
1997年の夏にベトナム・ハノイに行きました。
帰ってきてから旅話を書いたのですが、2001年1月、なんと発刊してしまいました。ここでは第1日目のみ掲載します。
続きは本で読んでいただけるとうれしい限りです。
なんと!ハノイの空港には神戸市バスが走っているのだ
中国に返還されたばかりの香港・啓徳(カイタック)国際空港で1時間ほど乗り換えのため時間を過ごす事になり、我々高校教師軍団10人はそれぞれデューティーフリーショップなどを冷やかしたり、空港の外を眺めたりしながら時間をつぶしていた。
しかしながら初めて来た香港の空気は、飛行機から出た瞬間身体を包み込んだにもかかわらず、あまり遠くへ来た、違う所に来た、 という実感にさせてはくれなかった。
気温33度、赤道に近づくにつれネットリくる南国の空気は存在せず、なんだか空気が薄いな、と感じながらエアコンのきいたターミナルビルの様子を待合室のベンチに座りながらぼんやり眺めていた。
窓の外にはごみごみと乱立した高層建築に囲まれた香港の港が見え、なんだか知らぬ間に頭の中では、映画「燃えよドラゴン」の中で香港の港で小船に乗ってブルースリーが浮かんでいるシーンの時かかるメロディーが自然に流れていた。
中学の時熱く燃え、受験勉強のあいまに夜中に一人、部屋で手製のヌンチャクを振り回しながら、いつかはブルースリーの墓参りをしに香港へ行こう、と考えていた頃の自分を思い出し、あれからもう20年以上も時間が流れてしまっている事に気がつき少しだけ驚いていた。
ターミナルビルは混雑していて、小さいながらも活気に満ちた香港ならではの喧騒で、忙しそうに携帯電話で棒読みのアジア的英語でしゃべっているおじさんや、母親の傍ら一人おもちゃで遊ぶ日本人の幼い子供などを尻目に、アオザイを着たヴィエトナム女性が床に置いたバックの上に腰を下ろしてゆっくりとおしゃべりをしながら、やはり同じ様に時間をつぶしているようであった。
ヴィエトナム女性の着るアオザイはうつくしい、とどんなガイドブックにも賞賛の言葉が書かれてある。
女性の民族衣装であるアオザイの上着は、チャイナドレスのような形で長袖。あくまでも上体にぴったりとチビTのように引っ付いているというのが基本。すその長さはひざのあたりまであり、かつサイドにはスリットが肋骨の下あたりまで長くはいっている。下はゆったり気味の長ズボン。
しかしながら、そこに座っているアオザイ女性をジロジロずっと眺めているわけにもいかず、まあよそいき着としても着ている事はあるのだな、と軽く横目で見るだけにしておいた。
事前にもらっていた予定表では、飛行機はキャセイパシフィック航空で終点のヴィエトナムの首都ハノイまで行く事になっていたのだが、時間が来て搭乗手続きを済ませバスに乗り込み、こみごみした滑走路の中を走っていくと、行く手にはVIETNAM AIRWAYS という文字が書かれた、日本から来た時よりは一回り小さくなった飛行機が待っているのであった。
「おおっ!」
、と予想外にいきなり登場したヴィエトナム航空に心躍らせタラップを登って機内に入っていくと、目にも鮮やかにピンクのアオザイを来たヴィエトナム航空スチュワーデスが、
「グッドアフタヌーン!」
と出迎えてくれるではないですか。
またまた、おおっとなり、やはりそうか、スチュワーデスもアオザイなのだな、と変な話しではあるがいきなりこの場所が香港ではなくヴィエトナムになってしまっていた。
成田から香港に我々を運んできた飛行機は実に超現代風で、昔ならビジネスクラス以上の座席だけに、どうだ君たち庶民とは一味も違うのだよと、偉そうについてた個人用の小型テレビが、エコノミークラスの人々にも前席のヘッドレストあたりに、これまたほんとに丁寧に頭が下がるほどきちんと一つずつ取り付けられてあり、ここまでしなくていいから料金安くしなさい、と思わず言いたくもなる代物なのであった。
飛行機がタラップを外し滑走スタート地点までトロトロ移動していく間には、機内で緊急時の救命胴着の使い方説明というのものが必ずあり、スチュワーデスさんやスチュワートさんが実物を手にして説明してくれる。
ところが成田では先ほど書いたとおりの超現代風な最新鋭機のため、スチュワーデスさんやスチュワートさんの実物を使った説明はなく、大画面のビデオや超個人用のテレビの画面で、ライフベストの中には紐を引っ張れば自動的に空気が入ってくる、というこれまた今までにお目にかかった事のない最新メカを眺めるだけで終わってしまい、なんだかだんだん世知辛くなっていくのだなあ、昔の田舎は良かった、と感傷にふけていたのであった。
そんな中、基本だけあったらそれでよし、という基本姿勢がはっきりしているヴィエトナム航空のスチュワーデスがやはり実物を取り出し、確固たる態度で堂々と説明し始めたのは良かった。
そうだ、これでいいのだ、何が先進国だ、いらんもんに金をしょうもなく使うんじゃない、ヴィエトナム航空偉い!、と思いながら、きっとした顔で説明しているアオザイスチュワーデスさんの方向をこちらもきちっと見ていると、自然になんだかいやでも目に入り、気になって仕方がなくなってくるものがあった。
ピンクのアオザイを身にまとったスチュワーデスさんは私の座席のすぐ横で、機内に流れるアナウンスに合わせて救命胴衣や、酸素マスクの使い方を説明してくれる。
アオザイはさっき書いたとおり、上着のスリットが横っぱらの肋骨の下あたりまであり、かつ見ただけですぐに分かるのだが下にはブラジャーとパンツ以外何も着ていないので、普通に腕を動かすだけでも簡単にその隙間から上着の下の横っぱらの白さがちらりとしてしまうのである。
ほんの2mも離れていない所に座っている私が、立って説明しているアオザイスチュワーデスさんの方向をただ見ているだけでチラチラ横っぱらがのぞき、こんなに簡単に見えている事を一体彼女達は気付いているのだろうか、と考えながら初めて身近にやってきたヴィエトナム女性に接していたのであった。
日本を発つ前から、せっかくだからあまり簡単に祖国に帰る事が出来ず、あまり日本語を話せないというトランのお父さんや、かたことでしゃべれるお母さんにもいいお土産が持って帰れたらと考えていたので、ヴィエトナム語で書かれたタブロイド判の新聞を手に入れて眺めてみた。
基本的にヴィエトナム語はローマ字表記であるのだけれど、なんだか補助記号のようなものが母音の所についていて、それが音の高低やイントネーションを変化させるという事で、単にローマ字読みをしてみても簡単には通じないという事であった。
2年ほど前にテレビで、SMAPの香取慎吾扮するベトナム人「ドク」が日本に建築の勉強のためやって来て、日本語学校の女教師・ゆき(安田成美)と、はかない恋の物語を展開していくというドラマがあり、その中でドクが、
「ワタシハ、ヴィエトナムカラキマシタ。」
とたどたどしい日本語で話す場面があり、なかなか香取君もうまいではないか、と見ていたのであるが、「ベトナム」が「ヴィエトナム」になるまさにあの発音の感じである。
他に追随する出版社もなかったため完壁に10年近く独占状態だったこの出版分野に、たまたま手にした「個人旅行」(昭文社)は、どうだあ!、と殴り込みをかけているような存在でこちらにアピールしてくる力強さが感じられた。まさに、新時代突入といった感があるほどにインパクトのある本との出会いで、ペラペラめくっただけで即買ってしまった。
日本を発つ直前まで、午前5時頃までかかり山積していた仕事を片づけたりしていたため、ゆっくりヴィエトナムに関する予備知識を得る事もなく出発してしまっていて、その「個人旅行・ベトナム」を読みながらあと2時間ちょっとで到着するヴィエトナムの首都ハノイに思い巡らせていた。
現地時間の15時30分過ぎ、予定どおりヴィエトナム航空は高度を下げ、無事ハノイ・ノイバイ国際空港に到着。
窓から見える空港の景色は、戦闘機、ヘリコプター、管制塔などを含め、人工物が時間の経過とともに色あせていきそれをまったく補修していない侘しさみたいな体をなしていて、これが社会主義なのかあ、といきなりの社会主義の現状を見せられた気がしていた。
そんな風にして着陸後、飛行機が正しい停車位置につくまでのトロトロ走りをしている間、窓から初めてのヴィエトナムの景色を眺めていると、なんだか自分の目になじむ、場違いの物がちらりと見えた気がして、んっ?、と気になり始めた。
「なんだ、なんだ、おいおいひょっとすると。」
という気持ちが先に立って機外に出た時の異質な空気を存分に感じる事もなく、目指す場違いの物を凝視しながらタラップを降りていった。タラップを降りるとバスに乗り込んでターミナルビルに運んでもらう段取りになっていて、そのバスがなんだかいつも見ている神戸市バスにどうも似ているのである。
「ああ、何でこんなところで!。」
と、いきなり身近な友達に会ってウレシイやらオドロイタやらで興奮している所に、なんと横につけたもう1台の旧神戸市バスには正面の行き先に「神戸駅」と今だ表示してあり、かつまた、乗車口の横には、「81番・神戸駅から須磨一ノ谷行」とまで書いてくれているではないか。思わず横にいたヒロ西塔に、
「これは神戸の学校の近所を走っているバスなんですよ。帰りはバスに乗って神戸まで帰ります。」
と、思わず大きな声で嬉しそうに話してしまっていた。
そんなこんなで、私のハノイ第1印象はすこぶる身近な物になったのではあるが、のんびりしてもいられない、バスを降りた次にやってくるのは入国審査官との勝負である。
「とにかく社会主義の国なので、写真はやたらめったら勝手に撮らないほうがいいと思います。特に公安と呼ばれる、日本でいう所の警察官にはカメラを向けない事。外国人といえども容赦なくしょっ引いていく事なきにしもあらずです。またまた、エッチな写真とかビデオも御法度。むこうの方へのお土産で週刊誌を買っていかれるのもいいですが、エッチな写真があったりすると荷物検査の所で没収されます。とにかく社会主義の国なのです。」
と、事前にいわれていたりもしたので、さてどういう展開になる事やら、と覚悟してきたのではあるけれど、なんと入国審査の場所で待っていたのは、無表情、にらめっこしたって絶対負けへんでという顔つきの公安なのであった。きっと公安という職業ではないのであろうけど、まさに想像してきた公安そのものであった。
公安は面倒くさそうでもなく、かといってニッコリと笑顔を見せるわけでもなく、一つずつ決められた仕事は、わしきっちりやるんだもんね、という態度で、パスポートの写真と本人の顔とを比べてみる時も本人の顔を真っ正面からじーっと3秒ぐらい凝視してしっかり確認し、一人に対して日本の5倍ぐらいは時間をかけながら入国審査を遂行していた。
きっと一つずつ手作業でやってんだろうなあ、と自分の番がきて様子を見ているとブースの中で何やらキーボードを叩いているようで、何年か前の古いコンピューターでもつかってやってんのか、しかしちゃんとコンピューター使っているんだな、偉い!、と誉めてあげると、何のお咎めもなくポンとパスポートを私に返してくれた。第1ラウンドは引き分けであった。
次なる関門は手荷物チェックである。なにせこの入国審査の念の入れ様である。これは心してかからねばならない。
日本の週刊誌は、自分が協力隊の時の事を思い返すと、お土産で誰かが持って来てくれた時にリアルタイムで日本の匂いを感じさせてくれ、つかの間の日本にタイムスリップさせてくれる宝物であったので、今回も誰に渡す、というあてもなかったのだけれど、数冊スーツケースにしのばせて来ているのである。それを、
「だあーめ。」と、むげに理不尽な態度で取り上げられると、どう考えてもこちらの負けになってしまう。
えっ!?。スーツケースあけへんの?!と、こちらがあまりのあっけなさに逆にとまどってしまうほどで、こんな事でいいのか!、社会主義国よ!、と思いながらも、楽勝でこっちの勝ち、と第2ラウンドはあっさり終了してしまったのであった。
空港を出てくる人を待ち受けて、ロビーの一般人も入ってOKの場所には、ツアーコンダクターの人、子供、客引き、物乞い、単なるひまつぶしの人、スリ、勝手に荷物運んで金ちょーだいの人、なんかがごちゃごちゃとしていて、ここん所でその国の普通の人々との最初の対面になり少し様子が分かったりするのだけれど、ハノイ空港の入口付近は、それほどの混み具合でもなく、なんだか少し拍子抜けしてしまった所もあった。
空港にはJICAヴィエトナム事務所の畠山次長が我々をわざわざ出迎えにきてくれていた。畠山次長はこの道数十年というような落ち着き方で、ざわついている空港の喧燥の中で我々を見つけ出し、ニコ山田と少しだけ日本流、ドウモドウモのペコペコ挨拶を交わしながらマイクロバスを回してくれているのであった。マイクロバスの中にスーツケースなどを積み込みいざ出発。
ここからハノイの市内までは30kmほどの行程で、1時間弱もかかってしまうようである。
「これまわしてください。」
と、バスに乗り込むとすぐに畠山次長から今後の日程に関する資料が回り、少しの間その上に目をむけていただけなのに、ふと目を窓の外にむけるとたった5分くらいの時間の経過にもかかわらず、バスは一面地平線の遙かなたまで水田が続いている風景の中を走っているので驚いてしまった。
ポツリ、ポツリとモゾモゾ動きながら働いている牛、ノイと呼ばれる円錐型のすげ笠をかぶり二人で水田に水を汲みいれている親子、5、6人で走りながら凧上げをしている男の子達、小学校低学年の年頃の子供たちが豪雨によって水かさの増した田んぼに飛び込んで遊んでいる光景。
そんな風景をぼんやり優しく眺めているだけで赤貧国に見られる、食べ物がなくて飢え死にするというイメージはヴィエトナムに対して微塵も沸いてこなかった。それほどまでに水田の黄緑色と、空の薄い水色が風景の大部分の面積をしめているハノイ市内までの道程であった。
昔から見ている映画の中で、また何かの反戦歌っぽい洋楽の中で、サイゴンという音の響きがいつの頃からか頭に強烈にあり、ヴィエトナム=サイゴンというのが私のステレオタイプの公式としてあった。サイゴンに行ったらどこを回ろう、何を見てこよう、と「地球の歩き方」を眺めていた所、詳細が届いてみるとハノイ10泊、かつホテルは1個所だけの行程とあり、
「なあにー!!。」
と、そこからハノイの位置を地図で確認するありさまであった。
ヴィエトナム戦争で北ヴィエトナムがアメリカの支援する南ヴィエトナムに勝利し、南北を統一してから20年。南ヴィエトナムの首都サイゴンは、独立の父ホーチミンの名をとって都市の名を変え、政治の都市ハノイ、商業の都市ホーチミンと言われながら今日に至っている。
ヴィエトナム行き決定後、しばらく、よーしサイゴンだ、と入れ込み、トランの国を見られると思い込んでいたため、ハノイだけしか行きません、というのにがっかり意気消沈していたのは確かである。
外国から日本にきて10泊し、東京だけ見て京都を見ずに帰る事に匹敵するもったいなさである。
しかしながらこの二つの都市は沖縄と北海道ほど離れており、トランの故郷、南ヴィエトナムの首都サイゴンまではそう簡単にはいけそうもなかった。
トレードホテルに到着し、それぞれがチェックイン。レセプションのお姉さんは予定通りの美しいアオザイ姿でテキパキと、てんでバラバラに並んでいるそれぞれの部屋の鍵を渡してくれた。
二人のアオザイ姉さんは、バタバタしながらもテキパキと動いているため、やはりアオザイの横スリットから横っぱらの白さがごく自然にチラチラ目に付き、またまたそれをずっと見ているにはかなり気恥ずかしさが出てくる事も再確認できたのであった。
それぞれが荷物をとりあえず部屋に置いただけでロビーに集まり、時間も夕食時となっていたため、JICAの方が予約を入れてくれていた高級レストラン「インドシナ」にて最初のヴィエトナム料理と対面するため、再び我々はバスにバタバタと乗り込んだ。
ちょうど仕事帰りの時間帯とも重なってか、道路はハンパな混み方ではなかった。簡単に説明すると、一昔前の中国で自転車があふれんばかりに走っている光景がよくテレビなどに映ったが、あの自転車がホンダのスーパーカブになった状況というのがぴったりの様相なのである。
我々の乗り込んでいるマイクロバスはそんな中を、スマンスマン進んでいくからね、道ちょっとあけてちょ、という具合にクラクションをひたすら鳴らし続け、時にはセンターラインを越えて真っ正面からくるバイクを危機一髪よけながら、トロトロトロトロ進んでいかざるを得ない交通事情であった。
エアコンのきいたバスが狭い路地のような所をクネクネっと入っていくとそこに高級レストラン「インドシナ」がひっそりあった。
「個人旅行」のハノイでのレストラン紹介にも高級レストランのカテゴリーの2番目に紹介されてある店にもかかわらず、外観は全く偉そうでなく、逆にこれで高級レストランなのかあ、とこれから長丁場のハノイでの食事情にある種の覚悟でもしようかなと考えたりもした。
そこの部屋は我々11名が座ると残りは4人がけのテーブルが2つだけになってしまう程の面積で、これがハノイ高級レストランの2番目かあ、と一人うなだれてしまった。
しかしである。
「外見で人を判断してはいけない。」
とは、我々教師が教育現場でよく生徒に言い聞かせる言葉であるが、まさにこの店はそのものズバリの大当たりであった。
過剰に装飾してあるキラキラ姉ちゃんが性格まで美しいかというと、そこに相関関係があるとは言えない事がままある。外見で判断して冷ややかにお付きあいしながら、ある瞬間何かのきっかけでその人の本質が分かった時、
「あ―なんてこの人はいい人だったのだ。外見で判断していた私はなんて大馬鹿者だったのだろう。ゴメンナサイさゆりさん。過ぎた時間は戻ってこない。」
なーんてことは人間だれしも一度くらいは長い人生の中で経験したことがあるのではないでしょうか。
とにかく、出てくる料理がとびきりうまいのである。ヴィエトナムビールは5種類ほどあり、来る前からチェックもしていたので、
「やっぱりここはヴィエトナムビールでしょう。この333ってのはどうでしょう。」
と、まずは汗がネットリへばりついている身体にビールビール、とウエイトレスのお姉ちゃん(もちろんアオザイ)にとりあえず注文すると、料理の方はJICAの方が事前にお願いしてくれていたこともあり次々と登場してきた。
出てくる料理は、中華っぽい味付けでありながら塩味が中心のあっさり系(?)で実に食べやすく、そこにきて初めてのヴィエトナムビール333(ヴィエトナム語・バーバーバー)がこれまたすすみ、またまたそこん所にこれでもか、と出張民族音楽演奏楽団三人組、なんていうのも登場したりして、ヴィエトナム初夜にして酒池肉林の大宴会となってしまった。いやあまいった。
「そうか、こんな風に送ってくる所を見ると応募してくる人がかなり少なくて、わざわざ教員のOB・OGに送って来ているのだな。これは、出しただけでもう選ばれる事、間違いない。」
と、今から考えるとあきれるくらいに楽観的に捉えて応募したがため、見事不合格に終わった時には、なっ、なんで?、と落ちた理由さえ納得できなかったくらいである。
ありゃりゃ、と気合いを入れ直し、翌年またまた協力隊での事を中心に書いてみた所またまた不合格。
これにはがっくりきて、大阪で教員をしている同じ様な境遇の同期隊員と電話で、
「よくよく考えてみたら、協力隊もこの研修も出所はJICAだもんなあ。OB・OGに行かせるよりは他の人に行かせた方が効果ありと考えるよなあ。」
という結論に達し、もう出さない、無駄な努力はしないというまとめをし、反省会を打ち切ったのであった。
「俺さあ、懲りずに今年は出してみようと思うんだけどさあ。」
ときたところに、
「今回は過去を隠してやってみよか。」
と簡単に答えていた所にわたしのそれなりの心の準備がその時までに出来上がっていたような気がしてならない。
協力隊経験隠密作戦に徹する、という事で第1回最終作戦会議は終了したのであった。作戦大成功のもとに合格したのはいいものの、応募の書類に書き込まれていない、隠された部分を一体いつどこで切り出せばいいのか、はたまたずーっと隠しつづけて黙っている方がいいのか、わたしは心に一抹のやましさを抱えたままで、東京の事前研修所に、家に一つしかない、昔協力隊に参加した時に現地に持っていった、協力隊ステッカーの貼ってあるスーツケースを転がしながら向かったのであった。
「斎藤先生、ひょっとして協力隊の経験とか有りそうな感じですねえ。」
と、ポソッと言われた時には、ドキッとし、
「えっ!、そんなことないですよ。なっ、なんでですか?。」
と、うろたえて答えると
「なんだか、HRで体育の先生が開発教育やってるっていう話し聞いてたら、そんな感じがして。うちの学校にもやはりOBの先生がいるんですけど雰囲気が似ているんですよ。」
とたたみかけてくるため、周りにニコ山田ほかJICAの関係者がいない事をすばやくキョロキョロ確認した後、
「とにかく、ヴィエトナムに着くまでは黙っておいてください。」
と、ひそひそ声で、ビールが入って少々気分が高揚してきていたためポロリと口に出してしまっていた。
ここまで来て、置いていかれるという事はましてあるまい、と言う事は初日の自己紹介の時にすでに確認できていた。なんと、自己紹介の時に、パナマ班に1人、パキスタン班に3人もOB・OGがいる事が判明したのである。
そのうちの一人は私と同じ様に過去を隠す隠密作戦を取っていたにもかかわらず、任国が同じであった後輩隊員から、名指しで隊員だった事を暴露され、思わず瞬間的に視線を床に落し狼狽している様子が遠目にも分かった。
ヴィエトナム出発当日、ステッカーの貼ってあるスーツケースを、とりあえずは目立たぬように一番後ろから押して着いていき、成田まで向かった。
機内預けの荷物としてカウンターで全員のスーツケースが集まった時、過去のモルディブ選手を引き連れての各国遠征の旅で貼りに貼りまくったステッカーでいやでも目立つ所に、JOCV(青年海外協力隊)ステッカーである。もう知らん顔して飛行機に乗ってしまうしかない。
そんなことでハノイまで来てしまい、初日も酒池肉林の内に終わろうとしてホテルに帰り、アオザイお姉さんから210号の部屋の鍵を受け取り、部屋に帰ろうとした時、
「斎藤先生、まだ時間も早いですし、どうですか私の部屋で。」
と、208号室のニコ山田から声がかけられた。
「チャラリ〜!!」
と、頭に笛が鳴った。
「もう逃げられない。いよいよ運命の時がきた・・。」
と覚悟を決め、ニコ山田が待つ部屋の奥へと進んでいき椅子に奥深く座り背筋を正した。
「実は…………。書いている事に嘘偽りは全く無いのですが。ただ、書いていない部分があって…。」
「やはりそうでしたか。でも書いた文章からは分からなかったですねえ。」
「もうここから帰される事はないですよねえ。」
などと、少しだけ酔いがさめた頭で色々話し始めた。
二人で協力隊のことや国際協力事業団の事などについて話していくにつれ、胸のつかえが取れ、再び酔いが深くなっていく心地よさで次第に夜もふけていった。午前0時をまわって部屋に帰った時、薄暗い部屋の中で壁にへばりついたやもりが、
「ケケケケッ。」
とないて迎えてくれた。
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「トランの国」が出来るまで日記: 初出版にこぎつけるまでこんなことがありました。 |
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