こんなことがありました | ||
| まる投げの真実(某月某日) | ||
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この祭り本の予定としてはまず関東版があり、次いで東北版の出版が約束されていた。口頭だけの約束ではあるが。関東の祭りに休みなどないが、それでも無理に合い間を作り出し、魅惑的な東北の祭りを見つけだしては顔を出していた。文章になるものは文章にもしてみた。不思議な言葉使いと生活風習が刺激的で、関東とはまた違う地理や人種、気候風土もまた新鮮であったから、自分で言うのも気が退けるがさらにいい文章に仕上がっていった、と思っている。 つづく | ||
| 祭りに歴史あり神威あり(9/29) | ||
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車で行ってしまうと分からないのだが、駅から歩いて目的の小川島まで渡ろうとすると何本も迷路のような小径から、川の数に比べ極端に少ない橋へと辿るコースを選ばなければならず、思わぬ苦労を強いられることになる。群馬の名峰谷川岳から流れ出る利根川の暴れ水と支流赤谷川を集めたあたりに出来た洲を生活の拠点とするここは、月夜野は後閑という、名前からしてなんとものんびりとした農村であった。
そんな土地だから「やっさ祭り」の意義も深くなる。と言っても65軒ほどのこの狭い農村に関わらず、由来にかたくななふたつの流派があるからややこしい。ひとつは豊臣家と北条家で繰り広げられる名胡桃城争奪戦の難を逃れ、ひっそりと八幡本尊を勧請する様をあらわしていると言われる。村の深く悲惨な歴史を感じさせるエピソードながら、どうしようと後述のこちらの発祥にこそ心惹かれるものがあったので本にもあるのだが、再び簡単に記してみる。 秋の到来とともにやってくるのが台風である。起源は戦国時代のことであるから真夜中に洪水が起こっては逃げるしかないものの、暗闇にどこをどう避難すればよいのか見当もつかない。ちなみに今でもこの地域に電灯というもの、ほとんど見あたらず歩くのに苦労するぐらいであるから、さて当時はどれほど心細い気持ちにになったことだろう。現在、大木建設の親分が自宅と事務所を構えている所に当時、大木新重良景夏という豪族が住んでいた。横には若宮八幡宮も祀られてある。行動力と知恵のある人物らしく、鉦を叩きながら音と声で村人を誘導していき、ついには誰も犠牲者を出すことなく、神体も抱え、まんまと裏山まで逃げおおすのだった。 まあ祭りを見てもらえば分かるが、10数人の裸男が前の褌を握ったまま、どんなことがあろうと、どんなに振り回されようと、絶対に放さないというかたくなさが見どころで、笑いどころでもある。一番前の鉦叩きは、鉦の音で合図し「やっさ、しんじゅうろー」と声をはりあげる。そうやって何度も何度も若宮八幡宮の境内を激しく練り回っては、たまに全員で仰向けになって一時の休息をするのである。あのときの再現であることは明白であるな。
ちなみに取材からまる1年してまた訪れてみると、小川島までのコースに5本架かっていたうちの2本の鉄橋が、一昨年の洪水で、無惨に半分に折れたまま流され下の方にひっかかっていた。それでも無防備な田んぼには何もなかったように同じく稲がたわわに稔っていたし、顔ぶれは一変していたものの世話人には同じく陽気に迎えられたのは嬉しかった。当然のように前年も米はなんとかなったし、毎年こうやって神威を得ているのだというから、心配していたのはこちらの取り越し苦労であったというわけか。 祭りの精神はかくも偉大なるや。 こんな人に逢いました | ||
| 提灯、秘術、味噌屋のおやじ(11/第1土曜) | ||
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11月の古河。かつては朝起きると鍋釜までが凍り付き、それが割れてしまうほどのとんでもない寒さを呈していた。そんな寒い夜中のこと、総鎮守野木神社の神官が長期神幸の行脚から帰ってくるのを、村人みんなで「野木」と記された提灯かざし待ち受ける。あんまり寒いから体同士もみぶつけながら時を過ごした、と。そういうのが提灯竿もみ祭りの縁起とされている。今でもこの祭りを「おかえり」と呼ぶ人が多いわけだ。
「年に一回だけ、この12月3日だけはかあちゃんにも許しをもらってさ。おおっぴろげに女ぁ買える日になってったわけよ」 男たちがもみ合いながら待っていたのは神官ではなくて、贔屓の女郎花魁にまわってくる順番だったわけで、しかも提灯には家の屋号がしっかり大書されていた。提灯を先にくくりつけた竿を長く伸ばしていき、競って目当ての女に見栄を張ったという部分が男にしか分からない悲しきサガというのか、それが微笑ましい光景に思えてあまり淫靡な感じがないのがいいのである。最後は同じ贔屓の提灯持ちを見つけると、相手に竿をぶつけて折ってしまったり火を消してしまったというから、まさに今の提灯竿もみ祭りの原型が、間違いなくこちらの裏エピソードから生まれたろうことに納得してしまうのであった。確かにそんなことを観光パンフレットにはできないだろうなあ。残念ながら、今の祭り会場は横山町からずっと離れてしまった。とは言っても、もとを正すなら近く野木神社の祭礼であったか。
実は、この蝋燭については自町技術者の他、誰にも製造秘術は明かさないことになっている。祭りが終わった次の日からその年の闘いぶりを反省、参考にし、次年用蝋燭についての研究が始まるというのだが、その徹底ぶりが大したものであった。会長は、どこかの紀行番組で中国伝来の爆竹に使用する、なかなか消えない、なかなか燃え尽きない蝋燭の芯があるというのを耳にして、わざわざ中国にまで渡ったというのだから恐れ入る。今ここにあると言ってサンプルを見せてもらうと、どうということもない爆竹のカケラに見える。 今年はこれに蝋燭の成分配合と、形状にもこだわってみたとか。見せられはしないが、提灯は今、まっつぐ行ったそこの広場に置いてあるとそっけなく言う。誰にも知られず見るなら、自分で勝手になんとかしなさい、オレ何も知らんのである、というような責任回避の要領である。まっつぐ行ってみるともう半年も前から製作に入り、今日のハレの日を迎えた晴れがましい提灯たちが無造作に整列していた。
後から聞いたのだが、この闘いに勝てばそれからの1年間、ずっと竿もみのファイナル・チャンピオンとして古河中のサオモミストたちからの熱い眼差しを浴びることになる。男のサガと名誉を賭けた憎らしい競技だったというわけである。
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