現在に至るまでの芸人、喜劇人をまとめてみました。
50音順に掲載していきますので、乞うご期待。


  【さ】

西条凡児
 昭和8年大阪千日前の舞台で九条芸児とコンビを組み、漫才でデビュー。芸名の由来は詩人の西條八十と漫画家の只野凡児にヒントを得た。芸児の死後、漫談に転向し、昭和39年からのTV「おやじバンザイ」や「凡児の娘をよろしく」などでは、"おみやげ、おみやげ"のフレーズと人情味あふれた司会ぶりが人気を呼び、長寿番組となった。
さいたまんぞう
 名前からして埼玉県出身と思われがちだが、岡山県出身で埼玉とは何のゆかりもない。自主制作版「なぜか埼玉」を発売するも全く話題にもならなかったが、あるラジオ番組でおもしろ半分に流したところ、徐々に注目されだし、フォーライフレコードから改めて発売したところ、そこそこヒットするようになった。その後一時、斎田満蔵と改名して「テレビ演芸」などにチャレンジしたり、情報番組のレポーターなどをしていた。現在も司会業、レポーターなどをするかたわら、草野球の審判をしている。
財津一郎
 オペラ歌手から石井均一座で旅回り役者として過ごしていたが、「てなもんや三度笠」の素浪人・蛇口一角役で奇声を発しながら「キビシーッ!」「・・・してチョーダイ!」などのギャグが大受けしレギュラー入り。途中、浪人役から写真家・桜富士夫役に変更になってもその芸風は変わらず、最終回までレギュラー出演した。その間「花のピュンピュン丸」の主題歌を歌ったり、バラエティ番組に出演後、本格的にミュージカル活動に専念する。自動車を運転中に脳内出血をおこし病院に緊急入院したが、現在は完全復帰し、またミュージカルなどで活躍している。
斉藤清六
 実家が米屋。少年時代から芝居や舞台が好きで浅草に通っていたころ、コント55号にあこがれ、萩本欽一の押しかけ付き人になる。しばらくは前説専門で画面に出ることは皆無だったが、「欽ちゃんのどこまでやるの」で黒子姿で前説をやっている頃から徐々にオンエアされるようになり、"村の時間"のコーナーでは話術の下手なアナウンサー役で人気に火がつき、"バイナラ"のフレーズはスマッシュヒットとなった。現在ではテレビ東京系列の旅番組で年に数回はお目にかかれる。
斎藤ルミ子
 ものまねタレント。昭和58年原宿でスカウトされる。松田聖子のそっくりさんとしてCX「全日本ものまね大賞」「ものまね王座決定戦」に出演。現在は清水アキラの事務所に所属し、地方の営業などで活躍している。
酒井くにお・とおる
 兄弟の漫才師。若手時代に「お笑いスター誕生」に登場。くにおの女装ネタにみられるオカマチックな仕草と「とおるちゃん!」という甲高い合いの手は、他の漫才師とは差別化を図った特異な芸風で茶の間に浸透していった。その後、関西を主戦場として地道な漫才活動が認められ、90年代中頃から上方お笑い大賞の金賞や上方漫才大賞の大賞など数々の賞を獲得。いまや中堅からベテランの域に達しようとしている。「とおるちゃん!」のギャグと「ここで笑わんと、あと笑うとこないですよ。」の自虐ネタで現在も関西を中心にTVや高座で活躍している。
堺駿二
 昭和の浅草を代表する喜劇役者。早川雪洲一座で舞台に立ち、後に浅草オペラ館で清水金一とコンビを組むが数年で解消、清水金一とは、お互い「自分が死んだら、あの男だけは絶対葬式に来ないだろう」というほど仲の悪さで有名だった。昭和21年から喜劇映画に出演。昭和27年からは現代劇・時代劇を問わずアクロバット的な軽い身のこなしとコミカルな演技で「喜劇の神様」と呼ばれた。また東宝ミュージカルの舞台でも「雲の上団五郎一座」などで活躍。一方、テレビでもベテランのコメディアンぶりを発揮し、昭和37年「てなもんや三度笠」の第1回に特別ゲストとして出演した。しかし、そんな喜劇界の重鎮も昭和43年、舞台出演中に倒れ、53歳で急逝してしまった。なお、次男は堺正章で、喜劇役者とGS出身とデビューは全く異なるが、身のこなしの軽さや巧みな話術など親子の血は争えないようである。
堺すすむ
 昭和35年川上のぼるに師事。42年独立し上京、「おしゃべりギター」の名称で、絶妙な声帯模写と漫談の語りで多くのファンを得る。美空ひばりや和田アキ子の歌マネから藤山寛美のものまねを得意とした。昭和50年からNTV「歌まね振りまねスターに挑戦」でレギュラー番組終了までの11年間審査員を勤め、審査員特別賞が出なかったときの"今週はなーし!"のフレーズも番組名物の一つだった。昭和50年代前半の第1次ものまねブームでは、はたけんじ、佐々木つとむ、団しん也と"元祖ものまね四天王"として活躍したが、漫才ブームにより活躍の場を追われてしまう。その後、平成に入ってからはものまね芸を捨て、フラメンコのリズムに合わせて漫談をする「なんでかフラメンコ」が大当たりし、現在もそのスタイルでTVや営業で活躍している。
坂上二郎
 地元鹿児島の百貨店に勤めているときにNHKのど自慢に出場、優勝して鹿児島県代表となったことがきっかけで歌手を目指し上京。東京で数々の職業に就いた後、歌手の青木光一の付き人兼司会となる。付き人時代は安藤ロールの名で、同じ付き人仲間の内藤ロックとコンビを組み、ショーの幕間で漫才やコントをする。その後コンビを解消し、昭和41年浅草フランス座で萩本欽一と出会いコント55号を結成。「ちっこい目の二郎さん」でお茶の間に親しまれた。55号時代の超売れっ子ぶりは言うまでもないが、その素朴な人柄が受けTBS「夜明けの刑事」の刑事役や時代劇「荒野の素浪人」の"すっぽんの二郎吉"役など俳優としても好演。またバラエティでもNTV「カックラキン大放送」のレギュラーと個人としての活躍の場を広げていった。しかしこの二郎さんの活躍が55号解消への大きな要因となってしまったのはあまりにも因果であろう。一方、あこがれていた歌手活動も昭和48年「学校の先生」がベストテンに入る大ヒット。また昭和63年にはユニコーンとのデュエット「デーゲーム」もヒットした。現在はドラマの俳優としてでなく、舞台やミュージカルを中心とした活動が主である。
坂田利夫
 ご存じ"アホの坂田"。吉本新喜劇の研究生よりコメディアンとなったが、新喜劇に所属していた前田五郎と昭和43年コメディNo1結成。コミカルな動作と"あ〜りが〜とさ〜ん"、"あんたバカね、オホホ"などのギャグで「アホ」=坂田利夫のイメージを定着させた。この勢いで「アホの坂田」というレコードを出したが、大阪の坂田姓の子供がいじめにあうなどの現象も起こした。またこの人ならではのエピソードも多く、ある日知人の葬式で食事を勧められ、腹一杯ごちそうになったあと、喪主に「本日はご愁傷様でした」というところを「本日はどうもごちそうさまでした」といってしまい、周りの爆笑を買ってしまった。また妹の結婚式の挨拶で「ふつつかな妹ですが」を「ふしだらな妹ですが」と言い間違えたこともあったそうだ。現在は漫才の他にバラエティー番組などに出演することも多い。
坂野比呂志
 深川生まれの生粋の江戸っ子大道芸人。オペラ歌手や漫才師などを経て、「大道芸」を今に伝え、自ら大道芸人と称する。昭和57年、浅草の木馬亭で大道商人の口上と江戸時代から続くシジミ売りや納豆売りの声の独演会を開き、これによって芸術祭賞を受賞した。
さがみ三太・良太
 漫才師。扇子を片手に浪曲をうなる三太と、三味線と合いの手を入れる良太の浪曲漫才。初代相模太郎に入門。高座にあがるや「毎度〜皆様おなじみの〜、ちょうど時間となりました。」のフレーズで客席の笑いを誘う。コンビ結成前さがみ良太は、みなみ良雄の名で”トリオアンバランス”なるコントグループを結成していたこともあった。
相模太郎
 浪曲師。初代は幼少の頃から浪曲に親しみ、17歳の時東屋小楽燕に入門。その後会社員、兵役を経て29歳で東屋愛楽に再入門。昭和6年2代目愛楽を襲名。昭和10年に相模太郎と改名。昭和15年に浪曲「灰神楽三太郎」が大当たりし "滑稽読み"として一躍注目される。天衣無縫な節回しと軽妙な話芸で定評があり、楽屋でも舞台同様明るい人柄であった。2代目は初代の次男として生まれ、昭和29年新橋演舞場で相模武として舞台を踏む。昭和47年に国際劇場で2代目を襲名。人情物を得意としていたが、どちらかといえば浪曲よりも「ハクション大魔王」の"ブル公"、ハンナバーベラの「わんわん保安官」の"保安官"の声優としてよく知られているのではないだろうか。昭和56年2代目没後、現在はその名跡を初代の弟子であるさがみ三太が預かっている。
坂道コロンブス
 松丘慎吾と林伸行のコンビで94年9月に坂道コロコロのコンビ名で結成。当時若手の登竜門であったボキャブラ天国で活躍。後にオンエアバトルにも登場するがこちらは苦戦が続いている。主にお笑いライブでの活動が中心だが、松丘はVシネマ出演、林は"新型テレビ"の2代目テレビマンとしてレギュラー出演と個人でも活動の幅を広げている。2001年春からコンビ名を「坂道コロンブス」と改名。
坂本新兵
 大学生の頃から "トシゴロ亭ニキビさん"の芸名で素人寄席に出演し、チャンピオンになる。その後ショパン猪狩に師事し、お笑いの世界に入る。しかしお笑いよりもピンポンパンの"新兵ちゃん"で有名となった。またケンちゃんシリーズにもレギュラー出演していた。晩年は保護司として非行少年少女の更正に努めた。
桜井センリ
 クレージーキャッツには病気で入院した石橋エータローの代役として加入。石橋復帰後もメンバーとして継続。この時点でクレージーはメンバー7人の大所帯となる。コントでは石橋同様女性役を担当することが多かった。メンバーの中でも割と地味な存在であったが、一躍全国的に時の人としたのは「キンチョール」のCMで、「おら、知らねぇ〜、おら知らねぇ〜・・・」のフレーズが大ヒットした。最近は頭髪がなくなり、すっかりクレージー時代の面影はなくなったが、他のメンバー同様、舞台やTVドラマで味のある演技で活躍している。
桜井長一郎
 声帯模写。戦後から平成のはじめまで声帯模写一筋に演芸場で活躍。「声のスタイルブック」と称して歴代の政治家から長谷川一夫、石坂浩二などの映画スターのものまねを十八番としていた。また山本富士子、浦辺粂子のものまねも得意とする。
桜金造
 佐藤金造の名でTBS「ぎんざNOW」の"素人コメディアン道場"に出演し、5週勝ち抜きチャンピオンとなる。その後清水アキラらとお笑いグループ「ハンダース」を結成。昭和54年にリーダーの清水アキラがあのねのねの清水国明に弟子入りしグループを脱退したため、リーダーとなるが翌年解散。昭和56年メンバーだったアゴ勇とコンビを組み「アゴ&キンゾー」で活躍し、「お笑いスター誕生」で10勝ち抜きチャンピオンとなる。当時のギャグは"意外ね"、"小山ゆーえんちー"の2つだが、特に"小山・・・"のギャグは小山ゆうえんちからCMの依頼が本当にきたという。しかしアゴ勇の病気によりコンビ解消。同じくビジーフォーを解散したモト冬樹と"AJAPA"を結成するも笑いの質が全く違うために半年ほどで解散。その後Vシネマで役者としての活動を機に桜金造に改名。名付け親は松田優作。現在はバラエティーの他、NHK「お江戸でござる」にレギュラー出演している。
笹一平・八平
 漫才師。1度TV寄席番組で見ただけでほとんど印象にない。現在笹八平は真木淳と新たに漫才コンビを結成し、高座で活躍している。
佐々木つとむ
 声帯模写。昭和50年代のものまね界ではトップクラスであった。田中角栄をはじめ歴代の政治家や、高倉健、菅原文太、渥美清など映画俳優、立川談志、橘家円蔵などのタレント、永六輔ら文化人のものまねレパートリーを多数持っていた。特に田中角栄、三木武夫、大平正芳、春日一幸の4人の声を使い分けた"ロッキード麻雀"のネタは秀逸で、ネタ落ちとして渥美清のマネで「それを言っちゃ〜オシマイよ」のフレーズがでると場内が爆笑に包まれた。当時は、はたけんじ、団しん也、堺すすむと"元祖ものまね四天王"で活躍していたが、人当たりの良さそうな風貌とは逆に私生活は荒れ放題で、結局愛人に刺殺されてこの世を去ってしまった。
佐々十郎
 ムーランルージュを振り出しにシミキン一座、森川信一座など軽演劇界で修業する。昭和20年代末に宝塚新芸座へ移ってから主に関西を中心に喜劇役者として活躍する。昭和30年代前半、「やりくりアパート」で人気者となり、TV・舞台での喜劇に様々な役で出演し、睡眠時間3時間の"神風タレント"などと異名をとったこともあった。
里見まさと・亀山房代
 平成元年に"ザ・ぼんち"を解散したぼんちまさとが吉本の若手だった亀山房代とコンビ結成。結成当時はまさとがボケ役だったが、漫才コンビとして評価されるにつれてツッコミ役にもどる。他人同士の数少ない男女漫才コンビでしゃべくりを中心に着実に評価を上げ、数々の賞を受賞するまでになったが、亀山が結婚・出産を機に東京でタレント活動をするため、残念ながら平成13年限りで解散。まさとは今年から13年ぶりにぼんちおさむとザ・ぼんちを復活させ再スタートを切った。
サービスパンダ
 飯田ヒロシと吉岡ヤスタカのコンビ。コンビ名の由来は「昼寝をしてても人気者のパンダがサービスをする、これ以上ありがたい状態はない」というところから。ファンの間では「ビスパン」という愛称でも呼ばれている。ボキャブラ天国で一躍お笑い界の若手注目株として人気を博す。飯田はモト冬樹の付き人をしていたこともあり、ゆずのアルバムにパーカッションでの参加を果たしている。
さまぁ〜ず
 昭和63年7月"バカルディー"の名で大竹一樹と三村勝和がコンビを結成した。お笑いライブを中心に期待されていたがなかなかブレイクすることはなかったが、バラエティ番組で海砂利水魚との対決に破れ、罰ゲームとして半年間コンビ名を"さまぁ〜ず"に強制的に改名させられた。そのころから仲間内で指摘されていた三村の「見たままツッコミ」が世間にウケはじめ、人気も上昇しだす。しかしその反面バカルディー時代より仕事が増えコンビ名を戻しづらくなり現在もさまぁ〜ずで活動を継続している。またそれぞれドラマやバラエティーでも活躍している。コンビ結成15年で中堅タレントとして位置付けられなければならないのにもかかわらず、未だに"若手お笑い"と呼ばれていることに不満を持ちながらも本人達はまんざらでもなさそうだ。
サムライ日本
 チャンバラコント。花村多賀至をリーダーとし、池島美樹、及川のび太のトリオ。迫力ある本格的殺陣と色々な武器を使ってのコントで、リーダーが2人に剣術指導するのだが、おちょくられ、最後には痛い目に遭わされてしまうというオチで剣術コントを繰り広げる。
佐山俊二
 喜劇役者。昭和13年川丈劇団で初舞台を踏んでから10年以上舞台役者として過ごす。戦後、浅草のロック座やフランス座に入り、そのころに八波むと志と"あらいやだコンビ"を結成しコメディアンとして人気を得る。コンビ解消後もコメディアンとして活躍するが、脱線トリオが解散したあとの由利徹、南利明とわずかな期間ではあるが新生脱線トリオを結成したこともある。トリオ解散後は再び喜劇役者として舞台や喜劇映画を中心に活動し、特に由利徹との"権三と助十"、"山崎街道"のコントは秀逸であり、これを継承する者は未だかつて現れないほどのおもしろさである。
猿岩石
 電波少年が生みだしたお笑いコンビ。コンビ名の由来はお互いの彼女がそれぞれ"猿"、"岩石"に似ていたところから。全く無名のコントコンビに"ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅"をさせたところ、その過程が視聴者の共感を呼び、番組のメインコーナーとなって人気が上昇し始めた。帰国後はCD"白い雲のように"が大ヒットし、レコード大賞の新人賞にもノミネートされた。その後CD数枚を出すも本芸のお笑いでは全くブレイクせず、バラエティーで他の若手芸人たちと同じ扱いをされるまでにランクダウンしてしまった。平成13年春には現状打破ということで、FNN「プレゼンタイガー」で新コンビ名を募集したところ、"手裏剣トリオ"が採用され改名したが、9月に同番組で元の"猿岩石"に戻した。
佐渡稔
 東京ヴォードビルショーに所属。当初は"三木まうす"の名で、石井愃一とともにNET「みごろたべごろ笑いごろ」に出演。"東大の学生さん"役でお茶の間に知られるようになる。
澤田隆治
 一時代を築いた「花王名人劇場」やお笑いブームの仕掛人。現在大御所と言われるクラスのお笑いでこの人の世話になった人はほとんどといっても過言ではないほどの番組プロデューサーである。お笑い番組だけでなく「ズームイン!朝」等の番組も手がけていた。
三笑亭笑三
 落語家。昭和21年に三笑亭可楽に入門し、三笑亭可寿美の名で前座。24年に柳亭春楽で二つ目。一時落語をやめた時期もあったが、29年三遊亭円歌門下で三遊亭歌風となる。33年には再び可楽門下に戻り三笑亭笑三と改名し、35年に真打に昇進する。昭和48年には演芸番組"日曜ワイド笑"の司会も務めたこともある。「上から呼んでも下から呼んでも三笑亭笑三」のキャッチフレーズで客層の笑いをつかみ、高座では主に新作落語を得意としている。
三笑亭夢楽
 落語家。昭和24年に古今亭今輔に入門し、古今亭今夫の名で前座。26年に三笑亭可楽門下に移り三笑亭夢楽と改名して二つ目。33年に真打に昇進。穏やかながらも親しみやすい語り口での高座には定評がある。また、「日曜演芸会」の大喜利コーナー"お笑い七福神"のレギュラーとして活躍した。
三笑亭夢之助
 落語家。昭和46年三笑亭夢楽に入門して三笑亭夢九を名乗る。翌年夢之助と改名して二つ目。若手のホープとして注目される。このころは主にバラエティ番組などで活躍していたが、58年に真打昇進。一時期、笑点の大喜利メンバーとしても出演。現在は高座の他、主に旅番組、グルメ番組の常連リポーターとしてお茶の間にしばしば登場するが、リアクションがややオーバー気味のところがある。
三笑亭夢丸
 落語家。昭和38年三笑亭夢楽に入門して三笑亭夢八を名乗る。落語家というよりもワイドショー番組の突撃レポーターとしてお茶の間に浸透してしまっている。特にNTV「ルックルックこんにちは」では番組当初から"TV三面記事"のレギュラーレポーターとして活躍。53年4月に夢丸と改名して真打昇進。現在も高座の他にレポーター業をこなしている。
三瓶
 高校卒業後、調理師学校で調理師免許取得。アルバイト先のパン店と自宅を往復するだけの日々を過ごしたが、「自分を変えよう」と決心。思っていることを口にできるようになるための"リハビリ""ショック療法"として、お笑いの道を選ぶ。東京NSCに入学。以前の芸名は「ロールスロイス」だったが、もしロールスロイスから苦情が来たら絶対負けると思って芸名を名字の"三瓶"に変えた。平成13年夏頃からFNN「BACK UP」に出演し、ショートコントの合間にパラパラの振り付けで唐突に「サンペ〜です!」と踊るギャグで笑いを取るだけの単純な芸を披露したところ、番組レギュラーのおすぎとピーコがツボにはまってしまい、気に入られた。フリートークに引っ張り出されると、たけしのモノマネなども意外に器用にこなす。番組の準レギュラー扱いでCDまで出し人気に火がついた。テレビのバラエティー番組に引っ張りだこになり、CMで小泉孝太郎と共演したり、米歌姫のブリトニー・スピアーズが「ブリ・チャン・デス!」とマネしたほどのブームに。ただし、雑誌の読者投票では「来年に消えるタレント」の1位に選ばれる。案の定、次が続かず、精神的に追い詰められ引退も考えていたという。ブームが去った現在はルミネよしもと等ライブ中心に活躍している。
三遊亭歌奴
 現円歌がこの名前で一躍スターダムにのし上がった。TV寄席ブームの中、「歌奴ちゃん」「山のあなあな・・・」で一世を風靡した。45年に円歌を襲名して現在に至っても、いまだに「歌奴ちゃん」と呼ばれると本人が落語のまくらに使っているほどの出世名となった。現在の歌奴は三代目。先代門下で33年、三遊亭どん栗の名で前座。38年に歌雀と改名して二つ目、48年真打、50年に歌奴を襲名。先代のインパクトがあまりにも強すぎたため、襲名当初はニセ者と呼ばれたこともあったそうだ。先代が「山のあな」であったが、3代目はその体型から「3年2組」をキャッチフレーズとしてNHKの演芸番組にレギュラー出演し、ようやくお茶の間に名前と顔を一致してもらえるようになった。
三遊亭円右
 東京都の生まれ。昭和16年ごろから橘ノ小円三の名で端席に出演。22年に古今亭今輔に入門し寿輔。30年3月に三遊亭円右を襲名して真打。78の高齢ながら新作落語を専門に演じている。最近は高座のみでお目にかかれるが、どちらかといえば、落語よりも「エメロン」のCMのイメージが未だに強く残っている。
三遊亭円歌
 現落語協会の会長。国鉄新大久保駅に勤務後、昭和20年に先代円歌に入門して歌治の名で前座。昭和24年に歌奴で二つ目。昭和34年に真打昇進。このころに作った「授業中」が出世作となり、一躍次代を担う若手落語家の仲間入りを果たすとともに、「歌奴ちゃん」の愛称でお茶の間の人気者となる。昭和45年に3代目円歌を襲名。歌奴のイメージをどう払拭するかが気がかりであったが、「中沢家の人々」をはじめとする自作の新作落語で客席を爆笑の渦に巻き込み、見事に大看板を担った活躍をしている。また、仏門にも入り住職としても精進している。
三遊亭円生
 明治38年頃から4代目橘家円蔵一門となり、義太夫の演者として豊竹豆仮名太夫の名で寄席に出演。明治42年に噺家に転向して橘家円童に改名。大正4年に橘家小円蔵、昭和9年に橘家円好に改名して真打昇進。さらに昭和11年には円窓、昭和15年に6代目円蔵、翌年に6代目円生を襲名した。子供時代からの噺家で芸域は広く、早くから嘱望されていたが、襲名当初はそれほど評価されてはいなかったが、昭和22年ごろから話芸に磨きがかかり、高い評価を得るまでになった。昭和40年から47年まで落語協会会長、昭和48年には皇居で御前口演を行った。昭和53年には「芸に磨きがかからないうちに安易に真打を出し過ぎる」と落語協会の真打昇進基準・推薦方法に異を唱え、一門を率いて落語協会を脱退。落語三遊協会を設立するも落語協会の圧力や席亭による大手演芸場から締め出しを喰うなど厳しい船出となったが、翌年惜しまれながらも亡くなるまで正統派の落語を目指し話芸の本流を貫き通した。上品な振る舞いおよび語り口はまさに名人と称されるにふさわしく、人情噺・芝居噺など芸域の広さを誇り、「円生全集」などの落語集やレコード・CDなど多くの資料も残している。
三遊亭円丈
 昭和39年、三遊亭円生に入門し、三遊亭ぬう生の名で前座、44年に二つ目。昭和53年円丈と改名して真打昇進。古典落語を中心とする本格派揃いの円生一門にあって、自作の新作落語や実験落語を専門に演ずるところはマスコミや演芸評論家の間から落語界のニューウェーブとして注目され始めていたが、その一方では師匠円生や兄弟子円楽をはじめ一門の面々からは「異端児」として距離をおかれていた存在でもあった。昭和53年円生一門が落語協会を脱退する前後における師匠や兄弟子との確執や内幕を暴露した「ご乱心」を出版し一時話題となるが、その結果一門から破門同然の扱いを受ける。それでも"IT落語"と称して扇子の代わりにマウスを使うなど創作落語に独自の世界を盛り込み、現在も演芸場やTVで地味ながらも活躍している。
三遊亭円窓
 昭和34年春風亭柳枝に入門し枝女吉の名で前座。師匠没後三遊亭円生門下に移り吉生と改め昭和37年に二つ目。昭和44年3月に"6代目"円窓を襲名し、真打となる。昭和48年3月に、500席の落語を高座にかけると宣言し、「円窓五百噺」をスタートして昨年3月、28年かけてこの偉業を達成した。本格古典派ながら、埋もれた落語の発掘や仏教説話・民話などを素材とした落語の創作にも力を注いでいる。また笑点のレギュラーとしても活躍したことがある。
三遊亭円弥
 昭和33年春風亭柳枝に入門し枝吉の名で前座。師匠没後三遊亭円生門下に移り舌生と改名。昭和36年に円弥で二つ目。昭和47年9月に真打となる。穏やかな口調で聴かせる高座は円生一門の伝統であろうか。
三遊亭円遊
 昭和37年先代三遊亭円遊に入門し三遊亭笑遊の名で前座。昭和40年に二つ目。極度の近眼でめがねを外すとほとんど見えなかったようで、NTV「底ぬけ脱線ゲーム」などにしばしば登場するが、結構たいへんな目に遭っていた。昭和51年若円遊と改名して真打となったころからバラエティーには出ず、高座で話芸を磨く。昭和60年4月に大看板である5代目三遊亭円遊を襲名した。
三遊亭円楽
 笑点の司会者や日本香堂"青雲"のCMでおなじみであるが、かつては"星の王子さま"のキャッチフレーズで売り出した。昭和30年に三遊亭円生に入門し、三遊亭全生の名で前座。昭和33年に二つ目。昭和37年5代目円楽を襲名し真打となる。三遊派正統の古典の継承者として早くから嘱望される一方で、昭和40年代は笑点の大喜利メンバーとして活躍したが、高座に力を注ぐために笑点を"卒業"する。昭和53年、真打昇進基準に異を唱えた師匠円生とともに落語協会を脱退し落語三遊協会を設立する。翌年の師匠没後も円楽一門だけは落語協会には戻らず、大日本すみれ会と称して独立興行を行い、東京深川に寄席「若竹」を自力経営した。しかし多くの借金と経営難で「若竹」は閉鎖してしまうも現在「円楽党」として各地で自主興行をおこなっている。高座以外では昭和57年、笑点司会者の三波伸介が急死したことにより、番組への恩返しを含め新司会者が決まるまでのピンチヒッターとして年内いっぱいの約束で司会者を引き受けたが、違和感なく好評だったためそのまま4代目司会者として現在も長寿番組を率いている。そのほかプロレス団体FMWのコミッショナーとしても就任していた時期もあった。
三遊亭金馬
 昭和16年、小学校卒業と同時に先代金馬の内弟子となり三遊亭金時の名をもらう。昭和20年に三遊亭小金馬で二つ目。人形を使った腹話術なども演じていたが、昭和30年頃、NHK「お笑い三人組」の放送で一龍斎貞鳳、江戸家猫八とともに一躍お茶の間の人気タレントとなる。昭和32年に真打。師匠の死後は落語に主力を注ぎ、昭和41年には落語協会に加入して寄席の定席に出演が多くなり、昭和42年に4代目三遊亭金馬を襲名する。ダミ声ではあるが、「佃祭」「夢金」など師匠譲りの古典落語に取り組んでいる。
三遊亭好楽
 笑点メンバーとしておなじみ。昭和41年、八代目林家正蔵に入門して林家九蔵の名で前座。昭和46年に二つ目。昭和56年には真打に昇進し、このころ短期間ではあるが笑点メンバーとして加入。師匠林家彦六(八代目林家正蔵)が亡くなると昭和58年三遊亭円楽門下に移り、三遊亭好楽と改名し、笑点に復帰する。現在もメンバーとして活躍し、大喜利では自己紹介に川柳を織り交ぜたり、優等生的な回答が多く見られる。
三遊亭小円馬
 昭和23年、三遊亭円馬に入門して三遊亭栄馬で前座。昭和25年に三遊亭小円馬に改名して二つ目。さらに昭和33年に真打昇進。人当たりの良さそうな高座で楽しめる噺家であった。
三遊亭小円遊
 昭和30年高校を中退して、4代目三遊亭円遊に入門し、三遊亭金遊で前座。昭和33年に二つ目。昭和43年には三遊亭小円遊を襲名し、真打となる。笑点スタート時からの大喜利メンバーで、「巷では・・・」「ボクちゃん」などキザを売り物にして人気を得た。特に大喜利では親友でライバルでもある桂歌丸とは、"ハゲ"の歌丸に対して"化物"の小円遊などといわれ、壮絶な罵り合いは番組の名物でもあった。そのゴツい顔とキザな風貌に似合わず、落語は本格派の芸に精進し、大看板"円遊"の襲名も近いと思われていた。しかし無類の酒豪であり、先輩の噺家衆や歌丸も心配し酒を控えるよう勧めるほどであった。結局その酒好きが原因で体をこわし、地方出演の旅先で亡くなった。まだ43歳でこれからというときに惜しまれる逸材であった。余談ではあるが、この"小円遊"の名跡は4代数えるが、そのうち3人は旅先で、しかも若くして亡くなっており、何かの因縁であろうか、あまり縁起のよい名前ではない。
三遊亭小遊三
 昭和43年、三遊亭遊三に入門、翌年三遊亭遊吉の名で高座にあがる。昭和48年に三遊亭小遊三で二つ目。その明るい積極的な芸風で、ラジオの中継レポーターに起用され、地方のスーパーや商店街などでは人気者となる。名前は知っているが、顔は知らないという時代がしばらく続いたが、昭和58年真打に昇進後、笑点メンバーとしてレギュラー出演し、お茶の間にその顔を覚えてもらえるようになった。大喜利ではスポーツネタを織り込んだ回答や、コソ泥ネタで客席を笑いの渦に巻き込む。生きのいい口調と時折噺に放り込むギャグは切れ味鋭く、いい味を出している。現在も笑点メンバーとして活躍する一方で、平成11年には落語芸術協会副会長に就任、また林家こん平と落語卓球倶楽部を旗揚げし、その副会長にも就いている。
三遊亭鳳楽
 昭和40年、三遊亭円楽に入門して三遊亭楽松の名で前座。昭和46年に二つ目。昭和54年に真打となり、三遊亭鳳楽と改名。地味ながらも本格派落語での安定感と玄人好みの話芸には定評がある。
三遊亭楽太郎
 昭和45年、青山学院大学在学中に三遊亭円楽に入門して三遊亭楽太郎の名で前座。昭和51年に二つ目。昭和56年に真打昇進。このころ笑点の大喜利メンバーとして加入、マラソンランナーの瀬古利彦に似ていたため、当初は"落語界の瀬古"として売り出していた。笑点ではベテランの域に達しつつあり、師匠円楽にヨイショしたかと思えばこき下ろしたりと表裏のある"腹黒"のキャラクターが定着。現在も笑点の他、円楽党の主力としても高座のトリを務めるなど活躍中。なおプロレスラーの天龍源一郎とは中学校の同級生であり、親交が深い。
三遊亭柳枝
 瀬戸内海の汽船のボーイから2代目三笑亭柳枝に入門し、三笑亭柳歌を名のる。次に三遊亭円子の預かり弟子となって三遊亭柳枝となる。"三遊亭"といっても落語家ではなく漫才師・喜劇俳優として活躍した。その経歴は花柳一駒とコンビを組んでいたが、20歳過ぎで座長となって全国を巡業した。ミヤコ蝶々と結婚し、柳枝劇団を旗揚げするも蝶々とは離婚する。その後劇団員の南喜代子と漫才コンビで再スタートする一方で、柳枝劇団を松竹爆笑劇と改め、角座などで喜劇を演じた。門下生に上方柳次・柳太がいる。


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