蒼が見える。百八十度、どこを見ても蒼い。ひたすら青と白の世界。何をするでもなく、ただぼんやりと浮かんでいる。いや、言うなれば「飛んでいる」という事になるだろうか。
手を広げれば、進路が変わる。体から力を抜けば、止まったまま。動き次第で、高度だって変えられる。下を見れば、きっと点状の町並みが見えるだろう。それとも、海まで飛んできてしまったか。
とにかく皐月は、空に浮かんでいた。
風の当たる感じが心地良い。もう、どれくらいこうしているだろう。いい加減戻るか、と頭のどこかで声が上がる。その時だった。
そこには、明らかにニンジンと明らかにミカンがいた。いや、ミカンの方は、実は何か他の柑橘類という可能性もある。最近では、かけ合わせによるポンカンなど、様々に出ているのだから。
ニンジンとミカンは、さっきからずっと、言い争っているようだった。
「だから! 俺が真の橙色だって言ってるだろっ!」
「なーにを言う。僕こそが本当の橙色だ。そんなに言い張っていると、引っ込みがつかなくなるぞ。ああ、もうそうなってるのか」
「なんだとっ?! 貴様こそ、自分の馬鹿差加減を知られるのが嫌で言い張ってるんだろうがっ!」
「これだから困る」
「何をぅ?!」
ああ、元気がいいな。そう、微笑ましく思った。
本人(?)たちは真剣なのだろうが、見ているとどうにも微笑ましい。まるで幼児向け番組かのように、愛らしい手足と顔のついた野菜と果物が言い争っているのだ。おまけに、自分こそが橙色をしていると言い合っているらしい。
ファンタジーの世界だなあ、と一人呟く。
「いい加減アタマ冷やせよ、な?」
赤みの強い朝鮮人参(おそらく)が、そう言ってニンジンに声をかけるが、ニンジンはその手を振り払い、逆に怒っているようだった。
「ほら、だからお前等は違うだろ」
ミカンの隣で、夏蜜柑(多分)がそう囃し立てる。
すると、ニンジン側から抗議の声が上がる。それに対して、ミカン側も負けじと反論する。刻一刻と、ニンジンやミカンの仲間は増えていくようだった。そうなると、いっそ壮観だった。
「黙らんかい」
突然の声に、野菜や果物たちは口を閉じた。まるで台所やこたつの上に転がっているただのニンジンかミカンのように、押し黙る。その中を、小ぶりのみかんが歩いてきた。
「わしが本家本元じゃ。わかっとるな?」
騒ぎの発端のニンジンとミカンの間に立って、双方を見ながら言う。言われた二人(?)は、気まずげに下を向いた。
「橙色というのは、橙の色じゃから言うんじゃ、じゃからわしの色に違いない」
そうして、騒ぎは治まるかに見えた。
ところが、ミカン側にいたらしいオレンジが、なんの含みもない無邪気な声をあげたのだった。
「でも、橙色ってオレンジ色とも言うんだろ?」
場は、騒然とした。
「―――――――――――――で?」
無け無しの気力を振り絞って、双海はそう言った。だが目の前に座る兄は、それに気付いてか気付かずか、無邪気な笑顔を浮かべているのだった。
「そこで終り。どうなったかな、あの後」
にこにこ。そんな擬音が聞こえてきそうだった。これで七つも歳が離れているのだから。下に離れているならともかく、上に離れているということが、双海には信じられなかった。その上、双海の通う高校で生物を教えているのだ。
世の中間違ってる、というのが双海の持論だった。
「あっ、ひょってして何かを暗示してるかもしれない。予知夢?」
「・・・めでたいアタマしてるよ、あんた」
「お兄ちゃんに向かってあんたはないだろ、双海」
「はいはいはいはい」
「そんな子に育てた覚えはないぞ」
真顔で、どこか恨めしそうに睨んでくる。
鬱陶しくなって邪険にすると、今度は拗ね始める。学校でもこの調子だから、生徒のウケはいいが、一部の話のわからない年配教師からは、色々と言われているらしい。だが鳴海は、そういったことを気にする人ではなかった。
おまけに、机が隣の定年間直の数学教師とは、いい茶のみ友達だと。
「明日、樫原先生にその話してみたら?」
「あ、そうだな!」
樫原というのが、その数学教師の名だった。樫原と現国の簗田、物理の内山は、生徒からトリプル定年などというそのままな呼び方をされている。
適当にあしらった双海だったが、翌日、「樫原先生はトマトの夢を見たことがあって、簗田先生はゴボウとダイコンが言い争ってて内田先生はチクワとレンコンだったって」などという素っ頓狂な三人の夢を聞かされると判っていれば、絶対にああ言いはしなかっただろう。
正に、生き恥である。
――全く、熱が出るとろくなことがない。
熱のせいで、ともすると思考が飛びかける。自分の居場所さえ忘れそうになるし、汗がべとついて気持ち悪い。布団が暑くて跳ね除けると、すぐに体が冷えるし、悪化しかけるし。筋の通らない悪夢は見るし。
信二は、意味もなく天上のシミを睨みつけていた。熱のせいで、眼が少し潤んでいる。
信二にとっては「恒例」の、風邪だった。普段から病気をするわけではないのだが、何故か年に一度か二度、高熱を出す。十数年もそれが続けは、もう慣れっこになっている。
(あー・・・・・きょうはたいくがー・・・ひさびさのさっかー・・・・)
部活を引退して何ヶ月かになる。それだけに、楽しみにしていたのに。
熱ではっきりとしない頭でそんなことを思いながら、信二は瞼を閉じた。起きていてもしんどいだけだから、とりあえず寝ておこう。考えるでもなくそう判断して、眠りについた。
「ああっ、これは凄いっ」
頭上で、何か声がする。甲高くはないが、まだ子供だろう声。やたらと元気がいいのが、癪に障った。
(俺は風邪ひいてて頭いてーんだよ、どっか行け!)
「ねえねえお兄さん、起きてくださいよ! 是非これを、僕に譲ってください!」
(はあ? 何言ってんだこのガキ)
「ねえってば。・・・聞こえてるんでしょっ?! 起きてよおきてよ起きてよっ」
「何すんだ、馬鹿野郎!」
力いっぱい肩を揺さぶられ、信二は体を起こした。飛び起きた、と言ってもいい。殴ってやろうかと、右には拳。
ところが、信二の不機嫌に気付かないはずがない元凶は、嬉しそうに笑っているのだった。見てみれば、少年や少女というよりは、女装させられた少年というのがしっくりくるような子供だった。長くはない髪が、結ばれて右と左でぴょこぴょこと踊っている。
「やぁっと起きてくれましたね。じゃ、手早くぱぱっと・・・って。・・・・・・何するんですかぁっ」
涙の滲んだ眼で、信二を見る。生憎、信二がそれを可愛いと思うことはなかった。
握り締めた拳を、信二が突き出す。慌てたように子供は、後ろに飛び退いた。
「どうでもいいから邪魔すんな、俺はしんどいんだよ、今」
「いえ、だからその原因を・・・いや、原因じゃないんですけど、」
「黙れ」
「あっ」
「黙れって・・・・・ぅを?!」
威嚇に振り上げた拳を、ぬめりとしたものが絡めとる。子供から目を逸らしてそちらを見た信二は、絶句した。
青い、生首。その口から、いやに赤く長い舌が伸びている。信二の腕を捕らえているのは、その舌だった。信二と目が合うと、青い顔についた大きな目が、にたりと笑った。
「なっ、なっ、なっ・・・っ!」
声にならない。何とか振り払おうとするのだが、まったく離れる気配がない。
信二は、すがるように子供を見た。
「な、何だよ、これ・・・・」
「譲ってもらえるなら、教えてもいいですよ?」
「いらねーよ、こんなもん!」
「ほんとですか! やったぁっ」
嬉しそうに、楽しそうに体を弾ませる。信二は、巻き付いた舌と子供を交互に見ながら、泣きたいような気分になっていた。
そして子供が、右足を軸にくるりと一回転して、生首にコンパクトのようなものを向けた。すると間を置いて、巻き付いていた舌の感触が消える。
「ありがとうございましたっ! それじゃあ、また悪夢を見たら教えてくださいねっ」
「え?」
目を開けると、相変わらず薄くシミの浮いた天井が目に入る。手を伸ばして目覚し時計をつかむと、長短の針が、二時間ほど眠っていたことを指し示していた。
体を起こして、母が入れてくれたらしい蜂蜜とレモンを湯でといたものを口に含む。少しだけ飲むつもりが、一口飲むと、初めて喉の渇きを感じたかのように、一気に飲み干していた。空のコップを、元のテーブル代わりに使っている椅子に戻す。
まだ声は出ないが、風邪が治りかけているのが判る。
再び布団に潜り込み、目をつぶる。何か夢を見ていた気もするが、思い出せなかった。
彼女に初めて出会ったのは、夜の森の中だった。
そのとき僕は、死ぬつもりだった。婚約まで交わした恋人を兄に奪われ、仕事先でも些細なことから喧嘩をして、僕か相手がやめなければ収まりがつかない状態になっていた。
生きるのに疲れたといえば、少し大げさになる。そのときの僕の行動は、子供が拗ねて癇癪を起こすのと大差なかった。おもちゃを投げつける代わりに自分を投げつける、ただそれだけのことだった。きっと、上手く死ねて、その上霊魂でも残ったなら、酷く後悔しただろうことが容易に想像できる。
彼女に出会わなければ、僕は今ここにいなかった。
「っ・・・」
手の甲に鋭い痛みがはしった。これから死のうとしているというのに、ただそれだけでも結構痛かった。そして気づくと、僕の手からはナイフが消えていた。痛みに、どこかに放り出してしまったのだろうか。
諦めて帰るなんて厭すぎるし、餓死はしたくない。その辺りの枝ででも胸を突くというのも、できれば遠慮したかった。
仕方なく、月明かりだけの森の中で、僕はナイフを探した。
そのとき、声がした。静かな、それでいて際立った声。
「黒金[クロガネ]。今は返してやれ。どうせこいつは必要なくなる。後でもらえばいい」
声が出なかった。人がいるとは思っていなかったせいでもあるが。それよりも、目の前に立つ少女に目を奪われた。十代の終わりくらいだろうか。月光を反射して銀に見える長い髪と、吸い込まれるような瞳。簡素な、白い服をまとっていた。
頭上から一声、烏の鳴き声がした。闇に紛れて、その姿は見えない。そしてその声とほぼ同時に、僕の頭を掠めて、ナイフが地面に突き刺さった。
「おい、お前。死ぬのは勝手だが、もう少し離れてやってくれ。ここでしなれると私が迷惑だ」
「な・・・っ」
さっきとは違った意味で何も言えずにいると、少女は興味を失ったかのようにふいと、森の向こうに消えてしまった。
呆然と、少女の言葉を反芻する。
無性に、腹が立った。これから死のうとしている人間に。止めもしないで、迷惑だから他でやれって? ペットの烏に、後でもらえばいいって言うか?
腹立ち紛れにナイフを深く刺さった地面から抜いて、少女の後を追った。このままでは死にきれないと、本気で思った。
茂みを抜けると、広場のような空間があった。そこに、落ちぶれかけた小屋が立っている。少女は、その広場のちょうど真中辺りに立っていた。月に、ぼうと見入っている。
少女に向かって文句を言おうとしたとき、足に強い衝撃を感じた。その勢いで、地面に倒れこむ。衝撃に一度目をつぶり、開くとそこには、白い狼と、その向こうに無表情で佇む少女が見えた。
大きな狼が、牙を剥く。
「白銀[シロガネ]。いいんだ、それは。どうせすぐにいなくなる。お前が相手をするまでもない」
狼が、言葉を理解したかのように僕から離れる。そして、少女に寄り添った。甘えているように、僕には見えた。
どのくらいか、そうしていた。僕はなんとなく、少女たちを見ていた。彼女は、森に住む動物と仲が良いようだった。動物たちに、とても好かれているように見えた。
月がだいぶ傾いたころ、少女は僕を見た。
「お前、死ぬつもりでここに来たんじゃなかったのか」
「・・・・・その、つもりだった」
「だったということは、今はないのか」
「・・・うん」
かといって、家に帰る気にもなれなかった。第一、戻るつもりがなかったから、道だってろくに覚えていない。
相変わらず表情のない顔で、少女は僕の顔を覗き込んだ。
「それなら、話をしていってくれないか。私は、夜しか外にいられないから、昼のことは何も知らないんだ。昔、ばあ様に聞いた話しか知らない。聞きたいんだ。――いいか?」
僕が見入られたかのような状態で頷くと、彼女は初めて、かすかに笑った。でも、それが精一杯の喜びの現われなのだと、何故か判った。
それから僕は、彼女とともに過ごした。夜を中心に、でも彼女の憧れる昼もいくらかは起きるようにして。食料はいくらでも、ある場所を動物たちが教えてくれた。
彼女は、日に当たってはいけない病気だったらしい。日のあたる昼間は小屋を締め切って眠り、夜にだけ外に出た。そして太陽に憧れがあったらしく、いくらでも僕から話を聞きたがった。
『何も知らないでいた方が、幸せだったのかもしれないな。夜しか知らなければ、こんなに憧れずにいられた』
彼女が何気なく言った一言に、僕は酷く動揺した。
何故なのか、それは今でも解からないでいる。自分の存在が悪いような、そんな気がしたのかもしれない。けれど、それも推測でしかない。自分で自分の心を推測するなんて、不毛な気もするが仕方がない。
『憧れなんて。実現しなければ、苦しいだけなのにな』
そう言って、彼女は寂しげに笑った。
彼女の笑みは、いつ見ても儚げだった。そしてそれは、夜によく映えた。
そんな彼女が死んだのは、炎天下でのことだった。
「――ああ。タカト。どうしたんだ、泣いてるのか」
彼女は、不思議そうに僕を見た。その声は弱々しくて、いつもの静かさとは違った、静謐さに満ちていた。
僕たちの肌や髪を、熱い太陽の光がやいていくのがわかった。
「どうして・・・・。年齢順に行くなら、僕からのはずだろ・・・?」
彼女は、外に出たのだ。明るい、太陽の支配する時間に。そんなことをすれば、死ぬと判っていながら。それほどに、彼女の憧れは増大していた。何かに責任を問うなら、それは僕しかなかった。
僕が話さなければ。出会わなければ。彼女は、こんなことはしなかったのかもしれない。寿命が尽きるまで、あの夜の森にいたのかもしれない。
「タカト。泣かないで。私は嬉しいんだ、昼が、見れて、みんなが、生きてるのが・・・・夜とは違う」
小屋に運ぼうとした僕を止めて、彼女はやはり寂しげに笑った。
「ありがとう」
それが、最期だった。
静かに、ただ静かに、彼女は逝った。太陽の光に肌が青黒く変色していたけれど、それは確かに、あの彼女だった。
あれからどれくらい経ったのか、今ではもう把握できないでいる。僕の髪はとっくに白くなっていて、もしあのときの彼女に会っても、判らないかもしれない。
白銀と黒金は、あの後、彼女を追うように死んでいった。
僕は、それを少し羨ましく思いながらも、今もここにいる。一度拾った命を、捨てることはできなかった。まだ未練がましく、ここにいる。
ただ望むべくは――彼女のように、静かに逝けますように。