有翼者への挽歌 / 夢は広がる  / 夢人 / 夜の太陽



有翼者への挽歌

 蒼が見える。百八十度、どこを見ても蒼い。ひたすら青と白の世界。何をするでもなく、ただぼんやりと浮かんでいる。いや、言うなれば「飛んでいる」という事になるだろうか。
 手を広げれば、進路が変わる。体から力を抜けば、止まったまま。動き次第で、高度だって変えられる。下を見れば、きっと点状の町並みが見えるだろう。それとも、海まで飛んできてしまったか。
 とにかく皐月は、空に浮かんでいた。
 風の当たる感じが心地良い。もう、どれくらいこうしているだろう。いい加減戻るか、と頭のどこかで声が上がる。その時だった。

天使になるクスリ 要りませんか?


「――冗談じゃないぞ」
 跳び込んで来た文字にうんざりして、眼を閉じた。キーボードを叩く感覚がして、蒼い世界は消えた。

 うららかな日差しの中で、皐月はぼんやりと指先につまんだ白い粒を眺めていた。白い、お菓子のような錠剤のようなものだ。米粒くらいの大きさで、卵形をしている。白い表面には、青い線で右向きの羽の絵が描かれていた。
 器用だなあと、心の中で呟く。まあ、手描きならの話だけど。
「何持ってるの、皐月」
「薬」
「何薬? あたし、そんなの見た事無いよ?」
 常備薬収集家と自称する百合は、興味ありげに白い粒を覗き込んだ。
 黒を基調にシンプルにまとめた皐月に比べ、百合はリボンやフリルをふんだんに使った格好をしている。こういう格好は、似合っても似合わなくても犯罪ものだと、皐月は思う。幸い、百合はましな方の「犯罪者」だが。
 薬を持っていない方の指で被っていた黒い帽子を回し始めながら、皐月は百合に薬を渡した。百合は、大事な物かのように、小さな卵を受け取る。
「見て無くてセイカイ。それ、幻覚剤」
「ええっ?」
「こら、落とすな。大事な物なんだから」
「何、皐月ってばクスリやってるの? 気付かなかった」
「やってないって」
 「気付かなかった」事にショックを受けている百合に、皐月はだるそうに手を振って見せた。この御時世、誰だって簡単に手に入るが、皐月にはそんな気はさらさら無い。むしろ嫌いだ。
「本当に?」
「本当。ほら、先生来た」
 くたびれた男性教師が入って来たのを見て、百合は渋々自分の席に戻っていった。どうせ、パソコン使用の授業だから、始まったらアクセスしてくるのだろうが。
 皐月は、窓から外を見た。空と、雲。
 先入観のせいかも知れないが、やっぱり現実の方が好きだ。仮想世界は、いくら実際の映像が使われるといっても、所詮偽物だ。どこが違うと聞かれても答えられないが、現実の方が。時代に反してるな、と、皐月は苦笑した。
 そして、昨日のドライブを思い出す。いつもと同じ蒼い世界と、突然飛び込んできた言葉。天使になるクスリ。羽の描かれたクスリとの関係は? 少し、記憶を整理した方がいい。その方が、百合にも説明がしやすい。
 予想通りアクセスしてきた百合を無視して、皐月はやはり空を見た。
「・・・・バカ野郎」
 呟くが、その台詞に力はない。向けた相手は、ここにはいない。翼を手に入れたあいつは。
 相良五月。一見読みが同じだが、実は違う幼なじみ。すぐ近くに住んでいたのに、成長するにつれて会わなくなった。五月の方が勝手に、遠ざかっていった感じがしていた。
 ドライブから戻ると、その五月が死んだと聞かされた。
 最後に口を利いてから、数年が経っていた。その間、顔すらほとんど見ていない。家に行ってみると、五月の兄の六月が一人でいた。
 両親は、五月のところにいると。クスリを飲んで飛び降りて、頭がつぶれたから。死に顔は見れないと言われた。皐月が訊いたのだったろうか。
 哀しいような、どうでも良いような、酷く中途半端な気分だった。
 そうして残ったのは、小さい頃に遊んだ記憶と、その頃の写真。そして、たまたま見せてもらったこのクスリ。どうしてなのか、何を思ったのか、全く覚えていないのだが、家に帰るとこれが手に残っていた。
『あいつ、最後に俺には翼があるんだって言たらしいんだ。おかしくなってたんだよ。これのせいで。何でだろうな。何が不満だったんだろうな』
 昔しか知らない五月には、何も言えなかった。五月は、小さな頃の元気な男の子のままで。目の前にいた六月の事も、絵が上手かったという記憶しかない。
 浮かびあがってくる記憶は、どれも細切れだった。昨日の事なのに。
「ちょっと、皐月ってば!」
「バカ、音入れるなよ」
 回線を音声入力に切り替えてきた百合の小声に、小声で返す。教師は気付いていないようだ。安心しながらも、なんだか情けなくもある。皆、何でここにいるんだ?
「だって応答無いんだもん」
 すねたような声に、溜息をつく。
 他の者がこんな事をしたら、皐月は間違いなく苛立っただろう。怒鳴ったかもしれない。
 百合は、特別というわけでもないのだが、何故か付き合いやすい。こんな時ですら、呆れはしても不思議と腹は立たない。相性の問題だろうか。
「あとで話すから。じゃあな」
 それだけ言って、皐月は百合からの回線を切断した。もう少し、時間が欲しい。

「うわあ、凄い! 皐月って、本格的にやってるんだねー」
 部屋の中にはベッドと机、本棚にパソコン。それだけで、部屋の七割近くを占めていた。机の上を陣取ったパソコンには、コードのついたゴーグルが繋がっている。
「いや、全然。見よう見真似」
「だって、これって手作りでしょ? お兄ちゃんが造るのは難しいって言ってたよ」
 ゴーグルを指差して言う。身近に機械に詳しい者がいるからか、見はするが触れようとはしない。
 皐月は正確に扱いさえすれば気にしない方だが、中には自分の機械に触れただけで暴力を振るう者もいる。そういった傷害が年々増えているという話も、良く耳にする。なんとも虚しい話だが、解からないでもないところが、余計に厭になる。
 百合をベッドに座らせて、自分は机と対になっている椅子に。床は、雑誌や部品が転がっていて、ほとんど通路の機能しかない。
「詳しい奴に説明聞いたから、そうでもなかった。買うより安いし。パソコン代出してもらえただけで僥倖モノだから」
「そうなの? いいなー、あたしも欲しいよ、ゴーグル。皐月、これ頂戴・・・・って言っても駄目でしょ?」
「当然」
 既製品を買うよりは安いといっても、それなりに金はかかっている。時間は、楽しんでやっているから問題にはならないのだが。
「制作費より割高で買うっていうなら別だけど」
「あたしにお金があると思う?」
「思わない。兄貴の借りれば」
「無理だよ。触らせてもくれないもん。欲しいなら買えってさ。それより、皐月、お通夜とか行かなくていいの?」
 部屋に入ってすぐ電源を入れたパソコンの画面に、メールボックスが映し出される。授業中に出したから、そろそろ返事が帰って来ているだろう。キーボードを叩く。
 最近は減少傾向にあるキーボードが、何故か皐月は好きだった。ここでも流行と逆行してるなとは思うものの、だからといって直すつもりも無い。
「葬式が土曜だから、通夜は明後日」
 届いたメールに一通り目を通して、皐月は考え込んだ。百合に背を向けたまま、会話が途切れる。
 メールの送り主は、百合など比べ物にならない薬蒐集家だ。飲みもしないのに、あらゆる薬を集めて分析している男だ。会ったことはないが、信用はできる。ただ、好奇心が強い。小説並の説明を待っている、と付け加えられていた。決まり文句だ。
 ――天使になるクスリと、卵形の白いクスリは同一。ネット販売は毎回六粒のみの小売しかなく、直売りは無いらしい。特別安いわけでもないし、ネットさえできれば誰でも手に入るから、本当の売り手以外が転売をしても、ほとんど儲けはない。今や、ネットの普及率は、国内の被教育率に比する。
 販売側とのやり取りは、全てネット上で行われる。代金の振り込み確認後、郵送。摘発されないのは、まだ出たのが最近だからか、利巧に、相手を選んでいるからだろうか。やたらと大量に買おうとするものからは手を引き、販売側が買い手を選別して、広告する。
 ――つまり、買いそうだって判断されたわけか。
 それはそれで腹が立つのだが、今はそれよりも、何か引っかかる。何だろう。こう思うとき、大抵は答に辿り着いている。ただ、それが明確には認識されていないだけだ。何だ。
 百合は、黙ってしまった皐月の後姿を見ていた。まるでロダンの「考える人」にでもなったかのように、少しも動かない。
 肩こるよ、とは思ったものの、声はかけない。こうなったら、何も言わない方がいい。まず聞こえてないし、もし聞こえていたら、後で怒る。そう長い付き合いではないが、それくらいは判っていた。
 それにしても、こんな風に皐月の家に来ることになるとは思わなかった。話を聞いて、つい付いて来てしまったのだ。断られなかったから、特に迷惑だとは思っていないのだろうが。それ以前に、百合にこの話をした事自体が、意外でもあった。
 前から、一度皐月の部屋を見てみたいとは思っていたとはいえ、何か違う。
 知り合って以来ずっと、びっくり箱みたいな子だとは思っていたが。今回は何が飛び出てきたのだろうか。もし薬の売人を捕まえようなどと考えているのであれば、一介の高校生には荷が重い。
 唐突に、彫像が人に戻る。
「皐月?」
 深深と溜息をついて、皐月はようやく百合の方を向いた。苦笑しながらも、少し疲れたカオをしていた。
「悪い、今日は帰ってくれないか? ゴーグル、また暇な時で良かったら使いに来たらいいし」
 まるでそれが目的で来ていたかのような台詞に、百合はただ頷いた。そう言えば、皐月は百合が付いて来た理由も訊かなかった。
 もう、ここにいても邪魔になるだけだ。 

 夜空が明るくて、何か不気味だ。薄曇りの空に反射する電飾の明かりは、見慣れてるとはいえ、見ていて気分の良いものではない。好きになれない。
「絵、描くのやめたんですね」
 六月は、池の方を見ていた。周りは、切り揃えられた低木が並ぶ。
 通夜の夜の、会館の庭。明日は、ここで五月の葬式が行われる。
 昔ならともかく、今は通夜にまで出るほど、皐月は五月と親しくはなかった。だが、親同士の親交は以前としてあったらしい。皐月は、そのおまけのようにしてここに来た。
 推理小説じゃあるまいし、何やってるんだと、どこかから声がする。それでも。
「画家になりたいって言ってたのに」
「元々、無理だったんだよ。それより、気分は大丈夫?」
「すみません、気持ち悪いって嘘なんです」
 一瞬、六月の顔が強張る。それでも、どうにか困ったような笑顔を取り繕って見せた。いたずらをするような年でもないだろうと、困ったように言う。
 一つしか変わらないのに、大人ぶっても似合わないよと、皐月は内心呟いた。「子供」が「大人」の真似をしたところで、微笑ましいかみっともないかでしかない。
「知りたいだけなんです。それをどうにかするつもりはありません」
「・・・・それ、って?」
「どうしてあなたの持ってたクスリを、五月が飲んだのか」
「クスリ・・・・」
「小さな、卵形の。一昨日見せてもらったやつです。右向きの青い羽が描いてあった」
 絵が得意だった六月。良く、名前代わりに右向きの羽を描いていた。それを羨ましがる五月には、左向きの羽を。
 そんな事、すっかり忘れていたのに。描かれた羽を見ても、手書きかどうかさえ判らなかったほどに。
「天使になるクスリ。エンジェル・グロウ。AG。比較的、依存性は緩やかな幻覚剤。体質によっては、強い幻覚が現れるらしいですけど。あなたが買ったものです。これ、お返しします。勝手に持ち出してすみません」
 言いながら、感覚が乖離していく。これは、本当に現実だろうか。手を伸ばせば、キーボードに触れはしないだろうか。五月は、本当に死んだ? 本当に生きていた?
「昔の五月だったら、あなたの物に勝手に手を出すとは思えません。でも、最近は全然顔も見てなかったから。何があったんですか?」
 返事はない。
 まあ、応えないだろうなあと、皐月は溜息をついた。直接訊くしか思い浮かばなかったとはいえ、もっと上手に訊けないものか。
「最初に言った通り、知りたいだけなんです」
「正義の味方のつもりか? それとも、顔も見なかった幼なじみが、突然かわいそうになったのか?」
 話を聞けと、怒鳴りたい。苛々する。結果的にそうなってしまったとはいえ、推理ごっこがしたいわけではないのだ。
「そんなつもりはありません」
「じゃあ何だ。有名人にでもなりたいのか? 警察に、私が解明しましたとでも言うつもりか。ふざけるな!」
「ふざけてません」
 言いながら、益々苛立ちが募った。
 こういう言い方をするからには、六月がクスリを飲ませたとかいった事件性はあったのだろう。だが、置きっ放しにしていたものを五月が飲んでしまい、罪悪感に駆られているだけだという可能性もある。
 ――だから人間は鬱陶しい。
 人間以上に大切なものが見つかれば、まだ幸せだ。皐月には、それさえない。
「知りたいだけだって、言ったでしょう」
 苛々する。こんな事に、引っかからなければ良かった。毎日、どれだけの人が死んでいる? 結局は幻想でしかない区別を、つけようとするんじゃなかった。それでも。変色一つしない記憶が、腕を引っ張る。
「あなたの薬を飲んで、五月はビルから飛び下りた。ただ、どうやって飲んだのかが知りたいだけです。それとも、五月は飛び下りたんじゃなくてあなたが突き落としたとでも言うんですか? クスリをやってるところでも見つかったとか?」
「違う!」
 続きがあるかと思ったが、何もない。六月は、皐月のやや斜め後ろの空間を睨んでいた。
「それじゃあ、何かと間違えて飲んだとか? クスリだって知ってて、勝手に手を出したとか? 五月には、あの薬は強く効いたんでしょうね」
 変わらない自分の口調に呆れる。淡々と、冷酷にさえ聞こえるかもしれない。何かが足りない。自分はちゃんとここにいるのか?
「違う・・・・」
 頭を抱えて、苦悩するかのように。
 六月は、「何の不満があったのか」と言った。不満よりも中途半端な好奇心でクスリに手を出すものが多い中で、六月自身は何かの不満で手を出したのだろうか。
 他人の心なんて、解からない。自分の考えさえ不充分だ。
「違う、僕は・・」

 蒼が見える。百八十度、どこを見ても蒼い。ひたすら青と白の世界。皐月は、そこに一人で浮かんでいた。
 ついさっき、メールを送った。薬屋という、なんのひねりもない蒐集家に宛てて。文章を書くのが苦手な上に、心理描写などを入れるつもりもなかったから、小学生の観察記録にでもなっている気がする。きっと、お気に召さないだろう。文句のメールが届いたら、今回の動機だけは答えよう。
 葬式をしようと、思ったのだ。
 葬式というのは、結局のところ生きている者たちのためでしかない。
 割りきって、気分を切り替えて、明日から今まで通りに生きていくために。だから、クスリの事を調べたのは、中途半端に感じた五月の死を、自分の中で構築して行く事で認めたかったのだ。
 昔の記憶だけが鮮やかで、仮想世界の産物のようで気持ちが悪かった。人が一人生きていて、死んでしまったというのに、作り物と変わらないなんて。関係のなかった時間のせいだけなのか、はっきりしなかった。もしそうでなければ。
 ――なんでここにいるんだ?
 自分が本当に居るのかが、判らなくなる。
 遠くの誰か知らない人じゃなくて、作り物の中の事じゃなくて、自分が居る現実の事だと認識したかった。
 実の所、六月の答えの中身はどうでも良かった。何が起きていたとしても、例え嘘を言われても、事実だと認識さえすれば、それで良かった。生身の人がいたのだと、わかれば良かった。
 葬式を、実際には逆の働きになるのだが、それに準じる儀式のようなものを、しようとしたのだ。成功したのかは、判らない。
 眼を、足元に転じる。海まで飛んできたようだった。

天使になるクスリ 要りませんか?


「なりたくないな」
 それでも一瞬、翼があれば便利だろうとも思った。そうなれば車は廃れるだろうし、ゴーグル無しで、実際に空を自在に飛べる。それは気持ちのいい事じゃないか?
 翼があれば。五月は死ななかっただろうか。
「考えても仕方ないか」
 天使になるクスリでは、天使にはなれない。翼は生えてこない。だからこそ、望むのかもしれないが。
 その代価が命なら、皐月はいらない。少なくとも、今は。
「・・・・泣かなかったな」
 蒼い世界を見渡して、皐月はキーボードを叩いた。

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夢は広がる

 そこには、明らかにニンジンと明らかにミカンがいた。いや、ミカンの方は、実は何か他の柑橘類という可能性もある。最近では、かけ合わせによるポンカンなど、様々に出ているのだから。
 ニンジンとミカンは、さっきからずっと、言い争っているようだった。
「だから! 俺が真の橙色だって言ってるだろっ!」
「なーにを言う。僕こそが本当の橙色だ。そんなに言い張っていると、引っ込みがつかなくなるぞ。ああ、もうそうなってるのか」
「なんだとっ?! 貴様こそ、自分の馬鹿差加減を知られるのが嫌で言い張ってるんだろうがっ!」
「これだから困る」
「何をぅ?!」
 ああ、元気がいいな。そう、微笑ましく思った。
 本人(?)たちは真剣なのだろうが、見ているとどうにも微笑ましい。まるで幼児向け番組かのように、愛らしい手足と顔のついた野菜と果物が言い争っているのだ。おまけに、自分こそが橙色をしていると言い合っているらしい。
 ファンタジーの世界だなあ、と一人呟く。
「いい加減アタマ冷やせよ、な?」
 赤みの強い朝鮮人参(おそらく)が、そう言ってニンジンに声をかけるが、ニンジンはその手を振り払い、逆に怒っているようだった。
「ほら、だからお前等は違うだろ」
 ミカンの隣で、夏蜜柑(多分)がそう囃し立てる。
 すると、ニンジン側から抗議の声が上がる。それに対して、ミカン側も負けじと反論する。刻一刻と、ニンジンやミカンの仲間は増えていくようだった。そうなると、いっそ壮観だった。
「黙らんかい」
 突然の声に、野菜や果物たちは口を閉じた。まるで台所やこたつの上に転がっているただのニンジンかミカンのように、押し黙る。その中を、小ぶりのみかんが歩いてきた。
「わしが本家本元じゃ。わかっとるな?」
 騒ぎの発端のニンジンとミカンの間に立って、双方を見ながら言う。言われた二人(?)は、気まずげに下を向いた。
「橙色というのは、橙の色じゃから言うんじゃ、じゃからわしの色に違いない」
 そうして、騒ぎは治まるかに見えた。
 ところが、ミカン側にいたらしいオレンジが、なんの含みもない無邪気な声をあげたのだった。
「でも、橙色ってオレンジ色とも言うんだろ?」
 場は、騒然とした。

「―――――――――――――で?」
 無け無しの気力を振り絞って、双海はそう言った。だが目の前に座る兄は、それに気付いてか気付かずか、無邪気な笑顔を浮かべているのだった。
「そこで終り。どうなったかな、あの後」
 にこにこ。そんな擬音が聞こえてきそうだった。これで七つも歳が離れているのだから。下に離れているならともかく、上に離れているということが、双海には信じられなかった。その上、双海の通う高校で生物を教えているのだ。
 世の中間違ってる、というのが双海の持論だった。
「あっ、ひょってして何かを暗示してるかもしれない。予知夢?」
「・・・めでたいアタマしてるよ、あんた」
「お兄ちゃんに向かってあんたはないだろ、双海」
「はいはいはいはい」
「そんな子に育てた覚えはないぞ」
 真顔で、どこか恨めしそうに睨んでくる。
 鬱陶しくなって邪険にすると、今度は拗ね始める。学校でもこの調子だから、生徒のウケはいいが、一部の話のわからない年配教師からは、色々と言われているらしい。だが鳴海は、そういったことを気にする人ではなかった。
 おまけに、机が隣の定年間直の数学教師とは、いい茶のみ友達だと。
「明日、樫原先生にその話してみたら?」
「あ、そうだな!」
 樫原というのが、その数学教師の名だった。樫原と現国の簗田、物理の内山は、生徒からトリプル定年などというそのままな呼び方をされている。
 適当にあしらった双海だったが、翌日、「樫原先生はトマトの夢を見たことがあって、簗田先生はゴボウとダイコンが言い争ってて内田先生はチクワとレンコンだったって」などという素っ頓狂な三人の夢を聞かされると判っていれば、絶対にああ言いはしなかっただろう。
 正に、生き恥である。

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夢人

 ――全く、熱が出るとろくなことがない。
 熱のせいで、ともすると思考が飛びかける。自分の居場所さえ忘れそうになるし、汗がべとついて気持ち悪い。布団が暑くて跳ね除けると、すぐに体が冷えるし、悪化しかけるし。筋の通らない悪夢は見るし。
 信二は、意味もなく天上のシミを睨みつけていた。熱のせいで、眼が少し潤んでいる。
 信二にとっては「恒例」の、風邪だった。普段から病気をするわけではないのだが、何故か年に一度か二度、高熱を出す。十数年もそれが続けは、もう慣れっこになっている。
(あー・・・・・きょうはたいくがー・・・ひさびさのさっかー・・・・)
 部活を引退して何ヶ月かになる。それだけに、楽しみにしていたのに。
 熱ではっきりとしない頭でそんなことを思いながら、信二は瞼を閉じた。起きていてもしんどいだけだから、とりあえず寝ておこう。考えるでもなくそう判断して、眠りについた。

「ああっ、これは凄いっ」
 頭上で、何か声がする。甲高くはないが、まだ子供だろう声。やたらと元気がいいのが、癪に障った。
(俺は風邪ひいてて頭いてーんだよ、どっか行け!)
「ねえねえお兄さん、起きてくださいよ! 是非これを、僕に譲ってください!」
(はあ? 何言ってんだこのガキ)
「ねえってば。・・・聞こえてるんでしょっ?! 起きてよおきてよ起きてよっ」
「何すんだ、馬鹿野郎!」
 力いっぱい肩を揺さぶられ、信二は体を起こした。飛び起きた、と言ってもいい。殴ってやろうかと、右には拳。
 ところが、信二の不機嫌に気付かないはずがない元凶は、嬉しそうに笑っているのだった。見てみれば、少年や少女というよりは、女装させられた少年というのがしっくりくるような子供だった。長くはない髪が、結ばれて右と左でぴょこぴょこと踊っている。  
「やぁっと起きてくれましたね。じゃ、手早くぱぱっと・・・って。・・・・・・何するんですかぁっ」
 涙の滲んだ眼で、信二を見る。生憎、信二がそれを可愛いと思うことはなかった。
 握り締めた拳を、信二が突き出す。慌てたように子供は、後ろに飛び退いた。
「どうでもいいから邪魔すんな、俺はしんどいんだよ、今」
「いえ、だからその原因を・・・いや、原因じゃないんですけど、」
「黙れ」
「あっ」
「黙れって・・・・・ぅを?!」
 威嚇に振り上げた拳を、ぬめりとしたものが絡めとる。子供から目を逸らしてそちらを見た信二は、絶句した。
 青い、生首。その口から、いやに赤く長い舌が伸びている。信二の腕を捕らえているのは、その舌だった。信二と目が合うと、青い顔についた大きな目が、にたりと笑った。
「なっ、なっ、なっ・・・っ!」
 声にならない。何とか振り払おうとするのだが、まったく離れる気配がない。
 信二は、すがるように子供を見た。
「な、何だよ、これ・・・・」
「譲ってもらえるなら、教えてもいいですよ?」
「いらねーよ、こんなもん!」
「ほんとですか! やったぁっ」
 嬉しそうに、楽しそうに体を弾ませる。信二は、巻き付いた舌と子供を交互に見ながら、泣きたいような気分になっていた。
 そして子供が、右足を軸にくるりと一回転して、生首にコンパクトのようなものを向けた。すると間を置いて、巻き付いていた舌の感触が消える。
「ありがとうございましたっ! それじゃあ、また悪夢を見たら教えてくださいねっ」
「え?」

 目を開けると、相変わらず薄くシミの浮いた天井が目に入る。手を伸ばして目覚し時計をつかむと、長短の針が、二時間ほど眠っていたことを指し示していた。
 体を起こして、母が入れてくれたらしい蜂蜜とレモンを湯でといたものを口に含む。少しだけ飲むつもりが、一口飲むと、初めて喉の渇きを感じたかのように、一気に飲み干していた。空のコップを、元のテーブル代わりに使っている椅子に戻す。
 まだ声は出ないが、風邪が治りかけているのが判る。
 再び布団に潜り込み、目をつぶる。何か夢を見ていた気もするが、思い出せなかった。

    
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夜の太陽

 彼女に初めて出会ったのは、夜の森の中だった。
 そのとき僕は、死ぬつもりだった。婚約まで交わした恋人を兄に奪われ、仕事先でも些細なことから喧嘩をして、僕か相手がやめなければ収まりがつかない状態になっていた。
 生きるのに疲れたといえば、少し大げさになる。そのときの僕の行動は、子供が拗ねて癇癪を起こすのと大差なかった。おもちゃを投げつける代わりに自分を投げつける、ただそれだけのことだった。きっと、上手く死ねて、その上霊魂でも残ったなら、酷く後悔しただろうことが容易に想像できる。
 彼女に出会わなければ、僕は今ここにいなかった。

「っ・・・」
 手の甲に鋭い痛みがはしった。これから死のうとしているというのに、ただそれだけでも結構痛かった。そして気づくと、僕の手からはナイフが消えていた。痛みに、どこかに放り出してしまったのだろうか。
 諦めて帰るなんて厭すぎるし、餓死はしたくない。その辺りの枝ででも胸を突くというのも、できれば遠慮したかった。
 仕方なく、月明かりだけの森の中で、僕はナイフを探した。
 そのとき、声がした。静かな、それでいて際立った声。
「黒金[クロガネ]。今は返してやれ。どうせこいつは必要なくなる。後でもらえばいい」
 声が出なかった。人がいるとは思っていなかったせいでもあるが。それよりも、目の前に立つ少女に目を奪われた。十代の終わりくらいだろうか。月光を反射して銀に見える長い髪と、吸い込まれるような瞳。簡素な、白い服をまとっていた。
 頭上から一声、烏の鳴き声がした。闇に紛れて、その姿は見えない。そしてその声とほぼ同時に、僕の頭を掠めて、ナイフが地面に突き刺さった。
「おい、お前。死ぬのは勝手だが、もう少し離れてやってくれ。ここでしなれると私が迷惑だ」
「な・・・っ」
 さっきとは違った意味で何も言えずにいると、少女は興味を失ったかのようにふいと、森の向こうに消えてしまった。
 呆然と、少女の言葉を反芻する。
 無性に、腹が立った。これから死のうとしている人間に。止めもしないで、迷惑だから他でやれって? ペットの烏に、後でもらえばいいって言うか?
 腹立ち紛れにナイフを深く刺さった地面から抜いて、少女の後を追った。このままでは死にきれないと、本気で思った。
 茂みを抜けると、広場のような空間があった。そこに、落ちぶれかけた小屋が立っている。少女は、その広場のちょうど真中辺りに立っていた。月に、ぼうと見入っている。
 少女に向かって文句を言おうとしたとき、足に強い衝撃を感じた。その勢いで、地面に倒れこむ。衝撃に一度目をつぶり、開くとそこには、白い狼と、その向こうに無表情で佇む少女が見えた。
 大きな狼が、牙を剥く。
「白銀[シロガネ]。いいんだ、それは。どうせすぐにいなくなる。お前が相手をするまでもない」
 狼が、言葉を理解したかのように僕から離れる。そして、少女に寄り添った。甘えているように、僕には見えた。
 どのくらいか、そうしていた。僕はなんとなく、少女たちを見ていた。彼女は、森に住む動物と仲が良いようだった。動物たちに、とても好かれているように見えた。
 月がだいぶ傾いたころ、少女は僕を見た。
「お前、死ぬつもりでここに来たんじゃなかったのか」
「・・・・・その、つもりだった」
「だったということは、今はないのか」
「・・・うん」
 かといって、家に帰る気にもなれなかった。第一、戻るつもりがなかったから、道だってろくに覚えていない。
 相変わらず表情のない顔で、少女は僕の顔を覗き込んだ。
「それなら、話をしていってくれないか。私は、夜しか外にいられないから、昼のことは何も知らないんだ。昔、ばあ様に聞いた話しか知らない。聞きたいんだ。――いいか?」
 僕が見入られたかのような状態で頷くと、彼女は初めて、かすかに笑った。でも、それが精一杯の喜びの現われなのだと、何故か判った。

 それから僕は、彼女とともに過ごした。夜を中心に、でも彼女の憧れる昼もいくらかは起きるようにして。食料はいくらでも、ある場所を動物たちが教えてくれた。
 彼女は、日に当たってはいけない病気だったらしい。日のあたる昼間は小屋を締め切って眠り、夜にだけ外に出た。そして太陽に憧れがあったらしく、いくらでも僕から話を聞きたがった。
『何も知らないでいた方が、幸せだったのかもしれないな。夜しか知らなければ、こんなに憧れずにいられた』
 彼女が何気なく言った一言に、僕は酷く動揺した。
 何故なのか、それは今でも解からないでいる。自分の存在が悪いような、そんな気がしたのかもしれない。けれど、それも推測でしかない。自分で自分の心を推測するなんて、不毛な気もするが仕方がない。
 『憧れなんて。実現しなければ、苦しいだけなのにな』
 そう言って、彼女は寂しげに笑った。
 彼女の笑みは、いつ見ても儚げだった。そしてそれは、夜によく映えた。
 そんな彼女が死んだのは、炎天下でのことだった。

「――ああ。タカト。どうしたんだ、泣いてるのか」
 彼女は、不思議そうに僕を見た。その声は弱々しくて、いつもの静かさとは違った、静謐さに満ちていた。
 僕たちの肌や髪を、熱い太陽の光がやいていくのがわかった。
「どうして・・・・。年齢順に行くなら、僕からのはずだろ・・・?」
 彼女は、外に出たのだ。明るい、太陽の支配する時間に。そんなことをすれば、死ぬと判っていながら。それほどに、彼女の憧れは増大していた。何かに責任を問うなら、それは僕しかなかった。
 僕が話さなければ。出会わなければ。彼女は、こんなことはしなかったのかもしれない。寿命が尽きるまで、あの夜の森にいたのかもしれない。
「タカト。泣かないで。私は嬉しいんだ、昼が、見れて、みんなが、生きてるのが・・・・夜とは違う」
 小屋に運ぼうとした僕を止めて、彼女はやはり寂しげに笑った。
「ありがとう」
 それが、最期だった。

 静かに、ただ静かに、彼女は逝った。太陽の光に肌が青黒く変色していたけれど、それは確かに、あの彼女だった。
 あれからどれくらい経ったのか、今ではもう把握できないでいる。僕の髪はとっくに白くなっていて、もしあのときの彼女に会っても、判らないかもしれない。
 白銀と黒金は、あの後、彼女を追うように死んでいった。
 僕は、それを少し羨ましく思いながらも、今もここにいる。一度拾った命を、捨てることはできなかった。まだ未練がましく、ここにいる。
 ただ望むべくは――彼女のように、静かに逝けますように。

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