道草 / 新年1  新年2 / 新年3



道草

 ひらりと、白い雪片が舞い降りる。
 風に容易く揺れるそれらは、しずかで儚げで、もろい。滅多に雪の積もることのない、この地方では尚更だ。地に降り立った瞬間には、地熱で溶ける。
「わー、降って来たー」
 空を見上げて、シュムはぽつりと呟いた。足下には、目立たない色合いの服を着た、三十前後ほどの男が倒れ伏している。今し方、シュムに襲いかかり、返り討ちにあったばかりだ。
 実のところ、そういったことは珍しくもない。王家の犬と罵られ、王の懐刀と狙われる。
 どちらも、シュムにとっては言い掛かりか勘違いでしかないが、言って聞く相手はまずない。それなら、こうやって、丁重に諦めてもらうのが早い。
「あーあー。久しぶりに師匠たちに会おうと思ってたのに。新年の祝賀パーティーに紛れ込むのが手っ取り早いのに。妙なとこで道草喰うなあ。ねえ?」
 くるりと、後ろを振り仰ぐ。そこには、短剣を持った、外見としてはシュムと同じくらいの、まだ幼い少女が立っていた。
 シュムに見つめられて、少女は、振りかぶっていた手を下ろした。青ざめた顔に、焦りはない。
「・・・気付いてたの」
「特に隠すつもりもなかったんでしょ? あ、違うか。気配の隠し方も知らないんだね。違った?」
「全部お見通しなのね」
 まさか。
 心の中で呟いて、外面としてはにこりと微笑む。気配だけは気付いていたが、正体のはっきりしないそれにが、何者なのかはさっぱりわかっていなかった。
 そうでなければ、この寒空の中、城下町に入る門を見下ろすこの場所で、ぼんやりと空を見上げていたはずもない。王城には、会いたくない人も山ほどいるが、会いたい人たちがいるのだから。
 妹と甥や姪、義理の弟――たち、それと、今では甥に教えている魔術の師。
「ナイフ、危ないよ」
 そう言ったときには既に、少女の手からナイフを奪い去っていた。
 実のところシュムは、魔術は自己防衛に幾つか覚えた程度で、剣技や体術の方が、よほど得意だった。
 少女は、驚くでもなく、ただ黙然と、シュムを見つめる。
 幼さは残るものの、綺麗な少女だ。赤毛の髪は三つ編みにして垂らされているが、柔らかで手触りも良さそうだ。目元がくっきりとしていて、まつげも長い。きつい感じがするが、笑えば、そんなものは吹き飛ぶだろう。
 何も言ってくれないので、仕方ない、無知をさらすかと、口を開く。
「この人の連れ?」
「ええ」
 半ば以上当てずっぽうの言葉を肯定されて、驚きの声を上げかけた。どうにかそれは呑み込んだが、驚き自体は伝わったらしく、少女は、訝しげに目線を強めた。
「知ってて言ったんじゃないの?」
「いや、ほとんど勘。親子?」
「そうね。これから娼館に娘を売りに行こうって人も、親には違いないわね」
「それはまあ・・・」
 完全に意識を失っている、どこにでもいそうな男を見遣りながら、シュムは言葉を探しあぐねていた。
 男は、本当にどこにでもいそうな、見掛けだけは農民のようだった。しかし、よく見れば、そうではないと判る。おそらくは、暗殺業か密偵業といったところだろう。
 だが、飛び道具の短刀は、ありふれた安物。腕も、さほどではない。あまりにも手応えのない相手だ、と思った。その程度で、シュムに刃向かうなど無謀だ。
「ん?」
 あまりに当然なことに思い至って、首を傾げる。
「今から、売られるところだった?」
「そうよ」
「その途中に、人を襲うの? しかもその後を、娘に任せて?」
 馬鹿げた話だ。それに、本人を前にしては言いたくないが、売り物ならば、傷が付くことを避けるはずだ。
 しかし少女は、相変わらず感情を移さない瞳にシュムを映した。
「任されたわけじゃないわ。隠れてろって言われたもの」
「それじゃあどうして」
「――知らない」
「ああ。殺すと思った? お父さん」
 どうやら当たったらしい。わずかな目線の揺らぎにそれを読み取って、シュムは、密かに溜息をついた。
 推測するに、少女の父は、一流とは言い難い暗殺者か何かだったのだろう。そのまま落ちぶれたか、家族をもって廃業したか。しかしそれでは暮らしがもたず、娘を売る羽目になった。
 シュムは、この頃では高くはないものの、裏ルートで賞金首になっているらしい。
 昔のつてか何かでそれを知っていた男は、たまたまシュムを見掛けて、欲でも出したのだろう。それで、娘を売るのを止められると思ったのかも知れない。
 しかし、向かう相手の力量を見定められない時点で、三流以下だ。 
「お父さん想いだねえ」
「・・・こんな男。殺せるものなら、殺してやりたいわよ」
「じゃあ、殺せば? 今なら抵抗はないよ」
 そう言って、取り上げたナイフを差し出すが、受け取ろうとはしない。倒れている男を見る少女の目を、涙が伝っていた。
「殺せるなら――殺してやりたい」
 繰り返される言葉は、逆に、殺せないと語っている。その後ろにあるものをシュムは知らないが、それだけに強い絶望を、感じ取っていた。
「借金? 普通に働くのじゃ駄目なんだ?」
「額より、期限の問題よ」
「それなら解決可能だ。紹介状を書くから、少し待って」 
 凝然と、少女が目を見張る。シュムはそれに構わず、荷物の中から羊皮紙と筆記具一式を出して、少女の目の前で文を書く。途中、名前を訊くのに一度だけ顔を上げた。
 ちなみに、羊皮紙も筆記具も王宮から支給されたもので、さりげなく王室の印が入っている。
 書き上げたそれをひらひらと振って気休め程度に乾かして、少女に手渡す。
「それ持って、剣士のギルドを訪ねるといい。向こうで取り計らってくれるはずだよ」
「どうして――」
「気まぐれ。信用できなければ、捨てていいよ。言ってしまえば、ただの手紙だ。それに、いいことばかりじゃなくてね。あたしの知り合いと知られて、厄介事に巻き込まれる可能性もある。判断は任せるよ」
 言い置いて、シュムは、身軽に立ち上がった。少女は、膝をついて、静かに泣いているようだった。

 黙々と、王城を目指す。
 町は、新年という口実を受けて、いつもよりもにぎわっていた。まるで、悩みなどどこにもないかのように。しかし、それは飽くまで表層でしかないと、誰もが知っている。
 シュムは一人で歩きながら、父親を殺すこともできず、涙を流す少女を思った。
 それが、親だから、家族だからだということが、幻想だと、シュムは知っている。血縁者といえども、根本は他人と変わることがなく、それだけで大切な人とは成り得ないことを、外見よりは長く生き、各地を渡り歩くシュムは知っている。
 そもそも、自分の肉親も、家族という想いは薄かった。
 しかしそれは、憎むといったこととは別で、むしろ、感謝している。体質とはいえ、一生成長を止めてしまった娘を、恐る恐るとではあるが、育ててくれた。それが、並外れた義務感からであったと知ってはいるが、そのことで恨むつもりは、全くもってない。
 欠けた愛情は、妹が注いでくれた。なついて、好いてくれた。それは、今でも変わらない。
 そのことが、嬉しく、また、妬ましくもあった。健やかに成長し、幸せを手に入れた、自慢の妹。大切な、ほぼ唯一と思える家族。近くにいれば、傷付けるだろうことは目に見えていた。だからこそ、離れて、たまに会いに行くくらいが丁度いい。
「・・・元気かな」
 呟いて、シュムは、王城を目指す。新年祝賀の夜会は、まだ、続いているだろう。
 雪は、いつの間にか止んでいた。ただ、冷たい風だけが吹く。

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新年1

「お師さま。こんなところにいらっしゃったんですか」
「うん? 風に当たりたくてな。久々に人の多いところに出て、少し疲れた」
 さらりと言う師の隣に、ミハイルはちょこんと腰を下ろした。窓から顔を出すようにして寄りかかる師とは逆に、壁に背を預ける。控え室の一つの、個室だ。
 青年にも壮年にも、場合によっては老人にも見えるミハイルの魔術の師は、おやと、少し首を傾げたようだった。長い銀髪が、それに応じてかすかな音を立てる。
「パーティーは楽しまないのか? 年に一度の、新年の賀だろう」
「僕も人当たりです」
「そうか」
 てっきり、あと少しで城を出るのだから名残を惜しめとでも言われるかと思っていた。師が城に来て、しばらくは城内で教えてもらっていたが、それも、昨年限りのことだ。明々後日には城を出る。
 予想外の反応に、ささくれ立っていた気持ちが、いくらか収まった。師の言葉はいつもそうで、何気なくミハイルの気持ちを支えてくれる。
 王位を捨てて魔導士に弟子入りしたミハイルを、それまで友人と思っていた貴族の子弟たちは軽蔑したように笑いからかい、大人たちでさえ、微笑の向こうにさげすみが感じられる。
 馬鹿な奴だ。これまで取り入って、無駄なことをした。
 そんな声が聞こえてきそうで、ミハイルは、広間を逃げてきたのだ。そんな感情を向けてこない、叔父か師を探して、城内を彷徨っていたのだ。家族でもよかったのだが、国王一家は、お飾りとは言え主賓で、ほぼ広間に留まっている。
「お師さま」
「ん?」
「僕は、魔導士になれますか?」
「なるために弟子入りしたんじゃないのか? 何度も何度も、しつこいくらい使者を寄越して」
「あ、その話、聞きました。居留守を使ってやり過ごしてたのに、熱心な使者が入り口の前で眠り込んで、朝に届けられるミルクを受け取ろうとして、ドアを開けたら思い切り打ち付けちゃったんですよね。その義理で、城まで来てくれたんで・・・」
 笑い話として聞いたそれは、師が、渋々とやってきたことも示している。今更ながらそれに気付いて、ミハイルは言葉を失った。
 師は、叔父が手配してくれた魔導士だ。腕は確かにも関わらず、たった一人弟子をとったきり、もう何年も隠遁生活を送っていた。それが、応じてくれたのは王家の権威があっての出来事。ミハイルの功績ではない。
 ミハイルは、泣きそうになって俯いた。
 生まれてからこれまで、当たり前のようにして、父の、王家の威光を後ろに置いてきた。自分の手で掴み取ったものは、ないとも言えるかも知れない。そこから出て、これからをやっていくつもりでいる。しかし、それは可能だろうか。出始めから、それらにすがっているというのに。
 ぽんと、頭に手が置かれた。
「素質はある。あとは、やる気と根気だ。魔導士は才能が全てだ、なんて馬鹿なことを言う奴もいるが、あれは、ある程度の素地さえあれば、向き不向きはあるが、後は技術と知識の問題だ。――あの馬鹿は、そこをさぼったどうしようもない奴だが」
 思わず顔を上げて、師の白い顔を見つめていた。目線は窓の外にあり、照れているのかどうかさえつかめない。
 訊きたいことは沢山あるはずなのに、言葉が見つからない。
「――新年早々に」
「え?」
 呟かれた言葉の意味を取り損ね、ただただ横顔を見つめていると、師は、身を翻して扉に向かった。扉を開けたところで、ミハイルを振り返る。
「ここに――いや、来い。実地に丁度いい」
「え。あ――はい!」
 そう言った師のかおは、やけに活き活きとしていた。そして、本人は既に走り去ってしまっている。
 ミハイルは、慌てて後を追った。礼装の白い上着が、ばたばたと音を立てた。

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新年2

 新年祝賀の夜会は、無事に進行していた。終わる頃に酔っ払いが騒動を起こす可能性はあるが、さして問題ではない。ところが、宴もたけなわの頃になって、エバンスは、頭を抱えたいような事態に直面していた。
「おいエヴァ、あれは余興か?」
「馬鹿なことを――エドモンド師、国王一家を頼みます」
 兄の言葉に反射的に答えを返し、師匠の宮廷魔導士・次長に声をかけて、自身は広間の中央に向かって歩み出る。深呼吸をして、呪文をつむぐ。
 そこには、山狼に似た大きな闇色の獣の姿があった。
 当然のように上がっている、パーティー参加者たちの悲鳴に眉をひそめつつ、エドモンドが国王一家――エバンスにとっては兄一家に当たる人々を術で囲って守り、警護隊長が客に避難指示を出し、兵を獣に対する全面に出そうとしているのを目の端に映す。
 宮廷魔導士の総長が、面倒がって出席を拒まずここにいれば、と、思わないでもないが、考えても仕方のないことだ。しかし、せめてもう一人いれば心強いのだが。
 突如出現した獣が、尋常のものでないことは、誰の目にも明らかだ。しかもそれは、魔法陣の中から現われたのだ。魔獣が召喚されたと、誰もが思う。しかし、使われた魔法陣は異界からの召喚のためのものではないと、エバンスには判った。
 最後まで呪文を唱え終えると、獣を囲んで、丸い檻が形作られた。普通、こういった結界は目に見えないものだが、人が多いこともあって、視覚的な効果を狙った。読み通りに、人々の、いくらか安堵した息が聞こえる。
 しかし、これで終わりではない。
「エドモンド師――?!」
「やあ、立派立派。見事な技だ」
 師を振り仰いだはずが、先に、呑気に笑うラティスが目に入った。その後ろには、純白の礼装に身を包んだミハイルの姿まである。
「・・・見ておられたなら、手をかしてくだされば良かったものを」
「その必要もないと思ったが。なあ、ジル?」
「ああ」
「そ――総長!」
 客人のラティス以上に、居るのならば力を貸して欲しかった老人が立っている。黒い地味なローブは、自室で休んでいたためだろう。 
 総長のジルとラティスの親しいやり取りを聞いて、そう言えば、この二人は一月違いの兄弟弟子だと聞いたことがあったのを思い出した。そこで、はっと我に返る。それどころではない。
「お二方――」
「あれは、外から送り込まれたようだな。手引きをした者がいるはずだが。探索は、お前の方が得意だろう」
「まったく、老人をこき使いおる。エバンス、結界は頼んだぞ」
「はい」
 言うまでもなく、二人とエドモンドは、それぞれの分担をわきまえている。頼れる人がいることが、心底、心強かった。
「ミハイル、私の後ろから出るなよ。エドモンド・ブラウ、助力は要らんな?」
「はい」
 そんなやりとりに気を取られている間に、檻の中で、獣が咆吼を上げた。それに伴って炎が吹き出し、結界の檻に連動しているエバンスは、脂汗を浮かべた。
 一瞬、心配そうな兄のかおが見えた。
 国王一家が広間に残っているのは、責務と言うよりも成り行きと状況判断による。このまま他に移動しても、移動した先に魔獣を移転されると危ない。エドモンドがついていけばそれからは守られるが、人間が襲いかかった場合は厄介だ。
「ラティス殿」
「ん?」
「手伝っては、いただけませんか。私一人では、いささか、荷が、重いのですが」
「そうは言ってもなあ。結界は、お前さん一人で安定している。下手に手を出せば、崩壊するだけで・・・うん、まあ、いいだろう。少ししめっぽいが、気にするな」
 そうして、煩雑な印を結び、言葉をつむぐ。
 見たことのない印に、興味を込めた視線を送りながら、エバンスは、異変に気付いた。徐々に、部屋の湿度が増している。ラティスの言葉は、例えではなくそのものだったのだ。
「まあこれで、火は出しにくいだろう」
「ありがとうございます」
 何ということなしにこなすそれが凄いことだと、エバンスには判る。湿度を上げるよりもよほど、雨や水を振らせた方が簡単なのだ。そうしなかったのは、空気や状態は共有されるが、物質や現象は遮るという、エバンスの結界の性質を見抜いてのことだった。
 改めて、凄い人だ。

    
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新年3

「お久しぶりです、師匠」
「よう、馬鹿弟子」
「懐かしの再会にそれはないでしょう」
 そもそも、こんな状況にそれはないだろう、と周囲の何人かは思ったに違いないが、当の二人、シュムとラティスは、にこにこと嘘臭い笑みを交わしている。
 師弟の再会は、ジルが術者を見事に捉えたものの、獣は依然として広間中央にいる、という状況で行なわれたのだった。
 ひょっこりと姿を現わしたシュムは、広間をぐるりと見回して、ラティスに向かって言った。その場に居合わせた半数以上が、唖然とした。
 そんな周囲の状況は無視して、ラティスは、苦笑気味に、声量を落とした。歩み寄ってきたシュムも、小声で返す。
「どうした、シュム。こんなに大勢の前で宣言したりして」
「師父は、魔導士として招かれたんでしょう?」
「魔導士の肩書きが要るのか?」
「無駄な制止が入らなくていいかな、と思いまして。ちょっと、話してきます」
 そう告げて、無造作に結界の檻に近付く。
 遠巻きに囲っていた兵士が硬直し、制止に駆け出しそうになった妻を、国王が抱き留める。三人の宮廷魔導士も動きかけたが、ラティスの弟子という事実に、そちらを伺うと、一人、感心したような面もちで眺めている。
 檻の間近まで近付いたシュムに、獣は、鼻先を向けて威嚇した。そこに、ごく普通の調子で話しかける。周りにいる者には、獣の唸り声に紛れて聞き取れなかっただろう。
「人の言葉はわかるね? もし話せるなら、その方が助かるけど。――契約内容を、教えてもらえない? お互いにいい、打開策が見つかるかも知れないし」
 話の分かる奴ならいいなあ、と、周囲の者が知れば仰天しそうなことを思う。魔物はおしなべて、人を欺き残忍な性質を持つ、という一般常識よりも、話の通じる奴もいる、という経験の方を、シュムは重視する。
 話が成り立たないか、打開策が見つからなければ、残念ながら強制送還するしかないだろう。師や宮廷魔導師たちの手を借りれば、目の前の黒い獣を消し去ることくらいできるだろうが、それも勝手な話だ。おそらくは、契約に従っているだけで、内容が違えばこちらの味方にもなったのだろうから。
 胡乱そうに、獣がシュムを見遣る。炎を吐かないのは、湿気のせいかシュムに興味を持ったからか。
「内容によっては、無事に契約を完了させて、そのまま帰ってもらえると思うんだけど」
『お前は何者だ』
 空気を伝わる言葉ではなく、頭の中に直接響くような声だ。
 主に兵士がどよめき、シュムは、それが他の人々にも伝わったことを悟った。
「できれば、あたしだけに伝えてくれると助かるんだけど。――はじめまして、シュムといいます」
『お前が・・・』
「あ、やっぱりそっちで名前伝わってるんだ。知らないところで有名人になってるよなあ」
 これは、半ばぼやきだ。
 聞いた話では、珍獣扱いされているということだから、嬉しいような部類のものではない。しかしそもそも、俗に言う魔界で、固有の人名が流布するという事態自体、異例のことではあるらしい。
「どんな噂が流れてるか知らないけど、少しでもいい部分があったら、そこに免じて、信用してもらえないかな? あー・・・悪いのばっかだったら、どうしようもないけど」
 言って、情けなくなる。しまった、それなりに緊張してるなあと、心中でのみぼやいた。
 しかし、黒い獣は、興味深そうに大きな深緑の瞳でシュムを覗き込んだ。そしてふっと、目線が和らぐ。
『いいだろう。契約内容は簡単だ。王城を崩壊させろというものだ』
「城、ってのは?」
『この国の城だ。国の名は、リーランドだったか』
「リーランドの王城を壊せっていう、それだけだね?」
『ああ』
「それなら、ちょっと待ってて。話を――ええと、向こうで話してて、聞こえる?」
『造作もない』
「それは良かった」
 国王さえ承諾してくれれば、無事に終わりそうだ。そう、嬉しく思って踵を返す。師たちの元に戻ると、魔導師たちは、ぽかんとしたかおをしていた。師でさえも、呆れ顔だ。
 そこを通り抜けて、やはり呆然としている国王の前に行く。
「国王サマ。会話は――聞こえてませんね、多分」
 そう呼びかけて、手短かに内容を話す。呼びかけは、頼んだように、シュムだけにしてくれたようだった。
 話を聞いて、王は、困惑顔になった。
「それのどこに、打開策が?」
「わかりません? リーランドの王城、というだけなんですよ、契約は。何も、本宮とは言っていないし、完全に壊せとも言ってません」
「――あ」
「使ってない棟か、少しくらい壊れても差し当たっては支障のないところ、ありませんか?」
「北の端だ。物置に充てているが、老化が激しくて、そろそろ取り壊さなければならないと思っていた」
 それだ、と、子供じみた笑みを浮かべる王と共に、笑顔を見せる。聞き耳を立てていた王女とミハイルは目を丸くし、それどころか、四人の魔導師たちと国王一家を守っていた近衛兵たちも、驚愕している。
 そこに、シュムは真顔を向けた。
「これは、内密にお願いします。面子というものがありますから。国王サマ、置いてある物は、移動しなくて良いですね?」
「さして、価値のあるものもないさ」
「それでは、エバンスサマ。炎を吹いてもらうから、結界を消してもらえますか? すみません、不名誉なことですが」
「――構いません」
 ふっと笑いかけて、シュムは、確認するように黒い獣を見た。小声で、呟く。
「北棟までは誘導する。いい?」
『私がその通りにすると?』
「やらないなら、契約を中断して帰ってもらうしかない。出て来ただけ、損だね。途中で気を変えて他を壊すなら、相応の報復はさせてもらう。だからあたしは、言った通りにしてくれるようお願いする」
『変わった奴だ』
「よく言われるよ」
 そこで、少し間が空いた。黒い獣が動く気配もなく、何だろう、とシュムが思っていると、声が再び聞こえた。躊躇いの間だったのだろうか。
『面子のため――というのは、本心か?』
「半分くらいは」
『残りは?』
「話の通じる相手ばかりじゃない。そのあたりは、人と同じはずなんだけどね。うっかり、全部と話し合いで解決できると思い込まれると、後々厄介になる」
『成る程な』
 笑うような気配が伝わり、黒い獣が、爆発と見まがう炎を起こした。湿気の高さどころか、雨中でも勢いは削がれなかっただろう。エバンスは、演義抜きで、結界の維持を放棄した。
 シュムは一人、剣を抜いて、炎をまとった獣の前に飛び出した。事情を知らない兵士たちが、距離を取りながらも、悲鳴に似た声を上げる。
「こっちだ!」
 声と共に、ひらりと、鼻先を掠めて跳躍し、窓から身を躍らせる。黒い獣は、その後を追った。見ようによっては、獣の気を逸らして、被害の少なくなる外に誘導したようにも見える。
 飛び出しながら、風を呼ぶ印を結ぶ。普通に落下すれば、まず即死だ。基本しか学んでいないシュムでは、衝突の際クッション代わりになるだけのはずが、大した衝撃もなく、ふわりと着地する。  
「ありがとう、師匠」
 呟いて、すぐに地面を蹴る。広間から逃げた客たちが居たのは予定外だが、すぐに、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。本気か見せかけか、おそらくは後者の攻撃を仕掛けてくる獣から身をかわしながら、シュムは、北棟まで最短距離を走った。
「ここだよ」
 その棟の前で囁いて、正面切って向かってくる獣を、体を沈めてかわす。そのまま真っ直ぐに、黒い獣は、棟に突っ込んだ。老朽化していたそれは、派手な音を立てて、崩れ落ちる。
 隣接した部分にまで被害が行くかと思われたが、それは、壁に遮られたようになった。見上げて見えたエバンスの姿に、シュムは微笑した。
『では、失礼しよう』
「ああ、ちゃんと報酬もらった?」
『ああ。また、機会があれば話がしたい。シュム、と言ったか』
「それは嬉しいね。今度は、和やかに会いたいよ」
 契約を終えると、期間用の魔法陣は、ほぼ自動的に開く。そこに姿を消した黒い獣は、最後に、笑ったようだった。
「・・・ふう、疲れた」
 剣を鞘に収め、瓦礫の山にもたれかかる。
 そもそもは、人混みに紛れ、妹や甥姪、ついでに師に会うだけのつもりでいたのに、想定外の労働だ。しかも、速やかに身を隠した方が得策だろう。
 シュムの案は、「魔物」に損をさせず王国の損害を押さえる、という妥協案であって、強制送還をした方が、王国にとって得策だったとはすぐに知れるはずだ。一般的には難しいことではあるが、あの宮廷魔導師たちが協力すれば、おそらく可能だっただろう。その上、エバンスは、シュムが比較的容易に、それを行なえることを知っている。
 あそこにいた顔触れがそれに気付かなかったのは、シュムの出現と態度に、騙されたのだろう。
「まったくもう、新年早々」
 ぼやいて、シュムは立ち上がると、一度だけ広間から顔を覗かせる人々に手を振り、身を翻した。冷たい空気が、身に馴染んだ旅装の裾を、揺すった。 

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