この歌を読んだ時に(?)と思ったんです。
月が出るって夜でしょう。ね!なんで、ホトトギスが鳴くの?
なぜ?なぜ?ホトトギスって夜行性?寝てるよねえ。
夜中じゃないとすれば 、 じゃあ、この歌は夜明けに近い夜なのね。納得。なっとく。
明け方だったら暗くても、鳥は早起きだから鳴くもんね。 ホトトギスは歌の題材では夏の代表的な鳥。夏の夜は短いし。でも、なんか淋しい歌なんですよねえ。
ホトトギスは(カッコウじゃないよ)鳴き方が『てっぺんかけたか』と聞こえるそう。
淋しいというか、かなしげというか・・・
何かを思いふけっているうちに、短い夏の夜は白々と明けそうになり、
『あら、ホトトギスがないた、はーあ・・私の人生って、これで良かったのかしらん・・・』と
(夏の短い夜の夜明けに、ホトトギスが鳴いたのに、姿を探せなかった、有明の月が見えていただけさ。淋しいねえ)
というのがこの歌。だと思ったら、★★ちょっと違うらしい!!!と言うのは、
昔この時代には、ホトトギスの声を聞くだけの為に、夜明かしするというお遊びがあったそうなのである。
だから、『やっとホトトギスが鳴いたぞ、どれどれどこだあ、ありゃあ、いねえなあ。飛んでいったのか、どこにもいねえじゃねえか、あーあ空には有明の月がだけかよー。ちょっち残念じゃん』と言う感じらしい。
こう解釈すれば、あらまあ、優雅、というか のんきと言うか、羨ましい限りである。
なんとも、お公家さんらしい歌なのですねえ。この歌。
でも、私は先の思いの方があってるんじゃあないかなあと思うんですよ。この後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)というのは、藤原実定の事なんですが、どうもあまり人間的にはファンの少ないお人だったらしく、(いばっていたらしい)結構、軽蔑の眼差しで見られていたんですよ。
この歌は、晩年(中年後期)に作られtいるのですが、自分でも何となく冷たい視線を感じて、淋しかったんじゃないかなあ、と思えるんです。
歌の技法はとても優秀な作で、聴覚があって、次に視覚があって、次に静動があって月で〆る。
なのに、簡単ないいまわしで物悲しい。子供っぽく思えてならないんです。
子供の頃って、人生に自分で責任持たなくていいぶん、心は夢であふれていたでしょう。
毎日、何にでも、わくわくしていたと思いませんか?そのくせ、親が近くに感じられないと不安でしょうがない。
藤原実定は、実は子供っぽくて淋しがりやだったんじゃあないのかなあ。よくいるじゃあないですか。鼻持ちならない上司のおじさんが、言ってることをよく聞けば、わがままな子供みたいな事で、怒ってたり、威張ってたり。意地張ってたり、かわいそうなおじさんに見えてきたりすることが。
江戸時代の狂言師の大田蜀山人は、この歌をこの様に替え歌にしちゃってます。
ほととぎす 鳴きつる後に あきれたる後徳大寺の有明の顔
ここまで、言われるからには、ずいぶんと嫌われていたのかなあと察するのですが、
やっぱり、本当は、淋しいおじさんだったのかなあと思われてなりません。
テレビでありますよね。酔ったおじさんに、クイズを出して誰かに電話をして答えを聞いてもらうというものが。恋人や家族に、けんもほろろに電話を切られてしまうおじさん。
なんか、あれとダブって見えてしょうがない。
人生虚勢を張って生きるも、心豊かに生きるも、どちらでも1度限り。
自分の人生好きな様に生きればいいが、どうせなら皆と心底笑って心許せる時間が多い方が良いと思いませんか?自分良ければそれで良しという青年達(私も?)が多いこの頃。
この歌は何かを考えさせられる歌に思われてなりません。
なーんちゃって、小難しい事を言っている私自信が、非常に子供っぽいんだなあ。これが・・・(#^_^#)