敏には動けないのか。
上階からは、反射的な了解の声と、それに続く呻き声とが聞こえた。
「なんだってそいつが・・・」
「手だよ。きっとね。処分し忘れてた」
「いいわよ!」
ミーシャの呼び声に、シュムは、身を沈めて人型の横をすり抜けた。人型は、ねっとりとした手を伸ばしたが、シュムの動きには追いつかなかった。そうして、誘導されて再び入り口に向かう。足の形に腐る石畳が残った。
これはあの男の手だと、シュムは確信していた。手かどうかはともかく、あの男だということはカイも同じ意見だろう。気配が同じだ。あの男が残したものといえば、おそらくは、あのとき手枷に残した両手だけだ。屋敷を焼き払わずにいたことに、シュムは今更ながら気付いたのだった。
同族喰らいには、どんな油断も命取りとなるというのに。
おそらくは、シュムたちがこちらに戻ったときについてきたのだろう。そうして、人を取り込んで、シュムの――「ごちそう」の匂いを追ってここまできた。手だけのそれに、残っているのは少しでも生き長らえるという本能だけだろう。それには、まずは動ける体と、それに伴って能力を取り込み、強くなる必要があった。
ここに来るまでに喰われただろう人々を思うと、気が重かった。
「これでいいんでしょ?」
戸口に立ったミーシャが、気軽に声をかける。
通りには、誰もいない。窓から覗く顔もない。強い術の気配に、それが何かは見定められないが、報酬の多さを思って、シュムは軽く溜息をついた。
「何よ、不満?」
「いいや、ありがとう」
頬を膨らませるミーシャに軽く肩をすくめて言うと、にこりと笑う。途端に返ってきた報酬を期待する笑顔に、変わりないなと、妙におかしくなった。
完全に宿を出た人型に向かい合って、剣を構える。
「カイ!」
「わかってるよ。どっちに?」
「両方」
戸口に姿を見せたカイは、火球を二つ作り慎重に、人型と、シュムの持つ剣とに投げつけた。
火のついた人型は暴れ狂い、消そうと必死になった。そもそも生物の体は燃えにくいのだが、カイの放った火は高温なので、じりじりとだが確実に焼いていく。逃げようにも、他にも炎を出して牽制するカイと、剣に炎を纏ったシュムに妨害される。
通常の剣であれば、とっくに高温の火に耐えきれず、墨と化していただろう。シュムは、毎度のことながら、この剣を与えてくれた師に感謝した。
そうして、あるいは最後に取り込もうとしたのか、すがるように伸ばされた手を、炎を纏わせた剣で払いのけた。切り捨てて妙なところにいかれても困るので、剣は、盾のように、近付けないために使われた。
全てが灰になるまでに、それでもしばらくかかった。
出立を延ばしたキドニーとミーシャと一緒に、シュムとカイは昼食を摂っていた。店の腐った石畳は応急処置が施され、何も知らない客が訝しげに首を傾げていた。
「今度は何に手を出したんだ? 同族喰らいに目を付けられるなんて」
含むような口調で言われて、シュムは、雉のパイをつつきながら手を振った。
「違う、あれで終わり」
「本当か? お前は、妙なところで気を遣うからな」
「本当だって。始末し損なった両手が残っててさ」
見ようによっては、この四人組は、カイを除けば家族に見えないこともない。キドニーはもう三十を過ぎており、ミーシャも、それよりはいくらか若い程度。シュムが十を越えたくらいの外見だから、無理な話でもないのだ。
昔馴染みとシュムの会話は弾んでいるが、カイは一人、紹介されてから黙々と食事をしている。ミーシャの流し目も、あっさりと黙殺してしまっていた。
「二人は? そろそろ引退考えないの?」
「あぁら、シュム。死にたいって言うなら、今すぐ願いを叶えてあげるわよ?」
「そ、そんなつもりはっ」
顔を引きつらせて、わたわたと手を振る。
ただ、こういった職業は体力が資本のところがあり、早々に見限って引退する者も多い。宿屋や剣を教えたりといった、この世界に関わる者と、隠居のようにほとんどつながりを切ってしまう者とは、半々くらいのようだ。
だから、何気なく訊いただけのことなのだが、青筋を立てて笑うミーシャに、シュムは本気で逃げ腰になった。
「ばか。こいつ脅しても仕方ないだろ」
苦笑して、キドニーが仲介にはいる。気のせいか、その表情が淋しそうに見えて、この話題はまずかったのかと、身を縮める。
自分の寿命がいつ尽きるのか推測もできず、体力や意識はそのままで、突然に事切れる体質を持ったシュムにとって、引退は一種の憧れがある。しかし同時に、自分の体質が武芸者の望みであるとも知っているので、それを口にすることもなかった。
「南の、ウルニーの向こうに、新しい開拓地ができたんだ。そこの居住権の代わりに、専任を引き受けた」
「開拓始めたときには、誰も就かなかったの?」
「就いてたわよ」
新しい土地を切り開くのは、大体が国か大金持ち、それか身分の低い者が集団でということになる。そして、それまで人の踏み入らなかった土地には、大体において手強い獣や怪物が住み着いている。それらの対処を引き受けて、土地が落ち着くまで、もしかすると死ぬまで、そこで開拓者と生活を共にする者を専任と呼ぶ。
国なら手持ちの術師を派遣し、大金持ちなら金品も保証することが多い。居住権が引き換えなら三つ目かなと、殊更に考えるまでもなく推測する。住むことを決めたのなら、ほとんど引退と同意義と、これも考えるまでもなく導き出す。
始めに専任がいて、今はいないというのなら、逃げたのか死んだのか。どちらにしても、手強い相手が入るのだろうと推察できた。あるいは、生活が劣悪か。そもそも、開拓地の生活が快適ということはあまりないのだが。
「そのうち、遊びに行くかも。そのときはよろしく」
「お土産なかったら、入れないわよ」
「うわ、それはひどいなー。わかったよ、肝に銘じとく」
それから適当に雑談をして、食事を終えるとすぐに、二人は店を出た。店の外まで見送りについて出たシュムは、先程のミーシャの術の代価を手渡した。少し多いのは、餞別のつもりだった。
「じゃあな」
「じゃあね」
「またね」
姿が通りを行き交う人に紛れ、完全に見えなくなるまで、シュムはぼうっと背中を見送っていた。
そうして、見えなくなるとくるりと体を半転させて、店内に残っていたカイのところに戻る。こちらも旅支度で、傍らにはシュムの分の荷物もまとめてあった。
「行くか?」
「うん」
そうして、何事もなかったかのように、二人は旅立って行った。
ちなみに、城の伝令がシュムを探して宿を訪れたのは、それから四時間ほど後のこと。普通、国に属する者は、国内であっても無断で遠方へ行くことはできない。しかしシュムにはそんな常識は通用せず、使者は、伝言とばかりに託された報告書を抱え、困惑して城へと駆け戻るのだった。