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(無題) 投稿者:いづみ 投稿日: 9月 1日(日)15時48分26秒
ぼんやりして過ごしている内に、お話が盛り上がってましたね。
「本を薦める教師」やみづきさんのお話のような困った先生(たち)、私はがっこのせんせなんてそんなもん、と早々にあきらめていたのですが、それは学齢期の子どもがいないからそれで済ませられるんですよね……。
現行の指導要領に依らない、現場にいるものとしての独自の教育をされているつもりでしょうが、あの「心のノート」と大差ないように見えますね。
……人を変えよう、変えたいと思う時、自分自身のことは忘れていられる……私も、
そんなことがあったな、だからちょっと避けてしまう話題、でした。FC翻訳文献を読んでいたら、Biklen氏はかつてノーマライゼーション推進者であった
とか。私が社会福祉を学んでいた頃、ノーマライゼーションが高らかに語られていた
ものでした。素晴らしい理念として。
けれど、それと能力至上主義とは、紙一重なのですね。陥穽に落ちたというべきか、
はなからそれを孕んでいるものだったのか。
何かが抜け落ちていた、忘れていられたのは自分自身だけれどそれは他者をも見失う
ことだったのかと。
その罠からまだ抜けきれていないなあ……と自戒するのでした。
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ノーマライゼーション 投稿者:saihikarunogo 投稿日: 9月 3日(火)09時43分16秒
いづみさんの、9月1日の御投稿で、ノーマライゼーションということが、取り上げられていました。>……人を変えよう、変えたいと思う時、自分自身のことは忘れていられる……私も、
>そんなことがあったな、だからちょっと避けてしまう話題、でした。
>
>FC翻訳文献を読んでいたら、Biklen氏はかつてノーマライゼーション推進者であった
>とか。私が社会福祉を学んでいた頃、ノーマライゼーションが高らかに語られていた
>ものでした。素晴らしい理念として。
>けれど、それと能力至上主義とは、紙一重なのですね。陥穽に落ちたというべきか、
>はなからそれを孕んでいるものだったのか。
>何かが抜け落ちていた、忘れていられたのは自分自身だけれどそれは他者をも見失う
>ことだったのかと。
>その罠からまだ抜けきれていないなあ……と自戒するのでした。この御省察と、9月1日の新橋検証会のアンケート結果を見たみづきさんの御感想とが、共鳴しあっていると感じます。
>障害のある子供たちは、自分たちが、人と違うことを誰よりも知っているし、
>そして、同じようにできないことを苦しみます。自分とかかわる大人たちが
>他の子供たちを見る目とは違う視線を送っていることもきっと知っている。
>
>だからこそ、FCからつづられる言葉によって、他人が自分を見るときの態度が変わることも、知っているし、人として接してもらえることも
>十分理解していたのではないでしょうか。
>
>だからこそ、FCを拒否しなかったのではないかと思ったりしました。この御感想には、次のように、私の感想を書きました。
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人が自分をどういう目でみているのか、感じている。
だから、FCをすることによって、自分を見る目が変化するのなら、
そのほうがよい、と思ってしまう。
そうかもしれません。
ファシリテイトされる人も、その人の家族も。
これまでの「視線」にこめられた感情を否定したい。
その思いの強さ。
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ノーマライゼーションの本来の意味は、視線を変えること、なのかもしれません。
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視線 投稿者:ゆいまーる 投稿日: 9月 3日(火)11時25分13秒
saihikarunogoさん いつもいろいろありがとうございます。> ノーマライゼーションの本来の意味は、 視線を変えること、なのかもしれません。
私が療育施設にいた頃、一度だけあるお母さんの代わりに5歳になる男の子を
病院に連れていったことがありました。
いつも同伴受診は必ず母子とも一緒の同伴だったのですが、
その時はお母さんが妊娠中だったので私が一人で連れていきました。5歳と言えども体格は3歳児より小さい男の子でしたが、
やはりバギーに乗っている姿を見ればどういう障害を持っているかが
誰の目にもわかったと思います。その時に向けられた「視線」のことは今でもすごく覚えています。
いつもその子とその子のお母さんはこの視線の中で暮らしているんだろうなと
しみじみ感じました。療育施設にいた時、人の気持ちに寄り添って付き合いたいと思っていたけれど
肝心の人の気持ちなんて、ちっともわかってなかったんだなぁと思えた瞬間でした。でもつい最近、その話をある若いOLさんに話したところ、
「自分が障害児を連れてるって意識が強すぎたから
そんな視線を感じたんじゃないですか?」 なんて言われてしまいました。視線を向けるなんてどころか、覗き込んできた人もいたくらいだから
自分の意識が強すぎてそう感じたんだろうなんて思いたくはないんですが、
そういう意識がまったくなかったかと言うとやっぱりあった気がするし・・・なんか何が言いたいのかわからなくなってきましたが、
自分が向ける視線の先にあるものは、結構複雑なものをはらんでいるのかも。目の前にあるものを、「当たり前の姿」として捉えられるようになるには
まだまだ修行が必要そうな私のちょっとした感想でした。
長くなってしまってごめんなさい。
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RE:視線 投稿者:saihikarunogo 投稿日: 9月 3日(火)14時26分35秒
>ゆいまーるさん
>その時に向けられた「視線」のことは今でもすごく覚えています。
>いつもその子とその子のお母さんはこの視線の中で暮らしているんだろうなと
>しみじみ感じました。>なんか何が言いたいのかわからなくなってきましたが、
>自分が向ける視線の先にあるものは、結構複雑なものをはらんでいるのかも。貴重な体験と御感想ですね。
文章が長いとかは、気になりません。
なんだか、前に、いずみさんの御投稿へのレスにも書いた、森岡正博さんの「内なる優生思想」という言葉を思い出しました。こどもに幸福になってほしい、だから健康であってほしい、
という思いの陰に、障害者を差別する気持ちがあるのだろうか。
などと悩んでしまいます。ただ、たとえば、男の子が生まれることを強く望む共同体のなかで、妊娠した女性は、生まれてくる子供が、男の子であることを強く望むかもしれない。女の子だと捨てられるなどという状況があると、ますます、そうなるかもしれない。
そのとき、自分のこどもが男の子であってほしい、と願うのは、こどもの幸福を願うから?人間のクローンについての議論には、クローン技術は、男女の生みわけを可能にする、それが深刻な問題をもたらす、という意見もあります。
こどもを生みたい。
健康なこどもを生みたい。
こどもに幸福になってほしい。
という思いと、今、自分が生きている社会の状況で、是とされるもの、
肯定される側に、いたい、という思いと。なんか、まとまりがつかなくなってきた。
ごめんなさい。
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視線について 投稿者:きりこ 投稿日: 9月 3日(火)16時09分32秒
ゆいまーるさん、sahikarungoさんこんにちは。
肢体に明らかな不自由がある場合は、私でも一度は見てしまいますね。
ただそれだけです。一般の方は同情、哀れみ、驚きそんなところでしょうか。中にはじろじろ執拗に見る人もいるかもしれませんが。私の子どものような一見して障害がわかりずらい場合(ただし30秒もしたら何かおかしいとわかります)視線はさらにからみつくように続きます。
常識のわかりにくい子どもなので、外でお叱りを受けることもたびたび、「なんで言った事がわからないの?!」「しつけの悪い子どもだ」と誤解されてもただ謝るだけ。
面と向かって言われなくても、そんな視線はどこでもバリバリ感じます。それで私は壁になって撥ね返したい。
それでもなければ子連れで外出などできません。
かなり悲壮な顔つきかもしれませんね。アメリカなんかはまた違うのでしょうけど。
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嫌な奴とは私です。 投稿者:詠み人知らず 投稿日: 9月 3日(火)23時42分37秒
差別しないことと、差別しない心を持つということは別のことであって、
差別しないことは当然だけれど、差別しない心を持つかどうかは選択可能であるべきではないか。
もちろん人として気高くあるか卑しくあるかという倫理的価値付けはあるべきなのですが、
その人がどういう人でありえるか、ありたいかというのは選択可能であるべきだと思う。
以下オフとぴ1。
今日、私の個人サイトでほそぼそやっているJohn Irvingの短編翻訳について
米国人に教えを請うていたのですが、彼が「アメリカじゃヒエラルキー・システムなんて全くないんだよ。日本じゃ社長に『へロー、ジョン(握手)』なんて考えられないよね」と教えてくれました(たまたま原文にカースト制とかカソリック教会制度の話が出てきたので)。
僕は「そりゃそうだけど、アメリカは人種や宗教や収入や学閥やプロフェッションでコミュニティが細分化されているから、話題になるのが均質な他者しかいないからではないか?他コミュニティの人間との棲み分けが確立しているからではないのか?」と思ったりしましたが
スピーキングが下手なので思っただけでした。
以下オフとぴ2。
男女産み分けを認めた社会を長期的に考えると、もし性別人口比率がどちらかに偏れば、多い方の性は希少性を失うことになり、経済的そのたコストを考慮すると、多い方の性の本人やその両親にはマイナスになると考えられる(たとえば女性ばかりの世界では、男を巡って強烈な競争が起こるだろうし、女性がめちゃくちゃ美しくて知的でお金を持っていても相手が見つからなくなる)。だから基本的に男女比はある比率におさまるだろうし、だいたい人それぞれだから、女の子がほしい両親と男の子がほしい両親は
いつの時代でもある比率におさまるのではないかとも考えられる。#ああでも、女の子がほしい嫁と男の子がほしい姑の争いはエスカレートするかな
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障害者への視線 投稿者:みづき 投稿日: 9月 4日(水)00時48分16秒
私も、親になるまでは、障害のある人にひどい視線を送っていた。
今になって、こうして、娘のことをおもいながら、視線を向けた人たちのことを思い出すと、情けなくってなみだがでてきます。娘が障害を持ってからも、しばらくは、彼女を連れて歩けませんでした。情けない母です。
だから、覗き込まれても、振り返られてもへいきです。みんな知らないから、知りたいんだろうと考えることにしてます。
ほんで、時々、娘の調子のいいときは『まーなんてかわいいお子さん」なんてお世辞でもいってくれる人がいるから、本人も私もええにしと請うと。アメリカといえば、娘をつれてアメリカに行ったとき、アメリカの人たちはめちゃくちゃ親切で、隣に主人がいても、ドアを開けて待っていてくれたり、道を譲ったりしてくれました。だから、怖いことは何もなかったし、覗き込む人もいませんでした。
伊丹の空港で、誰一人道を譲らず、子供を抱いている私たちを突き飛ばして前に行く人たちもいて、「あーあ、」とおもいました。
娘と一緒に六年過ごしたお友達は、譲れる大人になってくれるかなー。
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あげあしとりのつもりはありません。 投稿者:詠み人知らず 投稿日: 9月 4日(水)02時08分20秒
日本人は知らない日本人(っぽい人)への態度が一番悪いのではないだろうか。<リンク参照
明日が良き日であることを。おやすみなさい。
http://www.supporters.jp/sp2002/list.php
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Re:障害者への視線 投稿者:kojikoji 投稿日: 9月 4日(水)03時48分52秒
私には身体に障害のある友人がいます。
表で他人から受ける視線について、以前色々な話をしてくれた事があるのを思い出しました。
視線にも幾種類かあり、見ていないふりをしながら盗み見る視線が一番嫌だという話でした。
幼児期から発病した友人は、幾多の辛い経験を乗り越えてきたようです。ある日役所に出向いた時の経験だそうですが、窓口担当者に突然怒鳴られたそうです。
片手が効かない友人はよくポケットに手を入れており、これが担当者の怒りを買いました。
「人の話を聞く時にポケットに手を入れたままとは何事だ!」力ずくで手を抜く事までしました。
「手が不自由なので、すみません…」今度は担当者が慌てふためきました。
抜いた手をしゃにむにポケットに戻そうとしたそうです。
でも一度神経を切断してしまった手は、簡単には思い通りの動きはしてくれません。
私はこの話を聞いた時、悲しみ、怒りと共に障害に対しての知識が浸透していないという実態を痛感しました。日本は障害のある方々と共存していく姿勢がまだ確立していないのでしょう。
長い人生の中では立場が逆転する事も多々あり、その時お互いに何が出来るかは重要です。例えば、車椅子の方が段差の場所にいらしたら、「手を貸した方がいいですか?」等と話し掛けるようにしているのですが、適切な手助けは、まだまだ私も分からない事だらけです。
自閉症、脳障害に関しても、掲示板のお母様方から教えて頂いた初耳のお話が沢山ありました。
必死な思いの中での体験談は、どのお話も重みがあり、生きた勉強の機会を頂きました。みづきさんがアメリカと日本の違いを述べていらっしゃいましたが、日本人は往往にして「ありがとう」と「すみません」の言葉が不足していますね。この言葉を使うだけでも随分と印象が和らぐのに…と常日頃からよく感じます。
お嬢様やお友達は、将来優しい大人になれる可能性大だと思います。
私の回りにいる何らかの障害を持った方々は、人の気持を思いやってくれる人がとても多いです。
「人は悲しみを一つ覚えて、一つ人に優しくなれる」私の好きな言葉です。
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視線の話 投稿者:baian 投稿日: 9月 4日(水)05時53分32秒
「話をする時は相手の目を見ろ」を金科玉条にしている方がいます。また、「相手の目を見れば何を考えているか分かる」とおっしゃる方も。
人間関係の暗黙のルールとして、確かに会話する際に相手の目を見ることになっています。他方で、相手の目を見ることに不安を感じる方、過敏になってしまう方、とてつもなく緊張してしまう方もいます。強迫神経症の視線恐怖という症状です。
こうした方と面接をする場合、向かい合って座るのではなく、互いの視線が交わらないよう位置をずらして座ります。できるだけ相手の顔は見ずに話を聞きます(目の端で表情や仕種の変化をこっそり観察しますが)。
会話が成立するのが第一ですから、相手の目をじっと見る必要はありません。
こどもを叱る場合も、「目を見て話をしろ」と叱る親御さんがいますが、これも場合によりけりです。こどもが萎縮したり反発して話ができないようでは、十分に目的が果たせません。
視線によって威圧されてしまう場合があることも考慮し、時には視線を外すのも叱るためのテクニックだと思います。
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RE:視線の話 投稿者:saihikarunogo 投稿日: 9月 4日(水)06時54分55秒
人の目を見て話をするのは失礼だ、という文化もある、ときいたことがあります。確か、USAの先住民には、そういう作法を持つ人々もいたとか。この記憶が正しければ、そういう作法を持つ人々のこどもたちは、USAの白人文化を基準とする学校教育を受けたとき、どんな経験をしただろうか、と思います。
むかし、沖縄の学校で、方言を使ったこどもは、罰として「方言札」をかけさせられた、という話を思い出します。>男女産み分けについて
詠み人知らずさんのおっしゃるとおり、一時的には混乱したとしても、いずれは落ち着くところに落ち着く、という考え方もありますね。
今は生殖医療・先端医療というものがどんどん進んでしまうので、たとえば遺伝子治療と出生前診断との組み合わせとか、それがほんとに誰かの幸福にために役に立つのか、それとも、長い目で見たら、幸福になれる可能性をふやしたはずの誰かにとってさえ不幸のもとになり、さらにもっとおおぜいの人を不幸にすることになるのか、わからない。
ので、議論になるのだと、思います。>差別する心と行為の話
USAの小説なんかを読んでいると、たとえばロバート・B・パーカーなんかを読んでいると、自分の差別意識は肯定するけれども、行動では差別しないとか、差別意識を自覚して苦しむけれども、差別の対象に会っても、嫌な奴ならやっぱり嫌だと思い、いい奴ならいい奴だと思い、差別を意識している対象だからといって自分の判断や感情を割り引かない、というように、いろんな場合があって、なかなか、おもしろいと思います。
「沈黙」読みおえました。
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申し訳ありませんが 投稿者:詠み人知らず 投稿日: 9月 4日(水)15時15分56秒
月曜日にお伺いできませんです。またの機会に出席したいと思いますです。
私の実母(1950生、山口県の田舎)が、小学生のとき方言札を下げられたそうです。saihikarunogoさん
人と社会との逆立という問題ですね。うえまちがんばってください。kojikojiさん
ご高齢の方に席を譲るという、あまり個別性を考慮しなくてよい命題ですら、
腹を立てられたり拒否されたりを考えるとなかなか言い出しにくかったりします。横断歩道で両手いっぱい荷物を持っている老女の方がいて、信号が変わってしまったので
荷物もとうかと声をかけたら泥棒呼ばわりされましたし。難しいです。
いわんや障害の多様性をや。
私は鉄道ではよほどがらがらの時以外、はじめから席につきません。
車椅子のかたがエレベーター前で立ち往生している時など、
手助けを必要としていることが私にもわかるときは声をかけます。
とはいえそれでよいのかと思いますし、ではどうすればよいのかもよくわかりません。
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