本にならなかった話のページ

「ささ、日本百名祭へ〜関東版〜」の取材中、
本には書けない、楽しい話も多くありました。
そのあたりをかい摘んで報告するページです。


こんなことがありました

まる投げの真実(某月某日)

 今考えると、これが唯一の契約書だったのだなあ

 この祭り本の予定としてはまず関東版があり、次いで東北版の出版が約束されていた。口頭だけの約束ではあるが。関東の祭りに休みなどないが、それでも無理に合い間を作り出し、魅惑的な東北の祭りを見つけだしては顔を出していた。文章になるものは文章にもしてみた。不思議な言葉使いと生活風習が刺激的で、関東とはまた違う地理や人種、気候風土もまた新鮮であったから、自分で言うのも気が退けるがさらにいい文章に仕上がっていった、と思っている。
 当然それに続いて中部版から近畿、中四国、九州沖縄、北海道版へと、どこまでも広がる未踏の7大陸踏破、というような感じで期待が膨らんでいったのを憶えている。月に3、4本の関東の祭り取材に加えて1本程度は東北にも足をのばしてみることにした。そんな状態で、もうあと2カ月で取材も終わろうというときになって青天の霹靂が何気ない顔して襲いかかってくる。
「すまぬ。あと2カ月で納品してほしい」と出版社。まあそのつもりでいたからそうしますと言ってみたが、この頃にはこの御方、もうほとんど信用されてない。自分で約束したことをすぐに失念する性癖の持ち主だということも分かっていたので、しつこい確認事項に入った。
 どうやら納品というのがDTP、つまりデータ上ですべて本の形になったものを納品せよと言っていたわけである。では編集は? レイアウトは? デザインは? 校正は? 印刷方式は?……。いずれ、出版社のやるべき仕事のすべてをこちらに丸投げしてきたことが分かってくるわけである。しかも写真の現像はなんとかやってあったものの、入稿用に紙焼きしてあるわけでもない。どうやらこの紙焼きの作業も、とにかくそういったことにかかる全費用までもこちらに丸投げしてきたらしいのであるから、少し感心してしまうしかなかった。唯一費用を負担してもらうことになっていた、その部分もとうとう放り投げ逃げ出してしまったわけだ。
「すまぬ。表紙のデザインは予算がないから2色刷りでやるように」。やいやいそこの御方、てめえの胸にゃあ出版社たる誇りはないのかい、えっ、と言おうとしたものの頭の上にひらひら積もった埃を見ていると、あるならもとよりこんなことをするはずもないことに気づくのである。脱力していると、頭上に埃をひらひら乗せたまま、こう言って霹靂をもうひとつ落としていった。
「あ、それと東北版は中止ね」

つづく

 
祭りに歴史あり神威あり(9/29)

 車で行ってしまうと分からないのだが、駅から歩いて目的の小川島まで渡ろうとすると何本も迷路のような小径から、川の数に比べ極端に少ない橋へと辿るコースを選ばなければならず、思わぬ苦労を強いられることになる。群馬の名峰谷川岳から流れ出る利根川の暴れ水と支流赤谷川を集めたあたりに出来た洲を生活の拠点とするここは、月夜野は後閑という、名前からしてなんとものんびりとした農村であった。
 島とはいうが実際には名胡桃城という、戦国戦乱日本の歴史探訪などというものに興味の向きにはああ、あれかと思い当たるであろう天下統一の要となった名城を背に配し、その眼下にべたりと広がる平地。なにやら他人には言えない深い事情をひた隠しにしてきたような重い様相があって、それがそれでずしりと心地よい。駅はというと、支流本流が入りくみ乱れ交わった川の向こう側、山の中ごろに見えているわけだ。結局これが最短コースであると教えてもらった順路も、すぐ目の前と見えた小川島に辿り着くまで5本の橋を細かく渡るはめになった。駅前を一段降りたところからまっすぐ1本小ぶりの橋が渡っていても、誰にも何の迷惑にもならないと思うのだがなあと疑問を呈す。

 川だらけの小川島はいつ水に流されてもおかしくない

 ここには赤谷川もふくめて、いくつもの支流が島を横切り本流に注いでいるのだが、大雨が来るとこれらが一斉に溢れ出すという。聞くだけで恐ろしい土地柄ではないか。本流さえ水位を増して迫ってくるというから、上から下から、それはそれは大変であろうなと想像しながらも、広がる田んぼにこそそういったことへの防御策らしきものが見あたらないのがどうにも不思議である。もはや、あきらめの境地にまで達したか。はたまた神の威力をただただ信ずるのみか。心地よくも重い空気の理由はそのあたりにありそうだ。
 そんな土地だから「やっさ祭り」の意義も深くなる。と言っても65軒ほどのこの狭い農村に関わらず、由来にかたくななふたつの流派があるからややこしい。ひとつは豊臣家と北条家で繰り広げられる名胡桃城争奪戦の難を逃れ、ひっそりと八幡本尊を勧請する様をあらわしていると言われる。村の深く悲惨な歴史を感じさせるエピソードながら、どうしようと後述のこちらの発祥にこそ心惹かれるものがあったので本にもあるのだが、再び簡単に記してみる。
 秋の到来とともにやってくるのが台風である。起源は戦国時代のことであるから真夜中に洪水が起こっては逃げるしかないものの、暗闇にどこをどう避難すればよいのか見当もつかない。ちなみに今でもこの地域に電灯というもの、ほとんど見あたらず歩くのに苦労するぐらいであるから、さて当時はどれほど心細い気持ちにになったことだろう。現在、大木建設の親分が自宅と事務所を構えている所に当時、大木新重良景夏という豪族が住んでいた。横には若宮八幡宮も祀られてある。行動力と知恵のある人物らしく、鉦を叩きながら音と声で村人を誘導していき、ついには誰も犠牲者を出すことなく、神体も抱え、まんまと裏山まで逃げおおすのだった。
 まあ祭りを見てもらえば分かるが、10数人の裸男が前の褌を握ったまま、どんなことがあろうと、どんなに振り回されようと、絶対に放さないというかたくなさが見どころで、笑いどころでもある。一番前の鉦叩きは、鉦の音で合図し「やっさ、しんじゅうろー」と声をはりあげる。そうやって何度も何度も若宮八幡宮の境内を激しく練り回っては、たまに全員で仰向けになって一時の休息をするのである。あのときの再現であることは明白であるな。

 やっさ曳きで、みごと総崩れになったところ

 これが意味するところひたすら謙虚なのである。五穀豊穣を祈りはするが、雨を止めることも洪水を回避することも、実のところ祈ってはいないのだから。自然と共に生きるというのは、そういう謙虚さかも知れないなあ。なんだか今考えるに、昨今のにわか自然愛好家の体たらくぶりに、びしっと杓子を振るわれたような気がする。
 ちなみに取材からまる1年してまた訪れてみると、小川島までのコースに5本架かっていたうちの2本の鉄橋が、一昨年の洪水で、無惨に半分に折れたまま流され下の方にひっかかっていた。それでも無防備な田んぼには何もなかったように同じく稲がたわわに稔っていたし、顔ぶれは一変していたものの世話人には同じく陽気に迎えられたのは嬉しかった。当然のように前年も米はなんとかなったし、毎年こうやって神威を得ているのだというから、心配していたのはこちらの取り越し苦労であったというわけか。
 祭りの精神はかくも偉大なるや。

 

こんな人に逢いました

提灯、秘術、味噌屋のおやじ(11/第1土曜)

 11月の古河。かつては朝起きると鍋釜までが凍り付き、それが割れてしまうほどのとんでもない寒さを呈していた。そんな寒い夜中のこと、総鎮守野木神社の神官が長期神幸の行脚から帰ってくるのを、村人みんなで「野木」と記された提灯かざし待ち受ける。あんまり寒いから体同士もみぶつけながら時を過ごした、と。そういうのが提灯竿もみ祭りの縁起とされている。今でもこの祭りを「おかえり」と呼ぶ人が多いわけだ。
 本番では18メートルある長竹の先に付いた提灯同士ぶつけ合い、他町の火を落としてしまおうという荒っぽい祭りなのだが、そんな長い竿をどうやって振り回すのか、という疑問は本で読んで研究してもらうとしよう。今は裏通りとなってしまった旧日光街道沿いにある、横山町柳通りの味噌屋のとうさんが語ってくれた、さらに人間的な逸話のほうが面白いのである。

 古河の案内書にも載る味噌屋、小澤屋のとうさん

 この味噌屋、相当に年季の入った造りをしていて、窮屈そうに狭い奥座敷から体を引きずり出してきた大きなとうさんは、この町内の会長でもある。柳通りを歩いているだけで「祭りのことなら、そこんとこのカイチョーさんに聞いとくれぇ」と言われたぐらいだから、よっぽど近所祭りフリークで有名なのだろう。おかしいことに、ここらへんはどの人も江戸下町のべらんめぇ調なのがおかしい。まずそのちゃきちゃきが語るのは江戸も中期、世間も安穏とした時代のこと。ちょうど横山町が「おかえり」の途中に位置する一番の繁華町で、いわゆる赤線地帯だったというくだりからである。そう言われると、いまだそう見えなくもない。腰をくいと曲げた柳のしだれる通りが、妖艶な面相を醸している、ようにも見えてくる。
「年に一回だけ、この12月3日だけはかあちゃんにも許しをもらってさ。おおっぴろげに女ぁ買える日になってったわけよ」
 男たちがもみ合いながら待っていたのは神官ではなくて、贔屓の女郎花魁にまわってくる順番だったわけで、しかも提灯には家の屋号がしっかり大書されていた。提灯を先にくくりつけた竿を長く伸ばしていき、競って目当ての女に見栄を張ったという部分が男にしか分からない悲しきサガというのか、それが微笑ましい光景に思えてあまり淫靡な感じがないのがいいのである。最後は同じ贔屓の提灯持ちを見つけると、相手に竿をぶつけて折ってしまったり火を消してしまったというから、まさに今の提灯竿もみ祭りの原型が、間違いなくこちらの裏エピソードから生まれたろうことに納得してしまうのであった。確かにそんなことを観光パンフレットにはできないだろうなあ。残念ながら、今の祭り会場は横山町からずっと離れてしまった。とは言っても、もとを正すなら近く野木神社の祭礼であったか。

 竹矢来に囲われた土俵の中で、各町立体的攻撃体勢を組む

 カイチョーに聞くと、自由もみ用提灯の骨組みは通常のひご細工などとは違い、竹べらによるかご細工になっているという。そこに蛇腹などなく斜めに頑丈な竹材が渡されるというから、どう考えてもこれでは提灯そのものが割れて闘いに敗れることはなかろう。そしてそのまわりに和紙が張られ、中で極太蝋燭が隠れているわけである。と、ここが問題である。
 実は、この蝋燭については自町技術者の他、誰にも製造秘術は明かさないことになっている。祭りが終わった次の日からその年の闘いぶりを反省、参考にし、次年用蝋燭についての研究が始まるというのだが、その徹底ぶりが大したものであった。会長は、どこかの紀行番組で中国伝来の爆竹に使用する、なかなか消えない、なかなか燃え尽きない蝋燭の芯があるというのを耳にして、わざわざ中国にまで渡ったというのだから恐れ入る。今ここにあると言ってサンプルを見せてもらうと、どうということもない爆竹のカケラに見える。
 今年はこれに蝋燭の成分配合と、形状にもこだわってみたとか。見せられはしないが、提灯は今、まっつぐ行ったそこの広場に置いてあるとそっけなく言う。誰にも知られず見るなら、自分で勝手になんとかしなさい、オレ何も知らんのである、というような責任回避の要領である。まっつぐ行ってみるともう半年も前から製作に入り、今日のハレの日を迎えた晴れがましい提灯たちが無造作に整列していた。

 もう提灯というよりは籠で作ったバリアーであるな

 目の前にあることにはあるのだが、なんとも憎らしいことに肝心の蝋燭の上には雑巾が乗せてあって、今にもこれをひょいとめくり上げてしまいたい衝動に襲われてしまう。まあ、それを見たところでこちらの人生なあんにも変わりはないのだ。そんなに卑怯な行為をしてまで横山町に勝ちたいとは思わねぇな、負けるときゃあ負けるときよぉ、などとよく分からずこちらも江戸っ子となって、雑巾めくりの衝動をぐいと抑えたのだった。男にしか分からないサガなのである。
 後から聞いたのだが、この闘いに勝てばそれからの1年間、ずっと竿もみのファイナル・チャンピオンとして古河中のサオモミストたちからの熱い眼差しを浴びることになる。男のサガと名誉を賭けた憎らしい競技だったというわけである。


少しだけ蝋燭が! 名誉を賭けた闘いの直前、火入れの儀式


    本の紹介 「ささ、日本百名祭へ〜関東版〜」の内容など簡単に
  
 著者の紹介 著者は一体何者か、どんな意図で本が書かれたのか
  
 祭りその後 出版後、祭りや本をめぐる話。著者読者からの寄稿
  
 祭り場再び また、その後の祭り場を伝えます。著者からの寄稿
  
 写真展覧会 本には登場しなかった祭りの写真を解説つきで展示
  
 祭りの紹介 関東一帯の祭りを、県別・開催日順に抜粋して紹介


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