
ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解
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Diego Velazquez "Las Meninas"(1656)
| 絵画の分析 |
ミシェル・フーコーは『言葉と物』において「自己完結した表象体系」の例として、ベラスケスの『侍女たち』を取り上げています。
『侍女たち』がどうして「自己完結した表象体系」になっているかを示すため、対比材料として「ふつうの絵画」を思い浮かべていただきたいと思います。フランドル派のような、わりと写実的な絵画です。
風景画の場合、絵画の画面はいわば「透明なガラス板」です。画家は風景をキャンバスに写し取り、鑑賞者は写し取られた風景を、画家が見たのと同じ視線で眺めます。画家の「視線」と鑑賞者の「視線」は重なり、透明な画面を通して「見られる風景」と関係しあっています。
人物画だともう一つの「視線」が加わります。モデルの視線です。モデルは画面から画家/鑑賞者を見返しているかもしれません。または、画面内で別の何かを見ているかもしれません。が、前者の場合でもモデルと鑑賞者との間には「見る・見られる」関係があり、それは画面の内と外との間での関係です。いずれの場合にも、鑑賞者と画家は画面の外にいます。
風景画の場合でも人物画の場合でも、「見られる絵画」と「見る・見られる」関係の中で関わりあう別の項、「見る者」「描く者」は「画面の外にいる」。このことをご確認ください。これが対比のポイントです。
では、17世紀スペインの宮廷画家、ベラスケスの『侍女たち』です。
画面の舞台は、宮廷の一室です。人物は都合11人。それと犬一匹。
注目点はいくつかありますが、まず第一に「画家自身が登場している」ことが挙げられます。ベラスケスらしき画家自身が、画面左手に、絵筆とパレットを手にしてまっすぐこちらを見ています。「鑑賞者を見ている」ということです、いちおう。…「いちおう」と言ったのは、この画家が取り組んでいる絵画もまた画面に描かれているからです。画面左端に、大きく。ただしこちらから見えるのは裏側です。表側は当然画家の方を向いています。だから鑑賞者には見えません。しかし画家が何を描いているかは察しがつきます。これが注目の第二点です。
画面のほぼ中央、部屋の奥の壁に鏡がかけてあります。その鏡には二人の人物が映っています。スペイン国王フェリペW世とマリアーナ王妃です。画家はこの二人をモデルに絵を描いているのです。そのモデルである国王夫妻は、実に「鑑賞者と同じ位置に」立っていることになります。
そして第三点。その鏡のやや下に、こちらを見ている王女マルガリータ姫が描かれ、彼女に視線を向ける若い侍女がその両脇に。画面右端には小人と子ども。オバサンはまっすぐこっちを見ています。ここで、王女マルガリータと小人は「こっちを見ている」と書きましたが、彼女らが見ているのは「国王夫妻」です。「ふつーの絵画」なら「画面の外」にいる画家や鑑賞者を見返すはずの視線が、ここでは画面内に(反射して)登場している国王夫妻に向けられているのです。
さらに第四点。「鑑賞者」までもがこの絵画には描き込まれています。画面中央の鏡のすぐ右に開いた扉があり、この扉のところで一人の男がこちらを見ています。描かれた空間の一番奥から、こちら方向を見ているのです。すなわち彼だけが、描かれた空間全体を一望のもとに視野に収めているのです。「国王夫妻の肖像画を描いている現場の様子をちょっと見に来た男」として。
フーコーはこの作品を分析して「代理表象の体系によって自己完結している」と評しています。この絵画を描いているベラスケス自身は「絵筆とパレットを持った画家」として「表象(代理)」され、真のモデルである国王夫妻は、本来なら画面の外にいるはずの鑑賞者の位置を占めつつも「鏡」に反射する形で「表象(代理)」され、国王夫妻に場所を奪われた鑑賞者までもが「様子を見に来た男」に「表象(代理)」されて画面に描かれています。
上記の「対比のポイント」を想起していただければ、フーコーが何を言いたかったのかはおわかりいただけると思います。すなわち、「ふつーの絵画」ならば画面の外にいて、描かれた事物・人物と「見る・見られる」関係を取り結ぶ画家や鑑賞者が、「代理表象」される形で画面の中に取り込まれてしまっている、ということです。絵画を成り立たせている制作・作品・鑑賞というすべての諸関係が画面の中にある。「自己完結して」います。この絵は鑑賞者すら必要とすることなく、現実世界から遊離してそれ自体で完結した「表象の世界」を成り立たせているのです。
| 「表象」とは |
フーコーは「表象・代理」に当たる語として「representation」を用いています。これが翻訳される際に「表象」となったり、あるいは彼の意図を汲んで「代理」と訳されたりします。「代わりに置かれるもの」のような意味合いです。
ここでの「表象」は、いわば「世界を切り分けた枠」という比喩で説明できようかと思います。フーコーは「世界を切り分ける枠」について「タブロー(表)」という言葉を用いています。「一覧表」みたいなものです。
博物学を例にとります。「生物」という全体をまず考え、これをまず「動物」と「植物」に分けます。「動物」をさらに「脊椎動物」「節足動物」…などと分けます。「脊椎動物」をさらに「哺乳類」「爬虫類」と、「哺乳類」をさらに…こうしてやっていくと、生物全体は「種」という「枠」に切り分けられていきます。
こうした「枠」は一つ一つが部品となって「生物の分類表」という壮大なタブローを構成することになります。こういう形で、博物学は生物の世界を「切り分けて枠に整理している」のです。そしてこの「枠」の一つ一つが「表象」です。表象と表象とが支えあって世界全体を構成している「かのように見える」ようにしているもの、です。
が、いま「かのように見える」と書きましたように、その「世界の切り分け方」は他にも考えられる切り分け方の一つにすぎません。切り分け方が変われば、おのずと見え方も変わる、すなわち「表象」のありようも変わるわけです。
例えば、フーコーは『言葉と物』の序文で「中国の事典」を取り上げています。この事典では、「動物」を次のように分類しています。
a.皇帝に属するもの
b.芳香を放つもの
c.飼い慣らされたもの
d.乳呑み豚
e.人魚
f.お話に出てくるもの
g.放し飼いの犬
h.この分類自体に含まれるもの
i.気違いのように騒ぐもの
j.数え切れぬもの
k.駱駝の毛の極細の筆で描かれたもの
l.その他
m.今しがた壷をこわしたもの
n.遠くから蝿のように見えるもの
近代人の目から見ると滑稽に見えますが、この事典を編纂した人間の目から見ると、これでも一つ一つの分類項目は「それ自体が他と区別され、他と重複することなく自立しているもの」だったのです。そして、この切り分け方もまた、「表象体系の一つのあり方」にはちがいないのです。
つまり、「表象」というのは、「あるものを見えるようにするもの」でありながら、同時に「他の見え方を隠蔽する」という作用をも発揮しているものなのです。もっと短く言うと、「見せることで隠す作用をはたすもの」なのです。
【文:serpent-owl】
(初稿:2001/7/7)