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房総石造文化財研究会
20号
昭和59年05月25日
 
 <目次>

1.第12回 研究見学会 6月17日(日) 印西町で開催

2.続・孝心塔  沖本 博

3.資料紹介 印西町石造物 第三集 草深地区調査報告書  
印西町教育委員会

4.会員消息

5.事務局から

復刻注:モノクロ・実質本位・内容優先の本物より、最低限見やすい体裁にしました。 目次をつけ、カラーにする等、印刷物の体裁を、インターネットの体裁に変更してありますが、内容は変わってません。 検索と閲覧の便のためPDFにしてません。 ただし、縦書きを横書きにする関係で、漢数字の一部を算用数字に変えてます。
 文中の□□は、欠字。丸数字、記号等は直し忘れで変更してなく、文字化けしている箇所があるかもしれません。 推測してください。 その他、カラーカットは、IBMホームページビルダーの画像から適当に補いました。 会員の住所・メール等は、省略〔・・・〕しました。また、▼を◆に変更、○+1.2.3は、(1)、(2)に変えました。

1.第12回 研究見学会 6月17日(日) 印西町で開催

 去る4月の総会での今年度事業計画の通り、第12回の研究会は、6月17日に、印旛郡印西町で開催いたします。
 すでに、地元会員の高橋良助氏、森耕一氏、榎本正三氏と打合せを行ない、多大の御協力を頂けることになりましたので、多くの方々の出席をお待ちします。
 印西町は、手賀沼と利根川の接点にあり、県北部の道は「木下街道」と云われるほど、各方面よりの交通の拠点で、木下(きおろし)の名の通り、舟運を中心に発展した土地で、北は橋一つへだてて茨城県に通じています。茨城方面や埼玉方面の文化面での窓口でもあったとおもわれます。
 寛永15年の時念仏塔をはじめ、月待塔、庚申塔などバラエティに富んだ石造物を見学することができましょう。

  ○
一、日時 六月一七日(日) 午前10時
一、集合場所 印西町中央公民館 成田線「木下」下車 徒歩5分
一、会費 中食代実費(500円程度)
一、参加申込 事務局(沖本)まで、電話又はハガキで6月10日まで申込のこと

  ○
 なお、この時期なので天候が心配ですが、当日の天気予報が決定的に雨ならば (小雨でも)一週間延期し、6月24日同じ要領で実施、再び雨ならば、この計画は一旦中止いたします。
 天気予報が微妙で、当日の午前6時−7時の時点で雨が降っていなければ、関係者は、定刻に中央公民館で待機することにします。
心配の向きは、事務局(0472-44-xxxx)に照会して下さい。事務局から参加者への通報は特に行ないません。
  ○
 交通は、総武線・京成電鉄で成田駅から、東京方面の方は常磐線で我孫子駅からそれぞれ成田線乗り替えとなります。
 なお、参加者の状況をみて、国鉄千葉駅、国鉄「稲毛」駅などで、マイカー便乗も検討しております。
 蛇足ですが、早めに着かれた方は、中央公民館へ入ってお待ち下さい。(館長は、会員の榎本正三氏です。赤レンガ風の堂々たる建物です。)



2.続・孝心塔  沖本 博

 前号で、不二道孝心講のことを紹介したが、会員の方から情報を頂いたり、問い合わせもあった。また、私自身も良く調べてみて新しい知識も得たので、ひきつづき「不二道孝心講」について書くことにする。
 印西町での研究会打ち合わせに、高橋さんたちを訪ねて出向いた折、大変興味ある事実にぶつかった。
 高橋さんの部落(印西町浦部)に「孝心橋」という橋がかかっていた。土地改良事業で取りこわし、橋材の一部が放置されそうになったので、高橋さんが引き取り、近くの光明寺へ運んでおいたという。あとでそこへ行ってみた。折り重なっているので、銘文は十分見えなかったが「明治十四年」とあり、人名も刻まれている。研究会のとき、拓本を持参して見せて頂けることになった。楽しみである。これで、印西町にも不二道孝心講が
存在したことが判明したのである。一緒におられた森耕一さんのお話しでは、成田市の宝田、芦田方面で「孝心塔」を見たことがあると云われる。
 一色さんが作られた「我孫子市金石資料」を見ていたら、中峠の天照神社にある「富士浅間大神●」と刻む石祠(明治14年)の台石に「当村孝心同気」と刻んであるのを見つけた。
「同気」とは、不二道独特の言葉で「同志」と同意語である。
 これで、前号に書いたのと合わせて野田―我孫子―印西―成田―富里というラインが浮かび上がって来たのである。

   ○
 ところで、県立図書館で文献を漁っていて「香取郡史」の中で、もっと重大なことを知ることができた。
 香取郡山田町の天神坂といわれるところに、明治14年に建てられた「天神坂修治成功碑」という記念碑があり、その碑文によると、涌水の流れる難渋する坂であったが、古内村(山田町)布施治兵衛という不二道の指導者(碑文では教社之一長也とある)が、篤志の助力で銚子の石を求め、修復したというのである。
 この工事に多数の男女が集合し、数月間で完成したと碑文に記している。
 同書に、布施治兵衛、行名は豊行三雪、不二道講社の下総・常陸両国取締を依託され、講員七千名に達し道路・橋梁の修繕をなし災変に際しては数種の救助など力を尽し…云々と記述されている。
 また、不二道の木内東行(東庄町)、吉田布行(東庄町)についても「香取郡史」は手がかりを残して呉れていたのである。

   ○
 富士講は、江戸初期に長谷川角行によって教義が打ち立てられ、これを教祖として法流を継ぎ、六代目食行身禄が享保18年富士山六合目の烏帽子岩で入定し、身禄の弟子たちによって、その組織化がすすみ「江戸八百八講」といわれるほど普及興隆した。講という形になったのは、身禄没後のことであろうとされる。
 これを継いだ鳩ヶ谷の禄行三志は、身禄の遺した教書を実践し、実生活に及ぼす道として「孝」を中心に据えた。
 この思想をここでくわしく述べることはできないが「働きを以って天地万思に報ゆる」とした身禄の教えを出発点とした実践哲学であると理解される。「孝」は、仙元大菩薩の背後にある「モトノチチハハ」なる天地創造の神、この世界に存在する二元の和合を理想とする―。
 私なりの浅い勝手な解釈だが、三志の没した安政2年ごろから、三志の門人たちによって「土持ち」は積極的に行われたようである。
 深山幽谷で難行苦行するより、世のため人のため難行苦行せよ、という三志の教えに従って、講員たちは地域社会の奉仕活動に従事したことは、前述の通りである。

   ○
 鳩ヶ谷市には、小谷三志の生家を記念館とし、不二道孝心講に関する資料が保管されていることは聞いていた。
 さきに「富士講の歴史」を書かれた岩科小一郎氏の助言で、鳩ヶ谷市在住の岡田博氏に手紙を送ったところ「鳩ヶ谷市の古文書第六集 不二道孝心講土持御意簿」なる資料が送られて来た。
 ページを開いて驚いた。私の想像を超えた世界がそこにあった。
 不二道孝心講の中心は、云うまでもなく鳩ヶ谷市だが、さきに述べた香取郡の布施治兵衛(豊田三雪)などは、三志没後の中心的人物で、香取郡、印旛郡、東葛飾郡が活動の舞台であり、その中の一つの記録によれば、香取郡で安政5年から弘化3年まで、29件、延14,826人の人たちが、道路普請や堤防修理に出動している。
 これらは材料に至るまで奉仕で、夜は集って不二道の話を聞き、庚申講のごとく徹夜することもあったという。
 この資料によって知り得たもう一つの事実を紹介しておこう。
 銚子市女男ケ鼻に、昭和30年6月「女男ケ鼻御来光拝礼の碑」が立てられた。不二道の人たちは、古くから日本本土最初の日の出の地として、この地を拝礼の場としていたようであるが、この造立の日、95名の人たちが集まり、銚子市の田原久次郎氏宅で「孝心講」が行われたという。この席で「不二道孝心講」から「不二道孝心会」と名称が変更されたそうである。
 この会の出席者の地域(県内)を見ると、
  印旛郡本埜村卜抗   10名
  香取郡東庄町窪の谷  1名
  同  同町平山      1名
  印旛郡 鎌村      13名
  海上郡 三川村     3名
  同   蛇園村      9名
  銚子市          16名
となっている。もち論これが会員のすべてではないであろう。しかし、三志の没後ここに120年余、不二道孝心講は、どうやら過去の存在となってしまったようである。
 岡田博氏は、資料のあとがきに、「信心の義に付一銭半紙たりとも、かたく取るべからずなり」一人の専従者も持たず、信者の寄金を一銭たりとも私せず、美しすぎた故に亡びたと申すべきでしよう―。と述べておられる。

   ○
 野田市下三ケ尾の「孝心塔」を見てから、もう5年近くなるであろうか。
 この塔を中心に詮索を始めることなど思ってもみなかったが、ここまで来るともう後に引けなくなって、近い中にこの目で銚子の碑や山田町の碑も見届けねば気が済まなくなってしまった。
 ひきつづき、不二道孝心講の房総における足跡を追いかけてゆくことになりそうである。
 もしも、各地に遺された石造物なり、あるいは文書、伝承でも目に止まった折は、どうか御連絡をお願いしたい。


3.資料紹介 印西町石造物 第三集 草深地区調査報告書 印西町教育委員会

さきに第一集(板碑)第二集(小林地区)が刊行されているが、それにつづく石造物調査報告で、当会員の高橋良助氏を会長として、榎本正三、森耕一の両氏も調査会のメンバーとして、このほど刊行された。A4判 123ページ。
 印西町草深地区というのは、木下あたりの中心部より南にあたり、ニュータウンなどにかかる開発中の地域である。
 江戸時代初期ごろまでは、小金牧の一部で延宝年間から開墾に着手したといわれ、石造物も寛文年間造立のものが二点あり、これが初出である。
 この地区には268点の石造物が確認され、報告書には全銘文が収録されている。悉皆調査で全銘文を採集するのは仲仲大変なことである。印西町では、小学校区単位(6地区)に調査をまとめられるという。速かな完成を期待したい。


4.消息

 ▼川崎喜久男氏(富津市) ・・・・県立木更津高校へ。
 ▼谷島一馬氏.(市原市) ・・・・山武考古学研究所の主任研究員へ
 ▼阿由葉 司氏(成田市) ・・・・教育庁文化課(博物館準備室)へ。
 ▼鈴木仲秋氏(市原市)  ・・・・県立総南博物館長に就任。

  ○
 なお、千葉県石造文化財調査実施のとき事務局長だった教育庁文化課 渡辺智信氏は、財団法人千葉県文化財センターへ異動就任されました。
 その他、事務局でわからない異動などあるかも知れません。また、会員の活動状況はできる限りお知らせ頂ければとおもいます。


5. 事務局から

○…市川市の宮澤友喜枝さんから、部厚い大型封筒が事務局へ届きました。
 前号の消息に紹介しましたが、市川市を中心に、道標や道標銘を丹念に調べ上げたもので、地図も付いています。
 総数103点、古道を探しながら採集された「足でかせいだ」貴重な資料ですが、解析はもっと先にしたいということなので、そのまゝ預かることにしました。遠くは、柏、佐倉から、東京は葛飾・江東まで、イヤ御苦労様でした

 ○…梅雨の時期ではありますが、計画通り、印西町の研究会を実行いたします。やゝ交通の便は悪いのですが、それだけに見るチャンスも少ないとおもいます。
折角、地元会員の三氏も張り切っておられます、(参加者には、資料紹介の印西町の報告書を無料で頂ける特典?つき)、早めに事務局へ御連絡下さい。
 8月の第2回研究集会は、8月25・26日、流山市県立青年の家と決定しました。次号詳報。今から御計画下さい。(ただし施設の関係で定員25名まで)

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