
現在に至るまでの芸人、喜劇人をまとめてみました。
50音順に掲載していきますので、乞うご期待。
| すがぬま伸 |
| ギター漫談。素人参加の演芸番組出演がきっかけで、牧伸二門下として修行。ザ・テレビ演芸でチャンピオンとなる。ネタとしては、小咄のようなものであるが、ネタを進める時の同じイントロについ笑いに引き込まれてしまう。当時、太田プロ所属だったビートたけしの弟分ということで、たけし軍団のリーダーとして活躍していたが、NTV「スーパージョッキー」の"ガンバルマン"でロデオに挑戦したときに落下してしまい骨折し入院。表舞台から姿を消し引退した。一時オフィス北野で事務員をしていたが、現在はホテルマンとして職に就いているらしい。 |
| 杉兵助 |
| コント赤信号の師匠にあたる。戦中戦後をドサ回りで過ごし、浅草オペラ館、東洋劇場、関敬六劇団などを経て、ストリップ劇場である"渋谷道頓堀劇場"専属のコメディアンとして、幕間のコントや寸劇を長年務めてきたが、昭和62年頃から「笑っていいとも」にレギュラー出演し、ようやく全国的に顔が知られるようになった。弟子の渡辺正行とゲストのアイドルタレントとのトークコントで会場を盛り上げていた。歯のない口から飛び出す江戸前のべらんめえ口調と、言葉に詰まると「…ばかやろう!」と渡辺に文句を言うなどのとぼけた味は、観客の若い女の子から「カワイイ」と声がかかることもあった。平成7年12月30日、ホームグラウンドであった道頓堀劇場閉館の最終興行ではコント赤信号と共演し、コメディアンとしての最後の雄姿を見せてくれた。ちょうどその半年後81歳で、脳梗塞により人生の幕を下ろすこととなってしまった。 |
| スージーきくち |
| 昭和43年ドンキーカルテッドのジャイアント吉田の弟子となる。形態模写を得意とし、"コーヒーメーカー"のものまね芸は「パカポコ、パカポコ…」とお湯が沸騰して蓋が踊っている形態までも細かく再現するなど十八番のネタである。現在も形態模写の他、司会業でも活躍している。 |
| すず風にゃん子・金魚 |
| スマートで背が高いにゃん子は何時までも美しく、小柄でおちゃめな金魚は何時までも愛らしくが、2人のキャラ。金魚は大学卒業後、幼稚園の先生を経て東八郎に弟子入り。夏野金魚の名で漫才コンビ「クイーン号」でデビューするも3年で解散。一方、にゃん子は高校2年の時、劇団ひまわりに入る。本名の高田順子で女優を目指し、今村昌平監督の「楢山節考」で松やん役に抜てきされたが、その後は鳴かず飛ばず。かつてレオナルド熊が座長をつとめていた一座に所属していた縁で、レオナルド熊と新宿や浅草のストリップ劇場でコントをしていたが、石井光三社長の勧めで順子と金魚が「みどりのおばさん」のコンビ名で平成元年コンビ結成。隅田公園で漫才の稽古中にケンカと間違えて、警官が飛んで来たこともあったとか。今では漫才協団で数少ない中堅女性コンビに。平成7年落語協会会員、鈴々舎馬風に入門を機に「すず風にゃん子・金魚」に改名。1本の漫才の中にしゃべりあり、ドツキあり、また舞台狭しとドタバタ動き回ったり、まさに "パワーアップ漫才"で客席を沸かす。キャリアウーマンを代弁するネタを目標に、当たり芸の「幸せシリーズ」に拍車がかかる。 |
| 鈴木末吉 |
| TBS「ぎんざNOW!」の"素人コメディアン道場"に出演、チャンピオンとなったのをきっかけに、16才で芸能界にデビュー。昭和50年に清水アキラ、桜金造らとザ・ハンダアースを結成。「笑って笑って60分」「みごろたべごろ笑いごろ」をはじめ多くのバラエティ番組に出演。アントニオ猪木のものまねは、春一番が登場するまではこの人の専売特許であった。昭和55年ハンダース解散後、木下末吉と改名し、俳優として舞台や映画に出演。その後芸名を鈴木末吉に戻し「ものまね王座決定戦」に出場。井上順や稲川淳二のものまねが受けたが大当たりはしなかった。現在は末吉と改名し、主にイベントのMCとして活躍。 |
| すだちtoかぼす |
| 平成10年、FNN「日本ものまね大賞」でグランプリをとった東郷淳と金野忠義が結成したユニット。翌年、同局の「ものまね王座決定戦」でゆずのものまねでデビュー、CHAGE&ASKAやCHEMISTRYなど,、ものまねのうまさとハーモニーで高い評価を受け、以後新たに番組の顔となる。一方、彼らの出現でビジーフォーは番組を追われた。 |
| ストレートコンビ |
| 浅草芸人の橋達也と舞台役者の花かおるが昭和43年に結成したコントコンビ。芸風は橋が花をイビリ倒して笑いをとるドタバタコントで、全国的に売れたコント55号に続けとばかりに、浅草ではポスト55号の呼び声が高かった。「ダメナノネー、ダメナノヨー」「千葉の女が乳しぼり」のギャグは流行語になり、特に「ダメナノネー、ダメナノヨー」はハクション大魔王のギャグフレーズとして使われるほど浸透していた。ただアドリブに頼らず台本に沿ったコントとしてよくまとまっていた反面、どうしても55号の二番煎じの感が否めず、またこの時代の芸人の特徴であるコンビ仲の悪さも相まって、昭和49年にコンビ解散となる。現在、橋達也はコメディアンの重鎮として関敬六とともに浅草喜劇の復興に尽力している。一方、花かおるは舞台役者としてコメディーとシリアスな芝居の両面で活躍中。 |
| 砂川捨丸・中村春代 |
| 「エー、漫才の骨董品でございまして…ポンポン」鼓片手にこんなヤリトリで調子のよい数え唄や音頭がはじまる。「ヨンろしぃー」などのフレーズを織り込み、受けに受けたあと最後は手と足に目鼻をつけようとする滑稽な身振り手振り、あげくの果てに、捨丸は春代にハリセンでパチンパチンと頭を叩かれて舞台を降りるという古風かつ滑稽な芸であった。なお捨丸の頭に扇を炸裂させてきたハリセンは京都で作られる特注品だったそうだ。捨丸は兄が砂川千丸という音頭取りだった関係から小学校3年生で初舞台を踏み、「音頭」の時代から活躍しつづけ、なおかつ戦後の上方漫才復活の立役者でもあった。アメリカへの巡業では、サンフランシスコの通関手続で、自分の髭を指差して「アイアム・ジャパニーズチャップリン」と言って役人を煙にまいたというエピソードがある。またこの人だけは他の芸人から"師匠"ではなく"先生"と呼ばれた。一方、春代は新開地の劇場でモギリ嬢をしていた頃、神戸新聞主催の第1回ミス神戸に推薦された。女流漫才の大家、中村種春門下となる。大正初期に従来の万才の改革を掲げ、高級万才として、大正12年に砂川捨丸と中村春代がコンビを組んで、近代漫才への道筋をつけ、旧来の蔓歳の伝統を生かしながら常に新しい素材を研究した。以来、夫婦でもない男女コンビが高度成長時代のお笑い、とりわけ漫才界の第一人者として常に王道を進んでいた。昭和46年、70年近い漫才生活の締めくくりとして予定された引退興行の直前、砂川捨丸82歳で旅立つ。5年後、中村春代も生涯を閉じる。 |
| スマイリーキクチ |
| かつて暴走族で暴れていたが、お笑い芸人になりたがっていた相方の有田毅に誘われ、平成5年コントコンビ「ナイトシフト」を結成。中国人ヤンさんのキャラクターが受けて、『GAHAHAキング』でブレイク。7週目まで勝ち抜く。当時は周囲からかなり期待されていたが、相方が「自信がないので辞めたい」ということで平成6年に解散。その後、毒舌を交えたポエム風の漫談で活路を見いだし、「ボキャブラ天国」で再び注目されだす。現在もお笑いライブなどで独特の世界を作り上げ、柔和な表情からの毒を含んだ笑いを展開している。 |
| スリーアンバランス |
| 現在浪曲漫才で活躍中のさがみ良太が、かつてコント芸人を目指して結成していたコントトリオ。メンバーは、みなみ良雄(さがみ良太)、斎藤正道、清水粒太。大柄のみなみに細身の斎藤、小柄の清水と名前のとおり、アンバランスな3人組であったが、それがうまい具合に調和がとれていた。ドタバタものを得意としていたが、昭和40年代のトリオブームの中の1組という位置付けのまま伸び悩み、昭和48年に解散した。 |
| スリーピース |
| 田端グループのメンバーが結成したコントトリオ。城後光義と水島びんが所属。芸風は浅草特有の、軽演劇仕立てのドタバタコントであった。NTV「やじうま寄席」のコントコーナーにレギュラー出演。水島の「もーイヤ!」のセリフとともにジャンプしながら左右に倒れるギャグを毎回やっていたが、マニア受けといったところか。番組終了とともに発展的解散。城後はゆーとぴあを、水島はコント100連発をそれぞれ結成した。 |
| すわ親治 |
| 本名は諏訪園親治(すわぞのちかはる)。コミックバンドをやりたくて高校卒業後フランキー堺に弟子入りしようとしたが会うことが出来ず、次に新聞でドリフターズのボーヤ募集をみて応募する。結果は不採用となるも加藤茶の運転手に採用される。その後ボーヤに昇格。稽古場での志村けんとの掛け合いを見たスタッフが『あいつ、面白い』ということでTBS「8時だヨ!全員集合」に見習いの肩書きで出演。白塗りのブルース・リーやお化けの役などで奇妙な笑い声を発し、会場を不思議がらせる。「飛べ!孫悟空」では馬の声を担当。このときドリフターズを5人から6人編成にする計画があったという。結局正式メンバー昇格は立ち消えになり、昭和60年「全員集合」終了後ドリフを離れ、水道会社に2年半勤務した。88年ごろから演劇などのいくつか舞台に出演後、ザ・ニュースペーパーにオリジナルメンバーとして参加。ドリフ見習い時代のキャラを捨て、当時の大物政治家・金丸信を演じるなど徹底した社会風刺をネタに好演した。現在はニュースペーパーを脱退し、舞台中心に芝居や一人コントで活動。また水道会社勤務の時に練習した、ネコ車をパートナーに見立ててマンボのリズムに合わせて踊る「ネコ車のダンス」の隠し芸も巷では好評である。 |
| 関敬六 |
| いにしえの浅草喜劇をこよなく愛する浅草コメディアン。陸軍特別幹部候補兵として従軍後、法政大学を卒業。昭和27年エノケン劇団を経て浅草フランス座に所属。昭和34年、渥美清、谷幹一とスリーポケッツを結成。解散後はコメディアンとして活躍。「〜だど!」「ムッシュムラムラ」のギャグで人気を博す。特に「ムッシュムラムラ」のギャグはダチョウ倶楽部が拝借してリバイバルヒットした。また役者の他にもハンナ・バーベラのアニメ声優としてもおなじみ。スーパースリーのコイル、宇宙忍者ゴームズのガンロック、スカイキッドブラック魔王のヘッピリなど様々なキャラクターの声を担当。浅草喜劇が衰退したときに「浅草の灯を消すな」のかけ声とともに昭和50年、関敬六劇団を結成。平成10年からは浅草木馬亭をフランチャイズに「お笑い浅草21世紀」の座長として漫才・コント・喜劇の舞台に参加している。 |
| 関根勤 |
| 昭和49年、日本大学法学部在学中にTBS「ぎんざNOW!」の素人コメディアン道場に出場し、ものまねで初代チャンピオンとなる。その後、浅井企画に所属し「ラビット関根」の名前でデビュー。名付け親は桂三枝で、デビューの年の干支がうさぎだったことに由来する。NTV「カックラキン大放送」では"刑事ゴロンボ"のコーナーで悪役カマキリ男のキャラでそこそこの人気を得る。しかしものまね以外にこれといったウリがなく低迷。昭和56年、小堺一機とのコンビでラジオ番組をもったことがきっかけで萩本欽一の下で修行をすることを決意。昭和57年、「欽ちゃんのどこまでやるの!?」に2代目黒子としてレギュラー出演。ただし出演条件として大将から「『ラビット』なんて軽そうな芸名では、ボクの番組には使わない」と言われ、これを機に芸名を本名の関根勤に戻す。FNN「笑っていいとも!」にレギュラー出演。出演当時は得意技を逆手にとって「似てねーものまね」で売り込んだ。しかし水森亜土のものまねが大受けし完全復活、人気を不動のものとした。大滝秀治や輪島功一のものまねは絶品で、特に素人時代からのネタであるジャイアント馬場のものまねは馬場本人からお墨付きをもらった唯一の芸人である。平成元年、浅草常盤座にてルー大柴、ラッキィ池田らと「カンコンキンシアター」を旗揚げ。現在は新宿シアターアプルにて毎年8月に公演を行っている。趣味のゴルフ、映画鑑賞、格闘技観戦はオタクの域に達するほど詳しく、著書も多数ある。 |
| SET隊 |
| 劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」に所属している劇団員の岸谷五朗、寺脇康文、山田幸伸が昭和62年に結成したトリオ。コント番組「とんからりん」や三宅裕司司会の深夜番組「イカ天」に前説として出演。彼らのネタの1つであった"ショッカーコント"(主役になれないショッカー達が主役になろうと訓練するといったコント)を見たとんねるずが、"仮面ノリダー"をやろうとするきっかけになったという。平成6年に岸谷・寺脇がSETを退団し、舞台活動をメインとする企画ユニット「地球ゴージャス」を結成。同時にソロとしてもドラマや映画でそれぞれ活躍している。山田はSETに残り舞台で活躍。 |
| セーラーズ |
| てる子(柴田照子)・あかね(大矢洋子)の漫才コンビ。「セーラー服が似合う清純なかわいい女の子」がコンビ名の由来。名付け親は桂三枝。デビュー当時はまっ赤なセーラー服の衣装で舞台に出ていた。てる子は高校在学中からタレント養成所に通い、女優としてスタート。あかねは大企業の秘書として就職が決まっていたのを蹴って知人の紹介で吉本新喜劇に入団。お互い共通の友人とともに行動をともにしていたが、昭和57年漫才コンビ結成。当時は「ゆきやこんこん・あられやこんこん」のコンビ名だった。平成7年、漫才協団の真打に昇進するが、翌年吉本興業に移り「セーラーズ」として再出発。女性から見た独特の完成と、ブラックユーモアを交えての漫才は数少ない女性の東京漫才としていまや貴重な存在である。 |
| 芹沢名人 |
| 実弟がプロゴルファーの芹沢信雄。役者を志すもビートたけしと出会い、たけし軍団に参加。一説にはたけしが芹沢にゴルフを教わりたかったがために軍団に引き入れたとも噂されている。当時、将棋の芹沢博文八段にあやかって芹沢八段の芸名をもらい、しばらく活動していたら、本物の芹沢八段が九段になったので、たけしが、「それならお前は『芹沢名人』だ」といういきさつで、現在の芸名になった。新劇上がりだったので時代劇のフレーズなどを使い、「桃から生まれた桃太郎〜」をギャグにしていたが、周りから浮いてしまったり、たけしからは「芝居がクサイ」まで言われたりする。平成元年「その男、凶暴につき」で本格的に俳優として活動。以後現在までドラマ、映画、舞台をメインに活躍。またゴルフ番組の司会を担当しているが、日本プロゴルフ協会公認インストラクターの資格を持っており、弟のキャディーとして一緒にコースを回ることもある。さらにスキーの腕前は1級、スケートで国体出場の経験もあり、かなりのスポーツマンである。 |
| ゼンジー一億 |
| 昭和46年、英知大学在学中にゼンジー北京門下となって3代目ゼンジー一億を名のり、翌年新花月で初舞台を踏む。大学を中退してマジックに専念するも師匠のゼンジー北京から独立。一時期、北秀一の名で活動していたこともある。本来奇術よりも漫才がしたかったようで、呼ばれた仕事先で、マジックでなく、珍芸・奇芸をやってしまい、興行主が「一億ちゃん、私はマジシャンを呼んだんやで。」といわれることもあるようだ。現在は青芝モンタと組んでコミカルな奇術とコントを交えての営業をすることが多い。 |
| ゼンジー中村 |
| 和歌山大学卒業後、2代目松旭斎天勝、石田天海の二人から薫陶を受ける。昭和36年に神戸松竹座でデビュー。当時日本に入ってきた「鳩出し」のマジックを関西で初めて披露した。「魔法のグループ」を結成し、大がかりなマジックを中心とした舞台を展開した。昭和53年、肺結核のため52歳の若さで亡くなった。 |
| ゼンジー北京 |
| 第一線を何十年と続ける奇術界の大看板。昭和38年に新花月で初舞台を踏んだ後、ゼンジー中村より独立。本格的なマジックを修業していたが、「これからは奇術にもコミック的な要素を取り入れるべき」と判断し、コミックマジックを開拓。時代を見事に読み取り、マジック界の寵児となった。寄席の奇術といえば漫才と落語に挟まれる二次的な演芸の感があったが、北京は奇術をコミカルな中国風にアレンジし、「種、しかけ、ちょぼっとあるよ」のフレーズで、一級の演芸に押し上げた。マジックを幕合的なものからメインデイッシュに仕立てた功績は大きい。下手な漫才より断然おもしろく、ちょっとしたタレントより耳目を集める集客能力は、彼を多忙にして日本一たらしめている。芸風ゆえ彼にまつわる楽屋噺は数多く、中でも「中国人やないのに北京?どういうこっちゃ」に、「広島出身やから中国人やがな」。一時期、「元気が出るテレビ」にしばしばゲスト出演していたこともある。「今日のお客さんはやりにくいな」とぼやきながら、今ではすっかりお約束となった前フリのネタバレは全て計算ずくのこと。最後はきっちりとマジックを成功させ、観客を煙に巻く技術も一級品である。 |
| ぜんじろう |
| 上岡龍太郎の弟子。「気分はジャマイカ」に明石家さんまのものまねで出演、好評だったため準レギュラーに。番組終了後、番組で知り合った月亭八方の弟子である月亭かなめと漫才コンビを組み、上方お笑い大賞銀賞を獲得。この時に女子高校生にターゲットを絞ったネタの作り方を体で覚えたため、コンビ別れをしてから長らく低迷を続けた。ピンになってからはビデオに映った自分と漫才する芸などを披露している。MBS「テレビのツボ」の司会に大抜擢され、一躍有名になった。現在はTVKの「あっぱれ神奈川大行進」の司会をしている他、国際派タレントとして海外にも進出、メルボルンコメディフェスティバルの一環で行われて、ライブは全部英語でやってて、現地の人たちにも受けていたようだ。 |
| せんだみつお |
| 樺太生まれ。駒沢大学中退後、調理師を経てビリー・バンバンとしてムッシュ中野の名で芸能界入り。昭和44年ニッポン放送「ワゴンでデート」でDJとしてデビュー。「本当の話は千のうち三つ」を意味する「千三つ」をヒントに芸名をせんだみつおに改名し、昭和47年文化放送「セイヤング」TBS「ぎんざNOW!」で人気上昇。NTV「うわさのチャンネル!!」でコメディアンとしての才能も発揮。70年代のバラエティー界を席巻した。持ちギャグは「せんだエライ、せんだエライ。」「ナハ、ナハ、ナハ」「ウケない、カネない、仕事がない」。「ワンパターン」という言葉は70年代に番組で初めて使って広まったらしい。テレビ、ラジオ、映画に大忙しだった昭和53年、過労で倒れ4カ月間入院。これ以降"氷河期"に突入、"落ち目のタレント"を決定づける。FNN「アイアイゲーム」TBS「かげろう忍法帖」以降はレギュラーがなく、芸名も「せんだ光雄」に改名。平成12年「千田光雄」に改名。さらにミレニアムを記念して「二千田光雄」に改名しようとしたが、事務所の社長に「バカヤロー」と怒られ断念。9月に飲酒運転で当て逃げ事件を起こし逮捕、しばらく謹慎する羽目になった。翌年、仕事復帰に際して「初心に帰るため」再び「せんだみつお」に戻した。現在も忘れかけたころにテレビに登場するスタンスで活動している。かつて『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の実写版で主役の両さん役を演じたが、そのときの役名は"両津平吉"で、しかも今で言う"R指定"のような内容で、とても子供に見せられるようなものではなかったという。また"コマネチ"のギャグは自分が元祖であり、たけしがパクったと主張しているが、誰にも信用されていない。 |
| 船場太郎 |
| 高校卒業後、昭和40年に吉本新喜劇に入団。二枚目の頼りないボンボン役をやらせたら絶品で、「せんばばたろうです」というギャグを持つ。昭和50年から60年代にわたり新喜劇の座長として大阪の笑いを担ってきた。平成3年、大阪市議会選に突如出馬、庶民派タレントの知名度を生かし見事当選。以後、タレントから政治家へ転向し、市議会議員として市民のために尽力する。4期目の現在、実績が評価され、大阪市議会の議長に選出された。 |
| 象さんのポット |
| 佐藤利行と宮野一志のコンビ。ともに横浜映画放送専門学院在学中に昭和53年「お笑いスター誕生」に素人ながら出場。7週勝ち抜きまで進む。全くやる気のなさそうな二人が道端の立ち話のような漫才で、わざと咬み合わないことで生み出すシュールな笑いが売り物。番組終了後、イベント・ライブなどを中心として細々と活動していたが、平成6年活動停止した。 |
| 相馬ひろみ |
| 数少ない女性漫談で80年代後半から90年代にかけて活躍。奇をてらわず、OLなどの視点から日常ありがちなシチュエーションを笑いに結びつけたネタを披露する。またしばしばものまね番組にも出演していた。平成5年、演芸作家のベン村さ来と結婚。 |
| 曽我廼家五郎八 |
| 喜劇役者。関西学院大中退。大蔵省土木局時代に結成した野球部で活躍。新国劇の野球部と試合したことが契機で野球部員として新国劇入り。昭和14年、曽我廼家五郎一座に加入以来、喜劇一筋の道を歩むこととなる。昭和23年には曽我廼家十吾、渋谷天外、曽我廼家明蝶らと松竹新喜劇の旗揚げに加わった。飄々としたおかしさと独特の間を生かした演技は新喜劇の中でひときわ渋い味を出し、観客の涙と笑いを引き出した。芸名に対する思い入れを持っており、自家用車のナンバーは"568"であったというエピソードがある。昭和41年、フリーとなった後は舞台をはじめ、映画、テレビで味のあるわき役として活躍したが晩年は引退に近い状態だった。平成10年1月、95歳の大往生であった。 |
| 曽我廼家明蝶 |
| 喜劇役者。大阪の成器商業を卒業後、19歳のとき剣劇俳優としてデビュー。その後、曽我廼家五郎一座に加入し喜劇との接点が出来る。昭和23年に曽我廼家十吾、渋谷天外、曽我廼家五郎八らとともに松竹新喜劇の旗揚げに参加。代表作に「お祭り提灯」「帰ってきた男」など。重厚と軽妙、ふくよかさと粋を併せ持った幅の広い華やかな芸は戦前、戦後を通じて、昭和の上方喜劇に大きな位置を占めている。恰幅の良さと気品あふれる社長役をやらせたら、今後も右に出る者はいないであろう。昭和38年に退団後、舞台では「道頓堀」で芸術祭優秀賞を受賞するなど人情劇にはなくてはならぬ存在として、喜劇の枠を超えて舞台役者としての評価は極めて高い。また、「明蝶学院」を創設し、後進の指導にも心血を注いだ。昭和44年に元宝塚スターの黒木ひかると再婚。昭和46年からはペースメーカーを埋めて芸能活動を行っていたが、晩年は舞台に立っていなかった。平成11年、惜しまれながらも91歳で亡くなった。 |
| 底抜けAIR-LINE |
| 小島忍、古坂和仁のコンビ。当初は村島亮を加えたトリオで活動。ショートコントを中心に笑いを繰りひろげる。そのスタイルは「ボキャブラ天国」で徐々に開花され、常連キャブラーの仲間入りを果たす。平成9年に村島が役者を目指し脱退するも当初のスタイルを変えることなく、イベントやライブで活躍している。また最近では「ものまね王座決定戦」にも出場し、芸の幅を拡げている。 |
| そのまんま東 |
| 本名は東国原英夫(ひがしこくばるひでお)。昭和55年、専修大学経済学部卒業後、ツービートの漫才や「ビートたけしのオールナイトニッポン」に感化され、昭和56年ビートたけしに弟子入り志願。一番弟子となり東英夫を名のる。二番弟子の丸山昭範と「オスカル・メスカル」結成。その後たけしから、「ツーツーレロレロ」のコンビ名をもらうが、丸山が引退。友人の大森博文とコンビを組む。昭和53年たけし軍団結成に参加。軍団のリーダー役として活動。たけしが軍団ひとりひとりに芸名をつけていたが、考えるのが面倒になったので、東には「おまえは、そのまんま"東"でいいよ。」と言われたので、東英夫の名前を変更する必要がないと思っていたら、芸名を書き留めていた軍団メンバーに"そのまんま東"と勘違いされ、事務所に登録されてしまった。昭和60年にNTV「きょうの出来事」で天気予報を担当していた片平きみよと結婚するも、翌年いわゆる "フライデー事件"に加わり逮捕される。その謹慎中に小説を執筆、「ビートたけし殺人事件」を発表しヒット作となる。平成元年に小説がドラマ化され、自ら実名で主役となる。その一方で、きみよ夫人と離婚するが、ドラマで共演した女優・かとうかずこと交際が発覚し、翌年結婚。周囲からは"さげチン"などといわれながらもバラエティやトーク番組を中心に活躍していたが、平成10年、イメクラが摘発され、そこで働いていた16歳の少女から性的サービスを受けたとしてタレント活動を謹慎。さらに弟弟子の北海ジャンジャンに暴行を働いたとして書類送検されたりと "泣きっ面に蜂"状態となる。翌年復帰し、早稲田大学社会人入試に合格。早大生となり、現在は学業に重点を置きながら、1人芝居や執筆活動、トーク番組などに出演し、お笑いよりも文化人としての色合いが濃くなっているようだ。 |
| 空野伸平 |
| 昭和40年代にアクの強い毒舌漫談を披露、「大正テレビ寄席」などに数回出演していたが、手癖が悪く、キャバレー出演時にホステスの更衣室や控室に忍び込み金品を盗んでいたため警察に捕まり、誰にも気づかれずお笑い界から寂しくフェイドアウトした。 |