
ユジノ‐サハリンスクの日本期建築 Historical buildings in Yuzhno-Sakhalinsk during the Japanese Period |
| 表 ユジノ-サハリンスクの日本期建築一覧 | |
| 図 ユジノ-サハリンスクの日本期建築位置図 | |
| はじめに | |
| ユジノ-サハリンスク(Yuzhno-Sakhalinsk)は、ウラジミロフカ(Vladimirovka)と呼ばれた開拓集落を基盤にして成立し、日本期には豊原と呼ばれ、南サハリンの首都であったことは周知の事実である。豊原時代の建築は、今でもユジノ市内各地に数多く残っている。にもかかわらず、サハリン州郷土博物館とユジノ‐サハリンスク美術館を除けば、市民にはほとんど知られていない。しかしながら、それらはまちの歴史を物語る証言者であり、貴重な歴史的遺産でもあり、一般市民も漠然とした関心をもっているようだ。これまでは、さまざまな障害により研究する機会を与えられなかったこれらの建築物は、日本側の注目するところとなり、いくつかの論文も存在する。 1998年10月に調印された「日本国北海道とロシア連邦サハリン州との友好・経済協力に関する協定」には、「両地域にとって貴重な歴史的文化的遺産を調査、保存、啓発、普及するための協力を行う」という一項が盛り込まれており、歴史的建築物への関心と対策に関する両者の見解は、原則として一致している。サハリン州郷土博物館歴史主任学芸員のIgor. A. Samarinも日本期建造物に関する論考を発表しているが、ユジノ-サハリンスクでは日本期建築の現存状況については発表していない。本稿では日本期の豊原の歴史を簡単にふまえながら、現存する日本期建築の建設時期・設計者・用途や変遷・現存状況をまとめ、これらの歴史的意味を考察することを目的としている。 |
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| I. 豊原「遷都」と新しい都市の計画 | |
| ユジノ-サハリンスクの日本期建築の考察には、まず、市街地の成立事情を把握しておく必要がある。豊原は政庁所在地・軍駐屯地という目的で建設された計画的都市であり、初期の主要建築はそのために建設されているからである。 帝政ロシア時代の南部サハリンの中心はコルサコフ(Korsakov)であったが、日本人は南部サハリンの中心としてコルサコフは不適切であると考えていた。平野部が少なく大きな集落が作れないこと、南端に近い位置にあるため、南部全体をコントロールすることが難しいことなどが理由に挙げられている 。豊原は、コルサコフ(旧大泊町)やマウカ(Mauka・旧真岡町、現ホルムスクKholmsk)に通じる街道の結節点であり、島を縦断する重要な街道もここを通っていた。また、戦争の際にロシア軍が建設した根拠地が残っていたこともあり 、戦災で市街地のほとんどを焼失していたコルサコフとは対照的に、樺太守備隊の駐留に適していた。さらに、将来の農業の中心と考えていた鈴谷平野のほぼ中央に位置していたことも重要であった。唯一の欠点は、内陸にあるため本国との連絡が不便であることであったが、これは鉄道を敷設することで解消できると考えられていた 。 というわけで、1906年の春には、まずコルサコフ-ウラジミロフカ間の鉄道の建設と市街地の区画割が最初に行われた。中心都市としてのウラジミロフカの欠点を埋め、また新しい都市を建設する資材を運ぶためであった。同年12月に鉄道には開通して、本格的な都市の建設がスタートした 。市街地の建設活動が一段落して、ウラジミロフカが豊原と改称されたのは、1908年8月23日のことである。それと同時に、当時の行政府である樺太庁がコルサコフからウラジミロフカに移された。 |
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| II. 初期の公共建築 樺太守備隊と樺太庁の建築 | |
| しかしながら、最初期の豊原は、政治都市であるよりも、むしろ軍事都市の色合いが強かった。旧ウラジミロフカの病院を中心とした一帯――現在のサハリンスカヤ通(Sakhalinskaya
Street)とブマージュナヤ通(Bumazhnaya Street)の間の地域――が樺太守備隊の兵舎や司令部、軍病院(衛戍病院)に当てられた。それゆえに、初期の豊原では守備隊将兵を対象とした第三次産業が発達し、この一大消費者層が新興市街地の経済を支えていた。この守備隊の建築は、現在サハリンスカヤ通沿いに2つ残っている。一つは樺太守備隊司令官の官舎(No.15)、もう一つは守備隊の附属病院(No.13)である。いずれも建設会社の契約書から1908年11月に建設されたことが確認されている
。 司令官官舎は、2階建ての洋館で現在は軍事裁判所として利用されている。1階は煉瓦造、2階は木造で、左右非対称に付けられた2つのペディメントと北面西側のバルコニーが印象的である。建築様式的には、玄関窓などにネオゴシック様式の影響を見ることができる。設計は樺太守備隊付陸軍技師であった田村鎮(Yasushi Tamura, 1878- 1942)が行ったと見られる 。内部には玄関ホールや居室内に暖炉が設けられ、将軍が賓客を招待するのにふさわしい装飾が施されていた。ソ連時代の集合住宅に囲まれているため、サハリンスカヤ通からは確認しにくいが、半ば壊れつつも随所に当時の威風を誇る外見をとどめている。 衛戍病院は、単純な長方形平面を持つ平家建の建物で、内部には十字型に廊下が入り、4つのブロックに分かれている。現在は住宅となっており、8世帯ほどが利用している。1923年に撮られた古い写真では煉瓦造のように見えるが、基本的な構造は木造らしく、現在の外壁は壁板とモルタルで覆われており、当時の状況がわかるのは、土台の部分と北面中央部の旧玄関部分くらいである。内部には十字型に廊下が走り、4つのセクションに区切られており、8世帯ほどがくらす集合住宅になっている。内部・外部ともに旧状をほとんどとどめていないが、ユジノ-サハリンスクで最も古い建築として、記念碑的な価値は十二分に有していると言えるだろう。この2つは、いずれも守備隊施設の中心的建物であり、とくに司令官官舎は、守備隊撤退後も樺太庁博物館や豊原憲兵隊本部など、さまざまに利用されてきた建物である。旧衛戍病院の周囲には、1934年に設置された豊原憲兵分隊の兵舎も残っているが、外観は既にロシア化しており建設年代の識別は難しい。 1908年以降、樺太庁となった豊原は、行政都市の側面が強くなった。樺太庁の建物は、現在の軍司令部(行政府の北向かい)付近にあり、その周辺には官吏や守備隊将校のための官舎街が広がっていた。旧豊原市街地中心部は、現在のチェーホフ通(Chekhov Street)より西は民間人が中心の商業地区、チェーホフ通より東側が、軍や樺太庁の使用する公共地区と区分されていた。したがって、コムニスチーチェスキー大通(Communistichesky Avenue)の北側が従来からの都心部分だが、現在のチェーホフ通より西側は、鉄道線路まで人口の密集する商業地区であり、逆に通りの西側は高級官舎がゆったりと建てられ、人口密度も小さかった 。 樺太庁の建物は、昭和時代(1930年代)に建てられたものしか残っていないので、ここではその官舎の現存状況について述べておきたい。樺太庁官舎は、合わせて3棟が残っている。ハバロフスカヤ通(Khabarovskaya Street)48番地にある1棟は、1戸建の木造官舎で樺太庁では長官に次ぐ地位(部長級)の人物が住んでいた官舎だと考えられる(No.5) 。現在は軍関連施設の一つで、獣医学研究所である。日本時代当時の窓廻・外壁・玄関部など、外観の保存状態は非常に良い。また、2戸建の官舎2棟が、ジェルジンスキー通(Dzerzhinsky Street)27番地に残っている(No.6)。屋根葺材の一部が当時のまま残っており、また2棟残っていることで官舎の隣棟間隔や、路地や庭などの周辺を含めた官舎街の雰囲気をよく伝えている。建設に関わる史料が皆無であり、建設時期は不明だが、建設位置から推して上級職員の官舎であったと思われる。クラスナヤ通(Krasnaya Street)12番地には、ブラケットが巡らされた小規模の木造平家建住宅が残っており、裁判官官舎の一つと思われる(No.9)。この官舎の記録は1911年には既に存在することから、最初期の官舎である可能性もある。 その他で、初期の豊原で樺太庁が建設したのは、現在の市立病院付近(旧旭ヶ丘)にある樺太神社(1911年、No.41)の跡地と、市街地北部の樺太庁乾溜工場(1911年、No.34)をあげることができる。 樺太神社は、樺太拓殖のシンボルとして、島民の期待を一身に集めながら。1910年から建設が開始された。基本的な設計は、日本を代表する建築家であった伊東忠太に依頼し、施工は島内を代表する建設業者として声望を集めつつあった、遠藤米七が抜擢された 。神社のできるだけ島内の材料を用いるため、西能登呂付近の採石場から土台のための石を採掘したり、神社の材料にふさわしい木材を決めるために島内木材の材質調査を徹底したりして、建築的な質の向上に余念がなかった。1910年8月23日の施政記念日に合わせて上棟式をおこない、神社の竣成を意味する鎮座式は翌1911年8月23日に挙行された。樺太神社は1940年の皇紀2600年記念事業として改築が行われたことがわかっているが、改築後の神社の姿に関して、私たちはほとんど知ることができない。ただ、現在の市立病院の裏手付近には樺太神社の跡地が存在している。そこでは、宝物殿と見られる校倉造を模したコンクリート造の日本式蔵を見ることができる。またその隣には、招魂社(後に護国神社と改称)の基礎部分も残されている。 乾溜工場は、島内の森林資源の利用法として、木炭の製造やエチルアセテートの抽出を目的として建設された工場で、ドイツのメイヤー社から最新型の機械を導入して建設された工場である 。施工には日本の大手建設業者である大倉組や前出の遠藤米七があたった。しかし、樺太庁がこの工場を経営したのはわずか数年間で、その後は建設にあたった大倉組が事業を引き継ぎ、1920年代半ばまでは操業を続けていた。大倉組が経営を断念した後も建物は、放置されたままで日本時代を生き抜き、現在は軍関連施設として機能している。この乾溜工場はユジノ-サハリンスクで最初期に建設された建物の一つというばかりでなく、サハリンで最初に建設された近代的工場施設の一つであり、その記念碑的意味も大きい。 |
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| III. 製紙産業の発展と王子製紙豊原工場 | |
| 軍事都市・政治都市として建設され、南サハリンの中心都市として急成長するかに見えた豊原であったが、大正初期にはまちの命運を左右する大きな危機を迎えていた。豊原の守備隊は日ロ関係の緊張緩和と条約の批准により1913年には完全に撤退したので、有力な消費者層を失った豊原は急速に寂れつつあったのである。当初は森林活用策として期待された乾溜工場も、有力な産業基盤として成立する可能性は小さかった。そういう時、森林資源の利用法を模索していていた樺太庁が、パルプ工場を建設することを王子製紙に依頼した。その中心人物が当時の樺太庁長官平岡定太郎であった。平岡は行政官僚としては不遇であったが、後に「樺太拓殖の父」として、銅像が建立された
。王子製紙はその要請に応えて1913年、大泊(現コルサコフ)にサハリンで最初のパルプ工場を建設した。また、王子製紙をライバル視する有力な製紙企業家の大川平三郎も、樺太工業株式会社をつくって、泊居(現トマリ)にパルプ工場を建設した。当時は第一次世界大戦がはじまったばかりで、ヨーロッパ産のパルプが日本に全く入ってこない状況であったため、これらの工場で生産したパルプは、飛ぶように売れた。製紙企業はその利益で新しい工場の建設を計画し始めた。豊原の市民や樺太庁は、この新しい産業に期待し、豊原の町に製紙工場を建設するよう、王子製紙に積極的に働きかけた
。 豊原近郊には大きな河川も製品搬出のための港湾設備もなく、製紙工場の位置として最適とはいえなかったが、彼らの要請に応えるかたちで1916年に豊原工場を建設、操業を開始した。工場の敷地には樺太守備隊駐屯地の北西部があてられた。生産量の増大に伴い、工場施設は漸次的に拡張され、工場の西側には職工の社宅街が広がっていった。 現在の工場敷地内には、製薬塔や木釜室(No.22・21)、パルプマシン室(No.23)などのほか、煉瓦造の倉庫(No.24)、酒精工場(No.25)、貴重品倉庫(No.19)、小さな溶鉱炉(No.18)などいくつかの施設が現存している。この中で目を引くのはやはり、鉄筋コンクリート造7階建の木釜室とその隣の製薬高塔であろう。木釜室は木片(チップ)と薬品を煮詰めて溶かし、パルプの原料とするところ、製薬高塔はそのための薬品を作るところである。また、製ゴム工場に転換されている煉瓦造倉庫もなかなかに趣のある外観をとどめている。現在は製紙工場設備のほとんどが散逸しており、再操業はほぼ不可能であり、施設の一部において各種モーターや自動車の修理が行われているに過ぎない。 現在のブマージュナヤ通は、当時の製紙工場の入り口を通っている。通りの北側には製紙工場施設群が、通りの南側には若干の社宅の跡が残されている。ほとんどの社宅は1960〜70年代にかけて大幅に立て直されてしまったが 、各棟の位置は日本時代の社宅は位置そのままであり、昔の社宅の基礎をそのまま使っているものと思われる。 また、ブマージュナヤ通からミール大通(Mira Avenue)を西に渡ると、フィズクリトゥールナヤ通(Fizkulturnaya Street)沿いにあわせて7棟の官舎が確認できる(No.29-32)。半壊状態で、今後の現存状況が危ぶまれるものも多いが、ブマージュナヤ通45番地の旧40号社宅(No.16)や、フィズクリトゥールナヤ通の社宅(No.29)などは、ロシア時代の改変は少なくないものの、外観は当時の雰囲気を比較的よくとどめている。 また、オクチャブリ通(Oktyabri Street)やファブリチナヤ通(Fabrichinaya Street)には、王子製紙の関連企業のものと見られる社宅が7棟固まって現存している(No.33)。ほとんどが2戸1棟形式で外観は様々だが、工場付近の住宅よりも旧状をよくとどめている。これらもまた、製紙産業の歴史的遺産として位置付けることのできる建物であろう。 最後に、意外と見落とされがちなのが、王子製紙の甲倶楽部跡である。甲倶楽部は職員用の娯楽施設・宿泊施設として建設された福利厚生施設であり、専属の優秀なコックを有し、来賓が町を訪れた際の宿泊施設としても、よく利用されていた 。その土台部分は、サハリンスカヤ通28番地付近にあり、カーブのついた玄関階段などがそのまま残っている。 |
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| IV. 町家 -豊原の商業建築- | |
| 「ユジノ-サハリンスクには当時の建築が残っていない」というのは、半世紀ぶりにこの地を訪ねた日本人からもしばしば聞かれる言葉である*。これは、彼らが記憶にとどめている「豊原のまちなみ」が全くと言っていいほど残っていないためであろう。たしかに、駅前の中心街区や官舎街など、豊原市街地の特徴的なまちなみがすっかりなくなってしまっており、すっかりロシアの街となったこの地域に失望を覚えるのであろう。 特に、今のレーニン通(Lenin Street)を中心とした当時の豊原の中心街区には、ユジノ-サハリンスク美術館(旧北海道拓殖銀行豊原支店)のほかは、当時をしのぶ建築が一切残っていない。しかしながら、丹念にまちなみを見ていけば、博物館や拓銀の他にも日本時代の面影はあちこちに見出すことはできる。 たとえば、プーシキン通(Pushkin Street)15番地には、日本の町家の一部と見られる蔵が残っている(No.10)。2階建で利用者もいるようだが、モルタル塗の壁を軟石造に見立てたデザインは、昭和の初期に流行った典型的な町家の蔵である。またサハリンスカヤ通のFSB(連邦警察局)の周辺には2棟の町家?が残っている(No.10・11)。1棟はFSBの敷地内にあるが、もう1棟(ABTOマガジン)は自動車部品の販売店になっている。後者には平日であれば中に入ることができる。これも昭和初期のモルタル塗町家に独特のプロポーションだが、中に入って階段周辺を眺めると、日本建築の特徴がそのままに残っていて、一種の懐かしさすら覚える。 市街地を南に下り、駅前のユーラシアホテルから北を眺めれば、5棟の煉瓦造建築を見つけることができる(No.37)。これは日本時代の農業倉庫であり、現在は金物を扱う販売店となっているものがある。この中の一つは1911年に建設されたということが、樺太日日新聞記事から判明している 。 商業建築というジャンルの中では、やはり旧北海道拓殖銀行の建物が最も注目される存在である(No.4)。現在はレーニン通137番地にあり、美術館として使われている。竣工は1930年で建設は大倉組土木(現在の大成建設)が担当した。設計者は明らかになっていない。鉄筋コンクリート造であるが、前述の蔵と同様に石積風に擬した仕上げを施し、古典的なコラムやぺディメントといったディテールデザインを用いて、新古典主義的な外観にしている。これは当時の銀行建築では一般的な様式である。外観からは2階建てに見えるが、2階部分のほとんどが吹き抜けで、壁に沿ってバルコニーが廻っている程度である。外壁にモルタル剥離が若干あり、そこからすがもれが生じているようだが 、全体的な保存状況は比較的良好で、構造的な問題は生じていないと思われる。しかしながら、剥離したモルタル表面からコンクリート強度が低下する懸念が大きく、早急に応急的な修復は必要であろう。 日本時代に多数建設された町家建築だが、その現存率は低い。しかしながら、他のまちを見ても町家建築の現存はほとんどなく、ユジノ-サハリンスクの現存例はむしろ例外といえるだろう。それゆえに、私たちは残った建物をよりいっそう慎重に保存し、後世の人々に伝えばければならない。 |
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| V. 1930年代の建築 貝塚良雄と樺太庁の建築 | |
| これまで、ユジノ-サハリンスクの日本期建築の中でも比較的古いものを中心に見てきたが、日本期建築物の中で最も有名で、かつ最も重要な施設は、サハリン州郷土博物館(旧樺太庁博物館、1937年)であろう。その設計者は、貝塚良雄(Yoshio
Kaizuka, 1900-74)といい、樺太庁の建築技術者の中でも卓越した手腕の持ち主であった。彼は県立神奈川工業学校を卒業し、神奈川県庁で建築技術者としての研鑚に重ねた。その後、1929年に樺太庁に移って、その建築組織の中心人物となった。樺太庁では、樺太庁博物館の他に、樺太庁中央試験所本館(1933年)・温室(1934年)をはじめとする試験所の諸施設、樺太庁別館会議室(1934年)、樺太庁新庁舎(1945年)などをてがけた。このうちで、樺太庁新庁舎以外は現存が確認されている。いずれも保存状態は良好で、彼の手がけた建築が大変優れたものであったことを間接的に証明している。 樺太中央試験所は、これまで各地に分散していた各種産業の試験研究施設を統合し、総合的な産業技術試験場とするために1929年に小沼に設置された(No.42)。農業・林業・畜産業・化学工業など水産業を除いた研究施設がここに集約されることになった。研究のための農場と付属施設、研究員のための官舎など、多数の施設を建設する必要があった。貝塚は赴任とほぼ同時にこの建設現場の責任者となり、本館を中心とした施設群の建設にあたった。 本館は鉄筋コンクリート造一部2階建塔屋付で、インターナショナルスタイルを強く意識したデザインで建設された 。このスタイルは当時の研究所建築で流行しており 、貝塚は国内外の研究所をよく研究して、かつ寒地であるサハリンに適応した研究所の建設に努力した。戦後はロシア科学アカデミーの海洋地質学・地球物理学研究所(IMGGという略称がある)として利用されていたが、規模の縮小に伴い、現在は警察学校の校舎に貸与する形で建物を維持している。建物の状態は非常に良好で、屋上に木造の屋根がかけられ、正面中央部に木造下屋が付加された程度であり、表面モルタルの剥離や玄関部分の凍害破損を除けば、ほとんど竣工当時のままである。内部の部屋割りは若干変わっているものの、実験室のテーブルやベンチレーターなど昔の設備も多く残っている。玄関部分の装飾・扉の欄間や階段窓部分のステンドグラスなど、意匠的な面の工夫にも注目すべきであろう。 温室は、本館の南隣に現存している(No.43)。主要部分は鉄筋コンクリート造で、温室部分は鉄骨ガラス張りでできている。竣工時は両翼に温室があり、コ字型の平面をしていたが、現在は東側の温室が失われてL字型の平面になっている。内部に入ると、主棟から温室に至る部分の入り口が美しいカーブを描いており、非常に印象的である。性能面においても、現在も温室として機能している点を高く評価すべきである。 樺太庁会議室は、サヒンセンターの西隣にある軍基地の一隅に残っている(No.2)。2階の窓上部に美しい円形アーチもつ建物なので、判別は難しくない。鉄筋コンクリート造の建物の外壁には全くといっていいほどひび割れがないことは特筆に価する。日本時代には地階にカフェテリアやボイラー室が、1階にさまざまな事務室が入り、2階はホールになっていて、会議室として使用されていた。現在は軍事裁判所ということで、まだ立ち入りの許可をもらったことがない。会議室の南隣には樺太庁の文書庫(No.3)も残っている。この2つが当時の樺太庁に関する貴重な歴史的遺産である。 樺太庁郷土博物館は、1935年から建設がはじまり3年間をかけて、日本の城郭を模して建設された近代的博物館である(No.1)。設計者の貝塚良雄が現場監督も担当し、展示ケースなどのデザインもてがけている。彼は、帝室博物館(現:東京国立博物館、1937年)、斎藤報恩会自然史博物館(仙台市、1934年)、スウェーデンのスカンセン野外博物館(Skansen)など、さまざまな博物館建築を研究して、この博物館をデザインしたようだ 。この博物館の様式を当時は「(東洋を基調としたる)日本趣味」と呼んでおり、1930年代にかけて、地方行政府の庁舎や博物館などで特に流行した形式であった。樺太庁博物館はその最後期にある代表的な建築の一つと言うべきである。 戦後、貝塚は故郷の横浜に戻り、小さな建設会社に就職した。戦後の日ソ関係がサハリンにある建築を忘れさせ、貝塚の業績も忘れられた。しかし、まだ彼のつくった偉大な建物の多くはサハリンに残っており、貴重な文化遺産として人々の注目を集めつつある。ゆえに、貝塚の業績は、今後日本でもサハリンでも高く評価されることになるだろう。 貝塚以外の建築技術者の建築としては、樺太庁豊原医院(No.8)が現存している。設計は樺太庁技手芦崎源策(源作)が担当し、遠藤組が施工にあたった。近代的でシンプルな外観をしているが、建物の隅部軒下にはテラコッタ装飾を埋め込んであるなど、細部意匠の巧みさも特筆すべきである。現在はチェーホフ通にあり、軍の病院と言うことで一般の立入りは許可されていないが、日本期建築の代表作のひとつであることは間違いない。また、同じチェーホフ通沿いには、旧豊原町役場も現存している(No.7)。1928年に建設されたこの建物は、外壁の塗装がロシア風に更新されているが、玄関部分の照明器具、窓額縁、屋根などは当時の状況をよくとどめている。他の市町村では役場建築の現存を確認できないため、その意味でも貴重な現存建築である。現在はサハリンインパクトとして、小規模の事務所が多数入居するオフィスビルとなっている。 |
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| VI. 樺太拓殖計画とその遺産 | |
| 新都市豊原の建設は、樺太における農業拠点としての意味も大きいことは既に述べたが、実際には日本期の農業にはあまり大きな進展は見られなかった。樺太庁は初期の段階で、樺太における農耕適地を344,872haと算出していたが、1935年の段階になっても、実際に農地となっていたのはその10%あまりである34,888haにすぎなかった
。 1933年に、樺太庁は15カ年計画で樺太の拓殖活動を推進する「樺太拓殖計画」を策定し、「資源略奪型経済」からの脱却を目指して新段階における拓殖活動の目的と各種の事業を設定した。その中で農業に関しては、「本島植民の本義」とし、甜菜製糖工場を各地に建設して、これを中心に農業振興を進める考えを持っていたようである 。国内での競争相手の存在を好まなかった北海道製糖業界の政治的な抵抗にあいながらも、最初の製糖工場は豊原の北郊外に建設され、1936年11月に操業を開始している。工場施設の施工は、大倉組土木が担当した。周辺には遠藤組など大手地元建設業者により社宅なども建設され、農産物を中心とした新しい基幹産業が豊原に生まれつつあった。生産実績自体としてはある程度の成果を収めたものの、折り悪く戦争による国内経済の悪化が影響して、他の地域に製糖工場が作られることはなかった。 製糖工場は、現在のウラジミロフカ・サハリンスキー駅(Vladimirovka Sakhalinski, 旧北豊原駅)の東側に菓子工場SAKOとして操業している(No.35)。鉄筋コンクリート造3階建一部4階建の工場施設には、若干の増改築が見られるものの、その外観は日本時代の古い写真と大きく隔たってはいない。また、工場敷地西側のドリンスク通(Dlinskaya Street)には14棟の木造長屋が今も軒を並べており、日本時代の製糖工場の社宅街が比較的良好な形で残っている(No.36)。 同様に、ノボ‐アレキサンドロフスク(Novo-Alexandrovsk)にある旧樺太庁拓殖学校(樺太庁農林学校に改称)も、新時代のための施設として建設されたものである。この学校では、専用の農場において拓殖教育の実技や専門知識を習得し、新興農業開拓地における指導者層を養成するために建設された教育機関であった。生徒は寄宿舎において共同生活をし、開拓民のような日常生活を送ることを求められた。明治初期の札幌農学校(後の北海道大学)を彷彿とさせるこの学校は、1934年に開校し、校舎は1935年に完成した。のちに樺太庁農林学校と改称され、林業の専門技術者養成のための教育課程も設けられた。 拓殖学校の校舎は、鉄筋コンクリート2階建塔屋付で建坪は249坪、設計は樺太庁技手林幹太郎(当時)が担当し、樺太庁の直営工事で建設が進められた 。凸型の正面外観と、正面中央の梯子窓が印象的な外観を構成している。現在の校舎は、農業専門学校の寄宿舎となっており、2階3階部分を増築して矩形の外観を構成しているが、竣工当初の痕跡をうかがうことはさして難しくない(No.44)。同校の校長宅・副校長宅の2棟も校舎付近に現存している(No.45)。外観の保存状況がよいことに加え、軒を詰めた新しい形の官舎であり 、現居住者と旧居住者に親交があることも、評価すべきであろう。 また、1940年に開設されたNHK豊原放送局の局舎もガガーリン公園(Gagarin Park)の一部、ロシア正教会の北隣に現存している(No.39)。鉄筋コンクリート造平家建の局舎の中には、日本時代の放送設備がそのまま残り、現在でも利用されているらしい(1996年調査時)。また、この放送局関連の社宅が1棟現存している(No.40)。また、局舎の横にある2本のアンテナのうちで、低い方も日本時代のものである。 |
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| おわりに 現存建築の総括と評価 | |
| 最後に、現存状況の総括として、2001年8月31日現在でユジノ-サハリンスクに現存する日本期建築を別表に、その位置を略市街図に示した。ここで「日本期建築」とした条件は、1)古写真などから日本期の建築であることが明らかなもの。2)戦前の居住者や学識経験者・現居住者などの複数から日本期建築であるという聴取証言が得られたもの
。3)半紙版の窓など、日本期のものと特定できる材料・特徴を用いているもの、4)古地図上の位置や特徴が現況と一致するもの、である。上記の条件では日本期建築という特定ができず、ここでは発表を見送った建築物がまだ数件存在するため、総数は50件前後と考えられる。これは評価の分かれる数字であるが、たとえば、中国東北部の大連やハルビンなどとは質量ともに比較にならないが、稚内や釧路など、旧豊原市と同規模以上であった北海道東部・北部の諸都市における現存状況よりもむしろ多いといえる。特にサハリンスカヤ通界隈のように、軍司令官邸を中心に歴史的な建築物の多い一画もあり、これらは豊原=ユジノ‐サハリンスク市街地の成立と発展を考える上できわめて重要でもあり、歴史的遺産としての価値は非常に大きい。また、貝塚良雄という、優れた建築技術者の足跡を色濃く残している点でも、特別な価値を認めることができる。 ただ、総じて保存状態が悪く、市民の認知度も意識も低い。行政レベルでの対応も皆無に近く 、放置しておけばこのまま朽ち果てるか、不意の火災や故意の破壊などで消滅していくものが大半であると考えられる。ここで取り上げた日本期建造物が日ロ両国にとって貴重な歴史的遺産であることには、異論を挟む余地はない。だが、遺産は活用しなければ資産とはならない。そしてこれらの遺産は、このまま放置しておけば、時ともに朽ち果て滅びていく存在である。日本期建築は老朽化し、刻々とその数を減じている 。これらの日本期建築を今後どのように保存・修復して後世に伝えていくのかは、日ロの両国民が真剣に考えなければならない課題の一つである。サハリン州において両国が相互理解・友好親善の姿勢を示すために、日本期建築物の調査・保存・修復事業は最もモモニュメンタルで効果的な手段である。そのためには、相互的な理解と協力体制が不可欠であり、それゆえにこうした事業の成否は今後の日ロ関係を占うメルクマールの一つとしても注目されることになるだろう。もし近い将来、日本とロシアが協力して日本期建築を両国の相互理解と友好親善の象徴として後世に残すことができれば、それは日ロ新時代の象徴として誇るべき事業となるだろう。そのためにはまだ多くの課題が存在するが、こうした形による文化遺産保護に真剣に取り組むべき時期に来ているはずである。 なお、本稿は第1回小渕フェローシップによる研究活動の一部として成立したものである。現地調査にあたっては、サハリン州郷土博物館のIgor A. Samarin・白石英才の両氏に一部協力をお願いした。ここに記して謝意を表したい。 |
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| 図 ユジノ-サハリンスクの日本期建築位置図 | |
| 表 ユジノ-サハリンスクの日本期建築一覧 | |