
現在に至るまでの芸人、喜劇人をまとめてみました。
50音順に掲載していきますので、乞うご期待。
| 怪物ランド |
| 平光琢也、郷田ほづみ、赤星昇一郎の3人で結成。お笑いスター誕生で3組目のストレート10週勝ち抜きでチャンピオンとなる。その後、テレビ朝日の深夜番組「ウソップランド」が大当たりとなる。チープなスタジオコントや、外ロケコント、番組の中で業界用語を使っていたのはとんねるずよりもこちらが先である。3人とも個別ではあるが、ドラマ、映画に現在も活躍中。 |
| 快楽亭ブラック |
| 立川談志の弟子。外国人落語家として真打ちに昇進。この名前になるまで「立川レーガン」「立川丹波守」など数回改名している。風俗レポーターや宝島などでコメントを執筆したり、マニア的な有名人。 |
| 香川登志緒 |
| 喜劇作家。あのお化け番組「てなもんや三度笠」の脚本を書いた、お笑い番組から漫才の台本まで多数の脚本を手がけ、またある時はご意見番として喜劇、漫才をはじめとする上方お笑いに多大な貢献をしてきた功労者。関西お笑い界にはなくてはならない存在であった。 |
| カージナルス |
| 前身はタカ&ポポ。井口薫仁と青木隆彦が結成したコントコンビ。コンビ名の由来はメジャーリーグのセントルイス・カージナルスから。名付け親は星セント・ルイス。コントネタは主にインディアンと保安官の設定が多く、それだけでお笑いスター誕生初登場からストレートで9週勝ち抜いた。直後にツーツーレロレロらと"たけし軍団"を結成。芸名もガダルカナル・タカ、つまみ枝豆にそれぞれ改名。 |
| かしまし娘 |
| 正司歌江、照枝、花江の3姉妹による歌謡漫才。オープニングは「うちら陽気なかしまし娘・・・」で始まる。20年ほど前にトリオを解散しそれぞれ舞台役者の道を歩む。舞台では一切あのトリオ漫才をやらないが、芝居で3人が共演することがしばしばある。 |
| 春日三球・照代 |
| リーガル千太・万吉の弟子。クリトモ一休・三休で漫才をしていたが、一休が三河島駅での列車脱線事故により死去。残った三休は、結婚し漫才を引退していた妻の照代と夫婦漫才で再スタートする。日常会話でふと思いつく素朴な疑問を漫才のネタに取り入れている。「地下鉄の電車はどこから入れるのか。それ考えると一晩中眠れなくなっちゃう。」で有名な地下鉄漫才で一躍大ブレークする。あまりの反響の大きさに営団地下鉄が実際に地下鉄銀座線の田原町で地下に電車を入れるところを見せてあげたという。終始一貫ほのぼのとした雰囲気は高座よりも縁側でお茶でもすすりながら漫才をしているような感じにさえ受け取れる。そんな楽しい漫才を見せてくれていたが、寄席出演中に照代が倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。2度も相方に先立たれてしまった三球はその後弟子と一時期漫才で復活を試みようとしたがうまくいかず、今では巣鴨に洋服店を開いてほのぼのとした余生を送っている。 |
| 片岡鶴太郎 |
| 小学生の頃、素人寄席で動物ものまねをやったところチャンピオンとなる。偶然にもその審査員が師匠の片岡鶴八であったため、高校卒業後師匠に弟子入りする。昭和52年頃から坂上二郎、小森和子、橘家円蔵のものまねで売り出し、おれたちひょうきん族の「ひょうきんベストテン」で近藤真彦のものまねが大ウケし一気にスターダムにのし上がる。その間ものまねのレパートリーも小林旭、浦辺粂子、近藤正臣など好評を博す。その後「笑っていいとも」、「夕やけニャンニャン」のレギュラー、「鶴ちゃんのプッツン5」でメインを張るまでに成長。”プッツン””アブナイ””イッちゃってます”などの言葉を浸透させたのはこの人が最初。映画「異人たちとの夏」で好演。助演男優賞などを受賞し高い評価を受けたことがきっかけで俳優に転向。「男女7人夏物語」をはじめとする数々のドラマに出演。一時期プロボクサーになるためトレーニングを積んでいたこともあった。さらにドラマで棟方志功を演じたことで絵画の世界にも足を踏み入れ、個展を開いたり、群馬県の草津温泉に美術館を建設した。現在の肩書きは"画家"。 |
| 片岡鶴八 |
| 声帯模写。動物から映画スターまでものまね芸の幅は広い。片岡鶴太郎の師匠としても知られている。病気で倒れてからは第一線を退いている。 |
| ガダルカナル・タカ |
| 青木隆彦とカージナルスを結成。お笑いスター誕生に出場し売れ出す。コンビとして期待されていた矢先にたけし軍団のメンバーとなり、師匠ビートたけしよりガダルカナル・タカの芸名をもらう。数年前から軍団のリーダーとしてとりまとめ、メンバーからは"親方"と慕われている。九州のローカルアナウンサーであった橋本志穂と結婚。現在バラエティのほか、ドラマやVシネマで活躍する一方、ものまね王座決定戦では夫婦そろって出演し稼いでいる。また実家が伊豆の旅館で、たけしがフライデー事件や事故のリハビリの時はここにしばらく身を置いていたという。 |
| 桂歌丸 |
| ご存じ"笑点"の生き字引。大喜利では社会風刺や政治を皮肉った答えを多く出しているが、本芸の落語は古典落語を得意としている。古今亭今輔に入門。師匠の死後、桂米丸門下に移る。笑点では番組スタート時からのレギュラー。かつての大喜利で見られた三遊亭小円遊とのバトルでは視聴者から「けんかばかりしないで仲良くしてください」との投書が届いたことも。といっても小円遊とは仲が悪いわけではなく、本当は親友同士であったということだ。その小円遊も亡くなり落ち込んでいるかを思えばさにあらず、メンバーのまとめ役として番組を盛り立てて、司会の三遊亭円楽とともに"笑点の長老"としてなくてはならない存在である。また、定期的に古典落語の独演会を行っており、笑点出演時とは違って硬派的なイメージで見応え十分。とくに艶っぽい女性の仕草などを繊細且つ美しく表現することができる噺家である。 |
| 桂小軽 |
| 関西の落語家。桂文枝に入門。桂三枝司会の「いたずらカメラだ大成功」でライオンがいる檻の中に入れられ、ライオンに襲われてしまったことで一躍有名に。その出来事だけが唯一スポットライトを浴びた瞬間であった。 |
| 桂きん枝 |
| 本名を立入勉三といい、名字が「立入」なので「きんし」と名付けられたのかは定かではない。桂文枝に入門。「ヤングOH!OH!」で桂文珍、林家小染、月亭八方と若手落語グループ「ザ・パンダ」を結成。桂三枝をリーダーとして大喜利コントや体操コント等で人気者となる。落語よりもバラエティ番組のレポーター等の仕事が多かったが、次第に第一線から遠ざかっていった。一時期不祥事を起こし、芸名も桂勝枝と改名していたが、後に桂きん枝に戻し高座で活躍中。 |
| 桂小枝 |
| 「桐灰」のCMでおなじみ。桂文枝に入門。ちょんまげかつらに白塗りで、のたうち回る芸をもつ。桂枝織と名乗っていたデビュー当時から粘っこいしゃべり方をしており、評価が両極端に分かれるであろう。「探偵ナイトスクープ」出演により、じわじわ知名度が上がり始め、メインの番組をもつまでに関西ではマニア的な人気がある。桂三枝や桂文珍などの兄弟弟子との仲の悪さは有名。 |
| 桂小金治 |
| 二ツ目時代にテレビ朝日の「アフタヌーンショー」の司会としてお茶の間に登場。凶悪事件のレポートでは感情が入り込み怒りながらコメントをするので"怒りの小金治"のニックネームがついた。アフタヌーンショーの司会はしばらく続いたが、その間落語界から遠ざかってしまう。「アフタヌーンショー」降板後は素人ご対面番組「それは秘密です」の司会を担当。事情があって生き別れになった肉親を捜してスタジオで再会させるというコーナーでは持ち前の話芸で当事者はもちろんゲスト、スタッフ、視聴者まで泣かせてしまう語り口はかつての"怒り"から"泣きの小金治"の異名をとった。数年前、落語界に復帰し真打ちに昇進。20数年ぶりに高座で一席披露した。現在は俳優としてドラマにたまに顔を出す程度である。また自身を"げんこつおやじ"と称し、公式ホームページも開設している。 |
| 桂小南 |
| 話し方が関西弁なので上方落語のように思えるが、東京の落語家である。昭和14年3代目三遊亭金馬に入門したが、昭和26年に桂小文治の一門に加入。長屋に出てくる子供達を題材にした噺を得意とする。 |
| 桂才賀 |
| 二ツ目の古今亭朝次のときに笑点レギュラーに抜擢。そのいかつい顔により司会の三波伸介から"極悪人""ムショ暮らし"などと呼ばれることもあった。大喜利でのドロボーネタではしばしば名前が挙げられ観客の笑いをとっていた。司会が三遊亭円楽に変わってから真打ちに昇進、桂才賀を襲名。怖い顔で、かつ悪人面ではあるが、実際は全く正反対で、刑務所や老人ホームの慰問をはじめとする数々のボランティア活動に参加している善良な噺家さんである。 |
| 桂ざこば |
| 本名は関口弘。桂米朝に入門し、若手時代は桂朝丸と名乗っていた。その朝丸時代は落語よりも動物いじめで名前を売った。たとえば、猫の目にネズミの絵を描いたコンタクトレンズをはめたり、頭や手足を引っ込めたカメをガムテープでぐるぐる巻きにしたりなど動物愛護協会から訴えられるようなことを平気でやり、それをネタに笑いをとっていた。あるとき、NTV「ウイークエンダー」で横山やすしのピンチヒッターとしてレポーターを任される。落ち着きがなく、まどろっこしい口調が以外にも好評だったためにしばらくレギュラーレポーターとなる。レポーターの仕事だけでは飽きられてしまうことに気づき落語に本腰を入れる。徐々に本業でも評価が高まり、真打ちに昇進。桂ざこばを襲名する。ちなみに"ざこば(雑魚場)"とは魚河岸のこと。活気があってにぎやかな名前はこの人にピッタリではないだろうか。また落語だけではなく、「たかじん胸いっぱい」をはじめ、関西系のトーク番組にも頻繁に出演する。 |
| 桂三枝 |
| 桂文枝の筆頭弟子。高座では古典落語の笑福亭仁鶴に対して新作落語専門で会場をわかせている。自作の落語「ゴルフ夜明け前」は映画にもなったほどの傑作。「ヤングOH!OH!」「新婚さんいらっしゃい!」「三枝の愛ラブ爆笑クリニック」「パンチDEデート」など素人参加番組の司会もこなす。特に「新婚さんいらっしゃい!」は30年近く司会を続けている長寿番組となっている。また「オヨヨ」「グッ」など数々の流行語を生み出しているヒットメーカーでもあった。また、あの有名な”電線音頭”の本家本元を主張している。ここ数年は社会に対する鋭い視点と、それをいち早く新作落語に取り入れてしまうクレバーさが大阪市民に支持され、事あるごとに"選挙に出馬"の噂がとりざたされるが本人にはその気はまだないようだ。 |
| 桂枝雀 |
| 「爆笑王」の異名をとる上方落語のスター的存在でキャッチフレーズは"うす味のきつねうどん"。神戸大在学中、弟(現:マジカルたけし)とラジオで漫才をやったのが縁で、昭和36年大学を中退して桂米朝に入門。古典から新作まで噺の幅は広い。テレビドラマや映画、舞台などへも出演が多く、ここ10年くらいは英語で落語を演じるという新しい試みを続け海外での公演も行ない好評を博している。とにかく練習熱心で、得意なネタでもどんどん新しいアレンジが加えられていく。まさに爆笑を産む高座は、一見体力勝負に見えるが、その裏には実は「理論派」であるもう一つの顔も垣間見られる。しかしそれらの反動が、自分の芸に対する厳しさと将来の不安から情緒不安定になり、完璧主義者の悲惨な最期であるのか、99年3月自殺をしてしまった。 |
| 桂雀三郎 |
| 昭和46年桂枝雀に入門し、桂米治を名のる。昭和50年に雀枝に改名、直後に雀三郎に改める。平成6年には「大阪府民劇場賞奨励賞」を受賞するなど実力派の落語家である。また桂雀三郎とまんぷくブラザーズで平成8年に発売した「ヨーデル食べ放題」が3年前にラジオで取り上げられて以来、発売4年目にしてスマッシュヒットとなった。 |
| 桂雀々 |
| マスコミから早くより注目され、高校生の頃からテレビのコンクールによく出て合格するなど高い評価を受ける。それがもとで、高校を中退して昭和52年桂枝雀門下となった。数々の新人賞を受賞するなどその潜在能力は高い。大阪では中堅として高座の他、テレビやラジオで活躍しているが、東京ではほとんど知名度がない。 |
| 桂春蝶 |
| 証券会社に2年ほど勤めていたが、落語界が好きで昭和37年、3代目桂春団治に入門。昭和39年新世界新花月が初舞台。主に創作落語を得意とし、芸風はくせのないさらりとした高座で、いぶし銀のようなうまさが際だっていた。また現代にマッチした背景の中で無理なく表現できる貴重な存在であった。一方で本業の落語もさることながら、あまりにも虚弱体質のような体でバラエティ番組等に出演。そこそこの人気があった。40kg台ではなかったかと思われる。生来の酒好きがたたり体をこわしてしまい、若くして亡くなってしまったのは非常に惜しむべきことであろう。 |
| 桂高丸・菊丸 |
| 桂米丸の弟子。落語家でありながら漫才師として注目されていた異色の存在。実の兄弟コンビでそこそこ人気があったので森永乳業が新発売したカップアイス「デリカ」と「ルーキー」のCMキャラクターに起用される。しかし、噺家でありながら落語をせずに漫才をするとはけしからんと落語協会からクレームが付き、協会を脱退させられ、ついでにコンビ解消となってしまう。現在兄の高丸は日高はじめの名で演芸作家、弟の菊丸はワイドショーのリポーターとしておなじみ。また菊丸夫人は"元祖セクシータレント"の泉アキである。 |
| 桂竹丸 |
| 大学在籍中、本名の徳永良治で「お笑いスター誕生」にチャレンジ。ものまねと漫談で3週ほど勝ち抜く。その番組で審査員だった桂米丸に見いだされ、師匠に弟子入りする。桂竹丸の名をもらい、現在も寄席で奮闘中。 |
| 桂都丸 |
| 大学在籍中は落研に所属。落語の魅力にとりつかれ、昭和52年大学を中退までして桂朝丸(現:ざこば)に入門、一番弟子となる。京都生まれなので芸名を都丸とした。その年に「雀の会」で初舞台を踏む。特技が柔道で、これが生かされたのは高座ではなく、村上弘明主演の「仮面ライダー」にスカイライダーを助ける珍妙なヒーロー"がんがんじい"役で番組後半からレギュラー出演。全身鉄の防具でフル装備していて正体を明かさなかったが、番組末期に正体を明かした。 |
| 桂南光 |
| 故桂枝雀の一番弟子。師匠から最初にもらった名前は桂べかこ(べかことは、「あっかんべー」の意)。ラジオ・テレビのレポーター、司会でも活躍。主婦層の認知度は高いが、深夜番組には向かない。 |
| 桂春団治 |
| なんといっても初代春団治のインパクトが強い。♪芸のためなら女房も泣かす・・・、で知られている「浪花恋しぐれ」のモデルとなった人物。明治から大正にかけて活躍。前座時代から型破りで無茶な行動が多く、先輩や同僚の噺家などと一悶着を起こすことがたびたびあった。大胆で自由奔放なその高座は伝統的な型や、しきたりを無視したものとして落語通や同業者から非難されたりしたが、理屈なしに楽しませる芸として圧倒的な大衆の支持を得た。現在の春団治は3代目。スマートで気品のある噺家で桂米朝、桂文枝、露の五郎と並び上方落語界の重鎮である。 |
| 桂春之輔 |
| 昭和42年3代目桂春団治に入門して桂春章の名をもらう。初舞台の新花月が途中で火災にあって出演できなくなった珍しい体験がある。春之助に改名。生き生きとした人物描写、まったりとした噺の進め方に垣間見える高邁な見識は寄席に足を運ぶ価値あり。男前の顔立ちで女性ファンを多く持ち、2時のワイドショーのレギュラーとして主婦層からも多くの支持を得た。平成3年に交通事故で大ケガを負うが全快して高座にカムバック。平成5年に春之輔に改名。 |
| 桂文枝 |
| 桂米朝、桂春団治、笑福亭松鶴と並び上方落語界の四天王。前職は大阪市交通局に勤務していた。踊りを習おうと思って、先代桂文枝に入門したら、落語のほうがおもしろそうだと方向転換。桂小文枝を名乗った若手時代から落語だけではなく、踊りや鳴り物の修行をしたことも後の自身の芸に好影響を及ぼした。その踊りや鳴り物の素質からハメモノいり(落語の中で都々逸や地唄、カッポレなどのBGMを流し、効果を出す)の噺を得意とし、また「立ち切れ線香」「船弁慶」など女性の活躍する噺への評価も高い。現在においても第一人者として上方落語の復興につくす一方、弟子に桂三枝、桂文珍など多数を育てる。昭和59年に上方落語協会の会長を務める。平成4年五代目桂文枝を襲名。 |
| 桂文治 |
| 終戦で帰還後噺家となり、昭和21年桂小文治に入門。昭和33年、桂伸治で真打ち昇進。いたずら小僧がそのまま歳をとった風貌ながら、江戸前の芸風で笑いの多いネタを得意とし、主に上野鈴本や新宿末広亭をメインに活躍している。昭和54年には十代目桂文治を襲名。落語以外にも南画を趣味としている。 |
| 桂文朝 |
| 昭和27年に10歳で桂小南に入門、山遊亭タア坊の名をもらう。昭和45年に桂文朝の名で真打ち昇進。アクの強さや派手さはないが、オーソドックスなスタイルかつ地味な芸風で、"魅せる"というよりは"聴かせる"という点でうまい噺家といえよう。昭和60年に落語芸術協会から落語協会へ移籍という珍しい経歴を持つ。 |
| 桂文珍 |
| 桂文枝に入門。「ヤングOH!OH!」で桂きん枝、林家小染、月亭八方と若手落語グループ「ザ・パンダ」を結成。桂三枝をリーダーとして大喜利コントや体操コント等で人気者となる。創作落語を中心とした落語で会場をわかす。ハイテク機器や現代のシステムについてこれないおばあちゃんを題材としているネタが多い。また、パソコンやシンセサイザーを使った新しい落語にも挑戦したこともある。セスナ機の航空免許を取得しており、移動の際に利用することがある。また、大学の特別講師として教壇に立ち、講義をしたりしている。教養番組や報道番組の司会などをしており、お笑いタレントというよりは文化人的な香りがする。 |
| 桂文福 |
| 桂文枝に入門。相撲や自伝をもとにした新作落語を得意とし、本業の落語の他に河内音頭を高座で披露することもある。かつては"河内音頭"と言えば彼の代名詞でもあったが、河内家菊水丸のブレイクでその座も取って代わられ、さらに吉本興業をやめたこともあって今ではすっかり影が薄くなってしまった。 |
| 桂文楽 |
| 八代目は名人と謳われた。翁家馬之助の名で真打ちとなり大いに売り出し、昭和9年八代目文楽を襲名。その磨き上げた噺で高い評価を受け、戦前戦後にかけて江戸落語の第一人者として活躍。戦後は落語協会の会長をつとめ、昭和の名人と称される。昭和46年。高座で噺をど忘れしてしまい、「勉強し直して参ります。」と言って高座を降り、そのまま引退してしまったほど落語に人生をかけ、誇りを持っていた噺家であった。現在の文楽は九代目。文楽よりも前名の桂小益のほうがおなじみの人も多いであろう。あのペヤングソース焼きそばのCMを10年以上も続け、「顔は四角でも味はまろやか」のフレーズで親しまれてきた噺家さんである。 |
| 桂米朝 |
| 上方落語の重鎮。大東文化学院在学中、落語評論・研究を手がけるうち、上方落語の危機を痛感し、昭和22年に4代目桂米団治に入門。滅亡の危機に瀕していた戦後の上方落語を守り、埋もれていた数多くの噺を復活させた功労者でもある。また、全国で1000回以上の独演会を開き上方落語を全国レベルまで広めた功績も忘れてはならない。「上方落語ノート」「米朝落語全集」「米朝上方落語選」をはじめ数多くの著書は関西の落語家だけでなく、全国の若手落語家や落語研究家・愛好家にとって教科書とでも言うべき貴重な資料となっている。ダンディで品のあるルックスと確かな知識に裏付けられた高座における豊富な持ちネタはいずれも高い評価を受けているが、中でも商家の旦那が登場する噺では他の追随を許さない。高座での顔とは別に、かつて関西テレビ系朝のワイドショー「ハイ!土曜日です」で10年以上メイン司会を務めるなど土曜朝の顔としても東京地区ではおなじみであった。また、桂枝雀や桂ざこばなど個性的なキャラクターと人気・実力を兼ね備えた弟子を数多く輩出させている。平成8年、柳家小さんに続き落語界で二人目の「人間国宝」の認定を受けた。 |
| 桂三木助 |
| 三代目は戦後、ラジオ番組で行われていた大喜利形式の「とんち教室」に抜擢されて知名度を上げ、昭和25年桂三木助を襲名。古典落語に精進を重ね、「芝浜」などの緻密な芸で落語愛好家達から高い評価を得た。現在は四代目。昭和52年、立教大在学中に柳家小さんに入門。昭和56年柳家小きんで二つ目となったあたりから現代的なルックスと先代でもある父親譲りのセンスのよさがお茶の間に浸透し始めて人気が出る。バラエティー番組にもしばしば登場したり、本業である寄席での活躍も認められ、入門後8年目で真打ち、しかも大看板"三木助"を襲名するなど異例の大出世を果たした。落語界に新しい波を起こすのではと期待されていたが、私生活では結婚後4ヶ月で離婚をするなど、イメージダウンが影響し、かつての勢いはなくなっていた。結局、名前負けする形で平成13年1月3日に自殺をし、この世を去った。 |
| 桂米丸 |
| 昭和21年、古今亭今輔に入門。師匠の影響もあり新作落語に取り組み、昭和24年大抜擢で真打ちに昇進。その時代にあった庶民生活を題材にしたネタが多く、特に夫婦の日常会話や主婦たちの井戸端会議を演じる芸風は最も得意とするところである。その実績が認められ、師匠の没後、落語芸術協会の会長を一昨年までつとめていた。その他「お笑いスター誕生」ではレギュラー審査員としておなじみであり、当時番組に登場していた桂竹丸が弟子入りしたエピソードが残っている。桂歌丸、ヨネスケなど第一線で活躍している弟子も数多い。現在も新作落語を専門に高座で笑いをとっている。 |
| 加藤茶 |
| 昭和40〜50年代にかけて常にお笑い界をリードしてきた功労者ともいえよう。バンドボーイとして桜井輝夫とドリフターズに参加。昭和39年にいかりや長介をリーダーとする新生ドリフターズが誕生する直前、小野ヤスシ、ジャイアント吉田とともにドリフ脱退を決意。しかし、いかりやの説得といままで世話になった恩義からドリフに残ることとなる。 ドリフターズではドラムを担当。TBS「8時だヨ!全員集合」では「ちょっとだけよ。」「ウンコチンチン」などの流行語を次々とばし、子供たちに絶大な人気を博していた。昭和50年代からはメインを志村けんに譲ったが、それでも笑いに対する前向きな姿勢は現在でも衰えることはない。ドリフでの活動がなくなった現在ではラジオやバラエティー番組のほかお笑いだけでなく「サイコメトラーEIJI」などのドラマにも多数出演し活動の場を広げている。またバンドマンの原点に返って仲本工事、高木ブーと「こぶ茶バンド」を結成し、ライブやコンサート活動も行っている。 |
| 金谷ヒデユキ |
| キャッチフレーズは"地獄のスナフキン"。ギター一本で替え歌やパロディーソングで笑いをとる。日常的なことをネタにしている嘉門達夫とは違い、主にタレントをターゲットとした替え歌を作る。しかもアクが強く、強烈な毒がある。 現在はお笑いタレントからストリートミュージシャンへ転向。替え歌を捨てて本格的に音楽活動を始めている。 |
| 上岡龍太郎 |
| 横山ノックに誘われ横山パンチとして漫画トリオに参加。漫画トリオは爆発的な人気を博し、「花の新婚カンピューター」などの司会番組を持つにいたる。横山ノックの突如の参議院選挙出馬後、漫画トリオは解散し、上岡龍太郎と改名、しばらく厳しい時期を過ごす。この時期のレギュラーといえば関西テレビの「ノックは無用」と「花の新婚カンピューター」などの司会業。「上岡、鶴瓶のパペポテレビ」を始めてから上向き始め、読売テレビ「ときめきタイムリー」や「探偵ナイトスクープ」の局長など仕事が増え、「EXテレビ大阪」の司会をつとめるようになる。EXテレビ大阪のおかげで東京からも声がかかるようになり、東京進出に成功した。また2000年4月16日をもって芸能活動を引退。プロゴルファーを宣言。その他次期大阪市長に立候補を予定している。 |
| 上方柳次・柳太 |
| 三遊亭柳枝劇団で舞台役者として活動していた二人が昭和32年コンビ結成。昭和40年代にしゃべくり漫才として派手さはないが寄席・テレビで活躍し、常に人気、実力とも安定していた。昭和54年に柳太が病没し、残った柳次は若井けんじとコンビを組むが、両方ともツッコミ担当だったため1年でコンビ解消。昭和56年から上方柳次・一枝の夫婦漫才で平成10年に柳次が亡くなるまで高座に上がっていた。 |
| 上方よしお |
| 上方柳次・柳太に入門。上方真一の名で相方と別れた島田洋一(現:島田洋七)と72年B&Bを結成。テンポが速い上に、玄人受けする漫才であったので人気・実力ともに若手漫才ではトップクラスに上昇した。この勢いに洋一が「東京で一旗揚げよう」と、東京進出を持ちかけたが、「東京でやっていく自信がない」と後込みをしたために、74年にB&Bを解消することとなる。その後、同時期に漫才コンビを解消した横中バックとコンビを組み、"西川のりお・上方よしお"で再出発。漫才ブームに乗り、売れっ子となる。ブームが去った後コンビは解散し、一時期職がなくなってしまったが、94年に西川のりおと再結成してから現在もコンビは継続して活躍している。 |
| 雷門助六 |
| 雷門五郎時代には一時寄席を離れ、一座を率いて浅草の各劇場で軽演劇を披露。戦前戦後と軽減劇の座長として浅草や大阪で公演を行っていた。昭和31年に寄席に復帰し、37年に雷門助六を襲名した。幼少の頃から鍛えた踊りを基礎に自分自身がマリオネットのように振る舞う「操り踊り」や、お座敷芸で有名な「カッポレ」を高座で披露するが、その軽妙な動きの中にある上品な振る舞いは幇間芸を超えた芸術として、天下一品の評価を受けていた。 |
| 雷門ケン坊 |
| 雷門助六に入門。助六の弟子というよりは子役として、テレビドラマやバラエティーで活躍していた。またアニメの「紅三四郎」では三四郎とともに旅をするケン坊の声を担当していた。一時期、雷門小助六と改名するも、しばらくしてケン坊に戻したようであるが、それ以後は表舞台からひっそりと姿を消し、引退してしまったようである。 |
| 嘉門達夫 |
| 高校卒業後、笑福亭鶴光に弟子入り。笑福亭笑光の名で師匠の付き人をしていたが、ある日師匠の仕事の時間に大幅に遅れ破門された。この後、アミューズと契約。桑田佳祐に嘉門達夫の名をもらった。「ヤンキーの兄ちゃんの歌」「ゆけ!行け!!川口浩」「小市民」などのコミックソングをヒットさせたが、彼を一躍メジャーにさせたのは「替え歌メドレー」シリーズの大ヒットであった。原曲を使って替え歌をすることは当然クレームが付いてしかるべきなのだが、ネタに使われたミュージシャンは全員笑い飛ばして許可するか、あきれながらも黙認しているかのどちらかということである。しかも「替え歌メドレー」で紅白歌合戦に出場できたのはひとえにNHKの懐の深さなのか、あるいは紅白の権威もここまで失墜したのか定かではない。いずれにしろ一流アーティストに支持されていたのだから芸人よりもややミュージシャン的要素が多分にあるのではないかと思う。 |
| カラテカ |
| 東京アナウンス学院出身の入江慎也と矢部太郎が平成8年お笑いコンビを結成。コンビ名の由来は空手を習っていたわけではなく、ファミコンのゲームから。2人とも身長158cmと小さなキャラクターを武器に、漫画、アニメ、ゲームといった子供心いっぱいのネタを得意とする。矢部は電波少年で人々を笑わせるという野望を実現するため世界各国へとばされていた。そのおかげで韓国語、モンゴル語、コイサンマン語などを話せるようになった。入江はフリーマーケットでバイトをしていることもあるそうだ。電波少年終了とともに使い捨てられそうになったが、TBS「はなまるマーケット」のコーナーレギュラー、FNN「あいのり」の前説などレギュラーを持っている。 |
| ガレッジセール |
| 沖縄出身の川田広樹(川ちゃん)と照屋年之(ゴリ)が平成7年コンビ結成し、谷公園通り劇場でデビュー。奇をてらわないストロング・スタイルな芸風とガッツあふれるキャラクターで、大きな人気を博している。元々自分たちで考えてつけていたグループ名は沖縄ということを意識して『ぐしけんようこそ』というものだったがそれではあまりにも酷いということで吉本興業の担当がつけた最初の名前は『ガレージセール』だったが、呼びにくいので勝手に『ガレッジセール』にした。それ以外の名前の候補として『ハブとマングース』『さとうきび畑でつかまえて』『那覇と宇宙』というものがあったらしい。高視聴率だったNHK朝の連続ドラマ「ちゅらさん」出演で同世代だけでなく主婦層、年輩層にも知名度が浸透した。またドラマでブレイクしたキャラクター・ゴーヤーマンの歌「天下無敵のゴーヤーマン☆」でCDデビューも果たした。 |
| 川上のぼる |
| 腹話術師。学生時代にエドガー・バーゲン主演のアメリカ映画を見て、独学で腹話術を始める。昭和27年のラジオ番組「ハリス・クイズ」に腹話術の人形ハリス坊やと出演し、人気を博す。また音楽ショーの「川上のぼるとリズムボーンズ」を結成。後に「大阪ヤローズ」と改め、コミカルミュージックと声帯模写でも人気を得た。弟子に堺すすむがいる。 |
| 川口ひろし |
| あの"探検隊長"川口浩とは別人。コミックバンドのザ・ピンボケ解散後は主にキャバレーやクラブでものまね芸人として活躍していた。声のキーが高く、都はるみや石川さゆりの歌まねを十八番としている。 |
| 河内家菊水丸 |
| 新聞(しんもん)詠み。河内家菊水に入門。時代風景や社会風刺を織り込んで河内音頭の節をつける。リクルート・フロムAの火星人と金星人が出てくるCM「火火金金火金金・・・」のメロディーは大ヒットとなる。夏の盆踊りや秋祭りには必ずと言っていいほど声がかかり、その地域の音頭を作曲したりして地域密着型芸人として活躍している。そして以外にも観月ありさや酒井法子が弟子入りし、それぞれ河内家あり丸、河内家のり丸の名前をもらっている。 |
| カンカラ |
| 欽ちゃん劇団所属の5人組コントグループ。メンバーは入山学、松井智英、石田武司、鈴樹志保、杉林功。時代劇コントが中心だが、無駄な動きやギャグなどをいれず、基本に忠実なコントで安定した笑いを提供している。大所帯でありながら5人が同時に出ることはなく、それぞれの役割も明確かつキャラがかぶらない。さらに内容もわかりやすくメリハリがきいている。杉やんこと杉林は「かっぱ寿司」のCMに出演。そのおかげで電波少年の「回転寿司生活」に3ヶ月間挑戦、番組終了と同時に中途半端にコーナーがフェイドアウトした。 |
| 神田山陽 |
| 講談師。小説家に憧れ、18歳のとき上京。以来日本各地をアルバイトしながら転々とする。平成2年、二代目神田山陽に入門、神田北陽を名のる。主に新作・創作講談を得意とし、前座時代の4年間は寄席で講談の修行をすることになる。その一方で、WAHAHA本舗の芝居に客演したり、笑点の若手大喜利にも出演。平成14年8月落語芸術協会から真打昇進並びに、三代目神田山陽を襲名。先代の看板を背負って講談界のホープと期待されている。 |
| 神奈月純 |
| ものまね番組の常連。井上陽水、長嶋茂雄のものまねを得意とする。学園祭やライブで活躍している一方で、「ものまねバトル」にも出演し新庄剛志のまねがヒットし、原辰徳や萩原流行など確実に笑えるレパートリーを増やし活躍している。 |