
宮崎駿と言う人は良くも悪くも語りたくなる人物なのは間違いない。いいところのお坊ちゃんが大学でマルクスに衝撃を受け、挫折し、紆余曲折を経て日本人論に辿り着いている。現代日本人インテリの象徴のような人だ。
宮崎の新作である「千と千尋の神隠し」は前回の「もののけ姫」と一対をなす宮崎流原日本人論の成果物である(*1)。前回のもののけ姫同様の鬱な内容だったら困ると思って見に行ったのだが、べらぼうに面白かった。
宮崎は間違い無く天才だ。圧倒的で反論を許さないイメージの奔流。構図の緻密さ。語ることをやめられないエネルギー。どこをとっても文句が出ない。横溢する説教くささは幾分ウザイが、この位の欠点が無いと見ている方がたまらないだろう(*2)。
以下ではこの作品がどれくらいまっとうな児童文学でかつ民話のモチーフを継承しているのかについて軽く触れていく。

冒頭、一家が隋道を抜けると道祖神(塞の神)が埋もれた草の丘に出る。小さな川があり、異界との境界であることが示されている。トンネルを抜けるのは言うまでも無く生まれ変わりの擬死再生儀式。そこを抜けて看板建築のテーマパークに出るのだが、マリーセレストよろしく人の気配は無く、一軒だけ料理が準備された店がある。
予告編でここまでだけ見たことがあったのだが、本当に怖かった覚えがある。意識的に予告編では音楽を減らして神隠しの不気味さを出したのだそうだが、まじで鳥肌アンド涙目になったっす。本編では不気味さが随分減じられているが、もし予告編のままだったらお子様たちが阿鼻叫喚の地獄絵図を繰り広げていたことだろうに。
それにしても、異界に繋がっているトンネルに、バブルではじけたテーマパークを持ってくるのはすばらしい感性だ。夜の遊園地や祭りの夜店、サーカスなんかに通じる異界体験への入り口だ。それに引き続く看板建築の町並み(*1)もすばらしい出来栄えで、千尋が表通りで立ちすくむシーンでは構図の取り方の妙とあわせて大感動。美術さん万歳。ここをもっと作中で書き込んで欲しかったなあ。宮崎は「日本だってアジアだ」と言う確信がある人なので、彼自身こう言うのは大好きに違いない。
その確信が爆発しているのが表通りの終端、橋を渡った先にある温泉宿「油屋」の造形で、赤・緑・金の原色三点セットで彩られた俗悪のお城。すばらしい。すばらしいですよ、宮崎君。神々(*2)の温泉宿にこのセンスは脱帽っす。
異界に迷い込んだ主人公に助けの手を差し伸べる白面の美少年(*3)、ハクはなぜか千尋の事を知っている。ここラ変は児童文学の王道ですな。彼に促されて千尋は油屋の最下層にあるボイラー室に向かう。ここのモチーフは「冥界下り」。地底の王である火の神は異形だが主人公の強力な味方になる。いや、作品内では菅原文太扮する釜爺なんだけど。
次に千尋は湯女のりんやオシラサマに助けられて、一転油屋の最上階へと向かう。ダイナミックな物語構成がすばらしい。湯屋の主、湯婆はなぜか西洋風の魔女。これが日本だと鬼婆になっちゃうからでしょうかね。千尋はここで、湯婆の試練に耐え(「問い」に対して、協力者に知らされていた正しい答えを返す)て、ぶじ契約を果たすのだが、その代償に本名から文字を抜かれてしまい(名を奪われ)、千と命名される。題名「千と千尋の神隠し」と言うのがここで明らかになる。格好良いなあ、やるよな宮崎。
この後千尋はハクにつれられて秘密の花園へ。懐にあった花束のカードを見ることで、密かに自分の名前を取り戻す。ここの部分の方が再生っぽいかも。
そもそも千尋自身がこの神々の世界からすれば異人なのであり、マレビトなのだが、彼女は契約によってこの世界に受け入れられている。その彼女が同じく異物である「顔無し」を招く(家人の招きが無ければ陣の中には入れない)のは面白い。そのことで彼女は、後の「神の嫁」となる権利を得ているのだ。
顔の無い客(The guest with no face)というのはマレビトであると同時に、災いをもたらす存在でもある。民話だけでなく児童文学にも範を取るならば、ゲド戦記に「影」と言うのが登場している。これも個人が異界より招きいれた存在で、そのことで世界に大いなる災いを呼び込むことになっている。
これに対してオクサレサマは典型的な「汚いこじき」や「小人」のパターンである。つまり協力者なのだが、これは登場時には誰もが嫌がる存在として現れ、唯一主人公だけがやさしく接するため、隠された正体を証して主人公に秘密の情報や呪具を与えると言う存在である。こちらは世界に準じた存在であり、マレビトではない。
千はオクサレサマに授かったアイテム(*1)でまず苦境に会った王子、ハクを救出する。釜爺は、千がタタリを踏み潰したことで受けた穢れを落とす(*2)。王子にかけられた呪いは主人公によって解かれ、普通ならそのまま結婚していつまでも幸せに暮らしましたとさ。でとっぴんぱらりのぷうなのだが(*3)、さらに話は続く。
千はイケニエとして顔無しの元へと送り出される。折口だすね。ミコやヒメと言う単語はもともと神の嫁という意味なのだそうだ。千は一人、神を鎮める饗宴が行われた大広間で、顔無しと対峙する。そこで顔無しは(登場時から数えて)三度千に贈り物を申し出るが、千はこれを断る。このことで顔無しは力を失い、暴れ始めるが、千はだんごの力でこれを撃退する。
役目を果たした(神を送った)役者は舞台を去る、と言うわけでもないだろうが、千はその足で呪いを解くための旅に出る。顔無しもまたそれを追う。マレビトは住民によって殺されて、神に祭り上げられでもしない限り元の姿で立ち去るのだ。これ以降の顔無しは従者に役柄が変更される。
遠浅の海を軽便鉄道がひた走る光景は幻想的で、淡々とした描写ながら吸い込まれるような雰囲気がある。いいシーンだ。浮島に立つ一軒家や、ホームで誰かを見送る少女の影など、背後のストーリーを思い巡らせたくなる要素が詰まっている。写真の尺の(*1)関係でこのパートは随分削られたらしいのだが、もったいない話である。
電車は(電気なの?)沼の底に到着し、千尋は銭婆に許しと手作りの髪留めをもらう。さらに帰路、千尋はハクの真の名(*2)を思い出すことで彼の最後の呪いを解く。物語的には旅は本来探索と成長を意味する記号である(*3)、と言うことなのか。
それに続く最後の試練の場面、ならびに帰還のシーンに関しては、けれんの無い展開でまとめている、多くは語らないが、うまい終わり方ではないだろうか。
以下感想(ネタバレ)。
呪いが解けたハクと千尋が夜の空をロケットダイブするシーン。あそこは普通チューするでしょう。大きいお兄さんはどきどきしてしまいましたよ。
「正解探し」の試練は「ここにはいない」と言うフツーの落ち。けれんの無いことは良いことだ、と言うのが最近の持論になっておりますので何の文句もございません。
「振り向いてはいけない」の試練は(以下略)
ラスト、あちらでの出来事を忘れてしまった千尋が、何かを思い出そうとするようなそぶりを見せるシーンでは号泣しました。
終わり
え、題名ですか。いやそれに関してはなんの疑問もございません。