
現在に至るまでの芸人、喜劇人をまとめてみました。
50音順に掲載していきますので、乞うご期待。
| チグハグコンビ |
| 石坂てつ也と渡こう二が結成した漫才コンビ。石坂てつ也は昭和40年、北一郎の名で、クエッションボーイズを結成。解散後はルーキー新一とコンビを組んだこともあった。渡こう二は大学在籍中に益田喜頓に師事、その後三波伸介門下となった。昭和48年、チグハグコンビを結成。芸名からわかるように石坂浩二と渡哲也の名をチグハグにしたのと、大阪生まれの石坂と東京生まれの渡が繰り出す、関西弁と関東弁の掛け合いの面白さをねらった。昭和50年に上方お笑い大賞銀賞を受賞し、今後の活躍が大いに期待されたが、昭和52年に解散した。 |
| 千鳥 |
| 早川信行と山本大吾の漫才コンビで平成12年に結成。岡山弁での漫才スタイルをウリとする。平成15年M−1で決勝進出、「第25回ABCお笑い新人グランプリ」で最優秀新人賞を獲得するなど今後の活躍が期待されているコンビである。 |
| 千原兄弟 |
| 実の兄弟である千原靖史・浩史が平成元年コンビ結成。浩史は"ジュニア"と呼ばれている。ジュニアは中学時代、登校拒否児だった。先にNSCに入学していた兄が、当時、引きこもりだった弟に、「いつまでも部屋にこもってたらアカン!とりあえずやってみーひんか?」というノリでNSCに誘う。コンビ名の候補としては、アルファベットでかっこよく、「SKB」("靖史・浩史ブラザーズ"の略)にしようという案もあったらしい。ネタは全てジュニアが書いており、常識や言葉の矛盾をついたネタが多い。また"おにぎり部"や"メガネ部"などが出てくる「クラブ活動勧誘」のコントも見せる。大阪では女子中高生を中心に不動の人気を得て、心斎橋筋2丁目劇場のカリスマ的存在であったが、東京での知名度は低すぎる。平成13年にジュニアがバイク事故で再起不能かと言われたが、見事に復活。個性的なルックスとキャラクターで本業のお笑いばかりでなく、Vシネマや映画に役者としても活躍している。 |
| ちびっこギャング |
| 青年座出身の越川大介と藤井一男が組んだコントコンビ。"大卒と元不良"のキャッチフレーズで売り出した。コントといっても、演劇の要素が大きく、笑いとしては今ひとつの感があった。「夕焼けニャンニャン」にとんねるずとともにレギュラー出演するなど、中高生をターゲットとした笑いを展開していたが、越川の頭の回転の速さにだんだんついてこれなくなる藤井のジレンマが次第に大きくなり、結局解散した。その後、越川は単独で"アド街ック天国"にレギュラー出演していたが、薬丸裕英にその座を追われた。現在は越川、藤井それぞれが劇団を持ち、若手育成にあたっている。余談ではあるが、越川大介の妻は声優の島本須美。 |
| チャイルズ |
| 石井光三オフィス所属のお笑いアイドルグループ。メンバーはきりこ(磯野貴理子)・りん(久留龍子)・ゆうこ(茂原裕子)の3人できりこがリーダー。それぞれ女優を目指し上京し、「劇団七曜日」に入団。似たような境遇の中で3人が意気投合、グループを結成。グループ名の由来は「子供みたいだから、チャイルドの複数形で『チャイルズ』」としたのだが、チャイルドの複数形が『チルドレン』とは全く知らず、しかも事務所の先輩で兄貴分でもあるラサール石井がうっかりチェックし忘れたため、『チャイルズ』に決まってしまった。お笑いライブ、TVのバラエティー、「笑っていいとも」のアシスタントなどを経て、シングル「恋は魚河岸のごとく」でデビューしたり、ファミコンソフト「ラサール石井のチャイルズクエスト」を発売したり活躍していたが、次第に露出が減り、フェードアウトする形で解散した。ゆうこは舞台中心に活動していたが現在は専業主婦。りんはFMかつしかで「RINでフルフル気分で!!」という番組でDJを担当していた。きりこは現在もTVバラエティやドラマに活躍。"結婚できない女性タレント"のレッテルを貼られ続けていたが、平成15年にマネージャーとめでたく結婚。 |
| 茶川一郎 |
| 関西を代表する喜劇役者だが、浅草喜劇の出身である。昭和21年、木戸新太郎のキドシン一座に入り浅草軽演劇の舞台に立つ。翌年末、一座が解散したため名古屋へ拠点を移し、港座の伏見良子一座に加入。その後、新天地を求め大阪へ移り、昭和33年ABC「やりくりアパート」、翌年MBS「番頭はんと丁稚どん」に出演。トレードマークの大きな目玉と女性的な台詞と身のこなしで茶の間の人気者となり、共演した大村崑、佐々十郎とともに関西の人気若手コメディアンとして1、2を争う売れっ子となった。昭和35年、大村崑の「とんま天狗」の向こうを張ってKTV「一心茶助」では主役を演じたが、これ以後次第に脇役やゲストとしての出演が多くなる。昭和50年代からは活躍の場をテレビから舞台に移し、旅館や店の番頭役、コミカルな女形役など幅広い演技をこなし、テレビの時代劇や映画では悪役としての出演もあった。舞台ではバイプレーヤーに徹し、かつての人気はないものの、舞台の雰囲気をなごませる貴重な存在として活躍していた。平成12年7月舞台公演後に体調を崩し入院、闘病生活を続けたが肝臓がんのため11月に亡くなった。 |
| ちゃっきり娘 |
| 関西では割合多かった女流音楽ショウ(音曲漫才)に属する。黒田幸子門下の松原春美と実姉の夏美、春美と同門の秋美が昭和39年ちゃっきり娘を結成。昭和42年に夏美が結婚を機に引退したが、その年の6月に2代目松原夏美を加えて再スタート。ツッコミ役の春美が三味線、受ける夏美がギター、ボケに徹した秋美がアコーディオンを担当し、「ちゃっきり、ちゃっきり、ちゃっきりな〜、ちゃっきり娘が飛び出した〜」のオープニングにつづき、歌あり、しゃべりありのにぎやかな高座で客席を沸かせている。特に秋美の歌唱力と救急車のものまねギャグ「パーポーパーポー」はトリオの人気のみならず名物でもある。その秋美が病気で倒れ救急車の世話になったのも皮肉な縁であろうか。その秋美も完全復帰し、3人そろって高座でベテランの味を発揮している。かつてはかしまし娘、フラワーショウ、ジョウサンズをはじめ女性の音曲トリオ漫才が多数存在していたが、現在でも活躍しているのはフラワーショウとちゃっきり娘だけとなってしまった。 |
| ちゃらんぽらん |
| 富好真と大西浩仁のコンビ。昭和54年に「ザ・ちゃらんぽらん」としてコンビ結成。当時は現役の大学生でアマチュアとして「笑ってる場合ですよ“お笑い君こそスターだ”」や「お笑いスター誕生」などに登場。漫才ブームにあやかって、ぼんちやのりおよしおのギャグをそのまままねるだけのスタイルだったが、「お笑いスター誕生」で勝ち抜くごとにしゃべくり主体の正統派漫才を確立。昭和58年に大阪をメインにプロデビュー。吉本や松竹には所属せずに演芸コンテストの新人賞を獲得するなど大健闘を見せた。富好の兄が競艇選手だったため、「ザ・テレビ演芸」では司会の横山やすしからボロクソに言われることはなかった。昭和63年に吉本興業に入るが、その後伸び悩み、解散寸前まで落ち込んでいたところ、大西が富好のキャラクターをネタにした「中途半端やなー」のギャグが大ウケし、一躍人気漫才コンビの仲間入りを果たす。現在は中堅からベテランの域にさしかかり、正統派漫才にますます磨きがかかっている。 |
| チャーリー・カンパニー |
| 「作業員風オヤジ」の衣装がよく似合う大宮デン助劇団出身で、ハマコーにそっくりな日高てんと、エリートサラリーマンや学生に扮することの多い日高のぼるのコンビで、75年に結成した。世相を風刺した屁理屈コントのスタイルは、かつてのコントレオナルドの芸風を踏襲している節がある。街頭の共同募金とヤクザのカンパが競うコントは秀逸。主に演芸場と地方の営業で見ることの多いコンビではあるが、味のあるベテラン芸で客を笑わせている舞台は、演芸評論家の間でも高く評価されている。 |
| チャーリー浜 |
| 昭和35年、大村崑のそっくりさんとして登場、うめだ花月のポケットミュージカルスで歌手デビュー。その後、浜裕二の名で吉本新喜劇に出演し、東京人のキザぶりを皮肉っぽくデフォルメしたキャラと、「ごめんくさい」「〜じゃあーりませんか」「君たちがいて、僕がいる」などのギャグで売り出した。新喜劇のリストラで人気コメディアンが抜けてからは、芸名をチャーリー浜に改名し、新喜劇の中心メンバーとして活躍。平成2年、サントリーの“ポケメシ”CMで「ポケメシじゃあーりませんか」のフレーズで一躍全国的な人気を獲得。現在も出番は少なくなっているものの、新喜劇のベテラン役者として健在ぶりを発揮している。 |
| チャンバラトリオ |
| 現在も吉本興業で剣劇芝居のコントをするグループ。元々は東映京都撮影所で時代劇の斬られ役や脇役をしていたが、時代劇が衰退を始め、得意の殺陣を活かしたチャンバラコントでお笑い界に活躍の場を移す。結成メンバーは南方英二、山根伸介、伊吹太郎。南方は東映剣会幹部を務め、「かしら」と呼ばれる。一見強そうに主役級で登場しながら以外にだらしなかったりする役を演じ、「聞きたくない、聞きたくない!」「あんたキライ、つーんっ」「な、ぜなんだろうなあっっ!」などのギャグも持っている。今やバラエティーに欠かせない小道具の“ハリセン”はこの人が考案した。「普通の扇子では小さすぎて舞台で映えないから」というのが理由。山根も東映剣会幹部を務め、阿部久州男に師事。トリオのリーダーである。コントでは悪役、敵役が多いが、かたぶつで生真面目、いつも頭に血をのぼらせて顔を真っ赤にして熱演する。阪神ファンが多い大阪芸人の中にあって、熱狂的な巨人ファンとしても知られている。伊吹は東映剣会会員で、大友柳太郎に師事。メンバーからは“養子”と呼ばれていたのは吉本新喜劇の女優の片岡あや子の婿に入ったため。リーダー補佐を兼ね、ひょうひょうとした味で出している。コントではなぜかいつも最後に.ハリ扇でたたかれる役を一手に引き受けているが、NTV「TVスクランブル」では逆に“ハリセンおじさん”として、公衆道徳を守らない人間をハリセンで一撃するコーナーで注目されたこともあった。昭和38年にトリオを結成したが、昭和43年に南方が病気療養の間、東映入社後、高倉健に師事していた結城哲也が加入。舞台では八方破れ的な役どころが多く、他の3人に比べてやや醒めた感じだった。その後、南方が復帰して4人となったが、グループ名は変更しなかったので、現在でも『トリオ』となっている。元「剣会」というエリート集団の所属で、壮絶な立ち回りを身上とするチャンバラシーンは、3人よりも4人の方が迫力が出る。さらに時代劇のパロディーが持ちネタなので、登場人物や役柄が多い方が、物語が多彩になり、笑いの幅も広がる。衣装や刀などの小道具はすべて時代劇用なのに、カツラはつけず、いわゆる「地あたま」で演ずる。それでも違和感がないのは、見る側が時代劇のコントであることを認知しているからだろう。チームワークのよさで全国的に人気を博したが、決して順風満帆とはいかず、昭和55年に結城が不祥事により謹慎し、昭和58年に脱退。しばらく3人で活動。平成2年に結城が復帰し再度4人となったが、平成6年今度は伊吹が多額の借金が原因で吉本興業を解雇され、グループを去ることとなる。さらに結城も再度脱退、役者に転向したため、解散の危機に見舞われた。しかし同年、東映京都からピラニア軍団の一員でもあった志茂山高也が加入し、また漫才コンビ解散後チャンバラトリオに弟子入りしていた前田竹千代がメンバーに昇格し、“新生チャンバラトリオ”として再スタートする。その後、山根が脳梗塞で倒れたものの、舞台に復帰。魅せる殺陣とギャグを交えたコントで、結成40年を超えた現在でも、まだまだ第一線で活躍しているグループである。 |