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ソシュールの理論とその基本概念

 言語学に革命を起こし、構造主義に基礎を与えたフェルディナン・ド・ソシュール(1857〜1913年・スイス)の言語学。現代思想の源流の一つであり、そのものの見方の基本ともなっている思考の枠組みを簡便に説明します。(「知の森」の関連スレッドが過去ログに収録されました。こちらから。)

1.ソシュール以前の言語観
     第一期・古代〜近代初頭
    第二期・近代
    第三期・ソシュールの時代
2.「言葉」の概念・社会と個人
    ランガージュとラング
    ラングとパロール
3.実体から関係へ・恣意性
    部分・要素からは見えない体系
    切り分け方の相対性・恣意性
    「すべては差異であり関係である」
4.その意義

 

1.ソシュール以前の言語観

 「ソシュールが何を変えたのか」、これをはっきりさせるために、まずはソシュール以前の「言葉の捉え方」を概観しておきましょう。「第一期・古代〜近代初頭」、「第二期・近代」、「第三期・ソシュールの時代」の三期に分けていきます。
 
第一期・古代〜近代初頭
 
中期プラトンの対話遍『クラテュロス』(副題「名の正しさについて」)によると、古代ギリシアの時代、二つの学派が対立していました。
 一つはヘラクレイトスの流れを汲むクラテュロスに代表される学派であり、「名称とそれが指し示す事物との間には自然な関係がある」、そして、「自然な関係がない場合真正な名称とは言えない」とする立場です。簡単に言ってしまえば、イヌを「犬」、「dog」、「chien」と呼ぶ言語がありますが、それらのうちどれか一つが「真正な言語」であり、他は間違った言語であるということになります。
 もう一つはこれに真っ向から反する、デモクリトスに代表される相対主義的な考え方で、「事物の命名は単に社会的な約束事による恣意的なものにすぎない」ので、馬を「horse」と呼ぼうが「cheval」と呼ぼうが「Pferd」と呼ぼうが、どれかが正しいということはないと主張します。

 中世になると、キリスト教の影響で「ヘブライ語こそ唯一の母なる言語」という考え方が唱えられたりもしましたが、言葉を人間理性の具現とし、思惟と言語の一致において捉える「一般理性文法」を説く学者もいます。『ポール・ロワイヤル文法』を著したランスローやアルノーなどです。
 これは、思考の法則性そのものから言葉を説明しようとするものです。個々の言葉は、人間が思考を進める際にイメージしている観念と完全に一致し、言葉の法則(論理法則)はすなわち思考の法則でもある、と考えます。また、諸国の言語は一見まちまちに見えますが、人間理性が普遍的である以上、潜在的な基本構造においては同一のものに還元できるとしています。

第二期・近代

 哲学や神学の影響を離れ、言語学が科学として脱皮し始めます。18世紀末、ジョーンズ卿らによるサンスクリット語の発見、そしてそれを受けてのボップによるサンスクリット語と欧語の比較研究がその大きな転回の契機になります。「インド・ヨーロッパ祖語」という概念が成立し、文法や語彙の比較を通じて欧語の起源を探究する方向が生まれました。
 また一方、言語学が自然科学の影響を受けた側面もあります。ダーウィン進化論の影響です。「言語は生まれ、成熟し、やがて死を迎える」という議論が大真面目でなされました。
 19世紀後半になると、シュライヒャー、ヘルマン・パウルら少壮文法学派は「音韻変化の法則性」に注目し、「音韻変化の法則に例外はない」とまで豪語します。こちらは、時間経過にしたがって音韻が変化する必然性を追究するという形で、言語の「進化」を考えたと言えます。

第三期・ソシュールの時代
 「文献学」として哲学や文学の下位学問でしかなかった言語学は、自然科学の影響を受けながら哲学から独立しましたが、19世紀末になると、今度は自然科学の概念や方法の混用から自立しはじめます。すなわち自然と文化の原理的区別を意識し始めたのです。言語活動は必ずしも人間の本能という普遍性に還元できず、社会的に構築された約束事としての制度性を持っているという側面が注目されてきます。そして、ソシュールが登場します。

 ここで概観した言語学の変遷のうち、ソシュールとの関連でとくに重要になってくる部分は、すでに「第一期・古代〜近代初頭」に出ています。「事物と言葉の一致」、そして「思惟と言葉の一致」です。
 あらかじめ事物があって、それに対して「自然なつながり」であれ「社会的な約束事」であれ、ラベルを貼り付けるように言葉が対応していく。事物と言葉との間には一対一の対応が成り立ち、言葉は常にある事物の観念を鮮明に輪郭づける。「事物」という実体が言葉に先立って存在しており、その実体に根ざして「言葉」が成り立っている、という考え方です。
 そして「思惟と言葉の一致」。こちらは、思惟を支える観念と言葉との間に一対一の対応が成り立っているという考え方です。言葉は常にある観念を鮮明に輪郭づけ、間違いのない思惟を支えてくれるがゆえに、言葉の法則は直ちに思考の法則ということになります。
 事物と言葉が一致し、思惟と言葉が一致するとしますと、言葉を介して「事物」と「思惟」が一致することになります。言いかえれば、「存在と思惟の一致」。
 「存在と思惟の一致」というのは、ヘーゲルの時代くらいまで、確実な知の体系を確立するために不可欠の前提と考えられていたものでした。いくらモノを考えて世界を説明しようとしても、考えるということと世界とが一致していなかったら何の意味もありません。どんな説明をしても砂上の楼閣となります。ですから、古典的な体系志向の哲学は、「不可知論・懐疑主義の克服」「存在と思惟の一致」という確固たる基盤を保証する作業を疎かにしませんでした。
 が、ソシュールは、その「存在と思惟の一致」に対して、「不可能」という最終的な宣告を下すことになります。

2.「言葉」の概念・社会と個人

ランガージュとラング
 ソシュールは、「言葉」を言語学の対象として確定すべく、これに分析を加えます。その結果生まれてきたのが「ランガージュ、ラング、パロール」といった独特の用語でした。
 まず彼は「ランガージュ langage」と「ラング langue」を峻別します。ランガージュとは、人間の持つ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化能力およびその諸活動、ラングとは、個別言語共同体で用いられている多種多様な国語体を指します。

 ランガージュは人間に生得的な力とされ、人間と動物との間を分かつしるしと考えられています。端的に「言語能力」と言い換えてもよいでしょう。この能力を根底として言語、そして文化が形成されます。人間の定義として、homo faber(労働する人)、homo sapiens(知恵ある人)、zoon politikon(ポリス的・社会的動物)などがありますが、労働も知恵も社会関係も、言語という土台なくしてはありえません。そこから、ソシュールは「人間と動物の差異は言語能力の有無」と考えたのです。
 さてしかし、ランガージュは言語を生み出し、習得する可能性という「能力」にすぎません。それ自体は精神的な力であって、まだ言葉でも言語でもないのです。つまり、それはまだ「潜在的なもの」です。喩えてみれば、巨大な樹木に育つ可能性を持った「種」のようなものであって、それ自体はまだ「巨大な樹木」という姿をとっていないのです。
 これに対して、ラングは、いわばそのランガージュが「顕在化し形を持ったもの」です。ランガージュを持つ人間が、その能力によって世界を切り分け(分節化・後述の「体系の概念」を参照)、その切り分け方を共同体の中で他者と共有していく過程を通じて成り立ってくる「共同体の言語」です。具体的には、日本語やイタリア語や英語といった個々の「国語」という概念に、ほぼ重なります。

 ランガージュは先天的で普遍的な潜在能力、ラングは後天的で特殊・個別的な言語体系ということですが、両者の間には相互依存的な関係もあります。
 ラングはランガージュという土台があって初めてその上に形成されます。その限りにおいて、ラングはランガージュに依存します。しかし反面、ランガージュという潜在的能力は、最低一つのラングを環境として持たないと顕在化されません。最低一つの言語体系を習得しないと、個人は言語能力を発揮できないということです。狼少女やアヴァロンの野生児の例が示すように、ある一つの言語体系の中で、その体系の規則に沿った形で言語能力を発揮する機会を十分に与えないと、ランガージュは顕在化されません

 いったんまとめますと、ランガージュは生得的な潜在的言語能力であり、普遍的かつ不変のもの、ラングは生得的ではなく形成されるものであり、共同体ごとに個別で多様なもの、そして可変のものです。

ラングとパロール
 「ラング」の説明に、「具体例」として日本語等を挙げましたが、厳密に言うとこれには注意が必要です。というのは、この「ラング」なるもの、実は「具体的」ではないからです。「ランガージュが顕在化したもの」という意味ではたしかに「顕在態」なのですが、それでもラングそのものは直接耳で聞けたり目で見えたりする具体的物質性を持ちません。抽象的なものなのです。これに対して、耳で聞けたり目で見えたり(読めたり)するのは、「個々人が発する声」であり「個々人が書く文字」なのです。この、言葉の具体的な「あらわれ」が「パロール」です。

 言葉はコミュニケーションの道具として、自分と他者とで共有された約束事という側面を持ちます。語彙や文法に規則があるからこそ、自他のコミュニケーションは成り立ちます。ラングとはすなわち、このような「規則」のことです。「制度」というイメージでもよく説明されます。要は、ある言語体系の中に生活する人々の、心の中に置かれた「目に見えない辞書と文法書」のようなものです。
 日々の言葉を用いたコミュニケーション(パロール)は、このラングという規則に則って行われます。則っていなければ通じないわけですから。

 「ラング」と「パロール」の間にも、「ランガージュ」と「ラング」の間に見られたような相互依存関係があります。
 ラングは、見えも聞こえもしない抽象的なコード体系として人々の心の中にありますが、先に見たように「後天的なもの」「外から与えられたもの」です。これを一人の個人に与えるものこそ、パロールなのです。
 言語能力(ランガージュ)を持つ人間は、ある一つのラングを環境に持って初めて言語能力を発揮するようになる、と先に書きました。が、ラングは直接人々の心に植え込まれるわけではありません。日々の言葉のやりとり、つまりパロールの交換を通じて少しずつ心の中に形成されるのです。
 ある一つの具体的発話行為(パロール)は、ラングに規制されて行われます。しかし同時に、ラングに基づいて発話することは、その規則を追認しつつ実践する形でラングを反復強化していくことでもあります。つまり、ラングはパロールを規制しつつも、パロールによって維持・強化されてもいるのです。まずこの点において、ラングとパロールは相互依存的です。
 さらに、ラングは、発話者一人だけを規制するに止まるものではありません。発話を聞く者にも、その同じ規則が要求されているのです。少なくとも意味の通じる話し方で他者に話しかけることは、他者にラングに即した言語体験を強要することにもなります。パロールを通じて、ラングは自己から他者へと再生産され、共有されていきます。共同体の言語系という、ラングなるものの定義そのままの方向に向けて。この点においても、ラングとパロールは相互依存的と言えます。

 ただし見逃してはならないのは、「パロールだけが具体的な行為である」という点です。ラングというのは、この具体的な行為によって維持され、再生産されます。その点から言うと、パロールはラングに奉仕する実践と言えます。が、ラングの維持・再生産に奉仕するのとは逆の特質も、パロールは持ちます。それは「ラングを変更し、刷新することも可能な実践である」ということです。抽象的なものでしかないラングは、自分自身を刷新する力を持ちません。これを刷新することができるのも、パロールだけなのです。
 時代を追うごとに言葉が変化していることは論を待ちません。仮にラングを絶対的で固定的なものと考えると、それは人々の言葉を完全に規制しますから、新しい言葉も生まれず、変化は起こり得ません。が、現に言葉が歴史を持つということこそ、ラングがなんら絶対的でも固定的でもない証拠なのです。その変化の源こそが、「パロール」という発話行為による「ラング」への侵犯であり、「ラング」からの逸脱なのです。例えば「ら抜き言葉」。今のところ「誤用」とされていますが、よく見ると「見れる、食べれる」等の「ら抜き言葉」は、受身・自発・尊敬・可能という四つもの機能を負う助動詞「れる・られる」を、「可能」の意味で用いる場合に用いられています。この点、むしろ文意を明確にする言い回しとも言えなくはないのです。「ら抜き言葉」にもメリットはある。近い将来、国語審議会も「正用」と認めるかもしれません。
 こうした「誤用」は、ラングの側から見れば「反乱」にも見えますが、しかしそれがあるからこそ、ラングという言語系は連続性を保ちつつ生きた現実に対応することもできているわけです。この点からも、ラングとパロールは相互依存的、と言えるでしょう。
 

3.実体から関係へ・恣意性

部分・要素からは見えない体系
 ラングは一つの言語体系です。それは個々の単語に意味を与える意味の体系であり、価値の体系です。
 ここで「体系としてのラング」を考えます。この辺こそが、ソシュール言語学の中でももっともユニークかつ衝撃的な部分でした。
 「体系」と言えば、ふつうは「個々の要素が相互にかかわりあっている総体、それぞれが密接な関係に置かれた部分からなる全体」というイメージになります。太陽系は、太陽や惑星という「要素」が引力で引き合い、結び付いている一つの「系」であり、「日本語文法の体系」は、10種の品詞が体言や用言や修飾語となる語などの「要素」が、文法規則で結び付いた「系」です。
 ソシュールがラングを考える際の「体系」概念は、そうしたイメージの体系とは決定的にちがいます。言語体系としての「ラング」は、「部分・要素を組み立てていって出来上がる全体」ではなく、「部分・要素をそうあらしめるような全体」なのです。部分・要素が最初からあるのではなく、全体があってはじめて部分・要素も成立するような全体、ということです。

切り分け方の相対性・恣意性
 このことは異なる複数の言語体系を比較してみると明らかになってきます。具体例は枚挙に暇ありません。
 フランス語は「犬」と「狸」を区別せず、「chien」とします。「蝶」と「蛾」の区別もなく、「papillon」です。どちらもフランス人の目には「同じカテゴリーの存在」に見えるのです。彼らには日本人が狸を犬と区別して特別視することも理解できないでしょうし、蛾を見て顔をしかめるのも理解できないでしょう。「chien」と「犬」、「蝶」と「papillon」は、カバーする範囲が微妙にちがうのです。
 また日本語の「木」も英単語「tree」と完全に対応しません。森に生える「木」は tree ですが、木製の机を指して「この机は tree で出来ている」とは言いません。「This desk is made of wood.」…「この机は wood で出来ている」と言います。日本語の「木」は、わざわざ「木材」という硬めの言葉を用いる必要がない場面では、英語の wood まで包含する意味を持っているわけです。
 「虹」のような客観的とも言える自然現象の見方すら、言語によって異なります。日本語では「紫、藍、青、緑、黄、橙、赤」の七色であるものが、英語では「purple、blue、green、yellow、orange、red」の六色、ローデシアのショナ語では三色、ウバンギのサンゴ語やリベリアのバッサ語では二色となります。
 イラストで描かれる虹では色と色との間に仕切りの線が描かれることがありますが、現実の虹にはもちろんそんなものはありません。グラデーションで連続的に色が変化しています。その、連続的であるがゆえに本来なら「仕切り」など入れようもないはずのところへ、あえて「仕切り」が入れられ、そして一つの言語圏で共有されていった…その結果が「客観的対象としては同一のものであるはずの虹の見方が言語圏によってちがってくる」ことになったわけです。

 この、「連続的なところに仕切りを入れる」というのが、ランガージュを持つ人間だけに可能な「分節化 artichulate」です。もともと連続していて区切りのないところに仕切りを入れ(分節し)、仕切られた範囲を「語の意味」としているわけです。
 そしてこの仕切り方は、ある言語を共有する人同士では当たり前のように思えますが、異なる言語と比較するとズレていることからわかるように、言語体系(ラング)により異なっています。言語系や民族を超えた普遍的なものではないのです。「どうとでも引ける線を、たまたまこのように引いた、そして、その引き方が一つの共同体で定着した」ということでしかない。言葉と対象物との間には合理的で自然な結び付きなどない。「恣意的」というのはこういうことです。

「すべては差異であり関係である」
 仕切られた範囲が「語の意味」であり、それと対象物との結び付きが恣意的であるということは、「語の意味の裏付けとなる実体などない」ということを意味します。意味の土台となる実体が無いのです。ですから、ある単語の意味は、実は「〜である」とそれ自体で自立したものと考えるわけにはいきません。むしろ「他の単語との差異」を通じて、その意味が規定されてくるのです。
 例えば、「犬、狼、山犬」という語彙を持つシンプルな体系を考えます(もちろん、生物学的には意味のない分け方です)。もし仮に、ここで「山犬」という単語が無くなるとすると、それまで「山犬」と呼ばれていた動物の一部は「犬」に、一部は「狼」になるでしょう。また仮に、「野犬」という単語が新たに生み出されたとすると、それまで「犬」「狼」「山犬」と呼ばれていたもの、それぞれの一部が「野犬」というグループに分類されることになります。
 このように体系が再編成されれば、それを構成する要素までもが意味内容を変えるのです。このようなことが起こるのは、もともと言葉は自然物という実体と客観的に一対一対応しているわけではなく、「連続体に仕切りを入れただけ」で生まれているからです。そして「犬」は客観的な「犬なるもの」を指しているのではなく、「狼でも山犬でもないもの」と否定的な形でしか説明できないカテゴリー(グループ)なのです。

 このような言語体系(ラング)の性質は、次のような比喩で直感的に捉えやすくなると思います。「シャボン玉」です。
 とりあえずガラスの水槽でも考えましょう。その底にシャボン玉の素になる石鹸水を少し張ります。そこにホースのような管を入れて、息を吹き込むことにします。水槽には一応軽くフタをしておきましょう。
 息を吹き込んでいくと、水槽は泡で満たされていきます。この「泡」の皮膜で仕切られた空間の一つ一つが、いわば「単語」なのです。ある一つの泡が弾ければ、周りの泡が自らの圧力で少しずつ膨らんで、弾けた泡の空間を埋めるでしょう。逆に新たな泡が出来る場合もあります。その場合、いくつかの泡が持っていた空間を新たな泡が少しずつ奪い取って、一つのまとまった空間を占めます。
 ここで、一つ一つの泡が仕切っている空間の大きさと形は、その泡自身の力だけで決定されているわけではありません。周りのすべての泡との圧力関係で決まっているのです。
 言葉もまた同じだということです。いかなる言葉も実体的な何かを名状しているのではなく、他の言葉との差異・関係を通して初めて意味を与えられているのです。
 「すべては対立として用いられた差異にすぎず、対立が価値を生み出す」とは、このような事情を指しています。

 要するに、ラングを考える際にソシュールが念頭に置いた「体系」の概念は、あらかじめ確固たる形と大きさを持った「要素・部分」があって、それを組み立てることで形成されているような「体系」ではなく、「要素のように現れて見えるもの」同士の相互関係という関係それ自体で危うく構築されているような「体系」だ、ということです。

4.その意義

 ソシュールのこのような言語観は、それまでの常識だった「事物が命名に先立って存在し、命名は後から行われる」という考え方をひっくり返すものでした。「言葉は約束事であって事物と言葉の正しい結び付きなどない」というデモクリトスの言語観でさえ、「事物が先、命名は後」という発想から外へは出ていません。「これだけどさ、こう呼ぶことにしようよ」「うんわかった、そうしよう」という説明ですから。ソシュールは「事物を事物として見ることができるのも、連続体を切り分けた結果だ」と考えます。つまり「命名(言葉)を通して、初めて事物の存在を認められる」というのです。「命名が先、事物が後」と言ってよいでしょう。
 「事物−命名」観の否定は、「事物と言葉の一対一対応」の否定でもあります。最初の節に書いたように、ソシュールの言語観は、「言葉と存在の一致」および「言葉と思惟の一致」を繋いで「存在と思惟の一致」を実現する「言葉の実体性」を破壊したのです。そしてそれに代わる「差異の体系・関係論的説明」を提示し、それまでとはまったく異なる世界の語り方を可能にしました。これが、ソシュールの「現代思想の源」たる所以です。


【文:serpent-owl】
(初稿:2001/7/31)

 





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