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福永洋一騎手とドーマン法について

2003.12.15. by saihikarunogo
2004.02.17. by saihikarunogo

NHKスペシャル「奇跡の詩人」を見て、真っ先に、1979年毎日杯の、福永洋一騎手の落馬事故を思い出した、という人がいます。その後の福永氏が一家を挙げてドーマン法に取り組んだことは、氏についてのテレビ番組や著書などで、競馬ファンにはよく知られているようです。

「初恋の天才騎手」
http://members10.tsukaeru.net/pappakapa/BORO_BORO/FirstLove/first_love.html

「福永洋一について語るすれ」
http://curry.2ch.net/keiba/kako/1015/10157/1015713688.html

ところで、

ドーマン法とは??

(1)「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)p.216
治療を受けずに放置された子供たちが、治療を続けている子供たちよりは、圧倒的によくなっていたのである。更に調べてみて、まずわかったことは、治療を『受けない』子供たちは、家族の中に置かれ、一緒に生活しているということであった。彼らは『ベッド』ではなく『床』に置かれていた。必要な時には、他人がしてくれるのではなく、自分で這ったり、膝で進んだりして、自分の用を足さなければならないのだった。
(2)「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)p.231
四月中旬のある日、北村は布団に入っていた。洋一はその横で、毛布をかけられて腹這いのゴロ寝をしながら、何とも恨めしそうな目で、布団の中の北村を見続けていた……と北村はいう。
もっとも『恨めしい』というような意識は、随分な高級な意識であろう。それが果たして毀された洋一の『脳』に可能であったかどうか……疑問ではあるけれど、その時、北村の目には、リノリュウムの床に腹這いして、毛布のすき間からちらちら北村を見ている洋一の目が、そのように見えた。
北村は、急に洋一がかわいそうでならなくなった。あの事故さえなかったなら、多分もう十年を越えて継続するリーディング・ジョッキーとして、どんな栄耀栄華も思うがままであったろうものを……毛布一枚かけられて床にゴロ寝するこの姿は、何という哀れさであろうか。
北村は、こみ上げてくる涙をぐっとこらえて、洋一に声をかけた。
「洋ちゃん、布団で寝たいか? こちらへ来たいか? 来たければ来てもいいよ。但し、自分の力で這ってだよ」
そして、少し布団をめくり上げて、敷布団の上をぽんぽんと叩いて見せた。
すると、どうであろうか。洋一は首をもたげて、これを必死の形相というのだろうか、不自由な中にも懸命の色を顔に浮かべて、北村の布団に這い寄ろうとするのだ。
「そら、もう少しだ! もっと頑張って!」
北村は、ついに涙にむせびながら、激励の声をかけ続けた。

洋一はとうとう、寝返りを打つように北村の寝床に転がり込んで来た。
「洋ちゃん、よくやったねえ」

(1)は、理学療法士グレン=ドーマンが、1940年代後半に診療所を設立して脳障害児の治療法の研究を始めてから3年後の1950年に、自分が治療した18歳未満の人々の治療結果を追跡調査した結果です。治療を継続していた100人のこどもたちは、よくなったといっても、「頭が上がるようになった」「腕が動くようになった」という程度で、「歩くようになる」のはいつのことやらおぼつかない状態でした。一方、わずか数回の治療を受けただけで、親の無関心とか「治療費が続かない」などの理由で治療をやめたこどもたちのほうが、圧倒的によくなっていました。 ドーマンは、この結果をもとに、「床を這ったり、膝でにじったりする」ことが脳に刺激を与えて発達を促すと考え、傾斜版を使った腹這いなどの訓練法を開発します。また、這えない子供を仰向けに寝させておいてはいつまでたっても這えないのでうつ伏せに寝させる、という方法も主張するようになります。
(2)は、福永洋一氏にドーマン法の訓練を実施している北村達夫氏が、ドーマンの教えに逆らって、福永氏を床にうつぶせで寝かせるのをやめて、一緒に布団で寝るようになったきっかけのできごとです。
(1)で、治療を受けていないこどもたちのほうが自分の意思で移動し、用を足すことができるようになったように、(2)でも、福永氏は、暖かい布団で寝たいという欲求に基づいて、自分の意思でからだを動かし、目的を果たしています。
グレン=ドーマンは、ただ、「運動」そのものにだけ注目していました。そして、その「運動」を、「障害」児者本人が自発的にできる環境を用意する、生活する場を整える、のではなく、治療者・訓練者がプログラムを組んで他動的におこなわせる方法を編み出しました。
グレン=ドーマンは、重要なことを見逃していました。人間は、目的があると、自分で自分の身体能力・知的能力を及ぶ限り使って、目的を達成する方法を編み出し、実現する力がある、それこそが、人を発達させ、治癒させ、回復に向わせる力である、生きる力そのものである、ということ、その点を、見逃していました。

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福永洋一さんの御家族を動かした、グレン・ドーマンの言葉とは?

dingbatsさんの感想(dialogue掲示板 2004/01/31 23:02)より

最近ようやく「奇跡への挑戦」を読むことができました。

本書中、グレン・ドーマン氏が語った言葉は、愛する者の回復を願う家族へ希望を
与えるものであり、本当か嘘かは知らないけれど『なおす』といってくれている方に
賭けたい、とご家族が思われる心情は胸に迫ってきます。

「私の人間能力開発研究所でやっているようなやり方で訓練すれば、自分で
生活するようになれる可能性が高い」
「自分で生活するようになれる可能性とは、自分で立って、自由に歩き回れるように
なれるということです。自由に話し合うことが出来るようになれるということです。
それが、私が設定する一定の期限までに、必ず達成されるのです」
(アメリカへ!の章、p206より)

しかしながら、ドーマン博士の持論および見解は、障害を個人的かつ否定的なものと捉え、
人をその能力のみで評価する価値観に陥っているように感じます。

ドーマン法では健常になることを理想として独自の訓練が推奨されますが、治癒の可能性・
近親者による自助努力という美名の下にともすれば当事者及び家族の主体性や自発性を
制限しようとしたり、また全生活を捧げることを強いるプログラムに果たしてどれだけの
効果があるのか残念ながら今日まで十分な証明がなされていないことも、大きな疑問です。


「NHKスペシャル『奇跡の詩人』part44」
http://papersearcher.hp.infoseek.co.jp/mirror/9230/kiseki2chlog44.html

169 名前:名無しさんといっしょ投稿日:02/05/29 14:12 ID:???

>福永祐一 父からの贈り物/大場勝一/KKベストセラーズ/\1,400
>
>この種の本、つまり一人の騎手をクローズアップし、賛辞を送っているような本は
>基本的に買わないし、紹介もしないつもりでいる。
>華々しくデビュー勝ちを飾った、往年の天才騎手の息子も、
>見事な初勝利重賞勝ちをおさめた某騎手の弟も、目立たないところで地道に
>力をつけていこうと努力している騎手も、みんな同じだと思うからである。
>(…中略…)しかし、その後の福永洋一氏とご家族のリハビリ生活の凄まじさと
>苦しみが端的に伝えられる。
>アメリカのドーマン博士が実践している「ドーマン法」と呼ばれる
>リハビリのプログラムの実行。これは恐ろしいほどの意志の力が要求される。
>福永氏自身がおそらくリハビリの意味を理解し、回復に向けて強い闘志を
>持っていたのだろう。このドーマン法に焦点をあてて、そのリハビリの様子の
>記録に絞ったなら、そこには全く別なドキュメンタリーが生まれる。
>しかしこの本では、スポットは福永氏と息子の祐一とを行き来する(…後略…)。

173 名前:セントルウへの道投稿日:02/05/29 14:17 ID:???

>以下の文は和田絵衣子著「奇跡への祈り」 (講談社)からの抜粋です 
>
>ゲートが開くと、そこは柔らかな陽光に映える美しいグリーングラスだ。
>しかし、雨の日、雪の日、嵐の日と、険しい日々も祐一達を待ちうける。
>一世を風靡した父、福永洋一から、先輩としての的確な言葉や、
>また心のいえる励ましがほしくなるような苦難の日は巡ってくる。
>だが、父は「南国土佐」は歌えても、息子の問いかけに答えてやることはできない…‥。
>僭越だが、昭和52年に出版の拙著「絵衣子の競馬スケッチ」のなかで、
>愛馬への熱い思いをこめて書いた散文の一文を、彼へのメッセージとしたい。
>
>誰も助けて くれはしない
>自分で這い上がってゆくのだ
>限りない可能性を秘めたその四肢を
>お前自身が確かめるのだ
>サラブレッドの誇りを持って
>(以下略)

176 名前:169=173投稿日:02/05/29 14:24 ID:???

セントルウへの道(つづき)

>次の手紙は、祐一が競馬学校2年生のとき、父に宛て書いたものである。
>
>父さん、元気ですか。
>僕は元気でやっています。
>成長はもう止まったみたいで、体重の増える心配はないようです。
>でも、もう少し身長が欲しかったな、とも思います。
>学校での生活も2年生の半ばが終わり、走路騎乗を始めて半年以上になります。
>少しずつ競走の姿勢や鞭の使い方がわかってきました。
>最近では発走の練習や追い切りのメニューが加わり、楽しくてしようがありません。
>落馬には注意していますが、すでに何度か落ちています。
>最近は御守りをつけて乗っています。
>不思議とこの御守りをつけてからは、落馬の回数が少なくなりました。
>父さん、先日、また「セントウルへの道」(注、昭和52年に人馬一体に
>いちばん近い騎手として福永洋一を撮った映画。芸術祭優秀賞受賞)
>を見てしまいました。
>(…中略…)今までは、周囲の人が父さんのことを凄い乗り役だった、と言うのは
>聞いていましたが、ぼく自身、父さんの騎乗について、どこが凄いのかよくわかりませんでした。
>でも、実際に自分が馬に乗り、その難しさを知って改めて父さんの凄さがわかりました。
>そしてまた、僕が騎手になってレースに乗るようになると、父さんの凄さを
>また思い知る、そんな予感もします。
>それはうれしいことであり、また恐いような気もします。
>僕は二つの面で父さんを尊敬しています。
>一つは騎手としての福永洋一、もう一つはリハビリと戦うお父さん。
>僕はリハビリと闘っている父さんしか知りません。
>騎手としての父さんは、ビデオや本でしか知ることができません。
>でも同じ道を目指して競馬学校に入学し、父さんのビデオをくり返し見て、
>騎手としての福永洋一を心から尊敬するようになりました。
>「あなたの目標とする騎手はだれですか」と聞かれたら、今ならきっと
>「福永洋一です」と答えることができます。
>父さん、9月半ばごろからトレセン実習が始まります。
>お世話になる厩舎も決まりました。そのとき、ゆっくり会えます。
>楽しみにしていて下さい。母さんによろしく。
>
>祐一。

*註
「セントルウへの道」ではなくて、「セントウルへの道」です。
http://www.f-yuichi.com/newpage58.htm


福永騎手のその後については、dialogue掲示板の「めも・らんだむ」スレッドで、kojikojiさんが関連文献からの要約を報告しています。

kojikojiさんによるレポート「福永騎手のその後」

dialogue掲示板の「めも・らんだむ」スレッドより
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/movie/2741/1056858605/130-149

落馬事故の後ドーマン法リハビリに取り組んだ元競馬騎手・福永洋一氏を覚えていらっしゃるでしょうか?
事故が起きたのは1979年の春、当時から既に24年が経っています。
長い年月が経ち、資料も少なくなってきたようなので経緯をメモしておこうと思います。
私も当時の様子がよく分からない為、本・新聞などを読み改めて様々な事実を知りました。
初めに事故後の経過説明、後半はドーマン法との関わりについて纏めてあります。


―事故後の経過説明―

昭和54年3月4日、阪神競馬場では激しい雨の中、毎日杯のレースが行われていました。
出走馬12頭の中、唯一牝馬に乗っていたのが天才騎手と言われた福永洋一騎手です。
4コーナーを回った地点で彼は前走する馬のアクシデントに巻き込まれ、落馬事故に遭遇します。
落馬は騎手にとっての宿命のようなものですが、9年連続リーディングジョッキー(年間最多勝選手)
に輝いた彼の事故は、多くの人に多大な衝撃を与えました。
脳の損傷により危篤状態に陥った彼は、この日から長い闘病生活を送るようになります。
その闘いは又、後に始まる過酷なドーマン法リハビリとの闘いの序章でもありました。

事故後、福永氏は当時関西一のICU施設を持つと言われた関西労災病院に運ばれます。
瞳孔が開き、四肢は「除脳硬直」状態で昏睡が続き、命の保証は出来ない状態でした。
CTスキャンと脳血管撮影の結果、右側頭葉に脳挫傷、左側に脳血腫瘍が発見されます。
唯一の救いは自発呼吸がある事でしたが、意識を司る脳幹部の損傷は自力回復を待つしかありません。
どの病態を見ても非常に重篤で、命さえも危ぶまれていたのです。

直ちに医師団が今後の治療方針の協議をし、開頭手術が決定されます。
3/6に行われた手術後も福永氏の昏睡状態は続き、意識の回復は依然として有りません。
手術の成功により当面の危機は脱したものの、脳波は依然昏睡状態のままでした。
3/6の手術に続き、4/4には頭蓋骨欠損と正常圧水頭症の同時手術が行われています。

脳の損傷を受けた場合、関節の拘縮の阻止・良肢位の保持・床ずれの予防等の為、
障害を受けた後の早期リハビリ開始が重要であるとされています。
マッサージや関節を動かすリハビリは、福永氏の病室内でも既に始められていましたが、
手術による一時中断があった為、その後のリハビリは4/9から再開されたのでした。
この頃のリハビリは、一週間に3回、手足屈伸訓練を一日20分位ずつ行うというものです。
5月の初め頃左手の動きが活発になってきますが、依然瞳孔は散大し光反応がありません。

7/10福永氏は車椅子で機能訓練室まで移動して、訓練室でのリハビリを始めました。
関西労災病院のリハビリテーション科は、当時関西一という評価を受けていました。
この時点での福永氏の状態は、意識レベル3(*)、左側の肘、膝、手は自力で運動可能、
右上下肢は麻痺しているけれども柔らかい状態であるというものでした。
リハビリは寝返りから始められましたが、自ら体を動かす事は出来ない状態でした。
8月からはマット訓練、左右の上下肢を挙げる訓練、起立訓練が始められています。
8月半ば、彼は支持用具に支えられながらですが、5ヶ月振りに立つ事が出来たのです。
しかし、頭部は乳児のようにぐらつき、誰かが支えなければ不安定な状態での起立でした。

9月からリハビリはいよいよ本格化します。午前午後それぞれ2時間ずつの機能訓練、
作業療法が行われます。10月に入るとゆるやかな進歩が見られ、目の動きも良くなってきます。
左手の回復が良く、食事もチューブからではなく殆ど口から摂るようになっていきます。

ここまで回復した要因として挙げられるのは、
・事故が起きた際、競馬場に待機していた医師の的確な応急措置。
・入院後、近代医学の英知を結集した医師団の大きな力があったこと。
・結婚後、僅か3年で事故に遭遇してしまった夫人の事故後の献身的な介護。
・毎日規則正しく続けられたリハビリの成果。
などが挙げられます。しかし、現役時代によく訓練された福永氏の体が非常に
しなやかで、訓練によく耐えられた事も、実は大きな要因だったようです。
お正月に一時帰宅した福永氏は、まだ自ら言葉を発する事は出来ませんでしたが、
相手の言葉に肯いて応えるようになっていました。
この頃から笑顔がよく見られるようになります。自宅での束の間の休息の後、
彼は再び病院へ戻り、翌年11月の退院まで入院生活を続ける事になります。


―ドーマン法との繋がり―

3月、今後の治療方法が医師と夫人の間で話し合われ、ここで夫人は初めてドーマン法の
リハビリを始めてみたいとの意志を医師に伝えます。これは夫人が入院中にずーと温めていた
考えで、"もう現役選手としては無理でも、せめて自ら歩き自分の言葉で話すようになってほしい"
との夫人の切なる願いでもありました。

労災病院に入院中のある日、日本人間能力開発センターから、ドーマン氏が来日するので会って
みないかという連絡が入ります。
夫人は申し出を受け、昭和55年7月ドーマン氏が入院中の福永氏の元を訪れました。
博士は、リハビリの様子を実際に観察し、病院の訓練士の人とも話し合っています。
ドーマン氏は「再び競馬界のチャンピオンになる事はあり得ないが、非常に理想的な
状態で訓練すれば、自分で生活するようになれる可能性は高い。ドーマン法によって
更に福永氏の病状は好転するだろう」という言葉を残していきます。

昭和55年11/21、福永氏は1年8ヶ月の入院生活を経て、関西労災病院を退院しました。
ご家族は、以後ドーマン法による自宅療法に回復の夢を託すようになります。
ドーマン法は一定数の人手を必要とするリハビリです。その協力の為に、
夫人の両親も住み慣れた土地を離れ、福永宅に移り住むという決断をしています。
「研究所が障害を治すのではなく家族が治す」というのがドーマン法の基本的な考えです。

翌年2月、福永氏は初めてフィラデルフィアのチェスナットヒルにある「人間能力開発研究所」
を訪れますが、そこでドーマン氏から家族へ言い渡された言葉は厳しいものでした。
「もし、家族が自分達には出来ないと判断した場合は、遠慮なくここから退去してもらう。
そして今後一切、当研究所とは関わりを持つことが出来ないということを承知してもらいたい」。
この前提を了解した人間のみがドーマン法を続けられる仕組みになっているのです。

半年毎に組まれるプログラムは、「運動」「知性」「栄養」の三つの分野に分かれており、
一日の殆どを使って行う苛酷なプログラムの初回分が、まず福永家に渡されたのでした。

帰国後の昭和56年3/5午前7時から、いよいよドーマン法プログラムが開始されます。
家の中は家具が片付けられ、リハビリに必要な器具で溢れる訓練場と化しました。
リハビリ主導者は義父のK氏、他にパートの手伝いの方々数名、4月から専任要員
としてT青年が雇われています。
(彼は半年後に渡米し、人間能力開発研究所に勤務するようになります)
この頃の訓練時間は一日10〜13時間、毎週訓練の回数が増えていくように
組まれています。
リハビリが進むと、福永氏の肘の皮がむけ血が滲む、膝にはこぶが出来、頭上ばしごを
握り締める手のひらはマメがつぶれて血が滲む、という文字通りハードな訓練の連続でした。
昭和57年1/30に福永氏は、相手の話す言葉を反復する事が出来るようにまでなります。

7月に来日したドーマン博士は福永氏の体の動きの進展に驚き、早速第二次のプログラムを
渡します。リハビリの量は二倍に増え、更に苛酷な訓練が待ち受けていました。
9月に入り福永氏は右足を1歩踏み出すのですが、それは2年5ヶ月振りの第一歩でした。

2回目の渡米は翌年の2月。この時ご家族はリハビリを実際に行ってきた経験から、
その方法等について研究所にある程度の提言をされたようです。
しかし研究所は全く取り合わず、強硬な姿勢で第3期・6ヶ月のプログラムを
渡しました。

今度のプログラムは長い距離が取れる訓練場が必要なものであり、自宅では手狭でした。
結局、中央競馬界トレーニングセンターの集会所を借り、そこで行う事になります。

この頃、リハビリ専任要員だったT青年は既に渡米しており、Aさんという女性が代わりにリハビリ助手を勤めるようになっていました。(*)
(*saihikarunogo註: 三輪和雄氏の著書で女性として紹介されているAさんは、のちに「K学習相談室」を開設した安達啓氏のことと思われるが、氏は自己紹介で「3児の父」と述べている。「当室紹介」http://www.lc-k.org/introduce.htm)

第三次のプログラムが終了した7月、研究所のジャネット・ドーマンが来日しました。
御一家に「リハビリを暫く休み2ヶ月の休暇を取るように」との言葉を言い渡します。
この休暇は、研究所で「ハネムーン」と呼ばれているもので、介護者の一時休暇と、
患者が家族と触れ合う暮らしを経験する事を狙いとし、設定されているのだそうです。
この頃福永氏の歩行距離は、ゆっくりながら145メートルの距離まで伸びていました。

昭和58年5月、3回目の渡米で受け取った新プログラムには騎乗訓練が入っていました。
翌年の10月、栗東トレーニンゲセンターの乗馬園で、嘗ての仲間達に見守られながら
乗馬する福永氏の姿が見られました。それは事故以来、初めて馬に乗った氏の姿でした。
その現場に居た夫人の目には涙が光っていたそうです。

ドーマン法のリハビリを始めて3年、昭和58年暮れに遂に全プログラムが終了しました。
翌年1月には、研究所から福永洋一氏の生涯計画書も渡されます。
計画書に書かれている文は「この計画の目的は、予定通り子供がプログラムを達成し、
それによって同年代の者と一緒に大学を卒業し、人生の予定された軌道通り就職する。
または更に大学院に進む事が出来るようにすることである」末尾には「福永洋一は、
1987年1月のドーマン博士の再診のときをもって卒業する」とありました。
子供に向けた文章で書かれているのは、研究所が基本的に子供の為の教育機関であり、
今回の福永氏のような成人のケースは例外的であった為だと思われます。
しかし、卒業したとはいえ、まだ自分の力で歩く事が達成されていない限り福永家に
とってのリハビリは終わっていないのです。目標は、あくまで自力で歩くことなのです。

でも、その後、御一家はドーマンリハビリを止めざるを得なくなってしまいます。
福永家は研究所との意見の相違に直面し、続行することが不可能になってしまった
のです。実は、2回目の渡米の時にその芽が僅かに見えていた形跡があります。
リハビリが進んでくると、家族から「このような訓練も取り入れたらどうだろう」等と
意見が出される事があるようですが、研究所は自らのプログラム以外のものは一切
受け付けない主義です。プログラム通りにやらないのなら勝手にして下さいと、
以後の関わりを拒否し、リハビリ中止通達を出す方針を採っています。

異議を唱える者は研究所を去るしか為す術は無く、ご一家は結局それを受け入れたのです。
後は自分達のペースでゆっくりとリハビリに取り組んでいくという道を選択したのでした。
3年間続けられたドーマン法による苛酷な訓練は、ここで終わりを告げます。
3回の渡米費用を含め、ドーマンリハビリに掛けた総費用は、約5,500万円だったそうです。


―その後の福永氏―

2002,9/23,北海道新聞に「天才騎手・福永洋一さん 1979年落馬しリハビリ生活」
という特集記事が載りました。
写真で見る福永氏は以前よりふっくらとし、例の福永スマイルで微笑んでいます。
この年は障害者インターナショナル世界会議が札幌で開かれた年だった為、
それにちなんで福永御一家へのインタヴューが行われたようでした。

記事の内容はリハビリ生活の記述が中心でしたがドーマンという文字は書かれていません。
現在の福永氏は、ご家族にトイレや食事などの意志を伝え、両腕を支えられて歩くという
生活を送っていられるそうです。
たまに、故郷である高知県の「南国土佐を後にして」を口ずさむ事もあるそうですが、
自ら言葉を出し相手に話し掛けるというのは、まだなかなか難しいようです。
相手が話し掛けた言葉を、部分的に反復して口に出すという対話形式になるようです。

事故当時2才3ヶ月だった長男は騎手になり、当時5ヶ月だった長女は理学療法士の
道に進んでいました。
ご家族は、事故以来いかなる時も福永氏を子供扱いしなかったそうです。
「常に一家の柱として接してきた」という義理のお父様の言葉に一家の姿勢が見て取れます。

その後のリハビリについてですが、マイペースで現在でも続けられているようです。
昨年増築したというトレーニング室には数々のマシーンと車椅子用のリフトが設置され、
そこでご自分達がベストと思う方法でリハビリに励んでいらっしゃるという事でした。
温かいご家族に囲まれて微笑む福永氏の表情は、現役時代の洋一スマイルそのままに
優しさに満ち溢れていました。


―私見―

体に障害を負った場合、痛みに耐えながらリハビリを行い続けるのは本当に辛い事です。
福永氏は、苛酷なドーマンリハビリを3年間よく耐え忍んだものだと感心させられます。
又、ひたすらに献身的であった夫人とその御両親の協力的な姿勢にも胸を打たれました。
一時は植物人間状態になるのではないかと危ぶまれた福永氏ですが、ご家族の介助が必要な
状態とはいえ、何とか自宅で生活できるまでに回復なさったのは喜ばしいことです。

しかし、リハビリというものを考えてみた時、ドーマン法によって良くなったのか、
また違うリハビリ方法を取り入れていたとしても、やはり現在の状態になったのか、
又は人間が本来持っている自然治癒力によって治った部分も多分にあるのではないか、
という辺りの判定はとても難しいと感じます。
それは比べてみるデータが殆ど無いからです。

ドーマン法については、世界中の様々な専門機関がその効果について否定的な見解
を示しています。あまりにも高額な費用が掛かる事、家族に多大な犠牲を強いる事、
医学的なデータが殆ど発表されていない事などの問題点が様々に指摘されています。
研究所は、ドーマン法を実施した結果のデータを何故きちんと発表しないのでしょうか?

ドーマン氏は、嘗て福永氏が入院する病院を訪れ、「我々のプログラム通りに訓練すれば、
自分で立ち、自由に歩け、そして自由に話せるようになるだろう」と語っています。
しかし、現在の医学では脳の障害が大きければ大きいほど完全治癒が難しいケースも多いのでは
ないでしょうか? 残念な事ですが、現状では近代医学の力にも限界があります。
では、代替医療で完全治癒がもたらされるかというと、これも有効性を実証するデータが
余りにも少なく、効果の程が実証されていないのが現状です。

実際に福永氏の状況を見ても、介助無しに日々の生活を送るのは困難な様子に見えます。
訪問者が誰であるのかなかなか分からない、言葉が思うように出てこないというのは、
脳の損傷に起因する後遺症なのだと思わざるを得ません。

であれば、やはり我々は障害の100%治癒をいたずらに望むよりも、患者が例え障害を
負ってはいても人間としての尊厳を守り快適な生活を送られるようにという、その点に
こそ最大限の努力をすべきなのではないかと思います。
その意味では、福永家が洋一氏を柱として尊敬する姿勢は素晴らしいと思えます。

有効性が実証されない割には費用が高額過ぎるドーマン法に対しては、
やはり数々の疑問を感じざるを得ません。
その素朴な疑問が解決しない限り、どうしても釈然としない気持ちが残ります。


私事になり恐縮ですが、先日親戚の人間が蜘蛛膜下出血で倒れ、2度の手術を受けました。
この病気も往々にして障害が残る事が多く、患者の意識が混濁する度に家族は一喜一憂
しておりました。突然の病魔は、一瞬にして我々の生活をも一変させてしまいます。

うろたえ憔悴する家族を前にして、私は一縷の可能性に望みを託して励まし続けるしか
ありませんでした。後は医師の力を信じ、患者の自然治癒力に期待するしかありません。
世の中の疾病は数限りなくありますが、脳の病気の恐ろしさを改めて痛感させられました。

地球上では、今この時間にも様々な病気と闘い続ける人達が多数いらっしゃる事でしょう。
いつの日か医学が更なる進歩を遂げ、患者の方々、ご家族の方々の苦しみが一刻も早く
取り除かれるようにと、私は心から願わずにはいられません。


参照―和田絵衣子著「奇跡への祈り」、三輪和雄著「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(*)
   2002,9月23日付北海道新聞・特集記事
   「天才騎手・福永洋一さん −1979、落馬し、リハビリ生活―」

 

*註 (by saihikarunogo)
意識レベル3」について

「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)によると、
関西労災病院では、意識レベルを次の6段階に分けています。
(1)正常。
(2)質問に答えるが、ぼんやりしている。
(3)簡単な質問に応える。
(4)呼んでも答えず、手を握ったりする。
(5)ピンで皮膚を突いて、動きがある。
(6)全く反応がない。

福永洋一氏が関西労災病院に運び込まれた昭和54年(1979年)3月4日の意識レベルは(6)、3月16日にICUから脳神経外科病棟へ映ったときの意識レベルは(5)、7月10日に車椅子で機能訓練室まで移動してリハビリを始めたときは(3)で、「左側の肘、膝、手は自力で運動可能、右上下肢は麻痺しているけれども柔らかい状態である」というもの、そして、翌昭和55年(1980年)7月ドーマン氏が入院中の福永氏の元を訪れたときは(2)でした。

以下、「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)より

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p.163
日本脳神経外科学会の植物状態の定義は次のようである。
「ユースフルライフ(有用な生活)を送っていた人が脳損傷をうけたあと、以下の六項目を満たす状態に陥り、種々の治療に対してほとんど改善のみられぬまま、三ヵ月以上を経過した場合をいう。----自力で移動できない。自力で食事がとれない。大小便が失禁状態にある。目で物の動きを追ってもそれが何であるかを認識できない。『手を握れ』『口を開いて』などの簡単な命令に応じることはあっても、それ以上の意思疎通はできない。たとえ声を出しても、意味のある発語はできない」

p.203
しかし話しかけたりして、いわゆる刺激を与えないでおくと、やはり無表情になったりする。(中略)裕美子夫人に対する信頼は絶対的で、他人が夫人に対して非難めいたことを言うと、ひどく表情をかえるという。自分にとって歓迎すべきとき、たとえば「訓練を今日はこれで打ち切りにしましょう」などというと、よろこんで笑顔でOKの表示をするのである。訓練のときの命令には言うだけでかなり理解し素直に従うが、ときには気分のムラもまだ残っているという。理解が早くなり、動きのハヤイ、オソイを区別出切るようになったということである。

p.204
畠中正昭先生の意見では、現在以上に福永さんの病状が好転するのはかなり困難で、もちろん植物状態は離脱したが、意識レベルは(2)の段階であるという。つまりまだ意識障害が残っていて、正常である(1)に回復はしていない。畠中先生はすでに一級身体障害者と認定して、医療費の全額補助が受けられるように、手続きを済ませてあるといわれていた。

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「植物状態」の定義→http://www.arsvi.com/0p/vs.htm

なお、意識レベルの分類には、他に、グラスゴー方式、3-3-9方式などがあります。たとえばグラスゴーコーマスケールの(3)というと、最も意識障害の重い昏睡の状態です。 また、最近の大阪大学附属病院救命救急センターの報告では、植物状態でも適切な治療と看護により6割が回復するとされています。

http://www.asahi.com/health/medical/TKY200311010210.html

頭大けがで「植物状態」、ケアで6割意識回復 阪大調査

 頭に大けがをして「植物状態」になった患者でも、十分なケアをすれば約6割の人が意識を回復できることが、大阪大病院救命救急センターのまとめで分かった。約7年間続けてきた調査結果で、同様の長期研究は世界的にも珍しいという。 31日、大阪市で開かれた厚生労働省研究班の会合で報告された。

 

*註 (by saihikarunogo)
参照文献について

「奇跡への祈り」(和田絵衣子著、講談社、1995年)
ドーマン法についての記述は、「ドーマン法との過酷な闘い」p.121-156, 特にp.129-153にくわしい。写真も多数あり。福永洋一騎手の現役時代の迫力あるレースの写真も収録されています。
なお、この本には、公営競馬で活躍し「本当の天才」と呼ばれた坂本敏美氏が、やはり事故で引退した後の生活も紹介されています。坂本敏美は車椅子で移動し、口にくわえた棒でワープロを打っています。

「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)
ドーマン法についての記述は、「あとがき」p.199-211, および「文庫版あとがき」p.212-221にあります。

「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)
福永さん一家がドーマン法を実施するきっかけから、グレン=ドーマン氏が独自の訓練法を開発する過程、福永氏の実際の訓練のようす、ドーマン法の「卒業」とはどういったものか、などのくわしい記述が、p.200-277にあります。


以上の報告によりますと、福永洋一氏はドーマン法を始める前に、関西労災病院のICUの治療によって昏睡状態を脱し、同病院のリハビリテーション科の訓練で、身体の柔軟性を保ち、相手の言葉に反応できるようになっていたようです。さらに、点滴ではなく、自分の口で食べることができるようになると、家族にとっても、病人が回復してきた、という実感が湧きます。
私ごとで恐縮ですが、母が、脳梗塞の発作で入院して半身不随になったことがあります。はじめは寝返りも自分でうてず、点滴を続けていました。それでも、話すことはできたので、私は、何か食べさせてあげたいと、プリンや、やわらかいお菓子などを持っていったものです。口が半分動かないので、どうしてもこぼしてしまうのですが、それでも、なんとか、飲み込んでくれると、うれしかったものです。

札幌麻生(あさぶ)脳神経外科病院・意識障害者の介護教室の城美奈子さん(副看護部長・教育科長)は、患者の家族の気持ちを、次のように述べています。

ご家族が求めている具体的な要求はいろいろあり、介護している年数でも変化しています。(表参照)。その第一は、やはり意識障害者に人間らしさを取り戻してあげたいということですね。まず、障害者とのコミュニケーションがとれるようになりたい。障害者が自分のしている介護についてどう思っているか、その意思を確認したいという思いがすごく強いのです。また、食べると回復するという思いがあるので、ひと口でも食べるようになってほしいのです。神経が冒されていると嚥下(えんか)障害を起こすことがあるので、病院では管を使うことが多いのです。しかし、家族としては口から食べさせたいのです。そのほか、排泄やからだの移動をさせたいなどいろんな欲求がありますが、それにもまして、意思が伝えられることと、食べてくれることを強く望んでいるのです。それができるようになってくれたら救われると思うのですね。
http://www.iword.co.jp/iword/k03_03.html#q1

 

福永洋一さんは、「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)によると、関西労災病院を退院するまでに、自分の口で食べることができるようになっていました。

「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(p.190)
裕美子は洋一にアイスクリームを含ませた。初めはむせて、もどしてしまったが、看護婦が、
「離乳食を赤ちゃんにあげるように、一さじずつ」
といい、裕美子は「こうですか?」といって、ゆっくりゆっくり食べさせた。チューブで栄養を流し込むだけでなく、口からも食べられるようになって、裕美子は涙の出るほどうれしかった。
(同、193)
今度は、ベッドの横の小机にあった祐一と洋美の写真を見せると、同じように左手を伸ばして来た。何が見えているのかはわからなかったが、視力の出て来たことだけは確実であった。そのうちに、右目もうっすらと開くようになった。
「固い物は、食べられないのかしら?」
流動食なら自分の口で食べられるようになったのだが、固形物はどうかしら? 医者は看護婦と相談して、裕美子はパパイアを小さく切って食べさせてみた。よくかんで食べた。
食べ終わると、口を開いて赤ん坊のように、「もっとくれ、もっと下さい」と催促した。もう一口入れると、同じようにしっかりかんで食べた。これで固形物もとれることが確認された。
(同、198)
十月二日に、裕美子がメロンを小さく切ったのをフォークに刺して左手に持たせると、洋一は器用に自分の口に運んだ。同じようにリンゴを切って、皿に盛って出すと、左手でつまんで食べ、裕美子の口へも、器用にその一切れを運んだ。
このように、洋一の挙動には、ゆるやかだが確かな進歩が見られた。十一月になると目の動きがよくなった。
入院後約八ヶ月で、食事はほとんどチューブからではなく、自分の口から摂るようになった。胃へのチューブは、水を飲むためだけの専用器具のようになった。
首が、いつの間にか座って来た。車椅子に乗っていても、一時間ほどは姿勢を崩さない。
ぼつぼつ気管の切開口を閉じなければならない。その準備に、チューブに栓をして、すべて鼻や口から呼吸するようにさせた。こんな準備の後に、十一月三十日に気管チューブが抜かれた。
こうして福永洋一は、呼吸と飲食という、生存するために必要不可欠な二つの行為に、特別の医療器具の助けを借りなくてもいいようになった。本質的にいえば、『病院』という特定の医療機関からも、解放されたことを意味している。

意識のない患者にも早期にリハビリテーションを行うことの重要性は、京都府で介護機器の研究をしている石田通泰氏もウェブサイトやMLで述べています。

「寝たきりゼロ」
http://www.geocities.jp/tuutajp/

3) 「意識不明」で寝たきりでも、動かすことは脳への刺激の他、各部への刺激となります。
   寝たきりで動かさなければ、筋力が落ちる、関節が拘縮するだけでなく、
   使わない各部の機能は確実に落ちて行きます。

   例えば、横に寝ている状態では、単に横に血を流せば良いので、心臓は殆ど働く必
   要がありません。しかし、腰掛ければ、足先、頭の先に血を送る必要があり、重力に
   逆らい血を送る必要があります。 心臓はその分、力を出す必要があります。

  注)「意識不明」とは:

   呼びかけに対し反応できない状態を指すようですが、反応できないが、聞こえている
   患者さんも多いようです。悲観的な話をしないで、励ましましょう。3ケ月「意識不明」
   だった人が突如話し「なぜ励まさなかったか」といったとの話も聞きます。

 

石田通泰氏が開発した介護機器のなかには、自動体位変換装置などといったものもあります。

「netakiri-0 Date: 2003年10月3日 (金) 午後2時27分 Subject: 廃用性 Re: 骨折予防」
http://www.egroups.co.jp/message/netakiri-0/7

私が自動体位変換装置を開発したときにモニターしてもらった時に
感じたことは、自力でなくとも動かすと体に相当いい効果を与えると
言うことです。
寝返りを打たされることで、筋肉、内臓などに刺激を与えているので
当然脳にも刺激が行く。と言ったことで、いい結果が出たのだと思います。

 

石田通泰氏が開発された装置と同種と思われる機器を紹介するウェブページもあります。

高機能体位変換介護ベッド「hist」
http://www.sanyo-biomedical.co.jp/kokunai/seihin/hist.htm

このように、他動的な運動でも内臓や筋肉に刺激を与ると脳の訓練にもなる、という記述を見ると、ドーマン法のパタニングにもそのような効果はあるのかな、と思います。ただ一方で、あまりに過酷、長時間の訓練だな、とも思います。またいろいろな障害を持つこどもを対象に同じプログラムを渡すので、かえって危険な場合もあると、危惧します。実施される方々が、それぞれの工夫をされて無理されないこと、お医者様の診断も受けられることが必要と、感じます。障害があってもなくても、まずその人には生活があるという点がだいじなんだと思います。その点は、かつて福永洋一氏の訓練を手伝い、ドーマン法の研究所でも研修を受けた安達啓さんが、「K学習相談室」を開いて、改良したものを実施されています。

*参照: ドーマン法を実践したことのある御家族の手記、および、安達啓氏のK学習相談室の紹介

病院から退院した患者にとっては、少しでも日常生活の動作をすることが、リハビリテーションにもなります。また日常の動作をしやすいように、家屋を改造したり、機器を利用したりすることもたいせつです。
石田通泰氏は積極的に介護機器の利用を薦めていますが、実際、近年ますます、福祉工学などの研究に取り組む人も多く、機械工学・電子工学の学会などでも報告が相次いでいます。

「ホーム > 生活と文化 > ニュース、時事問題 > 全般 > 日木流奈の謎 2003/ 6/25 23:12 メッセージ: 5053 投稿者: dvlo2002」
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=2000251&tid=ffclznaefe0a4nff&sid=2000251&mid=5053

はじめまして。5月に日本機械学会のロボティクス・メカトロニクス講演会2003が開催されました。興味深い研究が発表されたので紹介します。

http://robomec2003.fun.ac.jp/robomec2003/program_exel.xls

の25日午後2の49行目

「脊髄性筋萎縮症の幼児とのコミュニケーション装置の開発(宮城教育大学・他)」
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要約(文責:dvlo2002)

進行性脊髄性筋萎縮症の幼児患者は,ほとんど身体を動かすことができなくなるため,周囲とのコミュニケーションの手段がなくなる.看護者は幼児患者の少ない表情変化から感情の変化を読みとっている.

延命技術は進歩してきているが,コミュニケーション技術の開発は遅れている.コミュニケーションの形成後に会話機能を失った大人の場合とは異なり,言語習得前に発症した幼児の場合はコミュニケーション装置の意味自体がわからない.よって、幼児専用に設計されたコミュニケーション装置の開発が必要である.

そこで,残存するわずかな筋力でも操作できる特殊なスイッチを用いて,ライトやブザーが作動するコミュニケーション装置を開発した.
不随意運動による誤操作をソフトウェアで除去した結果,幼児患者が理解して操作していることを確認した.

幼児患者は身体こそ動かないが,健常の幼児と同様に年齢と共に知能は発達していく.この時期の幼児には,遊びの要素を持った補助装置が必要である.また,成長に合わせたコミュニケーション装置の開発をしていく必要がある.

現在の出力装置はライトやブザーであるが,出力装置をロボットにすれば動けない患者の代わりに意思表示をしてくれる代理ロボットも夢ではない.
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従来の福祉の技術と違い,人間の主観が介在しない工学的な技術であることが重要であると思い投稿しました.

また、この研究が「医療・福祉ロボティクス・メカトロニクス」部門ではなく「メカトロニクスと遊ぶ」部門で発表されていることも示唆的であると思います。

工学を福祉に応用しようとすると、機械には心がこもっていないと情緒的な反応をする人がいます。しかし、介助者がこのような技術「も」使うというだけで人間を排除しているわけではありません。人間工学を応用した車椅子とか、視線入力装置と同じく、ひとつの道具です。

従来このような機械工学、電子工学分野には女性研究者は少なかったのですが、医療・福祉部門を中心に女性が増えました。他の発表テーマ名を見ても機械学会という名称から受けるイメージを覆すようなものも多いと思います。

 

再び、「騎手福永洋一の生還―脳障害との闘い」(三輪和雄著、文春文庫、1986年)より

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p.221
ところでドーマン法の成果は、それなりに素晴しいものであるが、現在のリハビリテーション医学の方向とはやや異なっているかのようである。リハビリテーションは、障害そのものを可能な限り良くしようと努めるが、一〇〇パーセント治すことを目標とはしていない。障害とともによりよく積極的に生きることを目標としている。このように思想の転換をはかってこそ、リハビリテーションは完成すると考えられている。福永さんはまもなくドーマン法による六年のプログラムを卒業されるとのことである。私は脳外科医として、その後はこのような思想のもとに、より積極的に生活されることを期待している。
   昭和六一年二月   三輪 和雄
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kojikojiさんによるレポート「福永騎手のその後」に述べられている通り、ドーマン法を「卒業」ではなく「中止」されています。
ドーマン法の「卒業」とはどんなものか、「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(木本 正次著、PHP研究所、1985年)の終章、「馬上再び」に述べられています。

「騎手・福永洋一『奇跡への挑戦』」(p.272-273)
卒業資格はどんなものか? ドーマン機関は、本来は十八歳未満の少年少女を対象としたもので、福永はいわば例外である。その少年少女の卒業条件は、仮に卒業者を高校卒ぐらいの年齢だとすると、
1, フル・マラソンを完走する体力を有すること、
2, 大学入試受験に適応する知力を有すること、
となっている。より低年齢の者もこれに準じた規定があって、すなわち「同年齢程度の者に比べて、知力、体力とも同等、あるいはそれ以上でなければ卒業させない」とされている。
それで、アメリカでも卒業者は多くない、といわれる。多くの者はまだ在学中に、つまり治療中に、『退学』して行くそうである。日本人では現在四十数名が治療中だそうだが、ドーマン機関との『タテ』の関係が極めて緊密なのに比べて、在学生同士の『ヨコ』の関係は薄弱だそうで、むしろ、ほとんどゼロといっていいだろう。卒業生も日本人では五十九年度中に一人、それより一両年前に一人あったとか、なかったとかいわれる程度である。もっともこれらの点に限っては筆者は不勉強で、以上はすべてドーマン機関から直接取材したものでなく、福永関係者、或いはその他からの伝聞である。

「在学生同士の『ヨコ』の関係は薄弱だそうで、むしろ、ほとんどゼロといっていいだろう。」という点に関しては、私も、NHKスペシャル「奇跡の詩人」報道検証会で、ドーマン法体験者のおかあさまからおききしました。

NHKスペシャル「奇跡の詩人」報道検証会(2002年 8月24日、大阪府立文化情報センター)
[4]報告と感想
>また、ドーマン法を実施しているこども同士で遊ぶということもない。研究所は、ドーマン法をやっている家族同士の交流を禁止している。それは、自分のこどもを他のこどもと比較したり、否定したりしないためである。ただ、それぞれの家族が、勝手に、交流をしている。

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福永洋一氏も、最近では、ドーマン法を離れて、自宅にさまざまな訓練機器を揃え、自己流で訓練を続けていらっしゃるとのこと。洋一氏をあくまで大黒柱として接したという、福永さん御一家の、心を一つにした御努力に、敬意を表します。

これまでにドーマン法を実施された方々のサイトを拝見していると、おおぜいのボランティアの方々と知り合えてよかった、というものが多かったと思います。今後も、ドーマン法のプログラムを続けていかれるにしろ、あるいは、その他のリハビリテーション技法や福祉工学の成果を取り入れられるにしろ、御家族やボランティアの方々の熱意と連帯感が、障害があってもなくてもその人らしい人生を送ることにつながりますよう、願ってやみません。


kojikojiさんによるレポート(2)dialogue掲示板 2004/02/07 05:33)

「福永祐一 父からの贈りもの(大場勝一著、1996年初版)」を読み終えました。
(副題― 祐一は父・洋一から何を学んだか)

福永洋一氏が事故に遭った時、祐一さんはまだ2歳3ヶ月。子供時代から、父親が
ハードなリハビリに励み続ける姿を見ながら育ちました。
事故の意味さえ分からなかった幼い祐一さんは、よく洋一氏に話し掛けたそうです。
しかし、当時の洋一氏は返事を返す事が出来ません。いつの日か祐一さんは「パパ」
と呼びかけ「ハ〜イ」と自分で答えるようになっていました。
天才ジョッキーと言われた父親が落馬事故に遭遇し選手生命を絶たれてしまった事の
意味を祐一さんが知るのは、ずーと後の事になります。

しかし彼は、それでも敢えて父親と同じ騎手という職業を選びました。
家族の誰かが苛酷なドーマン法リハビリに取り組んだ時、生活の変化と共に
その家族の間にはどんなドラマが展開されていくのだろうか?
私はそんな思いを抱きながら、この本を読み始めました。

1976年12月、福永家に待望の長男・祐一さんが誕生します。
洋一氏は「後継ぎが出来た」と大変喜び、「一番大切なのは家族。この幸せはどんなことが
あっても守っていきたい」とポツリと洩らします。
この年・翌年と仕事の方でも驚異的な記録を更新し続けた福永氏はジョッキーとしての地位
を不動のものにしていきます。’78、10月には女の子にも恵まれ、最愛の奥様と子供達を一層
の励みに、騎手として更なる快進撃を続けます。
幼い頃から苦労を重ねた洋一氏にとっての家族は、何よりも愛しい掛け替えの無い宝物でした。

明けて1979年、3/4、運命の歯車が狂ったかのように、あの大事故が発生します。
事故当日、洋一氏は先輩に「今日は乗りたくないなぁ」という言葉を洩らして厩舎を後に
したそうです。騎乗する時にはいつも「お前と無事に走ろうな」と馬へ語りかける洋一氏
にとっては、思いがけない貰い事故だった事でしょう。

そして、福永家の長年に亘る壮絶な闘いも又、この日からスタートしたのでした。
それは幼い子供達にとって母親の居ない生活の始まりを意味します。
殆ど病院へ詰めたきりにならざるを得ない母親。
幼子の面倒を見るのは急遽駆けつけた祖母の手に委ねられました。

そして1980年、洋一氏夫人はドーマン法リハビリを始める事を決意します。
この計画に対して「もう少し落ち着いて考えてみなさい。日本だってアメリカだって
医学のレベルは大差はない。わざわざアメリカまで出向く必要がどこにあるのか・・・」
という声もありましたが、夫人の決意は揺るぎませんでした。

当時の病院の見解は「回復はきわめて困難」。一方、ドーマン氏が「必ず歩けるようになる、
話せるようになる」と確約したその言葉は夫人にとっての福音でした。
必ず良くなるとの言葉こそ家族が待ちわびていた朗報です。洋一氏の主治医も「少なくとも
医学の通念からみて、いけないという側面はありません。日本で広く行われていないのは、
両国の国情の違い、医療体制の違い、そんな面からきているんじゃないでしょうか」と
ドーマン法を試みるのに賛成と読み取れる趣旨の発言をしています。
(註―当時、ドーマン法はまだ日本では不可知の部分が大きく、医師でさえ詳細な情報は
掴みきれていなかったと思われます。現代では医学界でも効果の程は疑問視されています)

1981年2月中旬、車椅子の洋一氏、夫人、義父・北村氏はアメリカのドーマン研究所に入所
します。検査の結果、研究所の医師から「福永氏は大脳・中脳・延髄・脳橋に障害があり、
深い眠りから覚めた状態である。ものごとの判断はつかないが、年齢相応の知性も意識もある。
ただし運動能力に関しては、九ヶ月の幼児と同じくらい」との診断が下されました。

北村氏の「先生、洋一には・・・意識はあるのでしょうか、ないのでしょうか?」との問い掛け
に対して、脳外科のディマンチェスキー医師は「意識?それは無論あります。この患者には、
混濁はしているが、十分の知性があります」と言下に答えています

この言葉は家族を歓喜させドーマン法へ大きな期待を抱かせる決定打になったのです。
(註―福永氏がドーマン法により覚醒したという記述がたまにネットで見られますが、
これは誤りです。ドーマン研究所の医師が当初から「本人には意識がある」と診断
しています。 どうもいつからか間違った情報が流布されているように思います)

研究所の講義にはスタッフの要請で洋一氏も出席しました。
家族は「話を聞いても分からないと思いますが」と所員に伝えましたが、
「いや、わかる」と研究所サイドは主張して譲りません。
結局、真冬に冷房の入った部屋で厚着をして洋一氏も出席しました。
ドーマン氏の講義は、朝9時から夜11時までの長時間続けられたそうです。

一週間の滞在を経て帰国後の1981年3月、一家のリハビリがいよいよスタートしました。
結果的に洋一氏は苛酷な訓練に耐え驚異的な成績を上げていく訳ですが、その裏には
義父・北村氏の大きな力があった事は否めません。福永家へ移り住み全面的な協力を
惜しまなかった北村氏は当時54歳。体力的にも負担が大きい状況の中でリハビリの
克明な記録を執り続けるという強靭な精神力を持った方でした。
ドーマン法を始めて半年、プログラム一期終了時点の北村氏の記録が残されています
ので、引用します。(87〜88p)

〔傾斜板(パターニング)〕

傾斜台を22cmまで低め、洋一がはう距離も1mから2mにのびた。それにもかかわらず、
最高で10秒を記録した。最初の頃は軽く1分以上かかったのだから、そのことを思えば
大変な記録である。

〔頭上はしご〕

介護の人に支えてもらわなくても、10分間たっていられるようになった。
また、はしごの横木を握りながらの歩行も、不自由な右手を支えてもらいながら
3,5mを15往復、つまり30回歩くことができた。

〔歩行〕

介助の人に手を持ってもらって歩く歩行は一日100mを4回くりかえした。

〔腹ばい〕

腹ばいは一回に4m、一日に20回おこなった。一回のタイムの平均は53秒であった。

〔高ばい〕

高ばいというのは膝をつき、肘をのばして立つ、要するに四つんばいの状態である。
その状態で50cmはう。これを20回くりかえした。

他に「マスク」という呼吸改善の為の訓練があり、これは一日48回、他の訓練の間に
はさんで行わなければなりません。一回のマスク装着時間は1分30秒、一回やって7分間休み
ます。一日の所要時間は、(1,5分+7分)×47+1,5分=401分つまり6時間41分になります。

他に知性のプログラム、栄養のプログラムもこなさなければなりませんので、リハビリ時間
はどうしても一日10〜15時間掛けないと消化できなかったようです。

この記録を読むだけでもご本人、周りの方々の必死な取り組みが伝わってきますが、
第一期終了間際になり洋一氏が疲れのせいか発熱した事があります。しかし、ここで
リハビリの量を減らすわけにもいかず、奥様はすまないと思いながらも、ご本人の為
と自分の心に言い聞かせながらリハビリを続行します。

子供と遊ぶ時間を作りたくてもそんな余裕はありません。
子供も遊んでもらえないストレスを抱えながら我慢する日々を送ります。

最も大変だったのは、勿論洋一氏本人であり訓練の最中によく発作を起こしたそうです。
発作が起きると体は痙攣し、上の歯と下の歯を激しくカタカタ噛み合せる。舌を噛む恐れ
がある為、最初はスプーンを噛ませていたそうで、口の中が血だらけになったそうです。
後にスプーンに代わりガーゼで包まれた割り箸が家中いたるところに置かれるようになり
ます。続けて又発作が起きた時は、名前を呼びながら頬をパチパチ叩くので洋一氏の顔は
度々ドッジボールのように腫れあがっていたとの奥様のお話です。

当時の祐一さんは、毎日死に物狂いでリハビリに励むのは父親の仕事なのだと考えていました。

本の中には、福永家の素晴らしさが伺えるこんなエピソードも紹介されています。

祐一さんを私立の進学校に転校させてあげようと考えた夫人は、ある日、車椅子に乗った
洋一氏、お父様と共に学校の見学に出掛けます。
ひととおり教室を見て回り、夫人は真っ先に洋一氏に語りかけます。
「祐一をこの学校に入れるけど、いい?」
福永家の中心は、いつもご主人である洋一氏なのです。
洋一氏がこっくり肯いた事で祐一さんの転校が決まりました。
案内役の教師の方は、その光景にとても感動したと語っていらっしゃいます。

又、夫人はリハビリの一環として「洋ちゃん、側をとおるわよ」「洋ちゃん、買い物に
行ってくるわよ」と常に声がけをするように努めていらっしゃいました。
常に洋一氏に判断を仰ぐというのは、結婚後から現在に至るまで変わらない福永家の
姿勢です。

一方、祐一さんは小学校二年生の頃の父親の思い出を次のように語っています。
「こちらのいうことが何でもわかるようになって、側に行くと、とっても嬉しそうな
顔をして、少し動くようになった左手で僕の頭をなでたりして・・・
あんなすごいプログラムに毎日追われて、可哀相な気はしたけど、父が生きよう、
なおろう、という気持ちを持っていることに涙がでるほど感動するようになったんです」

父親は無言ではあったけれども、その必死な姿を毎日見ていた祐一さんは子供心に
何らかのメッセージを受け取っていたのでしょう。
そして中学生の頃、祐一さんの心の中に騎手になりたいという夢が芽生え始めます。

1993年競馬学校に入学した祐一さんは、3年後の1996年3月2日、父と同じターフに立ち、
新人ジョッキーとしてデビューしました。
同年9月には、高知競馬場の来賓席で17年振りに公の場所に姿を現した洋一氏が見られ
ました。父・母・祖父・妹、全員揃って祐一氏のレースを応援していたのです。
入院していた頃、病院で競馬TV中継を見ても無反応だった洋一氏ですが、この時は嬉し
そうに微笑み、手を叩いて応援していたそうです。

現役時代に“からだのなかに時計を持っている”と言われた父は、祐一さんにとり永遠の
目標です。彼は父から二つの事を教わったそうです。
天才ジョッキー・福永洋一からジョッキーという職業の素晴らしさを、
リハビリに励む父の姿からは頑張る事の大切さを・・・

一方、妹の妃呂美さんは高校時代に“将来リハビリ訓練師になろう”と決意しています。
祐一さんが父親の影響を大きく受けたように、妃呂美さんは母親の影響を大きく受けた
のです。「気がついたときにはお母さん達はリハビリをやっていたんです。
それが私の中ではなんか当たり前の風景になっていて。いま考えるとみんなえらいです。
だから、お母さんが一生懸命にやっていたことを仕事にしたい、そう思うようになったん
です」

そして、彼女は理学療法士の道に進み、その夢を現実のものとしたのでした。

祖父母の北村ご夫妻は、娘・娘婿・孫の為、今までの生活を捨てて後半生を洋一氏の
リハビリに賭けました。
北村氏と洋一氏はいつしか実の親子以上の絆で結ばれ、祖母の眸さんも孫達の面倒を
みながら家を守り続けました。

しかし、残念ながら祐一さんが競馬学校に通っている間に眸さんは他界されています。
北村氏が「どこにも連れていってやれなかったので、そろそろ温泉でも連れていって
やりたい」と思った矢先の悲しい出来事でした。リハビリを消化するのに必死な家族
の為、陰になり日向になり家を支えてきた優しさ溢れるお母様だったそうです。

無我夢中でドーマン法・リハビリに明け暮れた福永家の数年間。
ご家族それぞれの人生の中で様々な想いが交錯した年月だった事でしょう。
ドーマン法というものの是非は別にして、私は福永家のケースから学ぶことが
多々あるような気がします。

障害を負ったときのリハビリというのは一般的に体を動かす訓練に明け暮れますが、
それと共に心を動かす事もまた非常に大切だと思うのです。
例え障害があっても、意識が無いように見えても、家庭の中では努めて声を掛け、
社会の中に在っては様々にコミュニケーションを取り続ける事が重要だと思います。
福永家の方々にとっての洋一氏は一家の柱であり、家族が常に尊厳に満ちた眼差しを
向けているのも大変素晴らしいことです。

受身になりがちな病院の生活に比べて、家庭での生活は能動的に行動せざるを得ない場面が
沢山あります。人間は何か欲求を叶えようとする時、自然に気持ちが動き体を動かそうと
します。これが知らず知らずの内にリハビリとなっているのではないでしょうか?
優しく支える家族の温かい姿勢も、心のリハビリとなり良い結果をもたらすのでしょう。

著者の大場氏は、福永家が悲壮感に満ちているのではと当初想像したようです。
でも、その気持ちは見事に裏切られます。実際は悲壮感どころか拍子抜けするほど
明るくそして温かい家庭だと認識を新たになさっています。
逆に元気を貰って帰る人も多数いるそうです。

我々は誰もが、ある日突然障害を負うという可能性を持っています。
障害をどう受け止め、どのように生活していけばいいのかという課題を否応なく
突きつけられるかもしれません。

福永家も、きっと紆余曲折があり無我夢中で乗り越えてこられた二十数年間で
あったろうと想像します。ドーマン法を卒業する事は確かに出来ませんでしたが、
御一家は、もっと大きなものを学んでこられたのかもしれません。

その答えは、洋一氏のおだやかな優しい笑顔に込められているように思います。
障害を負って生きるという事を考える時、洋一スマイルは大事なものを示唆してくれます。
家族と共に生きる。自分らしく生きる。心は誰もが等しい。

「父からの贈りもの」―父親から渡された目に見えない大きな贈り物が、長い年月を
         掛けて愛する子供達へ引き継がれていきました。
         今、祐一さんは胸をはって言います「そんな父を尊敬します」

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みづきさんによる補足

福永洋一氏の長男祐一君の騎手デビューに合わせて放送された、「神が描いた青写真」という番組の中で、アメリカのドーマン研究所の講義に参加している洋一さんの姿が写されていました。

洋一さんは、他の保護者のようにテーブルに着くのではなく、床に腹ばいの姿勢のまま参加していました。

これは、一分一秒を惜しんで腹ばいをさせよという、研究所の方針に基づいたものではありますが、正直残酷なシーンでもありました。

健常者の私たちでも根を上げそうな寒さの中で、長時間行われる最初の講義に、腹ばいのまま参加されたのです。

ちなみに、福永氏が参加できたのは特例だと思われます、通常、研究所のプログラムを受けている子供たちは講義には参加しません、というより、出来ません。

賢い子供たちばかりなら、できない事もなかろうにと不思議に思うこともありましたが。

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kojikojiさんの質問「ドーマン法の研究所はどうして福永氏にFCを薦めなかったのか?」

みづきさん、補足をありがとうございました。

>洋一さんは、他の保護者のようにテーブルに着くのではなく、床に腹ばいの姿勢のまま参加していました。

この事実は知りませんでした。冷房を入れた部屋の床は、とても冷えたのではないでしょうか?まして厳冬期であれば・・・
何か、冬にわざわざ冷房を入れるのも、腹ばいのままにしておくのも、みな研究所のパフォーマンスのように感じてしまいます。講義は確か、一講が50分やって10分の休憩、これを朝9時から夜11時まで行うのではなかったでしょうか?
例外的に出席が許されたとしても、こんな人間の尊厳を踏みにじるようなやり方は疑問です。

さて、以前から大変疑問だったのですが、研究所は何故福永氏にFCを薦めなかったのでしょうか?
言葉が不自由になられたのは福永氏も他の障害児と同じ状態でした。色々資料を読んでもFCを試したという記述は、どこにも見当たりません。多少言葉が出るようになる時期でも、反響言語(相手の言葉のオウム返し)が多く、自ら言葉を発することの難しさが本に書いてありました。

ドーマン法を行うお子さんで言葉が出ない場合は殆どFCを薦められるのでしょうか?
それとも、FCを行う条件のようなものが何かあるのでしょうか?
それから、現在FCを行っているお子さんが成長して体が大きくなった時どのように指差しを支えていくのかも、これからの課題だと思います。
以前から、よく指摘されていたことですが・・・

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みづきさんの体験談

研究所がFCを取り入れたのは、1991年以降ではないかと思われます。手元にある資料(レクチャーて゛配布されたもの)には1992年に開始した子供がもっとも早いようです。

福永さんにFCのプログラムを与えられなかったのは、たまたま、この時期には、研究所との関係がなくなっていたからではないでしょうか。

もっとも、福永氏は、映像で見る限り、話しかけられることを理解して得おられるようでしたし、単独での文字さしも可能でしたのでFCのようなあいまいなコミュニケーション手段については、拒否されただろうと思います。

もともと、研究所は脳に障害を持ち、話すことの出来ない子供たちが用いている、トーキングエイドのような装置を使うことに消極的でした。理由は「子供たちは話したがっていて、そのようなものを使いたがっていない」というものです。

しかしながら、話すことの出来ない子供たちで、ドーマンをやっていない子供たちは、そのようなわけのわからない理屈をこねるのではなく、トーキングエイドや、パソコンを使って、自分の表現したいことを実に素直に伝えてきます。

言語障害が強くて、なかなか自分の言葉を伝えられない場合などは特にそのような手段をえることで生き生きとしてくるのです。

ドーマンのいうような理由は、自分でコミュニケーション手段を持つ子供たちから聞いたことがありません。

FCを与えられる子供たちの条件があるのかどうかはわかりません。

うちの子供の場合は、体の緊張が強くなって、とめることが出来ないような状況のなっていたので、それを緩和させるものとして与えられました。

「お子さんは、伝えたいことがたくさんあるのに、お話ができないのでストレスで、緊張が強くなっている。だから、FCでストレスがたまらないようにしてあげましよう」と。

(子供の緊張はドーマン法をやめると決心したとたん、薄紙をはがすようによくなっていったので、研究所の診断ははずれでした。)

FCでは、そろいもそろって、ドーマン法のプログラムを賛美し、両親、特に母親の素晴らしさが語られるわけですが、子供たちの姿を見ている限り、他動や、問題行動は解決しておらず、重度の子供たちに至っては、やせてしまって病的な状況になっていたり、およそ、FCで語られることと実際の姿は一致していませんでした。

今回の騒動があるまで、FCについての否定的な見解はまったくしりませんでしたし、研究所からも知らされていませんでしたので、訓練をしながら泣き叫ぶ子供たちと、FCで立派なことばかり話す子供たちが、一致せずどのように受け止めればいいのかわかりませんでした。

FCそのものは、「テストしたはならない」という研究所の指導に基づき、ブラインドテストなどは行われていません。おそらく、研究所は アメリカや、オーストラリアなどで起きたFC論争を肯定するような検証はいっさい行っていないと思われます。

どのような動機で、検証もなされないようなプログラムを家族に渡しているのかどうかわかりませんが、FCで語られる「奇麗事」の数々を見ていると、もしかすると、FCがなければ、たいしてよくなっていない子供たちのことに気づいた家族がやめていくことを止めるためのものではないかとうがった見方をしてしまいます。

最後にFCで語られることについて感じていることを書きます。

FCでは、レクチャーで聞いたことのあるよなことが、大抵、子供の身体に起きている不調の原因として語られていました。

私自身も、「ほんとにそうなんだなぁ」と関心したりしましたが、あとで、高機能自閉症である、テンプルグラディン氏やドナウィリアム氏 の著書を読んでいると、「こりゃ自閉症の受け売りじゃないのか」と思えるほどでした。もちろん、自閉症の人たちに起きていることが、重度の肢体不自由児に起きていないとはいえませんが、もっと別の発見があってもよかろうと、FCに対する疑問が膨らみました。

因みに、テンプル氏は自閉症には高度な知能を持っているタイプと、低い知能しかないタイプなどいろいろあるとはっきり書いていました。

 


kojikojiさんによる、文字盤の体験報告と考察dialogue掲示板 2004/02/17 02:55)

遅くなりましたが、FCに関してのみづきさんの詳しい情報有難うございました。やはり実際に経験された方のご意見はとても参考になります。FCがアメリカへ紹介されたのは1990年ですからドーマン研究所は1991年あたりから導入したのかもしれませんね。その頃、福永氏は確かに研究所から離れていたようです。

さて、ここで文字盤というものについて改めて考えてみたいと思います。

文字盤に関しては、私も家族が入院した際に病院で使っていた時期があります。ドーマン法のFCが何を目指しているのか理解不能な部分がありますが、文字盤の使い方や「病を抱えながらも何とか意志の疎通を図りたい」という主旨は基本的に共通していると考えます。只、ドーマン法の場合は介助者が手を添えるのに対して医療現場では殆ど患者自身が独立して手、目、口にくわえたスティック等で文字を指す場合が多いと思います。 ですから、ここでは文字盤の字を読み取る作業というものを中心に考えてみたいと思います。

文字盤は、日本の多くの病院でよく目にします。50音表と呼ばれるもので、病院により多少様式は違うかもしれませんが、人工呼吸器を使っている患者さんなどが発声困難になった時、一時的もしくは恒久的に使われるものです。私は、身内が肺疾患で人工呼吸器を使用していた為に文字盤で会話せざるを得ませんでした。実際に使い始めてみると、使用前に考えていたのとは違って結構難しいコミュニケーション方法でした。勿論、使い方としては一方が文字を指し、他方が読み取るという単純な方法なのですが・・・

まず病気を抱えている患者は体力が衰えている為、腕の力・指の力が弱く疲れやすいという傾向があります。障害で不随意筋運動がある方などは、力加減が上手くいかず、思う方向へ文字が指せない状況もよくあります。その状態では一文字一文字指すだけでもかなりの時間を要し大変な作業です。いずれにしても文字盤による会話は時間が掛かります。慣れると多少作業能率が上がりますが、高速指差しまでは無理です。高速で行えば読み取り者が付いてゆけなくなりますし、ゆっくり行う方が確実な伝達が出来ます。

一文字一文字指した言葉を単語として認識し、さらに文章として繋げていく作業は意外に難儀しました。日本語には同音異義語が多数ありますから、介助者は常に指された文字を見ながら何という単語なのかという確認作業を平行して行います。例えば「か→み。」と指したら「髪?」「紙?」という確認作業を両者の間で行ったり、前後の脈絡で判断したりします。長めの文章を作成する場合だと、患者が疲れてしまい、中断してしまう事も度々ありました。文字盤を使った会話というのは、実際にやってみると初めてその困難さが分かります。単語のみ、もしくは短文に留まるというケースが多かったと思います。

伝えられる文章というのは、本人の要求に類する内容が殆どでした。例えば「足が痛い」「頭が痒い」「〜が食べたい」「〜を取って」というそんな程度の会話が主です。その短い文字指しでさえ、どうしても意味が読み取れない場合があります。数回試しても理解不能な場合は、こちらも何とか意味を掴もうと状況判断したりするのですが、結局最後には文意を憶測するようになります。「多分こう言いたかったのでは?」と言う風に自己解釈します。文字盤に介助者の恣意が入るかどうかと聞かれたら、その確率は常に有ると私は答えざるを得ません。ドーマン法でFCをやっている子供達が、難解な言葉を使い詩や本を書き、会話をするというのを聞くと私は不思議でなりません。それは天文学的な時間を要するでしょうし、普段使い慣れない難解な言葉ほど確認作業がより煩雑になってくるからです。

FCで本を執筆している少年の父親が、ある本の後書きで不思議な記述をしていました。

 −引用ー
〔おもしろいのは、使い込んだ文字がかすれてしまって、ほとんど見えない文字盤でも会話が可能なところだ。実際、白紙でも可能だし、暗闇で何も見えなくても、ボードになるものがあれば可能なのだ。マ、白紙や暗闇ではちとやりにくいのは確からしいが。なぜそのようなことが可能かというと、今となっては、○○(文字を指す少年)が正確に盤上の文字を指さなくても、腕や手首の力の入れ具合でわかってしまうらしいのだ。〕
〔実際にわたくしたちが研究所で会ったことがある子達の中にも、ほとんど文字盤を見ずに指す子が多い。文字盤を支えているお母さんが、こっそりと位置をずらしたらおもしかろうと思うぐらいだ。それで、口で喋るのとほとんど同じ、もしくはもっと速い速度で言葉が飛び出てくるのだ〕
 −引用終わりー
この文章は全く理解出来ません。チャネリング以外にまずこんな事は有り得ません。
当たり前の事ですが、文字盤は固定してあげないと文字は指せません。
文字盤が動いてしまうと、指す人間は希望する文字を指す事が出来ないのです。
ましてや、暗闇の中や白紙のボードでどうやって指すのでしょう?
腕や手首の力加減で分かるなら、同音異義語の問題はどう解決しますか?
お互いにフィード・バックする時間が異常に増えないでしょうか?
明るい場所でも必死な遣り取りになるのに、こんな事は有り得ないのです。

この文字盤というものについて、集中治療室で働いていらした医師の方が文章の中で触れていらっしゃいます。
引用させて頂きますので参考にして下さい。

 −引用ー
4月末に放映されたNHK「奇跡の詩人」インターネット上では今も議論が続いています。私も録画したものですが見てみました。議論の中心はいくつかあり、 1)母親が詩を書いているのではないか
2)ドーマン法の有効性
3)詩を書く息子に対して娘はないがしろにされているのではないか
4)もし息子が書いたのではない場合のNHKの責任は

というものです。ほかに文字盤の有効性や2000冊読書の信憑性、宗教の話も出てきています。

1)について、

私は集中治療室で働いていたことがあります。気管に管を入れられて人工呼吸器に繋がれた患者さんは声を出すことができないので、あの子供と同じように指で文字盤をなぞって意思を伝えようとするのですが、「水」「痛い」と書いた文字を指し示すことも容易ではありません。こちらがその表情を見て状況を見てようやく会話が成り立つのです。五体満足な患者さんですらそうなのに、水頭症(もしくは脳形成不全)で手足の自由がきかない子供にあのような高速の詩作は無理です。
2)について、
ドーマン法は私の学生の時には講義で習いましたが、医者になってから「時間と費用だけかかり効果は認めない」という統一見解がアメリカ小児科学会から発表されています。ドーマン法が発表された当時は「苦労をすれば報われる」という期待が医学界にあったように思われます。ドーマン法も、泣き叫んでいる患児をうつぶせにして手足を無理矢理動かすという方法を採ります。今は力ではなく、愛情で接することが勧められています。たとえば極小未熟児では、以前ではバイ菌が付くからと母親には触らせなかったのですが、いまはできるだけ早期に母親の裸の胸に抱かせ乳を含ませる「カンガルーケア」があちこちで行われています。
4)について、
丸山ワクチンが多く報道されていたときには多くの患者に「ワクチンが欲しいのだけど紹介状を書いてくれるか」と頼まれました。また、フィリピンの心霊手術を見て無理矢理退院し、腸を破かれて帰ってきた症例も知っています。この番組の全てがインチキではないのかも知れません。でも、障害を持つ親は藁をも掴む思いでこの番組を見たはずです。障害者の親族は親に向かって「こんな方法がある」「どうしてやらないんだ」と親をなじることでしょう。あの家庭はあの子がいて、あの方法で本を出し何万部も売って食べているのですから、私がとやかく言うものでもありません。出版社も本が売れればいいのです。しかし、医学的検証もせずに放送し、同じような可哀想な子供を持つ親たちに空しい希望を与えてしまったNHKの責任は大きいと思います。
 −引用終わりー
文字盤の記述に関しては、私も経験上からこの医師のご指摘に賛同します。

このように大変な状況が展開されるからこそ、患者の家族はよく文字盤の改訂版を作ったりするのです。私も病院から渡された文字盤以外に、濁点文字列等を加えた改訂版や字を見やすくしたものを作った事があります。

よく使われる簡単な日常会話集を書き込んで、専用ボードを最初から用意している人もいます。これは、患者さんが幾つもの文字を指さなくても文例を一回指すだけで済みますから、なかなか良いアイディアだと思います。

ドーマン法のFCでは、何故単一の50音表ボード以外のパターンが用意されていないのでしょうか? それとも、各家庭では使い勝手を工夫した改良版も使われているのでしょうか? 障害を抱えているお子さんには、より楽に文字盤を指せる工夫をしてあげて頂きたいと願います。

ネットで調べると、「文字盤についての考察」を書いている人がいました。この方はギランバレー症候群で手足の自由が利かなくなり文字盤を使っていたそうです。ご家族の方が何度も改良して製作した文字盤の数々は、多くの方々にとって参考になると思います。
http://homepage3.nifty.com/Guillain-Barre/mojiban.htm

半年間の入院を経て現在は職場復帰するまで回復された患者さんは、まだ完全治癒とは言えませんが、今年の1月にはハーフマラソン完走を成し遂げられたそうです。同じ病を持つ方々の為にHPを立ち上げ、書かれた「入院闘病記」は大変詳しい記録が綴られています。

突然の発病で人工呼吸器を付けるようになった為、やむを得ずの文字盤生活。呼吸器が取れてから使うようになるパソコンも、割り箸を口に咥えてのキー打ち、マウスは足で操作していました。リハビリを含め、本当に壮絶な病との闘いを経て、半年後に退院した、この患者さんはその記録を後に克明に記しました。同病に悩む方々にとっては大変貴重な資料だと思います。
http://homepage3.nifty.com/Guillain-Barre/index.htm

この患者さんも、文字盤を使った感想を「イメージを言葉で伝える難しさをつくづく感じた」と述べていらっしゃいます。それは経験者が異口同音に口にする言葉でもあります。 たかが文字盤、されど文字盤なのです。 そのような状況を経験すると、普段自由に喋り意志を伝えられるというのが如何に幸せな事なのかと改めて痛感させられます。

文字盤とは、一時的、もしくは全く声を失ってしまった方々が、何とか自分の意志を伝えるべく必死の思いで使うものです。  文字盤とは、本来そういうものです。

 


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