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夜明けの晩

かごめ かごめ
かごのなかの とりは
いつ いつ であう
よあけの ばんに
つると かめが すべった
うしろのしょうめん  だあれ

 夜の闇を、歌声が伝っていく。
 澄んだ歌声は、しかし何故か、聞いた者の不安を駆り立てた。
 そして、歌声が聞かれるようになって以来、行方不明者が増加していた。

「雨が降ってきましたよ。早く帰らないと、ずぶ濡れになるんじゃないですか?」
 少年は、闇夜の広がる窓の外に眼を向けたまま、気の無い風に言った。
 実際、窓ガラスを大粒の雨が叩いている。昼間は青空が広がっていたと云うのに、夕暮れとともに集まった雨雲は、今や重みに絶え切れずに雫を落としている。通り雨のような激しさだった。
 少年の手が、正しく締められた藍色のネクタイの端を玩[もてあそ]ぶ。
「傘をお貸ししましょうか。何なら、返さなくても良い」
 むっつりと黙り込んで来客用のソファーに身を沈める男の姿が映った窓ガラスに向かって、少年は深深と溜息をついた。
 ネクタイから手を離し、代わりかのように冷たい窓枠に触れる。
「あのねえ。もうこんな時間ですよ。家には帰らなくて良いんですか。それともまさか、ここに泊まるつもりですか?」 
「お前が素直に話せば、すぐにでも帰ってやる」
「だからそれは、何度も話したでしょう? それ以上のことなんて知りませんよ」
 呆れたように男を振り返って、少年は溜息をついた。
 しかし男は、睨みつけるようにして少年を見ている。そして、低く通る声で一言。
「そんなはずがない」
 少年は、それに肩を竦めて応じた。
 そうして欧州風の書斎机の上の白磁のティーカップに手を伸ばし、冷え切っているのに気付いて元に戻す。冬にはまだ間があるが、雨が降れば相当に冷える。
 軽く溜息をつくと、少年は、顔を上げて部屋の隅にひっそりと佇んでいる青年に目を向けた。
「響[ヒビキ]、紅茶を淹れてくれ。それと、夕食だ」
 あと四時間もすれば日付が変わる。
 少年は、ちらりと男を見やった。
「ぼくの分と君と、こちらの刑事さんの分を。頼む」
「俺は要らん」
「曲がりなりにも客人を差し置いて食事をするのは、ぼくが厭なんです。食べたくなければ勝手にそうしてください」
 反論しかける男を気にも止めず、青年は少年に一礼すると、静かに部屋を出ていった。

 羽山成皓[ハヤマナリ コウ]は、線の細い容姿には不似合いに、年齢を考えれば相応に、食欲を発揮した。
 具だくさんのシチューに食べ応えのあるフランスパン、瑞々しいサラダに柔らかいプレーンオムレツ、白身魚のフライ。デザートのアイスを添えた温かいアップルパイに至るまで、残さずきれいに平らげた。
 一方の梨木建造[ナシキ ケンゾウ]は、食事には一切手をつけずにいた。もっとも、それが痩せ我慢なのは腹の音からも判る。
 このご時世、いくら経済が急成長しつつあるとはいえ、これだけの食材を普段の食事で用意するなどと、梨木には信じられない贅沢だった。
 皓の食器は下げられ、湯気の上がるティーカップを、指先を暖めるように抱えて寛いでいる。響は、ひっそりとその後ろに控えていた。
 そんな様子まで怪しいと勘繰るのは、僻[ひが]みだろうかと梨木は自問した。
 最近この付近では失踪事件が多発しているのだが、梨木は皓が何らかの形でそれに関わっていると睨んでいる。下手をすれば、犯人かもしれないとすら思っていた。
 皓は、最後に失踪者といるところを多く目撃されているのだ。そこに共通点――例えば、同じ学校に通っているとか同じところに勤めていると云ったものがあればここまで不自然ではないかもしれないが、そうではない。
 むしろ、皓と会っていたというのが共通点ではないかと梨木は見ている。一度本人にそう仄めかしたところ、「どうしてそれで、ぼくの方が狙われていると云う発想にならないんです?」と、呆れたように訊き返された。
 同僚や上司たちも梨木とは別意見らしく、それどころか、元華族で辿れば皇族にさえ連なる羽山成家を無闇に刺激するなと、釘を刺される始末。戦争に負けても何も変わっていないと、つい愚痴りたくなる。
 そして、そんな「羽山成」も、梨木が疑う根拠の一角を成していた。
 皓は、羽山成の若く病弱な当主が死んだ途端に姿を現した。紅子[ベニコ]という少女――前党首の双子の兄と名乗り、少年はこの洋館を訪れた。
 当然、目の前から巨万の富を掻っ攫っていった皓に対して親族たちは厳しく当たり、荒探しにかかった。例え出自が本当だとしても、何とか引きずり落とそうと意気込んでいた。
 しかしそれもある日を境にぱたりと止み、今ではこの二十歳にも満たない少年が羽山成を統括しているのだった。
 突然に、皓は大きく息を吐いた。
 整った顔を睨みつけたまま、半ば己の考えに埋没していた梨木は、そこで我に返った。途端に、まだ目の前に並べられている料理の匂いを感じ、雨音とどこかから聞こえる歌声が耳に入った。
「刑事さん、あなたは間が悪い。いや、そういう性分と言うべきでしょうね。よりにもよって今日来るとは」
「何?」
 苦笑するような少年を訝しげに見たまま、梨木は背筋が毛羽立つのを感じた。どうしようもなく、後ろを振り返りたい衝動に駆られる。
「怖いでしょう? あなたは、相容れない人のようですから」
 思わず立ち上がると、いつの間にか近くには、響が立っていた。
 響は、皓が連れてきた青年だった。まだ二十代後半のはずなのだが、やけに落ち着いていて生気というものを感じさせない。
 長身と無個性に整った無表情な顔が、梨木を威圧した。歌声が、心なし近付いたようだった。
 梨木は、二人から逃れるようにして後ずさった。しかし、目は皓から逸らせずにいる。
「お、お前ら・・・何、何だ・・・・」
「ファウスト博士とメフィストフェレス、と言うと解り易いでしょうね」
 もちろん梨木はそれが何のことか知らず、皓もそうであることを知っていた。
 そして梨木は、何故か力が抜けて足から崩れ落ちながら、この歌を知っている、と思った。
 さっきから聞こえていた、澄んだ歌声。
 ――かごめ かごめ
 そんな、歌い出しでは無かっただろうか。
 ゆっくりと、梨木は自分の意識を手放していた。真っ暗だと、最後に思ったのを覚えている。

 ある地方では、子供たちが周囲を回ることで中心に居る者を催眠状態にして神を下ろす風習があった。
 終わりの無い円形を描き、回る行為は、異界への扉を開く行為でもあった。

「やあ、いらっしゃい。直接会うのは初めてだね」
 そう言って、皓はにこやかに出迎えた。むしろ、その傍らに立つ響の方が緊張している。
 まだ八つほどの少女は、真っ直ぐに皓を見据えた。
 色素が薄く細くて癖の無い髪に、同じく色素の薄い瞳。家の中にも関わらず、黒いズボンに白のシャツは第一ボタンまできっちりと止め、ネクタイまで締めている。線の細い少年。
 それが、少女の漆黒の瞳に映る皓だった。
「座るかい?」
 そこに、意識を失っている梨木が横たわっていることを知りながら、皓は来客用のソファーを示した。
 少女はそれには応えず、じいっと皓と響を見詰めた。この部屋に入る前から歌声は止み、口は真横に引き結ばれている。
 不意に、その唇が開かれた。
「あなたは誰?」
「ぼくは皓。こっちは響。君は?」
「・・・あなたは、何?」
 会話を成す気が無い、あるいはその能力の無い少女に問われ、皓は小さく笑った。少し前であれば、この問いに迷っただろう。
「自己紹介はこの辺にしておこう。君が連れ去った人たちを返してここから去れば、ぼくは何を言うつもりもない。さあ、どうする?」
 やはり笑顔でそう告げても、少女はぼうっと皓を見ていた。
 雨音が強く響く。
「似てる」
「え?」
 思わず聞き返した皓に応じずに、少女は、外で降る雨にも似た大粒の涙を零した。  

 皓は一人、室内から尽きることなく落ちてくる雨を見上げていた。
 ふと思いついて、窓枠に手をかける。落とし金を上げて外に窓を押すと、軋みながらも簡単に開いた。
 雨に手を伸ばす。ひんやりとした空気よりも更に、雨は冷たかった。
「風邪を引く」
 気配もなく背後に立った響に動じることもなく、皓は、室内に戻そうと伸ばされた手をやんわりと払った。
「大丈夫。響がそうしてくれたんじゃないか。――わかった。わかったから。拭くものを」
 無言で訴えかける響に、皓は降参とでも言うように手を上げて、体ごと振り向く。響がすかさずタオルを渡し、窓を閉めた。
 皓は、手を拭うと椅子に座って、無表情のままに見下ろす響ににっこりと笑いかけた。
「刑事さんたち、送ってくれたんだね? あの子は?」
「奥の部屋を整えた」
「そう。ありがとう」
 失踪事件の原因となった少女は、今までのことを全て語り、今は眠っている。
 一人で連れ去った人々を出すことは出来なかったが、響が協力することでそれは解決した。気を失っていたのを幸いと、響に気絶したままの梨木と共に警察署の無人の一角に届けさせた。
 明日の朝には大騒ぎになるだろうが、それよりも問題なのは、少女の方だった。
 少女は、ただ寂しかったのだ。何故生まれたのか、どうしてここに居るのかも解らないままに一人ぼっちで、ただ歌っていた。それが同じように寂しい思いを抱えていた人々を引き寄せ、消してしまったのは少女の意思によるものではなかった。
 そのうち、少女は気付いたのだ。自分と同じ「異質なモノ」の気配に。
 それからは、皓――正確には、響――を追ってこの屋敷に辿り着いた。
「あれをどうするつもりだ?」 
 他者の前では主人に対するように振る舞い、誰がいなくとも皓の命じることに従う響は、淡々と問いを口にした。
 皓は、浮かべていた微笑を消し、どこか遠くを見るように視線を上げた。
「ねえ響。きっとぼくは、響に出会っていなければあの子について行っただろう。知っていても、きっと」
「コウ?」
「ぼくは響に出会った。そのことに、とても感謝している」
「俺は――」
 いつか、お前を殺すものだ。
 響は、薄色の瞳に見詰められ、何故か言えないままに口を閉じた。それでも、皓が続きを知っていることも知っていた。
 くすりと、皓が笑った。
「響のおかげでぼくは自由を手に入れた」
 指を組んで、そこに顎を乗せる。
「『ファウスト』を読んでいて、思ったんだ。メフィストフェレスはなんて優しいんだろう、とね。あそこまで破格の条件を出す必要は無かっただろうと、ぼくは思うんだ」
 悪魔と契約をして、若さや力を手に入れたファウスト博士。散々メフィストフェレスを使っておいて最後には天国に逃れるなんて、なんて卑怯なのだろうと、思った。
「ぼくは逃げたりしないから、安心して良いよ」
 男から女に、病巣だらけだった体から健康に。その上、響は誠実に付き従う。
 自分の魂にそこまでの価値は無いと思いながらも、皓――紅子は契約を交わした。魂と引き換えに、自由を。
 そこまで考えて、皓は苦笑して響を振り仰いだ。
「悪いね。どうせ従うなら、絶世の美女の方が良かっただろうに」
「いや・・・俺たちが見るのは、魂だ。問題は中身だ」
「ふうん」
 小さく首を傾げて、皓はカップを手に取った。中身はやはり冷えてしまっているが、躊躇うことなく飲み干す。
 コップを置く音が意外に響いて、皓は方眉を上げた。
「とりあえず、あの子は出来る限り保護したいと思っている。保護者という役どころをやってみたいとも思っていたしね。名前を考えなければな」
 皓の楽しむ口振りに、響は軽い既視感を憶えた。
 はじめて出会ったときも、こうだった。契約を交わし、響を「響」と名付け、自らを「コウ」と名付けたときも。
「――夜明けの晩に 鶴と亀が滑った」
 気付くと口ずさんでいた皓を、響は黙って眺めた。 
 白く光る、脆そうな硬質の魂。その持ち主が、今の彼の主人だった。
「後ろの正面 だあれ」
 夜は、深々と更けて行く。

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夜道

 夜道には気をつけれなければならない。それは、いつの時代も共通した認識であった。闇が人工灯に駆逐され掛けているかのような現代でさえ、どこで誰に襲われるか判ったものではない。昔はそこに物の怪の類も加わり、夜道は恐るべきモノであっただろう。
 今でも、片田舎には「何か」が出てきそうな闇の塊が残っている。ここも、そんな原始的な闇と恐れが、微かにではあるが残っているようなところだった。
 一面に広がる田の間に沿って畦道がはしり、その中に栗の少ない栗ご飯のように民家が立っている。昼間であれば圧倒するかのように咲き乱れているのが見られる彼岸花は、田からモグラなどを遠ざけるための手段であった。今は、広い間隔で建てられたために逆に寂しさを煽る街灯に、些か不気味に浮き上がっている。
 多少の星は見られるが、天空に月は無い。今夜は、新月であった。
 どこかぼんやりとした光りの下を、一人の少年が歩いていた。灯りも持たず、何故か白い狩衣を身に纏っている。年の頃は十余といったところだろうか。 黄がかった焦茶の長い髪を、細紐で無造作に束ねている。
「随分と賑やかだねえ」
 風が吹いて稲穂がさざめくと、少年は楽しそうに言った。その眼は、彼岸花に向いている。
「やっぱり、夜は淋しくなるのかな? 仲間は沢山居ても、お互いにわからないんじゃあねえ」
 くすくすと笑って、手近な彼岸花――死人花に手を触れる。剃刀花とも呼ばれるそれは、だが柔らかな手触りだった。
「ああ、貴方は恋人に裏切られたんだ? どうして自殺したのに、そんなに恨みが残るかなあ? それがなくならない限り、ずっとこのままだよ?」
 一層笑みを深め、乱暴に花から手を離す。小さく、悲鳴が聞こえたようだった。
 不意に、向こう側から二人の男がやって来た。共に長身で、少年と同じ黄がかった焦茶色の髪だが、こちらは忍び装束のような格好だ。少年の前まで来ると、主君にするように片膝をつく。
「準備できたんだ?」
「はい」
「じゃあ、後は連れて行くだけだね?」
「はい」
 揃った返事に、少年が軽く頷く。そうして、特に彼岸花にも男たちにも気を払うでもなく、近くの昔ながらの民家に歩を進める。
 その家は静まり返っていた。否、そこだけではなく、辺り一帯が静まり返っている。そろそろ日付の変わる時刻であり、この辺りでは寝静まっているのが当然であった。
「全く、兄様も手の込んだことをさせる」
 家の前で呟き、一瞬だけ年相応の表情を見せた。だがそれはすぐに掻き消え、得体の知れない微笑を浮かべた。誰に断るでもなく家の中に入ると、無言のまま男たちに先導され、迷うことなく二階の一室に辿り着く。そこは、この家の長女の部屋であった。
「おいで。僕と一緒に来るんだ。いいね?」
 耳元で静かに言うと、少女は夢見るような表情で起きあがった。少年の伸ばした手を軽く掴み、そのままに手を引かれていく。四人は、静かに家を後にした。
 外は、少しばかり冷たい風が吹いていた。だが、薄着の少女も少年たちも、それを気にする様子もない。立ち止まったのは、別の理由だった。
「何か用かな、お嬢さん?」
 少女から手を離し、男たちにそのままでいるよう無言で伝え、道の真中に立ちはだかる女の子を興味深そうに眺める。やはり顔には、笑みが貼りついたままだった。
「お姉ちゃんを連れて行くな」
「この人の妹?」
 頷く女の子は、少年よりも幼いようだった。とすると、この姉妹は十ほども年が離れているのだろうか。
「お姉ちゃん、狐のところに行っちゃ駄目だよ」 
「あれ、どうして判ったの? これのせいかなあ?」
 少年は、自分の黄がかった焦茶――狐色の髪を引っ張った。同意を求めるかのように、二人の男を振り返る。
「それとも、元々判る人なのかなあ?」
 妖を見分けられる人は、そう多くはないが、いる。少年は、少し困ったような笑顔で首を傾げ、短く考え込んだ。
「今日は引き上げようか」
 やはり静かに待機している男たちを見て、笑む。
「厭だなあ、心配しなくて良いよ。兄様が何か言って来たら、全部僕が引き受けるから。今回は、この子に免じて帰ろう」
 女の子が、安堵の表情を見せる。緊張していたのだろう、泣きそうにも見えた。
 少年は、気付かれるはずのなかった術に気付いた女の子を、面白そうに見ている。この子さえいなければ、無事に少女を「花嫁」として兄の元へ連れて行けたはずなのだが、その妨害に対しての苛立ちや戸惑いは一切見られない。
 少女をそこに残したまま、少年たちが歩き出す。女の子は、それを睨むように見つめている。少年が、女の子の前で立ち止まる。虚勢を張りながらも怯む女の子に目線を合わせて、少年は言った。
「今日は帰るけど、今度があればきっと兄様が来るよ。お姉さんを守りたいなら、頑張るんだよ」
 女の子は、頷いた。少年が、くすくすと笑う。
「君の名前は?」  
「司」
「司ちゃん。また、会おうね」
 そう言って、初めて、少年が本当の笑顔を見せた。
「ついでだから、良い事を教えてあげよう。今日みたいな月の無い夜に白い曼殊沙華を見つけたら、願い事を言うと良い。あかい彼岸花は人の妄執がこもってるだけだから、何もしてくれないけどね」
「マンジュシャゲって?」
「彼岸花のことだよ」
 呆然としたまま、司は三人を見送った。
 少年たちが完全に去ると、周囲が暗くなった。その時になってようやく、司は街灯だけにしては明るすぎた事に気付いた。狐火だったのだろうと、祖父母の昔話を聞いていた司は思った。
 しばらくして、司は姉の手を引いて鍵のかかった玄関を叩いているところを両親に見つけられた。姉は何も覚えておらず、司の言った事は信じてもらえなかった。それでも、しばらくは狐が出たという話が飛び交っていた。
 その日から、司の耳には彼岸花にこもる声が届くようになってしまった。風の強い日などに、怨嗟の声が聞こえるのだ。だが、それだけだ。
 司がこの時の姉と同じ年になっても、この近辺で行方不明者の出る事は無かった。それが白い彼岸花にお願いをしたからかは、司には判らなかった。
 あの狐には、まだ会っていない。

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夜のぬいぐるみ

 それは、私がまだ幼い時分のことだった。

 夏休みに訪れた祖父母の家で、騒ぎ疲れた私は、易々と眠りについていた。
 その頃は他のイトコ達も示し合わせて同じ日に来ることが多く、短い間だったが、私は、沢山の兄弟ができたような気がして、随分とはしゃいでいたのだ。
 隣には私同様のイトコが眠り、その部屋には、五人ほどが詰め込まれるようにして寝ていた。
 
 夜中に、ふっと眠りが途切れたのは、珍しいことだった。
 今でもそうだが、一度眠りについた私は、そう簡単に目覚めることがない。
 だからあれは、やはりただの夢だったのかも知れない。

 目を覚ました私は、ぼうっとしていた。
 何かに呼ばれたような気がしたのだが、すっかり眠りきっているイトコ達からは、いびきの音はするものの、何も感じられなかった。
 何だろうと、天井を見上げたままぼんやりしていた私の視界に、小さなもこもことした手が映った。

「こら、お前。私はここに居るのだ。連れて行こうなどと、断じて思うなよ」

 何、と思ったのだが、声も上げず体も起こさず、網に捕らえられたようにして、すうっと眠りに落ちていった。

 翌朝、徐々に目覚めて騒ぐイトコ達の中で眠りの残滓を引きずったままの私は、寝る前に頭の上に置いていた、鼠のぬいぐるみを見た。
 やけに愛らしい目をしたそれは、祖母のものだった。ただ、その前の晩に私が譲り受けていた。
 譲り受けた――貰ったのだ。
 普段、さしてぬいぐるみに興味はなかったのだが、何故かそれには目を惹かれ、祖母と色々と話をしては、ある一言を待っていたのだ。

「そんなに気に入ったなら、持って帰るかぁ?」
 
 訛りのある言葉で、祖母ははっきりとそう言った。
 呉れるという言葉を待ち受けていた私は、即座に肯くと、意気揚々とそのぬいぐるみを抱えて、寝床に向かったのだった。

 そうして夜、視界に入った手は確かにこれだったと、私は確信していた。

 結局その年、貰ったはずのぬいぐるみは、こっそりと置いて帰った。
 元にあった場所に戻して、祖母には何も告げなかった。
 きっと、気付かないか私にあげた事実を忘れているかするだろうと、思ったのだった。
 もしそうならなければ、きっと忘れ物として宅急便で送られてくるだろうと思ったけれど、それならそれでもいいと、少し未練の残っていた私は考えていた。
 
 鼠のぬいぐるみが、送られてくることはなかった。

 それから十年と少しが経って、祖母と、それに続いて祖父が亡くなった。
 あのときのことが夢でなければ、鼠のぬいぐるみの中にいたものは何だったのだろう。
 妖怪か、神か、霊か。
 そのくらいしか思い浮かばないけれど、そのどれでもないような、どれでもいいような、そんな気もする。

 葬式の後、穏やかに残ったものをどうするのかと話し合う親戚達を置いて、私はこっそりと祖母の部屋に入った。
 そこにはまだ、あの鼠が居た。

 特に惹かれるものはないのだけれど、手を伸ばした。
 ――今度こそは、家に連れて帰ろう。

    
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よる、ひらく

 ・・・疲れたなあ。
 そう呟く気力も惜しくて、畑中は中途半端に息を吐いてそれに変えた。
 看護婦も帰ってしまって、今、医療所にいるのは畑中だけだ。設備の乏しい僻地の施設だけに、入院患者などというものもいない。
 入院が必要となれば、即座に離れた総合病院に連絡をして、配送の手配をするのも畑中の仕事だ。
「〜っ」
 小さく呻き声を漏らして、回転キャスターの背もたれから、重い体を起こす。
 それだけでも大儀なのだから、やはり、相当疲れているのだろう。
 暑さにやられて夏バテで、それが治まってきたと思ったら、今度は急な寒さにやられた風邪ひきが押し掛ける。おまけに彼らの話は、長かった。
 これで、もう少し村人が多ければ、畑中は過労死しているだろう。
「さ、て。帰るか」
 声に出して、区切りをつける。
 帰ると言ったところですぐ隣の離れのようなところだが、帰るのには違いない。
「あの、せんせい」
 呼ばれて、こった肩をぎこちなくめぐらせると、いつの間にか部屋の入り口の向こうに、小さな女の子がいた。
 ・・・誰だこれは?
 こんなに狭い地域なのに、見たこともない顔に、気分だけ首を傾げる。小学校に通っているかいないか、それくらいの年齢で、白い色の肌に、髪は少し青っぽい。
「あのね」
 そう言って、口をつぐむ。迷っているのか、言葉を探しているのか。
 その間に、畑中は、ふわりとしたスカートの下の膝頭に、赤い色が滲んでいるのに気付く。
「おおい、ちょっとおいで。膝の手当をしないと」
 ・・・これは、タヌキかキツネに化かされてるかな。
 そう思わないでもないが、だからといって、目の前のけがを見逃していいということにはならない。
「少し、しみるよ」
 そう言ってから、軽く水でながして、消毒液を浸した脱脂綿をつける。
 きゅっとしかめたかおを微笑ましく眺めながら、少し考えて、ガーゼを巻きつける。
「はい、これで大丈夫。よく我慢したね、えらいよ」
 にこりと笑いかけると、ぱっと、花が咲いたような笑顔が返される。
「ありがとう、せんせい。――あのね、ガマンはたいせつなの。がんばるのも、いっしょうけんめいもたいせつなの。ムリだって、きっとたいせつなの。でもね、ガマンばっかり、いっしょうけんめいばっかり、ムリばっかりは、だめなの」
 女の子は、黄色っぽく見える瞳で見上げた。
「せんせいもね、やすんでいいんだよ。ね?」
 何を言われているのだろうと、一度大きくまばたきをして、目を開けると、女の子はもういなかった。
 代わりに、診療室の戸と、窓が大きく開かれていた。
 秋の気配を呼び込む風が、ざあと吹きつける。
「・・・?」
 やはりタヌキかキツネか、と思いながら、とりあえず窓を閉めようと近づくと、また風が吹き、一度、畑中は目を閉じた。
 開くと、目の前に一面の花。
 小さな花たちが、月光の下で咲いている。
 青がかった白い花は、月の光を受けて、病的なほどに青白くほのひかる。
 どこまでも、小さな花の咲き乱れる野原のような錯覚を覚える。
 ノジギクだと、頭のどこかが花の名を告げるが、それよりも、目の前の光景に心を奪われた。
 きれいな、それは安らぎだった。
「これを・・・見せてくれた、のか・・・?」
 知らずに声に出していて、自分の声に驚いて、慌てて口を塞ぐ。
 しかしそれは、やがて、口元の笑みを隠すかのようになった。なんて、凄い贈り物だ。  
「名前も知らないが、ありがとうよ」
 そうして畑中は、目を細めるようにして、しばらくの間ノジギクの花畑を眺めていた。

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