
現在に至るまでの芸人、喜劇人をまとめてみました。
50音順に掲載していきますので、乞うご期待。
| 鯉川のぼる |
| 鶴田浩二のものまねが十八番。キセルをつかっての芸もすることがある。ものまね四天王に対抗して原一平、若人あきらの3人で"ものまね大魔王"を結成し大々的に売り出そうとした直前で、例の若人あきら失踪事件が発生し企画がボツになってしまった。 |
| 号泣 |
| 友達の付き添いでたまたまオーディションに受かった赤岡典明と島田秀平が、平成8年に漫才コンビを結成。もともと幼なじみの二人は公文式で知り合ったらしい。平成10年にホリプロで行われた「芸腕グランプリ」第2回で、出場16組の中から優勝。コンビ名の由来は、ラテ欄によく載ってる文字で、売れている感じを与えるからとか、略されるのが嫌で難しい用語辞典から探し出したとか諸説あるが詳細は不明。やる気のなさそうなゆっくりしたテンポでしゃべる赤岡と、やや舌足らずでカミながらも速いテンポでしゃべる島田のコントラストがおもしろい。最初の言葉をひっくり返す、新しい早口言葉、発音の違い、ら抜き言葉ほか、言葉遊びをネタとした漫才を得意とする。主に 『ホリプロお笑いライブ』を中心に、毎月多数のライブに出演。また島田は「新型テレビ」に3代目テレビマンとして出演。キャッチフレーズは『小窓から吹きこむ春風』。 |
| 五街道雲助 |
| 昭和43年に10代金原亭馬生に入門し、金原亭駒七で前座。昭和47年二つ目に昇進して五街道雲助に改名。昭和56年真打昇進。男前の顔立ちに対して重厚なドラ声で滑稽噺でも長編人情噺でも無難にこなす。 |
| 極楽とんぼ |
| 加藤浩次と山本圭壱のコンビで平成元年8月の結成。コンビ名は当時片仮名の名前が多かったため、「怠け者ブラザーズ」にしようという山本の意見を加藤が退け、「松田優作の墓に『極楽とんぼ』と書いてある」と嘘をつき説得した。ココリコ、ロンドンブーツとともに演芸ではなく、TVを中心とした活動をしている。「めちゃめちゃイケてる」レギュラーをはじめ主にバラエティーで活躍。番組の中でしばしば対決をするパターンが多い。 |
| ココリコ |
| 遠藤章造と田中直樹のコンビ。コンビ名の由来は中学生のとき、下校中拾った手帳の中に「喫茶店ココリコ」と書かれてあり、コンビを組んだときにこの名前を引用した。結成当初は「ココリコボンバーズ」という名前であったが、知り合いにダサいといわれ、ココリコと改称した。ダウンタウンの弟分から今や数々の伝説を作り上げるコンビとしてバラエティーで活躍。「ココリコA級伝説」が好評で「ココリコ黄金伝説」としてゴールデンに進出するなど極楽とんぼ、ロンドンブーツ1号2号とともに吉本バラエティーコンビとして不動の地位を固めつつある。 |
| 古今亭今輔 |
| 大正・昭和期に活躍し、新作落語を中心とした噺家。大正2年に家出して上京、上野松坂屋に就職したのをはじめに転々と職を替え、大正3年に初代三遊亭円右に入門。紆余曲折を経て昭和6年桂小文治一門に入り、桂米丸を襲名。落語芸術協会に加入し、昭和16年古今亭今輔を襲名。修業時代、三遊亭一朝につき古典に努力したが、その後上州訛克服のため新作落語に力を入れ、「婆さんや、婆さんや・・・」ではじまる婆さんものの噺は好評を得る。昭和49年からは落語芸術協会の会長を務めた。 |
| 古今亭円菊 |
| 昭和28年古今亭志ん生に入門。昭和41年真打ち昇進。「円菊節」といわれる独特の口調で、女性を主人公とした艶物の噺には定評がある。また手話による落語を開拓したことで知られている。 |
| 古今亭志ん駒 |
| 7年間の海上自衛隊勤務の後、昭和38年古今亭志ん生に入門。「末広演芸会」の大喜利"お笑い七福神"で活躍し、昭和51年真打ち昇進。またハンナ・バーベラのアニメ「ドラドラ仔猫とチャカチャカ娘」のチョロ役として吹き替えでもおなじみ。 |
| 古今亭志ん生 |
| 昭和期の名人。借金取りから逃げるために15回ほど名前を変えたことでも有名。また高座の上で居眠りをしてしまい、客は志ん生が起きるまでその光景をずっとみていたという伝説が残っている。そのとき、客の1人が「高座で落語をやらずに寝てしまうとはけしからん。」と起こそうとしたが、別の客が「疲れてるんだから寝かせといてやれ」と、その客をたしなめたという。高座で寝るのも豪快だが、そのままにしてやった客も粋な客である。 |
| 古今亭志ん朝 |
| 父親が古今亭志ん生、兄が金原亭馬生という落語一家で生まれ育つ。錦松梅のCMでもおなじみ。昭和32年父・志ん生門下で古今亭朝太を名乗り前座。昭和37年に真打ちで志ん朝を襲名。昭和40年代前半にTVバラエティーのメインや司会なども務めたが、本業である落語を極めることに専念。恵まれた素質に天性の明るさと軽快な口調で早くから古典落語の旗手として嘱望され、トントン拍子に出世。昭和53年に起きた落語協会分裂騒動では、故三遊亭円生とともに一時協会を飛び出したが、ほどなく復帰。破天荒で天衣無縫の父とは違い、ち密で完ぺきな話芸を目指し東京落語の大看板を担い、落語界では象徴的な存在であったが、平成13年がんのため亡くなった。後輩たちから「朝(ちょう)さま」と敬意をもって呼ばれ、だれもがその才能を認めたが、志ん生の名跡は継がぬまま旅立った。 |
| 古今亭志ん馬 |
| 昭和27年、古今亭志ん生門下で古今亭志ん吉の名で前座。昭和41年真打ち昇進と同時に古今亭志ん馬を襲名。師匠譲りの滑稽話を得意としていた。また高座以外ではNTV「お昼のワイドショー」のキャスター、2代目いじわるばあさんとしても有名。どちらも青島幸男の後がまということは何かの因縁か。晩年は高座で活躍していたが、平成6年に病没。 |
| 小堺一機 |
| 「ぎんざNOW」の素人コメディアン道場のチャンピオン。田村正和やおすぎとピーコのものまねを持ちネタとしている。「ザ・トップテン」のレポーターとしてお茶の間に浸透するようになり、「欽ちゃんのどこまでやるの」の黒子役で人気に火がつく。現在はTV「いただきます」のメイン司会を9年以上務め、舞台「小堺クンのおすましでSHOW」を毎年公演しており、息の長いタレントとして安定した人気を保っている。 |
| コージー冨田 |
| ものまね番組の常連として冨田弘司の名で数々の素人ものまね番組に出演、プロ顔負けの実力を見せつける。また、クリソッツや今ちはるなどショーパブ時代のメンバーと企画物でモノマネビデオも出している。主な持ちネタは松福亭鶴瓶、桂歌丸、石橋貴明、島田紳助など多数。また8年前「笑っていいとも」のタモリと月曜から金曜のレギュラー全員を完璧にまねてみせた伝説がある。その翌年に「日本ものまね大賞」で優勝したもののショーパブや営業での活動が多かった。しかし昨年あたりからタモリのものまねで本格的メジャーデビュー。明石家さんまのものまねの原口あきまさとのコンビで大ブレイク。いまやいっこく堂とともにお笑い界の新生として21世紀イチ押しのタレントとして売れに売れている。 |
| 小島宏之とダイナブラザーズ |
| 川田晴久とミルクブラザーズのメンバーとして活動。解散後ダイナブラザーズを結成。「地球の上に朝が来る・・・」のフレーズはミルク時代のメンバーだった灘康次とともに、たがいにその川田節を受け継いでいる。現在はグループを解散し、ピン芸人となりながらもその芸風は変わらず続けている。 |
| 小林まさひろ |
| 「ぎんざNOW」の素人コメディアン道場のチャンピオン。そのにこやかな風貌が会場の雰囲気を和ませていた。清水アキラ、桜金造らとともにハンダースを結成していたが昭和52年に脱退、芸能界を引退した。現在は東京の高級料亭で板さんをやっているということらしい。 |
| 小松政夫 |
| 自動車メーカーのセールスマンをしていたが、口八丁手八丁で顧客を増やし営業ではダントツの成績だったらしい。 ある日、渡辺プロが植木等の運転手を募集しているという新聞記事を見つけ、そのキャラクターを生かして応募したところ採用される。ちなみにそのときの面接官はなべおさみであった。植木等の運転手兼付き人として過ごした後「シャボン玉ホリデー」に出演。「どぉして、どぉしてなの、おせーて」「知らない、知らない」「ニンドスハッカッカ・・・」「だってそうでしょ、そりゃそーだもの」など数々のギャグは会社員時代のお得意さんや飲み屋の客の仕草からいただいたもの。昭和50年代には伊東四朗とのコンビで"小松の親分さん""親子コント"などがヒット。「しらけ鳥音頭」「タコフン音頭」などの曲も一世風靡。またタモリ、団しん也との宴会芸、瞬間芸は業界人の間でも大好評を博していた。現在ではドラマ、舞台で活躍。コミカルな役から渋い役までオールマイティーにこなしている。 |
| コメディNo.1 |
| 昭和42年結成の前田五郎と坂田利夫の漫才コンビ。"コメワン"の略称で、やすし・きよしと共に昭和40年代から50年代にかけて関西の漫才界をリードしてきた。ドケチの前田とアホの坂田のキャラクターを織り交ぜながら、舞台での漫才を充分に堪能させてくれる。最近では前田五郎が芝居、坂田利夫がバラエティーにそれぞれ活動の場を広げているが、本職の漫才では未だ人気の衰えを知らないどころか、ますますいい味を出してきている。 |
| 小柳トム |
| デビュー前はピアノの調律師をしていたこともある。失恋がきっかけで昭和55年「お笑いスター誕生」に登場。警官に扮した一人コントで10週勝ち抜きでチャンピオンとなる。「犯罪は警察が作るもの」のフレーズは図らずも現代の警察の体質を予言していたかのようだ。この警官コントで2年ほどは受けていたが徐々に飽きられたのと、ソウル音楽に興味があったため、飲み友達の近藤伸明と"バブルガム・ブラザーズ"を結成。ブラザー・トムと改名しアーティストに転向。現在はバブルを活動停止後TOMと改名し、音楽活動を続けている。 |
| コロッケ |
| 平成のものまねの大御所。元ものまね四天王。コミックパブからやっていた顔マネ+フリマネとオカマチックな風貌で昭和55年「お笑いスター誕生」に登場。ちあきなおみ、野口五郎、岩崎宏美の顔まねを中心に銀賞を獲得。しかし百面相の芸だけではウケなくなってきたのでものまねを徐々に取り入れるようになる。一時期芸能人大麻騒動に巻き込まれ疑いをかけられた上、仕事がなくなってしまったが、ものまねが評価されはじめ再浮上していく。「ものまね王座決定戦」に出場し優勝したあたりからものまねタレントとしての地位を確立。清水アキラ、栗田貫一、ビジーフォーと"ものまね四天王"と称され番組の顔となったが、プロデューサーとの確執により番組から追放される。現在はライバル番組であるNTV「ものばねバトル」でのキャプテンとしてかつてのネタから河村隆一、GLAYのマネ、五木ひろしのロボット芸などものまねだけでなくテンターティナーとしてお茶の間を楽しませている。 |
| コロムビアトップ・ライト |
| 社会風刺や政治批判をネタにした漫才で一世を風靡した。青空トップ・ライトの時代、ライトが病気で退き、当時声帯模写をしていた鳥谷二郎が二代目ライトとして再スタート。途中、コロムビアレコードと専属契約をしたのを機に亭号を青空からコロムビアに変更する。漫才の他に歌謡ショーの司会、大晦日「にっぽんの歌」の司会も長年担当していた。昭和47年まで政治風刺漫才を続けてきたが、トップが参議院に立候補し当選したことでコンビ解散。数年前に一度再結成したが、ライトが食道癌のため声帯を切除、あの辛口漫才はもう聞くことはできなくなってしまった。現在トップは議員ではなく、漫才協団の顧問として後進の指導にあたっている。ライトはリハビリをしながら地方で漫談などの活動をしている。 |
| 近藤伸明 |
| あのねのね清水国明の弟子として「ヤンヤン歌うスタジオ」の"ねのねのなんでも修行中"のコーナーにレギュラー出演。清水アキラ、所もどきと共にコントをやっていた。一時バラエティーから姿が見えなくなったが、昭和59年頃に同じく伸び悩んでいた小柳トムと音楽面で意気投合、"バブルガム・ブラザーズ"を結成。ブラザー・コーンと改名しアーティストに転向。現在はバブルを活動停止後Kornと改名し、音楽活動を続けている。 |
| コント赤信号 |
| 渡辺正行をリーダーとするラサール石井、小宮孝泰のトリオ。目の回りにラメをつけ、"福助の足袋"をはいたリーダーが登場する暴走族コントが出世作で、漫才ブームの波にも乗って、若手のトップグループに躍り出た。その後「オレたちひょうきん族」にレギュラー出演していたが、徐々にソロ活動が目立つようになる。最近では"劇団七曜日"の舞台以外に3人が顔を合わせることはほとんどなく、バラエティーから舞台、映画、若手芸人のプロデュースまで幅広く活動している。 |
| コント55号 |
| 浅草の若手芸人の一人であった萩本欽一と青木光一の付き人をしていた坂上二郎が結成。演芸場のコントをテレビに定着させたテレビ時代の寵児。クレージーキャッツ、ドリフターズと並んでお笑い界のトップを競い合っていたが、バンド出身のクレージーやドリフとは違い演芸場出身の芸人としての泥臭さ、庶民的感覚が大衆に支持されていた。芸風は常に欽ちゃんが二郎さんをイビったりいじくり回し、そのツッコミと反応とのアンバランスさで会場を爆笑の渦に巻き込むというパターンである。「飛びます、飛びます」「どうしてそーゆーことするのかな!」などのギャグとアクションで一世を風靡し、昭和40年代には十数本のレギュラーを持っていた。しかし年齢と共にオーバーアクションがきつくなり、またネタの使い回しをしないため常に新ネタを考えていたが、徐々に思うようなコントができなくなってきた。さらにそれぞれが個別に活動する機会が増え、昭和51年NTVの「なんでそうなるの」を最後にその活動を停止する。その後2度ほど活動を再開してみたが往年の勢いはみられなかった。現在それそれのジャンルで活躍しているのは改めて説明するまでもないだろう。 |
| コント54号 |
| 萩本欽一メインの「欽ちゃんのドンとやってみよう」でクールファイブのヴォーカルだった前川清と組んだ番組内だけのコンビ。萩本欽一のツッコミと前川清のボケぶりが妙にマッチして本家55号とは違ったいい味を出していた。この番組が縁で現在も前川清のコンサートに大将が友情出演することもあるそうだ。昨年NHK「ふたりのビッグショー」でも共演を果たしている。 |
| コント笑企業 |
| 昭和50年代前半に数回TVに出ていたのを記憶している。左官屋コントなどを得意ネタとしていた。解散後、メンバーの三木ヒロシがサルのものまねで"日本ものまね大賞"で優秀賞を獲得。ものまね番組や地方の営業などで活躍中。 |
| コント0番地 |
| コント55号の弟分のような存在で、タンクだん吉といわたがん太のコントコンビ。それぞれ後に車だん吉、岩がん太に改名するも、レギュラーが「55号決定版」のみで目立った活動をしていなかった。昭和50年解散後、岩がん太はひっそりと引退。 |
| コント太平洋 |
| 市川太平となべ雄作が結成したコントコンビ。寸劇の要素が入っている典型的な正統派コントを演じる。中堅どころとして活躍していたが、投書で「おもしろくねえ」とケチをつけられたことがきっかけで悩んでしまい、ついにはコンビ解消する羽目になってしまった。現在、なべ雄作はタレントとして、芝居を中心に細々と活動をしているようだ。 |
| コントD51 |
| 昭和45年高校卒業後、朝丘雪路・津川雅彦ご夫妻の内弟子として役者修業をした香川けんじが、弟の香川まさしの高校卒業を機に、昭和51年、兄弟コンビの「コントD51」を結成。主なネタは、「甲子園物語」「恐怖の爆弾処理班」「きのどくなマラソン選手」「草野球物語」など。その芸風は、オーバーアクションや一発ギャグはなく、コミカルなシチュエーションと話芸で爆笑を誘う教科書どおりのコントを繰り広げ、その実力は「ザ・テレビ演芸」で第14代チャンピオンになるなど充分評価されている。また、「半農半芸」で、スケジュールのあいたとき、郷里・香川で家業の農業で汗を流している姿をテレビで放映されたこともあるユニークな兄弟コンビでもある。 |
| コント21世紀 |
| 「お笑いスター誕生」に登場し活躍。三波伸介の弟子。現在ホームランとコンビ名を替え、ラジオの中継レポートで各地の商店街を回ってクイズやイベントの司会などをこなしている。 |
| コントパロル |
| 「お笑いスター誕生」に出演。コントの出来不出来が激しい3人組。体を張った刑事ものが得意ネタだった。番組の末期には姿を見せなくなってしまった。 |
| コント100連発 |
| スリーピースを解散した水島びんとTVタレントとして注目され始めた轟二郎のコンビ。所ジョージ司会の「ドバドバ大爆弾」で結成された急造コンビといった感が否めないが、その勢いで「お笑いスター誕生」に登場、銀賞を獲得。ギャグで笑わすというより、アクティブな動きとリアクションを全面に押し出したコントが印象的であった。しかし轟が本名の三浦康一で「びっくり日本新記録」の挑戦者としてレギュラー参加することにより、コンビとしての活動がなくなり、解散の道を歩むことになる。 |
| コント山口君と竹田君 |
| 山口弘和は昭和52年に新宿ミュージック劇場に入り、コント修業を開始する。56年に新井清志とMr.ポテトを結成しデビューするが、半年で解散し再びストリッブ劇場でコントを続ける。竹田高利は大学に行く才能がなく昭和51年より秋葉原で家電製品の販売員になる。俳協に入るが間もなく辞め、再び秋葉原で働く。58年に新宿ミュージック劇場のストリップを見に来てそのままコメディアンになる。当時5〜6人いたコメディアンが次々とやめ、最後に残った二人がコンビを結成することとなった。 NTV「お笑いスター誕生」サバイバルシリーズに出場し、前人未到のl00点満点を2週連統で獲得して初出場優勝という快挙を遂げる。現在も社会派コントを中心とした笑いを展開し活躍する一方で、山口は若手コメディアンの発掘・指導、竹田は旅番組の出演などそれぞれ活動の場を広げている。 |
| コント・らぶこーる |
| 橋達也と笑いの園に所属していた大上こうじとレオナルド熊の弟子だった森はじめが結成したコントコンビ。「お笑いスター誕生」第1回サバイバルシリーズで優勝する。実力はありながら、人気の面ではそれほど上がらずTVで見かけることがほとんどなくなってしまった。現在でもコンビは解散せず「浅草21世紀」などの高座でお目にかかることができるようだ。 |
| コント・レオナルド |
| 石倉三郎とのコンビで徐々に人気が出始めたラッキーパンチを解散した"熊さん"こと井上千蔵が、当時付き人でコントコンビ笑公子を解散した武者博和と"熊田うつぞう・にげろう"を結成。直後にコント・レオナルドと改称。芸名も"レオナルド熊""ダヴィンチ白熊"にそれぞれ改名するもコントはほとんどウケなかった。仕方なく前相方の石倉三郎と和解し、熊・石倉の新生"コント・レオナルド"で再出発する。すると再び人気に火がつきバラエティ番組を持つまでに大ブレイク。このまま突っ走ってしまうかに見えたが、レオナルド熊が石倉に内緒で勝手にコント・レオナルドの営業をいれ、しかも石倉ではない人物を相方としてコントで稼いでいたため、石倉が「もうアイツとは二度と組まない」と大激怒し、一方的にコンビを解消してしまった。その後レオナルド熊はコメディアンとしてバラエティー番組などに出演。石倉三郎はたけし軍団の客員として「風雲たけし城」のレギュラー出演の後、長渕剛が主演する一連のドラマ出演を経て、俳優業へとカムバックすることとなった。 |