現在に至るまでの芸人、喜劇人をまとめてみました。
50音順に掲載していきますので、乞うご期待。


  【お】

オアシズ
 光浦靖子と大久保佳代子が結成したコントコンビ。女性の若手コンビとしてはシュールなネタで評判も高かった。現在もコンビは継続しているが年1回ほどライブで顔を合わせる他は個人での活動がほとんどで、光浦は主にテレビのバラエティ番組やCMに出演し、大久保は舞台を中心とした演劇活動でそれぞれ活躍している。
大泉滉
 俳優。時代劇では必ずと言っていいほど、怪しい宣教師、インチキバテレンの役しか回ってこない。どう見ても日本人離れしている風貌であるが、祖父がロシア人であることからなるほどうなずける。若手時代は二枚目俳優であったが、年を重ねるにつれコメディアン的な扱いになっていくものの、本人は「自分は喜劇役者ではない」とポリシーを曲げなかった。またハンナ・バーベラのアニメの声優としてもしばしば登場し、「スカイキッドブラック魔王」では発明家でわけのわからん台詞をしゃべりまくるビックリ役でおなじみであろう。私生活でも自宅の庭に畑をつくり、そこでトマトやナス、キュウリなどを栽培して自給自足の生活を続けていた。「化学肥料は体によくない」と肥料はもっぱら人糞を使っており、当初は近所から苦情もでたという。夫人も元祖“オバタリアン”としてTVに出演していたこともある。コミカルでひ弱そうなキャラを売りにドラマや映画などでバイプレーヤーとして活躍していたが平成10年に惜しくも病没してしまった。
大川興業
 明治大学在籍の単なるパフォーマンス集団から芸能事務所と異例の大出世をした。昭和58年頃から5〜6人の応援団風の格好で、花火などのパフォーマンス芸を繰り広げ、素人参加番組などの常連となった。リーダーは自称“日本3大総裁”といわれている大川豊総裁。企業の面接試験を100数社受けたがすべて落ち、最終的に太田プロに芸人として所属することになった。その後、大川興業株式会社として設立するも資金難から解散宣告を受け現在、芸能プロダクションとして活動している。芸風は体を張ったパフォーマンス専門であったが、上演中、構成員であったピグモン勝田の事故死により以後路線を変更。社会風刺や放送禁止、差別ネタを織り交ぜた替え歌、芝居などで実力的にも認められてきた。ここ数年は大川興業としての活動よりも構成員それぞれがTV・ライブなどで活躍している。所属する主な構成員は江頭2:50、ふうりんかざん、松本ハウスなどがいる。また大川総裁も“PLAYBOY”や“ぴあ”などにエッセイや評論を執筆し、“選挙オタク”としてTV等でコメントしていることもある。
大木こだま・ひびき
 関西漫才界の実力派コンビ。昭和56年から“新幹線コンビ”大木こだま・ひかりとして「お笑いスター誕生」に登場。6週目までストレートに勝ち進んだものの、大木ひかりが覚醒剤に手を出し、一時雲隠れ。すぐに復帰し10週勝ち抜きでチャンピオンになったものの、収録が終わった直後その場で逮捕。グランプリを獲得した瞬間にコンビ解消となる。一時期スポーツ新聞で相方を募集していたこともあったが、ちょうどそのころ同時期に出演していた漫才の古都からん・ころんも漫才に行き詰まりコンビ解消となっていたので、大木こだまと古都からんの二人で新コンビ“こだま・ひびき”を結成した。漫才のネタもさることながら、ダミ声でまったりとしたこだまの天才的なボケと合いの手風につっこむひびきのコントラストが笑いをいっそう引き立たせる。実力的には申し分なかったものの関西ローカル色の濃いコンビであったが、こだまの「往生しまっせ」のフレーズが受け、以降人気がウナギのぼりになった。平成9年には上方お笑い大賞を獲得するなど人気、実力とも押しも押されぬ漫才コンビとなって吉本の看板を背負っている。
大阪笑ルーム
 「お笑いスター誕生」中期にチャレンジしたコンビ。当初はコントであったが、「漫才の方が向いている」とのアドバイスで漫才に転向。キャラクタであるハゲをネタの随所に盛り込んで笑いをとっていたが、「実力があるのだからハゲネタはやめた方がいい」と審査員から注文を付けられることもあった。ネタの構成と話術では若手でもトップクラスであったが、その後尻すぼみとなり、いつのまにか表舞台から消えてしまった。
大阪百万円
 ビートたけしに弟子入りするときに持参金として100万円を持ってきたのが芸名の由来。持ってきた100万円は軍団メンバーが飲み代としてその日のうちに使い果たしたという。たけし軍団2軍である「軍団セピア」に加入。あまり目立った活躍がなかった。「軍団セピア」解散後、引退したのではないかと思われる。
大空みつる・ひろし
 ベテラン漫才として派手さはないが、当たり外れはない漫才で落ち着いて見ることができる。ネタ落ちとしてダジャレを使うこともあるが、あまりウケることはない。
大空遊平・かほり
 大空ヒットに師事していた遊平が、東京アナウンスアカデミー声優科を卒業したばかりのかほりを口説いて昭和57年コンビ結成。当初は大空遊平・大海かほりと名乗っていた。「ザ・テレビ演芸」でチャンピオンとなってから実力を付けてきた。結婚を機に“大空”に亭号を合わせ、現在も主に演芸場を中心に活躍している。芸風は妻が夫をおちょくって笑いをとるといった典型的なパターンではあるが、夫婦漫才としては三球・照代の安定さと大助・花子のテンポのよさの両方を兼ね備えており、今後が期待されている。
大瀬ゆめじ・うたじ
 昭和46年、大瀬しのぶ・こいじに入門しコンビを結成。漫才コンクールをはじめ、数々の賞をとり実力的には申し分ない。主に演芸場を中心に活躍。芸風は本人曰く、「野次馬的拘わり漫才」。一度目は感心し、二度目は教養に変わり、三度目には眠くなる漫才だそうな。ゆめじがダジャレで落とそうとするが、うたじには全くシャレがわからなく、いっこうにネタが落ちないといったパターンを5・6回続けるという漫才である。
鳳啓助
 漫才師。京唄子との夫婦漫才で一世を風靡。小太りでおかっぱ頭の風貌で“エロガッパ”の愛称で親しまれた。また「えっ、鳳啓助でございます。」「聞いて私は驚いた。ポテチン。」などのフレーズはかつてのモノマネの定番中の定番となった。相方の京唄子と離婚後も漫才を続けるが、次第に演劇に方向転換し、漫才をやめ京唄子と「唄啓劇団」を旗揚げし、自らも出演する傍ら、劇作家“志織慶太”を名乗り芝居の脚本を執筆していた。また関西テレビ「おもろい夫婦」では離婚した二人が司会を務めるにもかかわらず、20年近くも続いた長寿番組となった。私生活でも4回も結婚するなど若々しいところを見せていたが残念ながら病没してしまったのは彼の貴重なキャラクターからしてもう一度漫才を見たかっただけに非常に惜しまれる。
大宮敏充
 浅草でこの人の名前をいってもピンと来ないが、「デン助」といえば知らない人はまずいないほど浅草の香りが染みついた喜劇役者である。浅草のコメディアンから「デン助劇団」を旗揚げ、ハゲヅラとコントにでてくる泥棒のようなヒゲ面で首を振りながらよたよたと「おスミちゃ〜ん」などと言いながら登場し笑いをとっていた。よくコントで加藤茶のハゲおやじや研ナオコがデン助のマネで登場するが、この人が元祖である。そんなデン助の喜劇を「演芸場だけで見せるのはもったいない」とNET(現・テレビ朝日)が「デン助劇場」として中継を始め、これが高視聴率を呼んだ。この「デン助劇場」は昭和35年から昭和48年まで続いた看板番組となった。しかし、浅草お笑い界の衰退とともにこれ以降、東京で喜劇を中継することはなくなった。また上演後の1コーナーとして設けられていた「あゆみの箱」募金の創設者でもあり、ボランティア活動などにも力を入れていた。昭和50年、数々のベテラン芸人が相次いで他界していく中、笑いを提供してくれたデンさんも胃ガンで喜劇人生の幕を下ろしてしまった。
大村崑
 神戸のクラブでボーイ兼司会者として当時は愛井植男と名乗ってゴーゴー漫談なる物をやっていたが、大阪北野劇場の専属コメディアンとなり、その後30年代のテレビコメディー「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」「とんま天狗」などいかにも人の良さそうな弱々しいキャラと、どこか間の抜けたボケで一躍喜劇界の人気者となる。さらに大塚製薬の「オロナミンC」のCMでは「おいしいとメガネが落ちるんですよ」のフレーズがバカ受けし、その知名度は全国的に浸透し、当時のブリキの看板は今ではプレミアがつくほどのお宝となっている。また「おはよう!こどもショー」では「コンちゃんのトンカチのどじまん」の司会も担当。その後徐々にコメディアンから役者に転向し、舞台・テレビで活躍する。現在もシリアスな役どころのパイプレーヤーとして活躍するかたわら、「おもいっきりテレビ」のコメンテーターとしてもしばしばお茶の間に登場する。
大森うたえもん
 昭和56年ビートたけしの弟子で友人でもあった東国原英夫に誘われ、漫才コンビ「ツーツーレロレロ」を結成。当時は大森クンタと名乗っていた。お笑いスター誕生で銀賞を獲得。その当時の仲間であったカージナルスらと「たけし軍団」を結成、大森うたえもんと改名する。軍団内ではコントのネタや構成を担当することも多かった。メンバーの中でも下ネタはやらず、替え歌やパロディーを主体とするネタを披露し「軍団の良心」とも言われていた。著名人の台詞やフレーズをもじった「例ダース」や「ノルウェーの大森」などのパロディー本を出している。しかし師匠であるビートたけしや軍団の他のメンバーとの笑いに対する方向性の違いから軍団を脱退、自分の芸風の理想とする所ジョージに師事することとなる。現在は雑誌のコラムなどの執筆活動やバラエティー番組の企画・構成を中心とした活動で細々とがんばっているようだ。
大森笑劇研究会
 ラッツ&スターの前身であるシャネルズの裏の顔。ライブやコンサートでMCの代わりにコントなどをやっており、それが一部業界では評判になっていた。淫行事件で謹慎から復帰後、歌だけでなく笑いのセンスにフジテレビが飛びつき、プライムタイムに5分間彼らの番組をもたせ、そこで「大森笑劇研究会」の名でコントを繰り広げていた。その中で田代まさしと桑野信義が特出して、「笑っていいとも」の1コーナーに抜擢されたのをきっかけにお笑いの世界に浸りきってしまった。まさに"芸人は3日やったらやめられない"を証明しているようなものだ。現在ではラッツが活動停止状態にあり大森笑劇研究会も自然消滅している。
オール阪神・巨人
 岡八郎の弟子。昭和50年コンビ結成。「ヤングOH!OH!」でコンビ名を一般公募したところ、この名前が採用された。背の高い巨人と低い阪神とのコントラストがおもしろく、すぐに関西を代表するコンビに成長した。しゃべくりとテンポのよさが絶妙な上、ネタの合間に出てくる阪神の擬音を使った効果音やものまねを巧みに取り入れて漫才に幅を持たせている。漫才ブームでは「子供電話相談室」のネタで「そうだね。い〜ところに気がついたね。」というフレーズがスマッシュヒットとなる。さらにブームの波に乗ろうと「おれたちひょうきん族」に出演。「ひょうきんプロレス」でシャープ兄弟役でプロレスをしているときに、阪神の股関節を裂傷する事故が発生。それ以来、自分たちは漫才師であることを再認識し、漫才一筋に精進を重ねる。上方お笑い大賞を受賞するなど、やすきよ漫才亡き後、今や人気実力ともにナンバーワンの漫才コンビとなっている。またポピーのCMでも阪神が幼児用の車に乗りながら言う「クルマにポピー」のフレーズは大ヒットとなり、現在でもこのシリーズは続いている。
おかけんた・ゆうた
 岡八郎の弟子。ソップ型のけんたとアンコ型のゆうたの対照的なコンビであるが、兄弟子であるオール阪神巨人とは風貌が異なる。結成当初は岡けん太・ゆう太と名乗っていた。漫才の実力はそこそこあるが、どちらかというとバラエティ向きな面はある。現在エビせん・ジャコせんのCMでお目にかかれる。
岡八郎
 高校卒業後、宝塚映画の研究生となるが、昭和35年花菱アチャコの紹介で吉本新喜劇の研究生になる。その後、浅草四郎とのコンビで漫才をするが長続きせず、吉本新喜劇で活躍。「奥目の八っちゃん」の愛称で新喜劇の座長を務め、尻を掻いた手のにおいをかぎ「くっさ〜」「えげつな〜」などのギャグをとばす。また、「ただいまご紹介に預かりました"大川橋蔵"です」と言い周囲をずっこけさせるギャグもある。その後同じ新喜劇で活躍中の花紀京とも1年ほどコンビを組んで漫才をしたこともある。主に新喜劇をメーンとして活動してきたが、平成元年吉本の若手路線への変更とともにリストラに近い状態で第一線を退くこととなってしまった。現在闘病中とのことであるが、まだ引退はしていないので、もう一度「くっさ〜」のギャグを見てみたいと思う。
おぎやはぎ
 小木博明と矢作兼の漫才コンビ。高校時代からの友人。それぞれサラリーマンとして過ごしていたが、お笑いの世界が楽そうに見えたので脱サラして平成7年この世界にはいる。マニアックなネタしか見せない。ぼくとつとした2人の語り口と間の取り方は絶妙で関東ではウケているが、関西ではあのテンポは受け入れがたく、評価が分かれるのではないだろうか。出だしからどことなく象さんのポットに近い雰囲気はあるが、「結婚詐欺師」や「結婚式の司会」を題材としたネタなど1本ストーリーのある漫才で笑いをとっている。雑誌「日経エンタ」では"おぎやはぎや"と名前が間違って掲載されていた。
おきゃんぴー
 「鶴ちゃんのプッツン5」に出ていた"まり子"と"まあ"の女性お笑いコンビ。観客が理解に苦しむような意味不明のギャグや「おならプーッ」などお下劣ネタでただ騒いでいる印象でしかない。番組終了後1年ぐらいで解散していたが、98年ごろ1度だけ復活した。まり子は現在中野まり子として宝島のVOWにコラムなどを連載。まあは現在林家しん平夫人。
男同志
 大川興業構成員の江頭2:50とコンタキンテが結成したコンビ。まじめな役どころのコンタに怪しいホモ役の江頭が絡み不条理な世界を繰り広げるが、決して気色の悪いものではなく、笑いがふんだんに盛り込まれており、観客のウケもよい。しかしややあぶないネタも多いため、なかなかTVでオンエアされることはなく、マニア向けにおすすめと言った感じである。99年3月にコンタキンテが結婚を機に舞台役者として一から勉強し直したいとの理由から、大川興業を退社。好評を博していたコンビも自然消滅してしまった。
小野栄一
 ボードビリアン。昭和26年から歌謡ものまね、パントマイム、腹話術など様々な芸でテレビ、ラジオなど出演し、人気を得る。ものまねのレパートリーは主に戦後のベテラン歌手の歌まねで、美空ひばりの歌まねが十八番であった。その後事件を起こし一時期表舞台から遠ざかっていたが、現在は歌謡ショーの司会や慰問などで活動しているようである。
小野ヤスシ
 自称"鳥取県が生んだスーパースター"。昭和34年「桜井輝夫とドリフターズ」のメンバーとなる。5年後ドリフターズを脱退し、ドンキーカルテットを結成。お手軽なコミックバンドとしてステージやTVで人気が出る。昭和46年にバンドを解散した後はTVタレントとしてバラエティ番組や11PMでメインではないもののレギュラーゲストとしてしばしば出演する。この人のお茶の間での人気を不動のものにしたのは「スターどっきりマル秘報告」のレポーターとしての活躍ぶりであろう。現在3代目のキャップとして特番では笑いを交え番組を進行させている。またTVドラマ、Vシネマ、映画などでも悪役から渋い管理職役まで幅広い演技をこなしている。95年には地元鳥取から参議院選挙に立候補、惜しくも次点で落選したが、次点ということで "鳥取県が生んだスーパースター"のキャッチフレーズもあながちでまかせではないということが証明されて良かったのではないだろうか。
帯谷孝史
 吉本新喜劇の中軸をなすベテラン役者として活躍。横顔がポットの形に似ていることから必ずネタとして使われる。新喜劇ではしばしばやくざの役で登場するが、その際の脅し文句として「あほんだら、あほんだら…」を連発すると、なぜか周りの人が自分に向かって手を合わせて拝んでいる。「何しとんねん」というと「あほんだら教の教粗さんでしょ」というギャグがある。これらのギャグは今でも毎回みることができる。
オホホ商会
 構成作家である喰始が主催するお笑い劇団。同じく主催するワハハ本舗の弟分(2軍)といったところか。ワハハとの垣根はなくほとんど一緒に舞台に参加しているといってもいいだろう。出世頭としては吹越満が一時期こちらに所属していたことがある。
おぼん・こぼん
 漫才師。結成当時は"月見おぼん・こぼん"。芸名の由来は大阪の大きいボンボンと小さいボンボンというところから。学生漫才として昭和40年コンビ結成。演芸場やキャバレー、クラブなどを中心に漫才をやっていた。漫才コンクールや放送演芸大賞にノミネートされ期待されていたが、なかなかブレイクせず、中堅どころの漫才師として下積み時代を過ごしてきた。昭和55年、「お笑いスター誕生」にB&Bが登場したのに刺激を受け、「自分たちをもう一度見つめ直す」との理由からチャレンジし見事10週連続で勝ち抜きグランプリを獲得、一気に大ブレイクする。しかも本業の漫才ではなく10週すべてコントで勝ち抜いたところに漫才だけではなく、タップダンスや楽器演奏など幅広いエンターティナーぶりが伺える。現在でも演芸番組に登場し、その人気と芸達者ぶりは少しも衰えてはいない。
オミーズ
 京都のクラブにつとめていた2人が結成した、水商売出身の漫才師なので"オミーズ"と命名。ただ話のおもしろいおねーちゃんコンビなので長続きせず、1年ほどで引退し、元の水商売の世界に戻ってしまった。


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