| 2001年08月 HPトップへ |
| その2. 馬乗り馬頭観音、入門講座講義の資料 採録 |
| 2001年8月19日 第5回石仏入門講座で、町田 茂氏が講演された資料です。 同時に行われた、田中英雄氏の山の石仏もその内に・・。 |
| ↓ 房総石造文化財研究会第5回石仏入門講座 講演資料 |
| 千葉県を代表する石仏 馬乗り馬頭観音 平成13年8月18日 房総石造文化財研究会会員 町田 茂 1.はじめに 2.造立分布 3.東総地方と西上総地方の馬乗り馬頭観音との比較 4.馬乗り馬頭観音の起源 5.代表的な馬乗り馬頭観音 1)最古の馬乗り馬頭観音 2)最大の馬乗り馬頭観音 3)彫りの優れた馬乗り馬頭観音 市原市椎津新田 路傍、 袖ヶ浦市代宿 路傍 4)動きのある馬乗り馬頭観音 5)珍しい丸彫りの馬乗り馬頭観音 参考文献 |
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| 1.はじめに 野にある石仏の中でも数が多く、且つみんなに親しまれているものヽ一つに馬頭観音がある。 この馬頭観音の中で馬に乗ったものを特に″馬乗り馬頭観音"と言い、珍しい石仏の部類に入るがこれが千葉県内に数多く建立されている。たヾ千葉県だけにしかないと言う訳ではなく、長野県を始め関東各地にも少数は存在するが、千葉県に圧倒的に数多く建立されているので、正に千葉県を代表する特色ある石仏と言っても過言ではない。 馬乗り馬頭観音を始めて世に紹介したのは、昭和55年『日本の石仏』誌に「東総の馬乗馬頭観音」として発表した千葉県海上町の故服部重蔵氏であった。そしてその中で述べられている通り″馬乗り馬頭観音″の名付け親でもあった。 2.造立分布 昭和55年に服部重蔵氏が最初に発表した時の千葉県内の総数は87基であり、しかもその内の82基が東総地方にあったことから、馬乗り馬頭観音は東総地方が発祥の地で、東総以外の千葉県下にある5基は、飛沫的なものとされていた。 この地方には馬に乗らない普通の馬頭観音は殆ど見られず、寧ろ馬に乗っているものが一般的な馬頭観音と考えられる程地域色の強い石仏となっている。 その後今日まで約20年間の調査経過を第1表に示したが、現在総数247基になり、最初に発表された時の約3倍の馬乗り馬頭観音が確認されている。 これらのデータを基にして、馬乗り馬頭観音の全てを地図上にプロットしたものが第1図である。 ●編集部より・・・→図1はじっと見てるとかっこいい図だから是非見よう。 これから判ることは、東総地方のグループと、西上総地方の東京湾に面する内房地方のグループの二つに大きく分かれて分布しており、これ以外の地域にはあまり存在していないことである。分布図には三面多臂の馬頭観音を●印でプロットしているが、西上総地方のものは三面多臂がほとんどであり、東総地方の一面二臂グループとは、はっきりした差異を見せているのが良く判る。 3.東総地方と西上総地方の馬乗り馬頭観音との比較 第一に見られる大きな差異は、東総地方では殆どが一面二臂で、持物は持たず馬口印を結ぶものが多い。そして西上総地方のものは三面多臂(六臂、八臂)であり、第一手が馬口印を結ぶ他に、輪宝、三叉鉾、法棒、数珠、宝鏡等の持物を持ち、施無畏印を結ぶ例もある。勿論多少の例外はあるが、これ程見事に両者がはっきり分かれていることには驚きを禁じ得ない。
その理由として、 1)両者の馬乗り馬頭観音像形形態には、明らかに差異がある。(一面二臂と三面多臂の違い) 2)西上総地方の馬乗り馬頭観音には、在銘のものとしては最古である元禄十七年造立のものが市原市東国吉にあり、且つ他のものも東総地方に比較して年代的には殆ど同一時期に建立されており、必ずしも東総地方が発祥の地とは言えない。 馬乗り馬頭観音最古のものが市原市にあるのは、奈良時代に上総国分寺が置かれるなどこの地が常に上総国の中心地であり、延宝元年、延宝四年など千葉県下でも一、二を争う古い馬頭観音もあり、寧ろ東総地方より先駆的であったと思われる証左がある。 市原市内の調査例から見ると、馬頭観音像塔の造立は1760〜1820年がピークであり、馬乗り馬頭観音が早期に出現する素地は充分にあったと考えられる。 3)両地区の間には、宗教史上特異な七里法華と言われる地域があり、信仰の流れが完全に阻害されており、両地区間の交流はなかったものと思われる。 七里法華と言われる地域は、土気・東金城主であった酒井定隆の領内七里四方を言い、丁度東総地方と西上総地方の中間に位置する場所である。 長享二年(1488)酒井定隆は、日蓮宗の日泰上人に帰依し領内七里四方の領民全てを日蓮宗に改宗させた。世にこれを七里法華と言い、地蔵菩薩を始め庚申塔なども含めて殆どの石仏が見られない石仏の空白地帯となっているのである。 それ放この地域の北と南では信仰の流れが完全にせき止められ、仮に東総地方が発祥地であったとしても馬乗り馬頭観音が東総地方から上総地方に波紋のようにひろがって来たと言うことはなかったのではないかと思われる。 上総と下総の東の境界は栗山川、西は村田川である。従って芝山町、松尾町、成東町は上総に入る訳だが、七里法華地域に遮られた形でこの地域は下総地方の影響下にあり、馬乗り馬頭観音も下総の特徴である一面二臂の形式となっている。 第二に東総地方と西上総地方との目立っ違いは、塔の大きさであろう。 つまり一般的に言って、西上総地方の馬乗り馬頭観音の方が大きい塔が多く、石質も良質のものが使われているようである。 千葉県内では良質の石材が産出されず、僅かに銚子石(砂岩)や房州石(凝灰岩)が見られるが石塔には不向きであまり使用されていない。 それで石材は周辺の県から運ばれて来たと考えられるが、利根川が主な輪送軽路であった東総地方に較べて上総地方は対岸の伊豆地方から良質の石材を運ぶのに水運に恵まれていたことは間違いない。 数量的には圧倒的に東総地方に多く、その評価は決して変わるものではないが、芸術的観点から見た場合、上総地方の方に優れたものがやヽ多いように見受けられる。 4.馬乗り馬頭観音の起源 馬乗り馬頭観音の起源に就いて服部重蔵氏は、「香取郡山田町、東庄町に4基ある木造の馬上趺坐馬頭観音がモデルになっている。しかし馬に乗る場合は跨がるのが常態であり、趺坐では不安定である。そういうことから安定性のある跨坐型に変わって普及していったものと考えられる」と述べている。(文献AB)
このように馬上跨坐馬頭観音の方が馬上趺坐像よりも早く出現している点で、必ずしも木造馬上趺坐像がお手本になっているとは言えず、この説には疑問が多い。しかも木造の馬乗り馬頭観音が何処から来たかと言う点には触れられていない。 馬頭観音が馬に乗ると言う発想は、馬が馬に乗るようなもので考え難いところもあるが、勿論馬頭観音は馬ではないし、普賢菩薩が象に乗り文殊菩薩が獅子に乗るように、馬頭観音の乗物が馬と考えるのは極く自然なことかも知れない。 そう考えれば千葉県以外の地域でも容易に馬頭観音を馬に乗せると言うことは考えられることであって、長野県など遠く離れた地域に単独で出現するのも頷けることである。 例えば福島県にある4基の馬乗り馬頭観音は、いずれも馬が横たわっている上に乗っているもので、恰も馬が基礎石代わりとして用いられているかの如き形式だが、これは他地方では見られない全く別な発想から造られており、千葉の影響を受けたものとは考え難い。 一例として示した右の写真は、福島県下郷町の路傍にあるものだが、台座に天明元辛丑五月道立、信州高遠石工勝間藤歳の銘があり、見事な彫りである。 この他長野県、埼玉県などにも数基の馬乗り馬頭観音が存在することが報告されているが、これらが全てある特定の地方から伝播して行ったとは考え難く、馬の守護神である馬頭観音が馬に乗るのは極めて自然に考えられることであり、自然発生的に各地で造られていったものであると考えるのが妥当であろう。 そう考えれば千葉県以外の地域でも容易に馬頭観音を馬に乗せると言うことは考えられることであって、長野県など遠く離れた地域に単独で出現するのも頷けることである。
一例として示した右の写真は、福島県下郷町の路傍にあるものだが、台座に天明元辛丑五月道立、信州高遠石工勝間藤歳の銘があり、見事な彫りである。 この他長野県、埼玉県などにも数基の馬乗り馬頭観音が存在することが報告されているが、これらが全てある特定の地方から伝播して行ったとは考え難く、馬の守護神である馬頭観音が馬に乗るのは極めて自然に考えられることであり、自然発生的に各地で造られていったものであると考えるのが妥当であろう。 (その2へつづく) |
| 写真提供 町田 茂氏。 |