
NHKスペシャル「奇跡の詩人」を見て、真っ先に、1979年毎日杯の、福永洋一騎手の落馬事故を思い出した、という人がいます。その後の福永氏が一家を挙げてドーマン法に取り組んだことは、氏についてのテレビ番組や著書などで、競馬ファンにはよく知られているようです。
「初恋の天才騎手」
http://members10.tsukaeru.net/pappakapa/BORO_BORO/FirstLove/first_love.html
「福永洋一について語るすれ」
http://curry.2ch.net/keiba/kako/1015/10157/1015713688.html
ところで、
ドーマン法とは??
(1)「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)p.216
治療を受けずに放置された子供たちが、治療を続けている子供たちよりは、圧倒的によくなっていたのである。更に調べてみて、まずわかったことは、治療を『受けない』子供たちは、家族の中に置かれ、一緒に生活しているということであった。彼らは『ベッド』ではなく『床』に置かれていた。必要な時には、他人がしてくれるのではなく、自分で這ったり、膝で進んだりして、自分の用を足さなければならないのだった。(2)「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)p.231 四月中旬のある日、北村は布団に入っていた。洋一はその横で、毛布をかけられて腹這いのゴロ寝をしながら、何とも恨めしそうな目で、布団の中の北村を見続けていた……と北村はいう。 |
(1)は、理学療法士グレン=ドーマンが、1940年代後半に診療所を設立して脳障害児の治療法の研究を始めてから3年後の1950年に、自分が治療した18歳未満の人々の治療結果を追跡調査した結果です。治療を継続していた100人のこどもたちは、よくなったといっても、「頭が上がるようになった」「腕が動くようになった」という程度で、「歩くようになる」のはいつのことやらおぼつかない状態でした。一方、わずか数回の治療を受けただけで、親の無関心とか「治療費が続かない」などの理由で治療をやめたこどもたちのほうが、圧倒的によくなっていました。 ドーマンは、この結果をもとに、「床を這ったり、膝でにじったりする」ことが脳に刺激を与えて発達を促すと考え、傾斜版を使った腹這いなどの訓練法を開発します。また、這えない子供を仰向けに寝させておいてはいつまでたっても這えないのでうつ伏せに寝させる、という方法も主張するようになります。
福永洋一さんの御家族を動かした、グレン・ドーマンの言葉とは?
dingbatsさんの感想(dialogue掲示板 2004/01/31 23:02)より
最近ようやく「奇跡への挑戦」を読むことができました。
本書中、グレン・ドーマン氏が語った言葉は、愛する者の回復を願う家族へ希望を
与えるものであり、本当か嘘かは知らないけれど『なおす』といってくれている方に
賭けたい、とご家族が思われる心情は胸に迫ってきます。
「私の人間能力開発研究所でやっているようなやり方で訓練すれば、自分で
生活するようになれる可能性が高い」
「自分で生活するようになれる可能性とは、自分で立って、自由に歩き回れるように
なれるということです。自由に話し合うことが出来るようになれるということです。
それが、私が設定する一定の期限までに、必ず達成されるのです」
(アメリカへ!の章、p206より)
しかしながら、ドーマン博士の持論および見解は、障害を個人的かつ否定的なものと捉え、
人をその能力のみで評価する価値観に陥っているように感じます。
ドーマン法では健常になることを理想として独自の訓練が推奨されますが、治癒の可能性・
近親者による自助努力という美名の下にともすれば当事者及び家族の主体性や自発性を
制限しようとしたり、また全生活を捧げることを強いるプログラムに果たしてどれだけの
効果があるのか残念ながら今日まで十分な証明がなされていないことも、大きな疑問です。
「NHKスペシャル『奇跡の詩人』part44」
http://papersearcher.hp.infoseek.co.jp/mirror/9230/kiseki2chlog44.html
*註
「セントルウへの道」ではなくて、「セントウルへの道」です。
http://www.f-yuichi.com/newpage58.htm
福永騎手のその後については、dialogue掲示板の「めも・らんだむ」スレッドで、kojikojiさんが関連文献からの要約を報告しています。
kojikojiさんによるレポート「福永騎手のその後」
dialogue掲示板の「めも・らんだむ」スレッドより
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/movie/2741/1056858605/130-149
|
落馬事故の後ドーマン法リハビリに取り組んだ元競馬騎手・福永洋一氏を覚えていらっしゃるでしょうか? 事故が起きたのは1979年の春、当時から既に24年が経っています。 長い年月が経ち、資料も少なくなってきたようなので経緯をメモしておこうと思います。 私も当時の様子がよく分からない為、本・新聞などを読み改めて様々な事実を知りました。 初めに事故後の経過説明、後半はドーマン法との関わりについて纏めてあります。 ―事故後の経過説明―
昭和54年3月4日、阪神競馬場では激しい雨の中、毎日杯のレースが行われていました。
事故後、福永氏は当時関西一のICU施設を持つと言われた関西労災病院に運ばれます。
直ちに医師団が今後の治療方針の協議をし、開頭手術が決定されます。
脳の損傷を受けた場合、関節の拘縮の阻止・良肢位の保持・床ずれの予防等の為、
7/10福永氏は車椅子で機能訓練室まで移動して、訓練室でのリハビリを始めました。
9月からリハビリはいよいよ本格化します。午前午後それぞれ2時間ずつの機能訓練、
ここまで回復した要因として挙げられるのは、
3月、今後の治療方法が医師と夫人の間で話し合われ、ここで夫人は初めてドーマン法の
労災病院に入院中のある日、日本人間能力開発センターから、ドーマン氏が来日するので会って
昭和55年11/21、福永氏は1年8ヶ月の入院生活を経て、関西労災病院を退院しました。
翌年2月、福永氏は初めてフィラデルフィアのチェスナットヒルにある「人間能力開発研究所」
半年毎に組まれるプログラムは、「運動」「知性」「栄養」の三つの分野に分かれており、
帰国後の昭和56年3/5午前7時から、いよいよドーマン法プログラムが開始されます。
7月に来日したドーマン博士は福永氏の体の動きの進展に驚き、早速第二次のプログラムを
2回目の渡米は翌年の2月。この時ご家族はリハビリを実際に行ってきた経験から、
今度のプログラムは長い距離が取れる訓練場が必要なものであり、自宅では手狭でした。
この頃、リハビリ専任要員だったT青年は既に渡米しており、Aさんという女性が代わりにリハビリ助手を勤めるようになっていました。(*)
第三次のプログラムが終了した7月、研究所のジャネット・ドーマンが来日しました。
昭和58年5月、3回目の渡米で受け取った新プログラムには騎乗訓練が入っていました。
ドーマン法のリハビリを始めて3年、昭和58年暮れに遂に全プログラムが終了しました。
でも、その後、御一家はドーマンリハビリを止めざるを得なくなってしまいます。
異議を唱える者は研究所を去るしか為す術は無く、ご一家は結局それを受け入れたのです。
2002,9/23,北海道新聞に「天才騎手・福永洋一さん 1979年落馬しリハビリ生活」
記事の内容はリハビリ生活の記述が中心でしたがドーマンという文字は書かれていません。
事故当時2才3ヶ月だった長男は騎手になり、当時5ヶ月だった長女は理学療法士の
その後のリハビリについてですが、マイペースで現在でも続けられているようです。
体に障害を負った場合、痛みに耐えながらリハビリを行い続けるのは本当に辛い事です。
しかし、リハビリというものを考えてみた時、ドーマン法によって良くなったのか、
ドーマン法については、世界中の様々な専門機関がその効果について否定的な見解
ドーマン氏は、嘗て福永氏が入院する病院を訪れ、「我々のプログラム通りに訓練すれば、
実際に福永氏の状況を見ても、介助無しに日々の生活を送るのは困難な様子に見えます。
であれば、やはり我々は障害の100%治癒をいたずらに望むよりも、患者が例え障害を
有効性が実証されない割には費用が高額過ぎるドーマン法に対しては、
うろたえ憔悴する家族を前にして、私は一縷の可能性に望みを託して励まし続けるしか
地球上では、今この時間にも様々な病気と闘い続ける人達が多数いらっしゃる事でしょう。 |
*註 (by saihikarunogo)
「意識レベル3」について
「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)によると、
関西労災病院では、意識レベルを次の6段階に分けています。
(1)正常。
(2)質問に答えるが、ぼんやりしている。
(3)簡単な質問に応える。
(4)呼んでも答えず、手を握ったりする。
(5)ピンで皮膚を突いて、動きがある。
(6)全く反応がない。
福永洋一氏が関西労災病院に運び込まれた昭和54年(1979年)3月4日の意識レベルは(6)、3月16日にICUから脳神経外科病棟へ映ったときの意識レベルは(5)、7月10日に車椅子で機能訓練室まで移動してリハビリを始めたときは(3)で、「左側の肘、膝、手は自力で運動可能、右上下肢は麻痺しているけれども柔らかい状態である」というもの、そして、翌昭和55年(1980年)7月ドーマン氏が入院中の福永氏の元を訪れたときは(2)でした。
以下、「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)より
-------------------------------------------------------- p.163
日本脳神経外科学会の植物状態の定義は次のようである。
「ユースフルライフ(有用な生活)を送っていた人が脳損傷をうけたあと、以下の六項目を満たす状態に陥り、種々の治療に対してほとんど改善のみられぬまま、三ヵ月以上を経過した場合をいう。----自力で移動できない。自力で食事がとれない。大小便が失禁状態にある。目で物の動きを追ってもそれが何であるかを認識できない。『手を握れ』『口を開いて』などの簡単な命令に応じることはあっても、それ以上の意思疎通はできない。たとえ声を出しても、意味のある発語はできない」p.203
しかし話しかけたりして、いわゆる刺激を与えないでおくと、やはり無表情になったりする。(中略)裕美子夫人に対する信頼は絶対的で、他人が夫人に対して非難めいたことを言うと、ひどく表情をかえるという。自分にとって歓迎すべきとき、たとえば「訓練を今日はこれで打ち切りにしましょう」などというと、よろこんで笑顔でOKの表示をするのである。訓練のときの命令には言うだけでかなり理解し素直に従うが、ときには気分のムラもまだ残っているという。理解が早くなり、動きのハヤイ、オソイを区別出切るようになったということである。p.204
畠中正昭先生の意見では、現在以上に福永さんの病状が好転するのはかなり困難で、もちろん植物状態は離脱したが、意識レベルは(2)の段階であるという。つまりまだ意識障害が残っていて、正常である(1)に回復はしていない。畠中先生はすでに一級身体障害者と認定して、医療費の全額補助が受けられるように、手続きを済ませてあるといわれていた。
--------------------------------------------------------
「植物状態」の定義→http://www.arsvi.com/0p/vs.htm
なお、意識レベルの分類には、他に、グラスゴー方式、3-3-9方式などがあります。たとえばグラスゴーコーマスケールの(3)というと、最も意識障害の重い昏睡の状態です。 また、最近の大阪大学附属病院救命救急センターの報告では、植物状態でも適切な治療と看護により6割が回復するとされています。
|
頭大けがで「植物状態」、ケアで6割意識回復 阪大調査
頭に大けがをして「植物状態」になった患者でも、十分なケアをすれば約6割の人が意識を回復できることが、大阪大病院救命救急センターのまとめで分かった。約7年間続けてきた調査結果で、同様の長期研究は世界的にも珍しいという。 31日、大阪市で開かれた厚生労働省研究班の会合で報告された。 |
*註 (by saihikarunogo)
参照文献について
「奇跡への祈り」(和田絵衣子著、講談社、1995年)
ドーマン法についての記述は、「ドーマン法との過酷な闘い」p.121-156, 特にp.129-153にくわしい。写真も多数あり。福永洋一騎手の現役時代の迫力あるレースの写真も収録されています。
なお、この本には、公営競馬で活躍し「本当の天才」と呼ばれた坂本敏美氏が、やはり事故で引退した後の生活も紹介されています。坂本敏美は車椅子で移動し、口にくわえた棒でワープロを打っています。
「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)
ドーマン法についての記述は、「あとがき」p.199-211, および「文庫版あとがき」p.212-221にあります。
「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)
福永さん一家がドーマン法を実施するきっかけから、グレン=ドーマン氏が独自の訓練法を開発する過程、福永氏の実際の訓練のようす、ドーマン法の「卒業」とはどういったものか、などのくわしい記述が、p.200-277にあります。
以上の報告によりますと、福永洋一氏はドーマン法を始める前に、関西労災病院のICUの治療によって昏睡状態を脱し、同病院のリハビリテーション科の訓練で、身体の柔軟性を保ち、相手の言葉に反応できるようになっていたようです。さらに、点滴ではなく、自分の口で食べることができるようになると、家族にとっても、病人が回復してきた、という実感が湧きます。
私ごとで恐縮ですが、母が、脳梗塞の発作で入院して半身不随になったことがあります。はじめは寝返りも自分でうてず、点滴を続けていました。それでも、話すことはできたので、私は、何か食べさせてあげたいと、プリンや、やわらかいお菓子などを持っていったものです。口が半分動かないので、どうしてもこぼしてしまうのですが、それでも、なんとか、飲み込んでくれると、うれしかったものです。
札幌麻生(あさぶ)脳神経外科病院・意識障害者の介護教室の城美奈子さん(副看護部長・教育科長)は、患者の家族の気持ちを、次のように述べています。
|
ご家族が求めている具体的な要求はいろいろあり、介護している年数でも変化しています。(表参照)。その第一は、やはり意識障害者に人間らしさを取り戻してあげたいということですね。まず、障害者とのコミュニケーションがとれるようになりたい。障害者が自分のしている介護についてどう思っているか、その意思を確認したいという思いがすごく強いのです。また、食べると回復するという思いがあるので、ひと口でも食べるようになってほしいのです。神経が冒されていると嚥下(えんか)障害を起こすことがあるので、病院では管を使うことが多いのです。しかし、家族としては口から食べさせたいのです。そのほか、排泄やからだの移動をさせたいなどいろんな欲求がありますが、それにもまして、意思が伝えられることと、食べてくれることを強く望んでいるのです。それができるようになってくれたら救われると思うのですね。 http://www.iword.co.jp/iword/k03_03.html#q1 |
福永洋一さんは、「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)によると、関西労災病院を退院するまでに、自分の口で食べることができるようになっていました。
「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(p.190)
裕美子は洋一にアイスクリームを含ませた。初めはむせて、もどしてしまったが、看護婦が、(同、193) 今度は、ベッドの横の小机にあった祐一と洋美の写真を見せると、同じように左手を伸ばして来た。何が見えているのかはわからなかったが、視力の出て来たことだけは確実であった。そのうちに、右目もうっすらと開くようになった。(同、198) 十月二日に、裕美子がメロンを小さく切ったのをフォークに刺して左手に持たせると、洋一は器用に自分の口に運んだ。同じようにリンゴを切って、皿に盛って出すと、左手でつまんで食べ、裕美子の口へも、器用にその一切れを運んだ。 |
意識のない患者にも早期にリハビリテーションを行うことの重要性は、京都府で介護機器の研究をしている石田通泰氏もウェブサイトやMLで述べています。
「寝たきりゼロ」
http://www.geocities.jp/tuutajp/
|
3) 「意識不明」で寝たきりでも、動かすことは脳への刺激の他、各部への刺激となります。 寝たきりで動かさなければ、筋力が落ちる、関節が拘縮するだけでなく、 使わない各部の機能は確実に落ちて行きます。
例えば、横に寝ている状態では、単に横に血を流せば良いので、心臓は殆ど働く必 注)「意識不明」とは:
呼びかけに対し反応できない状態を指すようですが、反応できないが、聞こえている |
石田通泰氏が開発した介護機器のなかには、自動体位変換装置などといったものもあります。
「netakiri-0 Date: 2003年10月3日 (金) 午後2時27分 Subject: 廃用性 Re: 骨折予防」
http://www.egroups.co.jp/message/netakiri-0/7
|
私が自動体位変換装置を開発したときにモニターしてもらった時に 感じたことは、自力でなくとも動かすと体に相当いい効果を与えると 言うことです。 寝返りを打たされることで、筋肉、内臓などに刺激を与えているので 当然脳にも刺激が行く。と言ったことで、いい結果が出たのだと思います。 |
石田通泰氏が開発された装置と同種と思われる機器を紹介するウェブページもあります。
高機能体位変換介護ベッド「hist」
http://www.sanyo-biomedical.co.jp/kokunai/seihin/hist.htm
このように、他動的な運動でも内臓や筋肉に刺激を与ると脳の訓練にもなる、という記述を見ると、ドーマン法のパタニングにもそのような効果はあるのかな、と思います。ただ一方で、あまりに過酷、長時間の訓練だな、とも思います。またいろいろな障害を持つこどもを対象に同じプログラムを渡すので、かえって危険な場合もあると、危惧します。実施される方々が、それぞれの工夫をされて無理されないこと、お医者様の診断も受けられることが必要と、感じます。障害があってもなくても、まずその人には生活があるという点がだいじなんだと思います。その点は、かつて福永洋一氏の訓練を手伝い、ドーマン法の研究所でも研修を受けた安達啓さんが、「K学習相談室」を開いて、改良したものを実施されています。
*参照: ドーマン法を実践したことのある御家族の手記、および、安達啓氏のK学習相談室の紹介
病院から退院した患者にとっては、少しでも日常生活の動作をすることが、リハビリテーションにもなります。また日常の動作をしやすいように、家屋を改造したり、機器を利用したりすることもたいせつです。
石田通泰氏は積極的に介護機器の利用を薦めていますが、実際、近年ますます、福祉工学などの研究に取り組む人も多く、機械工学・電子工学の学会などでも報告が相次いでいます。
「ホーム > 生活と文化 > ニュース、時事問題 > 全般 > 日木流奈の謎 2003/ 6/25 23:12 メッセージ: 5053 投稿者: dvlo2002」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=2000251&tid=ffclznaefe0a4nff&sid=2000251&mid=5053
|
はじめまして。5月に日本機械学会のロボティクス・メカトロニクス講演会2003が開催されました。興味深い研究が発表されたので紹介します。
http://robomec2003.fun.ac.jp/robomec2003/program_exel.xls の25日午後2の49行目
「脊髄性筋萎縮症の幼児とのコミュニケーション装置の開発(宮城教育大学・他)」 進行性脊髄性筋萎縮症の幼児患者は,ほとんど身体を動かすことができなくなるため,周囲とのコミュニケーションの手段がなくなる.看護者は幼児患者の少ない表情変化から感情の変化を読みとっている. 延命技術は進歩してきているが,コミュニケーション技術の開発は遅れている.コミュニケーションの形成後に会話機能を失った大人の場合とは異なり,言語習得前に発症した幼児の場合はコミュニケーション装置の意味自体がわからない.よって、幼児専用に設計されたコミュニケーション装置の開発が必要である.
そこで,残存するわずかな筋力でも操作できる特殊なスイッチを用いて,ライトやブザーが作動するコミュニケーション装置を開発した. 幼児患者は身体こそ動かないが,健常の幼児と同様に年齢と共に知能は発達していく.この時期の幼児には,遊びの要素を持った補助装置が必要である.また,成長に合わせたコミュニケーション装置の開発をしていく必要がある.
現在の出力装置はライトやブザーであるが,出力装置をロボットにすれば動けない患者の代わりに意思表示をしてくれる代理ロボットも夢ではない. また、この研究が「医療・福祉ロボティクス・メカトロニクス」部門ではなく「メカトロニクスと遊ぶ」部門で発表されていることも示唆的であると思います。 工学を福祉に応用しようとすると、機械には心がこもっていないと情緒的な反応をする人がいます。しかし、介助者がこのような技術「も」使うというだけで人間を排除しているわけではありません。人間工学を応用した車椅子とか、視線入力装置と同じく、ひとつの道具です。 従来このような機械工学、電子工学分野には女性研究者は少なかったのですが、医療・福祉部門を中心に女性が増えました。他の発表テーマ名を見ても機械学会という名称から受けるイメージを覆すようなものも多いと思います。 |
再び、「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)より
-------------------------------------------------------- p.221
ところでドーマン法の成果は、それなりに素晴しいものであるが、現在のリハビリテーション医学の方向とはやや異なっているかのようである。リハビリテーションは、障害そのものを可能な限り良くしようと努めるが、一〇〇パーセント治すことを目標とはしていない。障害とともによりよく積極的に生きることを目標としている。このように思想の転換をはかってこそ、リハビリテーションは完成すると考えられている。福永さんはまもなくドーマン法による六年のプログラムを卒業されるとのことである。私は脳外科医として、その後はこのような思想のもとに、より積極的に生活されることを期待している。
昭和六一年二月 三輪 和雄
--------------------------------------------------------
kojikojiさんによるレポート「福永騎手のその後」に述べられている通り、ドーマン法を「卒業」ではなく「中止」されています。
ドーマン法の「卒業」とはどんなものか、「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)の終章、「馬上再び」に述べられています。
「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(p.272-273)
卒業資格はどんなものか? ドーマン機関は、本来は十八歳未満の少年少女を対象としたもので、福永はいわば例外である。その少年少女の卒業条件は、仮に卒業者を高校卒ぐらいの年齢だとすると、 |
「在学生同士の『ヨコ』の関係は薄弱だそうで、むしろ、ほとんどゼロといっていいだろう。」という点に関しては、私も、NHKスペシャル「奇跡の詩人」報道検証会で、ドーマン法体験者のおかあさまからおききしました。
NHKスペシャル「奇跡の詩人」報道検証会(2002年 8月24日、大阪府立文化情報センター)
[4]報告と感想
>また、ドーマン法を実施しているこども同士で遊ぶということもない。研究所は、ドーマン法をやっている家族同士の交流を禁止している。それは、自分のこどもを他のこどもと比較したり、否定したりしないためである。ただ、それぞれの家族が、勝手に、交流をしている。
福永洋一氏も、最近では、ドーマン法を離れて、自宅にさまざまな訓練機器を揃え、自己流で訓練を続けていらっしゃるとのこと。洋一氏をあくまで大黒柱として接したという、福永さん御一家の、心を一つにした御努力に、敬意を表します。
これまでにドーマン法を実施された方々のサイトを拝見していると、おおぜいのボランティアの方々と知り合えてよかった、というものが多かったと思います。今後も、ドーマン法のプログラムを続けていかれるにしろ、あるいは、その他のリハビリテーション技法や福祉工学の成果を取り入れられるにしろ、御家族やボランティアの方々の熱意と連帯感が、障害があってもなくてもその人らしい人生を送ることにつながりますよう、願ってやみません。
kojikojiさんによるレポート(2)(dialogue掲示板 2004/02/07 05:33)
|
「福永祐一 父からの贈りもの(大場勝一著、1996年初版)」を読み終えました。 (副題― 祐一は父・洋一から何を学んだか)
福永洋一氏が事故に遭った時、祐一さんはまだ2歳3ヶ月。子供時代から、父親が
しかし彼は、それでも敢えて父親と同じ騎手という職業を選びました。
1976年12月、福永家に待望の長男・祐一さんが誕生します。
明けて1979年、3/4、運命の歯車が狂ったかのように、あの大事故が発生します。
そして、福永家の長年に亘る壮絶な闘いも又、この日からスタートしたのでした。
そして1980年、洋一氏夫人はドーマン法リハビリを始める事を決意します。
当時の病院の見解は「回復はきわめて困難」。一方、ドーマン氏が「必ず歩けるようになる、
1981年2月中旬、車椅子の洋一氏、夫人、義父・北村氏はアメリカのドーマン研究所に入所
北村氏の「先生、洋一には・・・意識はあるのでしょうか、ないのでしょうか?」との問い掛け
この言葉は家族を歓喜させドーマン法へ大きな期待を抱かせる決定打になったのです。
研究所の講義にはスタッフの要請で洋一氏も出席しました。
一週間の滞在を経て帰国後の1981年3月、一家のリハビリがいよいよスタートしました。 〔傾斜板(パターニング)〕
傾斜台を22cmまで低め、洋一がはう距離も1mから2mにのびた。それにもかかわらず、 〔頭上はしご〕
介護の人に支えてもらわなくても、10分間たっていられるようになった。 〔歩行〕 介助の人に手を持ってもらって歩く歩行は一日100mを4回くりかえした。 〔腹ばい〕 腹ばいは一回に4m、一日に20回おこなった。一回のタイムの平均は53秒であった。 〔高ばい〕
高ばいというのは膝をつき、肘をのばして立つ、要するに四つんばいの状態である。
他に「マスク」という呼吸改善の為の訓練があり、これは一日48回、他の訓練の間に
他に知性のプログラム、栄養のプログラムもこなさなければなりませんので、リハビリ時間
この記録を読むだけでもご本人、周りの方々の必死な取り組みが伝わってきますが、
子供と遊ぶ時間を作りたくてもそんな余裕はありません。
最も大変だったのは、勿論洋一氏本人であり訓練の最中によく発作を起こしたそうです。 当時の祐一さんは、毎日死に物狂いでリハビリに励むのは父親の仕事なのだと考えていました。 本の中には、福永家の素晴らしさが伺えるこんなエピソードも紹介されています。
祐一さんを私立の進学校に転校させてあげようと考えた夫人は、ある日、車椅子に乗った
又、夫人はリハビリの一環として「洋ちゃん、側をとおるわよ」「洋ちゃん、買い物に
一方、祐一さんは小学校二年生の頃の父親の思い出を次のように語っています。
父親は無言ではあったけれども、その必死な姿を毎日見ていた祐一さんは子供心に
1993年競馬学校に入学した祐一さんは、3年後の1996年3月2日、父と同じターフに立ち、
現役時代に“からだのなかに時計を持っている”と言われた父は、祐一さんにとり永遠の
一方、妹の妃呂美さんは高校時代に“将来リハビリ訓練師になろう”と決意しています。 そして、彼女は理学療法士の道に進み、その夢を現実のものとしたのでした。
祖父母の北村ご夫妻は、娘・娘婿・孫の為、今までの生活を捨てて後半生を洋一氏の
しかし、残念ながら祐一さんが競馬学校に通っている間に眸さんは他界されています。
無我夢中でドーマン法・リハビリに明け暮れた福永家の数年間。
障害を負ったときのリハビリというのは一般的に体を動かす訓練に明け暮れますが、
受身になりがちな病院の生活に比べて、家庭での生活は能動的に行動せざるを得ない場面が
著者の大場氏は、福永家が悲壮感に満ちているのではと当初想像したようです。
我々は誰もが、ある日突然障害を負うという可能性を持っています。
福永家も、きっと紆余曲折があり無我夢中で乗り越えてこられた二十数年間で
その答えは、洋一氏のおだやかな優しい笑顔に込められているように思います。
「父からの贈りもの」―父親から渡された目に見えない大きな贈り物が、長い年月を
みづきさんによる補足 福永洋一氏の長男祐一君の騎手デビューに合わせて放送された、「神が描いた青写真」という番組の中で、アメリカのドーマン研究所の講義に参加している洋一さんの姿が写されていました。 洋一さんは、他の保護者のようにテーブルに着くのではなく、床に腹ばいの姿勢のまま参加していました。 これは、一分一秒を惜しんで腹ばいをさせよという、研究所の方針に基づいたものではありますが、正直残酷なシーンでもありました。 健常者の私たちでも根を上げそうな寒さの中で、長時間行われる最初の講義に、腹ばいのまま参加されたのです。 ちなみに、福永氏が参加できたのは特例だと思われます、通常、研究所のプログラムを受けている子供たちは講義には参加しません、というより、出来ません。 賢い子供たちばかりなら、できない事もなかろうにと不思議に思うこともありましたが。
kojikojiさんの質問「ドーマン法の研究所はどうして福永氏にFCを薦めなかったのか?」 みづきさん、補足をありがとうございました。 >洋一さんは、他の保護者のようにテーブルに着くのではなく、床に腹ばいの姿勢のまま参加していました。
この事実は知りませんでした。冷房を入れた部屋の床は、とても冷えたのではないでしょうか?まして厳冬期であれば・・・
さて、以前から大変疑問だったのですが、研究所は何故福永氏にFCを薦めなかったのでしょうか?
ドーマン法を行うお子さんで言葉が出ない場合は殆どFCを薦められるのでしょうか?
みづきさんの体験談 研究所がFCを取り入れたのは、1991年以降ではないかと思われます。手元にある資料(レクチャーて゛配布されたもの)には1992年に開始した子供がもっとも早いようです。 福永さんにFCのプログラムを与えられなかったのは、たまたま、この時期には、研究所との関係がなくなっていたからではないでしょうか。 もっとも、福永氏は、映像で見る限り、話しかけられることを理解して得おられるようでしたし、単独での文字さしも可能でしたのでFCのようなあいまいなコミュニケーション手段については、拒否されただろうと思います。 もともと、研究所は脳に障害を持ち、話すことの出来ない子供たちが用いている、トーキングエイドのような装置を使うことに消極的でした。理由は「子供たちは話したがっていて、そのようなものを使いたがっていない」というものです。 しかしながら、話すことの出来ない子供たちで、ドーマンをやっていない子供たちは、そのようなわけのわからない理屈をこねるのではなく、トーキングエイドや、パソコンを使って、自分の表現したいことを実に素直に伝えてきます。 言語障害が強くて、なかなか自分の言葉を伝えられない場合などは特にそのような手段をえることで生き生きとしてくるのです。 ドーマンのいうような理由は、自分でコミュニケーション手段を持つ子供たちから聞いたことがありません。 FCを与えられる子供たちの条件があるのかどうかはわかりません。 うちの子供の場合は、体の緊張が強くなって、とめることが出来ないような状況のなっていたので、それを緩和させるものとして与えられました。 「お子さんは、伝えたいことがたくさんあるのに、お話ができないのでストレスで、緊張が強くなっている。だから、FCでストレスがたまらないようにしてあげましよう」と。 (子供の緊張はドーマン法をやめると決心したとたん、薄紙をはがすようによくなっていったので、研究所の診断ははずれでした。) FCでは、そろいもそろって、ドーマン法のプログラムを賛美し、両親、特に母親の素晴らしさが語られるわけですが、子供たちの姿を見ている限り、他動や、問題行動は解決しておらず、重度の子供たちに至っては、やせてしまって病的な状況になっていたり、およそ、FCで語られることと実際の姿は一致していませんでした。 今回の騒動があるまで、FCについての否定的な見解はまったくしりませんでしたし、研究所からも知らされていませんでしたので、訓練をしながら泣き叫ぶ子供たちと、FCで立派なことばかり話す子供たちが、一致せずどのように受け止めればいいのかわかりませんでした。 FCそのものは、「テストしたはならない」という研究所の指導に基づき、ブラインドテストなどは行われていません。おそらく、研究所は アメリカや、オーストラリアなどで起きたFC論争を肯定するような検証はいっさい行っていないと思われます。 どのような動機で、検証もなされないようなプログラムを家族に渡しているのかどうかわかりませんが、FCで語られる「奇麗事」の数々を見ていると、もしかすると、FCがなければ、たいしてよくなっていない子供たちのことに気づいた家族がやめていくことを止めるためのものではないかとうがった見方をしてしまいます。 最後にFCで語られることについて感じていることを書きます。 FCでは、レクチャーで聞いたことのあるよなことが、大抵、子供の身体に起きている不調の原因として語られていました。 私自身も、「ほんとにそうなんだなぁ」と関心したりしましたが、あとで、高機能自閉症である、テンプルグラディン氏やドナウィリアム氏 の著書を読んでいると、「こりゃ自閉症の受け売りじゃないのか」と思えるほどでした。もちろん、自閉症の人たちに起きていることが、重度の肢体不自由児に起きていないとはいえませんが、もっと別の発見があってもよかろうと、FCに対する疑問が膨らみました。 因みに、テンプル氏は自閉症には高度な知能を持っているタイプと、低い知能しかないタイプなどいろいろあるとはっきり書いていました。 |
kojikojiさんによる、文字盤の体験報告と考察(dialogue掲示板 2004/02/17 02:55)
|
遅くなりましたが、FCに関してのみづきさんの詳しい情報有難うございました。やはり実際に経験された方のご意見はとても参考になります。FCがアメリカへ紹介されたのは1990年ですからドーマン研究所は1991年あたりから導入したのかもしれませんね。その頃、福永氏は確かに研究所から離れていたようです。
さて、ここで文字盤というものについて改めて考えてみたいと思います。 文字盤に関しては、私も家族が入院した際に病院で使っていた時期があります。ドーマン法のFCが何を目指しているのか理解不能な部分がありますが、文字盤の使い方や「病を抱えながらも何とか意志の疎通を図りたい」という主旨は基本的に共通していると考えます。只、ドーマン法の場合は介助者が手を添えるのに対して医療現場では殆ど患者自身が独立して手、目、口にくわえたスティック等で文字を指す場合が多いと思います。 ですから、ここでは文字盤の字を読み取る作業というものを中心に考えてみたいと思います。 文字盤は、日本の多くの病院でよく目にします。50音表と呼ばれるもので、病院により多少様式は違うかもしれませんが、人工呼吸器を使っている患者さんなどが発声困難になった時、一時的もしくは恒久的に使われるものです。私は、身内が肺疾患で人工呼吸器を使用していた為に文字盤で会話せざるを得ませんでした。実際に使い始めてみると、使用前に考えていたのとは違って結構難しいコミュニケーション方法でした。勿論、使い方としては一方が文字を指し、他方が読み取るという単純な方法なのですが・・・ まず病気を抱えている患者は体力が衰えている為、腕の力・指の力が弱く疲れやすいという傾向があります。障害で不随意筋運動がある方などは、力加減が上手くいかず、思う方向へ文字が指せない状況もよくあります。その状態では一文字一文字指すだけでもかなりの時間を要し大変な作業です。いずれにしても文字盤による会話は時間が掛かります。慣れると多少作業能率が上がりますが、高速指差しまでは無理です。高速で行えば読み取り者が付いてゆけなくなりますし、ゆっくり行う方が確実な伝達が出来ます。 一文字一文字指した言葉を単語として認識し、さらに文章として繋げていく作業は意外に難儀しました。日本語には同音異義語が多数ありますから、介助者は常に指された文字を見ながら何という単語なのかという確認作業を平行して行います。例えば「か→み。」と指したら「髪?」「紙?」という確認作業を両者の間で行ったり、前後の脈絡で判断したりします。長めの文章を作成する場合だと、患者が疲れてしまい、中断してしまう事も度々ありました。文字盤を使った会話というのは、実際にやってみると初めてその困難さが分かります。単語のみ、もしくは短文に留まるというケースが多かったと思います。 伝えられる文章というのは、本人の要求に類する内容が殆どでした。例えば「足が痛い」「頭が痒い」「〜が食べたい」「〜を取って」というそんな程度の会話が主です。その短い文字指しでさえ、どうしても意味が読み取れない場合があります。数回試しても理解不能な場合は、こちらも何とか意味を掴もうと状況判断したりするのですが、結局最後には文意を憶測するようになります。「多分こう言いたかったのでは?」と言う風に自己解釈します。文字盤に介助者の恣意が入るかどうかと聞かれたら、その確率は常に有ると私は答えざるを得ません。ドーマン法でFCをやっている子供達が、難解な言葉を使い詩や本を書き、会話をするというのを聞くと私は不思議でなりません。それは天文学的な時間を要するでしょうし、普段使い慣れない難解な言葉ほど確認作業がより煩雑になってくるからです。 FCで本を執筆している少年の父親が、ある本の後書きで不思議な記述をしていました。 −引用ーこの文章は全く理解出来ません。チャネリング以外にまずこんな事は有り得ません。 当たり前の事ですが、文字盤は固定してあげないと文字は指せません。 文字盤が動いてしまうと、指す人間は希望する文字を指す事が出来ないのです。 ましてや、暗闇の中や白紙のボードでどうやって指すのでしょう? 腕や手首の力加減で分かるなら、同音異義語の問題はどう解決しますか? お互いにフィード・バックする時間が異常に増えないでしょうか? 明るい場所でも必死な遣り取りになるのに、こんな事は有り得ないのです。
この文字盤というものについて、集中治療室で働いていらした医師の方が文章の中で触れていらっしゃいます。 −引用ー文字盤の記述に関しては、私も経験上からこの医師のご指摘に賛同します。 このように大変な状況が展開されるからこそ、患者の家族はよく文字盤の改訂版を作ったりするのです。私も病院から渡された文字盤以外に、濁点文字列等を加えた改訂版や字を見やすくしたものを作った事があります。 よく使われる簡単な日常会話集を書き込んで、専用ボードを最初から用意している人もいます。これは、患者さんが幾つもの文字を指さなくても文例を一回指すだけで済みますから、なかなか良いアイディアだと思います。 ドーマン法のFCでは、何故単一の50音表ボード以外のパターンが用意されていないのでしょうか? それとも、各家庭では使い勝手を工夫した改良版も使われているのでしょうか? 障害を抱えているお子さんには、より楽に文字盤を指せる工夫をしてあげて頂きたいと願います。
ネットで調べると、「文字盤についての考察」を書いている人がいました。この方はギランバレー症候群で手足の自由が利かなくなり文字盤を使っていたそうです。ご家族の方が何度も改良して製作した文字盤の数々は、多くの方々にとって参考になると思います。 半年間の入院を経て現在は職場復帰するまで回復された患者さんは、まだ完全治癒とは言えませんが、今年の1月にはハーフマラソン完走を成し遂げられたそうです。同じ病を持つ方々の為にHPを立ち上げ、書かれた「入院闘病記」は大変詳しい記録が綴られています。
突然の発病で人工呼吸器を付けるようになった為、やむを得ずの文字盤生活。呼吸器が取れてから使うようになるパソコンも、割り箸を口に咥えてのキー打ち、マウスは足で操作していました。リハビリを含め、本当に壮絶な病との闘いを経て、半年後に退院した、この患者さんはその記録を後に克明に記しました。同病に悩む方々にとっては大変貴重な資料だと思います。 この患者さんも、文字盤を使った感想を「イメージを言葉で伝える難しさをつくづく感じた」と述べていらっしゃいます。それは経験者が異口同音に口にする言葉でもあります。 たかが文字盤、されど文字盤なのです。 そのような状況を経験すると、普段自由に喋り意志を伝えられるというのが如何に幸せな事なのかと改めて痛感させられます。 文字盤とは、一時的、もしくは全く声を失ってしまった方々が、何とか自分の意志を伝えるべく必死の思いで使うものです。 文字盤とは、本来そういうものです。
|
|
|