現在までの芸人をまとめた史上最強のお笑いデータベース。
随時更新していきますので、お見逃しなく。


  【う】

植木等
 ご存じ日本一の無責任男。東宝映画でそのイメージが定着した。無責任といっても、自由奔放なサラリーマンを演じている。結局、主人公のサクセスストーリーという話になることが多い。そうかと思えば、カンカン帽をかぶり、腹巻きにステテコ姿といった、昔のオヤジ風な出で立ちでコントを演じることもある。シャボン玉ホリデーのコントで自分の出番を間違え、アドリブで「お呼びでない。こりゃ又失礼いたしました。」とやったところ大受けし、流行語にまでなったのは、有名なエピソードである。また歌手としても「スーダラ節」「ハイそれまでヨ」など多数ヒット曲があり、歌詞からも流行語が生まれたりしていた。その後、人気が下火になっていたが、90年代にドラマ「お呼びでない奴」で、所ジョーシ、高橋良明と親子3代無責任家族という設定で元祖無責任男として復活。また、"スーダラ伝説"もヒットし、健在ぶりを見せつけていた。現在では、コミカルな役どころよりも渋い演技でドラマ、映画に活躍中である。
上園そんな
 大柄な風貌ながら、なよなよっとした語り口のギャップが大きい。口調が女性っぽいがオカマチックなキャラクターはどこにも感じられない。おもに小さいライブに登場するが、ネタとして笑えるところはない。では見るに値しないかというとさにあらず、落としネタとして「そんな〜そんな〜」のフレーズはインパクトが強烈で、一度聞いたら耳について離れない。小さなネタ1つに必ずこれを連発されるからどんなネタか覚えてなくてもついつい笑ってしまうかもしれない。ローカル局で大川興業がメインの番組で3週にわたって紹介されたり、競馬エイトのCMにも登場したこともある。
ウガンダ・トラ
 1977年に"いそがしバンド"を結成、直後にビジーフォーと改名。ドラムスを担当し、太った体型でコミカルな動きをする芸で笑わせていたが、人気が低迷し、バンド解散となる。その後はタレントとして、大食い番組などに出演したりしている。なお、ラッシャー板前は義弟である。
浮世亭ジョージ・ケンジ
 アメリカ人のジョージと日本人のケンジが結成した大阪の異色漫才コンビ。お互いの文化や言葉のギャップをネタに笑いをとっていた。しばらくコンビは続いたが解散し、ジョージはアメリカ人ニックを新パートナーに"ザ・USA"を結成。ケンジは国分健二と改名、B&B解散後の島田洋七と漫才コンビ"スティング"を結成したが現在は国分兼と改名し俳優業で活躍している。
ウッチャンナンチャン
 日本映画学校に在籍中の内村光良、南原清隆の二人が、授業の一環でコントをすることとなり、コンビ結成。そのときの講師であった内海好江に見いだされ、お笑いコンビとして本格的に始動。"ちょうなんず"で「お笑いスター誕生」にデビュー。直後"ウッチャンナンチャン"に改名。サバイバルシリーズで優勝する。芸風は、それまでのコントが目を向けない視点で構成され、不条理でありながら、リアリティのある新しい感覚の笑いを生みだし、同世代に支持されるようになる。映画「7人のおたく」での"オタク"をリアルに演じたところから、ドラマ・映画にも進出、また"劇団SHA−LA−LA"にも在籍し定期的に舞台でも活躍している。現在、バラエティ番組でコントをすることがほとんどなくなっているが、「炎のチャレンジャー」メイン司会、「ウリナリ」では、若手芸人とお笑い以外の分野で果敢にチャレンジするといったドキュメンタリー的な活動がメインになっている。なお、彼らメインの番組で構成作家をしている内村宏幸はウッチャンの従兄弟である。
内海桂子・好江
 東京の数少ない女性同士の漫才コンビ。コンビ解散直後の内海桂子が当時9歳の内海好江とコンビを結成。江戸っ子気質の気っぷのいい本格的なしゃべくりに加え、三味線を弾きながらの小唄、都々逸なども披露、常に第一線に位置し、東京漫才として安定した人気を保っていた。東京漫才としては初めての紫綬褒章を授与された。コンビ結成40年を目前に内海好江が病没。現在、内海桂子は漫才協団会長に就任、ご意見番として後進の指導をする傍ら、ドラマや情報番組のコメンテーターとしても活躍中である。
内海突破
 昭和11年、西条凡々の名で師匠である西条凡児と漫才でデビュー。直後に内海突破と改名。昭和15年に並木一路とのコンビで人気者となる。戦後、NHKラジオ「陽気な喫茶店」では松井翠声とのコンビで「ギョギョッ」というギャグが流行語となる。門下生には、桂子・好江、てんや・わんやなどがいた。
海原お浜・小浜
 大阪の女性ベテラン漫才師。叔母と姪の関係である。芸歴は小浜のほうが長く、4歳の時、月の家桃子の名で舞台を踏んでいた。9歳の時、その舞台を客席で見てあこがれていたのが、お浜であった。その後コンビを組むこととなり、漫才界で活躍。きびきびとした語り口でのしゃべくり漫才で定評があった。しかし、昭和53年に病気などによる体力の限界のため、お浜が引退、コンビ解消となる。現在、小浜はラジオのDJやテレビのコメンテーターなどで活躍。一方、お浜は平成6年に亡くなっている。
海原千里・万里
 幼い頃から姉妹で漫才コンビを組み、ラジオ、テレビの素人コンクールに出演。昭和46年大阪に出て、漫才の海原お浜・小浜に弟子入り。海原千里・万里として活躍。47年第1回上方お笑い大賞銀賞、翌48年NHK漫才コンクールで最優秀敢闘賞を受賞。若手の女性漫才コンビとして、お笑い界に新風を吹き込んだ。主に当時の女性アイドル歌手をネタにした笑いが多かった。また歌手としても活躍し、「大阪ラプソディー」などのヒット曲がある。千里は昭和52年結婚して漫才コンビ解消、家庭に入っていたが、翌年料理番組で土井勝の助手をしたのがきっかけで本名の上沼恵美子で復帰する。平成6年、7年NHK「紅白歌合戦」の司会を務めた。万里は妹の結婚を機に芸能界を引退し、その直後、コメディアンの夢大作と結婚した。こちらは主に家庭に入っているが、妹のラジオ番組には週1度出演している。
海原はるか・かなた
 海原お浜・小浜に弟子入り。昭和45年8月大阪コマモダン寄席でデビュー。磨かれた正統派しゃべくり漫才として、広い層に人気がある。また最近はハゲネタもレパートリーに加えている。
海原さおり・しおり
 昭和52年「美空ひばり特別公演」でデビュー。53年"花の110番"というコンビ名で漫才コンビを結成。昭和54年海原小浜門下となって現在のコンビ名に改名。「お笑いスター誕生」などで活躍。ほかに「2時のワイドショー」などにも出演していた。「お笑いスター誕生」の出演がきっかけでさおりが大木こだまと結婚した。現在も漫才・舞台で活躍しており、平成10年にはコンビ結成20周年記念リサイタルを開催した。
海原やすよ・ともこ
 平成4年、中田ボタン門下として漫才コンビを結成。若手の成長株であり、もともとはボケが妹のやすよで、姉のともこがツッコミだったが、周囲の助言を受け、すぐに交代した。日常の出来事をもとにやや世間を斜めに見ているようなネタが得意である。名前から判るように祖母は海原小浜、父親が海原かける(相方は池乃めだか)で、親子3代漫才師というサラブレッドである。
梅垣義明
 WAHAHA本舗の中心的存在。昭和59年WAHAHA本舗のオーディションに合格。劇団公演にはレギュラーで出演しているが、自身もライブ、演芸などにたびたび出演することがある。主なネタとしては、女性シャンソン歌手に扮装し、豆を鼻に詰めて、越路吹雪のヒット曲「ろくでなし」にあわせて鼻から豆を飛ばす。また、尻にバラの花束をつっこみ加藤登紀子の「百万本のバラ」にあわせて尻からバラを1本ずつ抜き取り、客席に投げるという、下品でありながらなぜか楽しめる宴会芸的な芸をする。最近では「はみだし刑事」にレギュラー出演し、刑事役を好演していた。
海野かつを
  "うんのかつを"とよむ。昭和24年頃から浅草のフランス座などに出演。渥美清が退いたスリーポケッツに新メンバーとして加入。その後解散し、喜劇役者として活躍。NTVの「おはよう!こどもショー」でどらねこ"ニャンダ"のぬいぐるみに入り、本人のゴツイ顔は出ないものの、子供達の人気者でもあった。また、家電メーカー「新栄電気」のキャラクターとして、10年以上にわたり同じCMを放送していたのが印象に残っている。主にヘルスセンターなどの司会をしていたようであるが、CMが縁で芸人を引退し、新栄電気に転職してしまった。


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