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ユダヤ人問題
 
1.離散までのユダヤ人の歴史
 
 ユダヤ人の歴史を知ることは、上記の問に答えるために不可欠であるのみならず、歴史を知ることによって同時にこれらの問のいくつかに対して答えることにもなる。
 ユダヤ人の歴史を語る前に、まず「ユダヤ人」とはそもそも何を意味するのかを理解する必要がある。われわれは「ユダヤ人」という言葉のほかに「イスラエル人」「ヘブライ人」という言葉も耳にする。これらの違いはどこにあるのか?歴史的かつ学問的に言えば、ダビデの時代(BC 1200〜965)までは「ヘブライ人」と呼び、それから「バビロンの捕囚」(BC 586〜538)までは「イスラエル人」、そしてそれ以降は今日にいたるまで「ユダヤ人」と呼ぶようであるが、ここでは紛らわしさを避けるため、「ユダヤ人」で通す。
 イスラエル国家の定義(もちろんナチスによる定義は全く異なっているが)によれば、ユダヤ人(Jude)とは、ユダヤ人の母親から生まれたもの、あるいはユダヤ教徒に改宗した者を意味する。ユダヤ人を父親として、非ユダヤ人の母親から生まれた者はユダヤ人ではない。またわれわれ日本人でも仮にユダヤ教徒に改宗すればユダヤ人になることができる。すなわち、ユダヤ人にとって宗教とは、伝統、倫理、法律、社会制度をも含むものであって、彼らの本質から切り離すことのできないものである、という点を忘れてはならない。ただし、一般的にはキリスト教に改宗したユダヤ人(例えばメンデルスゾーン)も無神論者のユダヤ人(例えばフロイト)も「ユダヤ人」と呼ばれるのが現実であり、民族を指す言葉と考えた方が良い。
 
1−1 旧約の時代(イエスの誕生まで)
 
 ユダヤ人の歴史は約4000年前にアブラハムとともに始まる。彼はユダヤ人の祖先の指導者であると見られている。彼とその部族は初めメソポタミアに住んでいたが、のち神の導きによりパレスチナに移住した。
 しかし彼の孫ヤコブは、パレスチナ地方が飢餓に見舞われたため、12人の息子およびその家族を連れてエジプトに逃れた。彼らの子孫はエジプトで奴隷となり、約400年間に渡って過酷な奴隷労働に耐えなければならなかった。彼らをエジプトから救いだしたのがモーセである。旧約聖書の出エジプト記によれば、彼はユダヤ人であったがエジプト王パロの娘に拾われ、彼女によって育てられた。神はユダヤ人の耐え難い苦悩を見て、モーセにユダヤ人を「乳と密の流れる」カナンの地(パレスチナ)に連れ戻すように命じた。
 モーセはユダヤの民をエジプトから連れ出そうとしたが、パロは脱出させまいと軍隊を送った。モーセと民が紅海に達したとき、パロの軍勢が近づいていた。しかしモーセが祈り、海に向かって両腕を天に伸べたとき、海の水は左右に別れて水の壁をなし、彼らの前に乾いた道が現れた。ユダヤの民はこの乾いた道を通ってアラビア半島に渡った。全員が渡り終えると、水の壁は崩れ、追ってきていたパロの兵は全員おぼれ死んでしまった。
 カナンに向かう途上、モーセはシナイ山に登り、神から十戒を受けた。しかし、民の堕落と不信の故に、神はユダヤの民を約40年間に亘って荒野や砂漠を彷徨わせた。モーセは約束の地に辿り着く直前に死んだ。
 もちろんこれまで述べてきたことは、神話のヴェールに包まれているが、ユダヤ人たちがエジプトからの脱出に際して多大の辛酸を舐めたという事実を疑う歴史家は少ないようである。これは紀元前1200年頃のこととされている。
 こののち有名なダビデ王とその息子ソロモン王の時代(BC1020〜930)がやってくる。ユダヤの民がその4000年の歴史の中で、独立国家のもとで繁栄と平和を享受できたのは、この90年のみであったことは特筆に値する。
 この時代からイエスの誕生までのユダヤ人の過酷な歴史については、手短に話しておきたい。紀元前732年にアッシリアが彼らを襲い、国土の半分がアッシリアの支配を受けた。残りの半分もしばしば攻撃をうけ、ついに紀元前587年に滅ぼされ、ユダヤの民はバビロニアに連れ去られた。これは「バビロン捕囚」と呼ばれている。ペルシアがバビロニアを滅ぼしたあと、彼らは祖国に帰ることができたが、彼らはその後も次々とペルシア、マケドニア、エジプト、シリア、ローマの支配を受けた。
 
1−2 新約の時代(イエスの誕生の後)
 
 イエス・キリストが約2000年前に誕生した当時、ユダヤに王は存在したものの、ローマの支配下にある属国であった。
 イエスの死の約30年後、つまり紀元63年にユダヤはローマに反乱を起こした。ユダヤ戦争と呼ばれるこの戦争は約5年間続いたが、これにより100万人以上のユダヤ人が戦死した。この戦争ののち、ユダヤはローマの植民地となり、ユダヤ人たちはパレスチナの土地から追放された。これによってほぼすべてのユダヤ人が離散の憂き目をみることになり、ある者はエジプトに、ある者はバビロニアに、ある者は小アジアに、またある者は南ヨーロッパへと流浪していった。このユダヤ人の離散は「ディアスポラ」と呼ばれている。この「ディアスポラ」は1948年に彼らが自らの国家イスラエルを建国するまで、実に1900年近く続いたのであった。そしてその間、ほとんどどの時代にもそしてまたどの国に住みついても、彼らは排除され、差別され、そして迫害されていたと言っても大げさではなかろう。
 
2.離散後の迫害の歴史
 
2−1 スファルディ(セファルディム)とアシュケナジ(アシュケナジム)
 
 さて今より、ディアスポラ(離散)時代のユダヤ人迫害の歴史について語ることにする。ローマによるパレスチナからの追放によって、色々な地域に流浪していったユダヤ人のうち、二つのグループが特に重要である。すなわちスファルディとアシュケナジである。スファルディはスペインあるいはポルトガルに住んでいたユダヤ人である。彼らはラディノ語を話し、「世間ずれしていて物わかりがよくコスモポリタン(国際人)である。彼らは例えば商人、医者、高利貸し、哲学者、王やキリスト教司祭のアドヴァイザーとして器用に立ちまわる。」それに対して、アシュケナジはドイツや東欧に住み、イディッシュ語を話す。「彼らは行商人、農奴、プロレタリアであり、赤貧洗うがごとき生活を送り、信仰においては原理主義者、正統派の伝統を固守し、救世主を熱望し、その到来を夢みる。信仰心が篤く、神に対する無限の愛があり、屈辱と迫害にじっと耐える。」(「」内はユダヤ学の研究者ロステン)
 第二次世界大戦前までは世界のユダヤ人の90%がアシュケナジであった。今ではナチスによる殺戮によって、50%をわずかに上回る程度にすぎない。
 もちろんスファルディもアシュケナジも共に迫害された。今から年代順に比較的重要な迫害についてのみ触れていく。
 313年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を公認。380年にキリスト教はローマ帝国の国教になった。さらに392年には帝国内の異教信仰が禁止された。このときから、それまでキリスト教徒を迫害してきたユダヤ教徒が、逆に迫害され始めた。当時キリスト教の神学に、ユダヤ人はイエス・キリストを殺した民であって、その罪ゆえに彼らは離散の呪詛を永遠に背負わなければならないのである、との解釈が生じた。
 
2−2 ユダヤ教とキリスト教
 
 ここで少し本論からそれて、ユダヤ教とキリスト教の違いについて話すことにする。ユダヤ人問題を理解するうえに、その知識が不可欠であると思われるからである。
 ユダヤ教の最も重要な聖典は、聖書の旧約の部分であって、特にそのうちヘブライ語で「トーラ」と呼ばれるモーセの五書である。これによれば、神(エホバ、ヤハヴェ)はユダヤ人に恩寵と保護を約束した。それに対してユダヤの民は、神を敬いそして十戒を守ることを約束した。これが神とユダヤの民との間の契約(Testament)であった。
 これに対してキリスト教の聖書は、新約と旧約の二つの部分から成り立っている。新約聖書によれば、人間には神の律法を、表面的にはともかく、内側から守る能力が欠けているとされる。例えば、ユダヤ教によれば、姦淫を犯しさえしなければ神の前で罪を咎められることはないが、キリスト教によれば、女性を情欲をもって見るだけで、あるいは女性を魅力的だと感じるだけで、すでに心の中で姦淫を犯したことになるのである。いかなる人間もこのような罪から自由であることはできない。それゆえに、人間とはそもそも原罪を背負っている存在とされるのである。
 ユダヤ教によれば罪を犯した者は、神への信仰といういわば自力によって救われるのである。旧約の神は、自分自身に対する絶対的な信仰を要求する。例えば、神はアブラハムの信仰を試すため、彼から最も愛しい息子イサクを犠牲として捧げるように要求した。
 しかしながらキリスト教は、人間には自分自身を救う十分な能力が備わっていないと説く。それ故イエス・キリストが人類を救う(贖う)ために、神への生け贄として十字架上で死んだのである。十字架のキリストを信じることによって人間は原罪からも自由になりうるのである。新約聖書、特にパウロ神学はそのように説くのであるが、ユダヤ教は決してこの教義を受け入れることはできない。
 以上が二つの宗教の骨組みであった。
 このように一般には、ユダヤ教は律法や儀式など外面的なことを強調し、他方キリスト教は愛とか信仰などの内面的なことを強調しているように見られているが、それほど単純化して考えることには問題がある。例えばユダヤ教の一派には、形式的宗教慣習よりも内面的宗教体験を重視するハシディズムという敬虔主義運動もある。これは、マルティン・ブーバーというユダヤ人哲学者の著作を通して、現代の哲学や宗教にも影響力をもつほどの深い内面性に溢れている。(参考:ブーバー『我と汝』)
 
2−3 十字軍
 
 話をユダヤ人の迫害の歴史に戻す。
 1095年に、当時の法王ウルバヌス二世がキリスト教徒に対して聖地の奪還を訴えかけたことによって十字軍が始まった。十字軍兵士に付き従っていた農民たちは、聖地エルサレムに向かう途上、「聖地を浄化するまえにまずユダヤ人を始末してヨーロッパを浄化せよ」と叫びながら、ユダヤ人社会を襲った。彼らにとってユダヤ人は「キリスト殺しのユダ公」として憎しみの対象でしかなかった。
 
2−4 ペスト
 
 1348年に全ヨーロッパでペストが猛威をふるった。理由の分からない災厄がヨーロッパに起こると、いつもスケープゴート(犠牲)にされるのはユダヤ人であった。スイスではあるユダヤ人が拷問に耐えかねて、井戸に毒を投げ入れたと自白を強要された。この噂はただちにヨーロッパ中に広がり、様々な地域で何千人というユダヤ人が虐殺された。例えばフランスのストラスブールでは約2000人のユダヤ人が生きたまま焼き殺された。ドイツのマインツでは6000人が殺されたが、ヨーロッパ全体で何人くらいになるのかは分からない。
 
2−5 スペイン
 
 711年から約500年間に亘ってスペインはイスラム教徒の支配下にあった。この時代にバビロニアにいたユダヤ人の多くがスペインに移住してきた。ここで彼らは比較的平和で自由な生活を享受することができた。イスラム教徒にとっては、ユダヤ人がキリストを殺したことは何の意味も持たなかったので、ユダヤ人に対して寛容だったのである。しかしイスラム教徒の支配が終わり、キリスト教徒の支配が始まるとスペインにおいても迫害が始まった。
 キリスト教徒はユダヤ人にキリスト教への改宗を迫った。改宗したユダヤ人は「マラノ」と呼ばれたが、これはスペイン語で「ブタ」あるいは「汚れた人間」を意味する。キリスト教徒たちは、彼らが本当に改宗したかどうかを確かめるために、異端審問を開始した。トマス・デ・トルキエマダは大審問官として異端審問で猛威をふるった。彼は2000人のユダヤ人を殺し、10万人のユダヤ人を投獄し、拷問させた。異端審問はスペインで300年以上続いた。1480年にはユダヤ人はゲットーに閉じこめられ、その12年後にはスペインから追放された。
 彼らが追放されたのはスペインからだけではなく、イギリス、フランス、ドイツなどでも同様であった。それで16世紀には多くのユダヤ人がコンスタンチノープルやポーランド、そしてアムステルダムに移住した。コンスタンチノープルに移ったのはその宗教がイスラム教だったからである。ポーランドに移った理由は、時のポーランド王が、モンゴル軍の侵攻によって荒廃した国土を復興するため、ユダヤ人(特にスファルディ)の高い文化・知識を必要として、ユダヤ人を保護・優遇したからである。またアムステルダムに移住した理由は、そこの宗教がプロテスタントであったため、カトリックほど反感が強くなかったこと、さらに国際都市であったため、人々がコスモポリタンとして寛容であったからである。
 一般論としては、カトリックがユダヤ人に対して一番過酷で、イスラム教とプロテスタントはより寛容であった。さらに寛容ないし友好的であったのは、啓蒙主義と自由主義であった。18世紀にボルテールとルソーの影響のもとに、ユダヤ人の解放運動が起こった。これとフランス革命のお陰で、西ヨーロッパのユダヤ人たちは国籍を取得することさえできるようになったのである。
 
2−6 ポグロム
 
 しかし1881年に、ロシアとポーランドで大きな迫害が起こった。ユダヤ人の大量殺戮と略奪のことをロシア語で「ポグロム」という。この事件の原因は皇帝アレキサンドル二世の暗殺事件で、実行した革命集団に一人のユダヤ人女性が関与していたのである。このポグロムは4年間続き襲われた地域は100カ所を越えた。ロシア政府はポグロムを抑え込むどころか、数万のユダヤ人を虐殺する民衆に経済的支援さえ与えている。政府は、ポグロムが、圧制への民衆の不満のはけ口になることを望んでいたためである。
 ロシアおよび東ヨーロッパではくり返しポグロムが発生し、その厳しさから逃れるため、1881年から1914年までの約30年のうちに、200万人を越えるユダヤ人が主としてアメリカに移住した。
2−7 シオニズム
 
 その時代にフランスで、有名なドレフュス事件が起こった。ドレフュスはユダヤ系の将校だったが、スパイの嫌疑を受け、1894年に終身刑の判決が下された。フランスでは世論を二分する大論争が起こった。ドレフュスを擁護したのは進歩的な政党で、作家のエミール・ゾラや後の首相クレメンソーがこちらの陣営についた。反対の立場にあったのは反ユダヤ主義的な保守政党であった。
 ドレフュスは12年後に無罪となって釈放されたが、当時パリで働いていたハンガリー出身のあるユダヤ人ジャーナリストはこの事件の推移を見守りながら大変な衝撃を受けた。彼は名前をテオドル・ヘルツェルというが、彼はユダヤ人問題は、自分たちの国家を樹立するまでは、決して解決することはないであろうことを確信した。そしてシオニズム運動を唱え始めた。シオンとはエルサレムにある小さな山の名前である。この運動は後に実現することになる。すなわち1948年にイスラエル国家が誕生したのである。
 
2−8 ドイツ
 
 ヘルツェルはヨーロッパの反ユダヤ主義の根深さを正しく予感していたと言えるかもしれない。なぜなら、彼の死の30年後に、ホロコースト(ギリシャ語で「全焼のいけにえ」)あるいはショアー(ヘブライ語で「絶滅」)と呼ばれる最も残忍で大規模な迫害が始まったからである。ドイツやポーランドなどの強制収容所で約600万人のユダヤ人が殺されたことはよく知られているところであるが、ここでは一般には知られてはいないかもしれない点について触れておく。
 その1. 強制収容所で殺されたのはユダヤ人だけではなかったこと。もちろん圧倒的にユダヤ人が多かったのだが、ポーランド人が約90万人、ジプシー(ロマ・スィンティ)が約30万人、その他宗教家、共産主義者、社会主義者、身体障害者、同性愛者、売春婦など、ユダヤ人以外でも数百万人が殺されたと言われている。
 その2. ナチスは最初からユダヤ人を絶滅しようと考えていたわけではない。初期の段階ではヨーロッパから追放し、例えばマダガスカル島やソ連領内に強制移住させるという案もあった。しかし1942年には彼らはすでに覇権を失っており、困難が予想された。そのため最終解決(Endlösung)としてユダヤ人の絶滅が行われることになった。
 その3. ドイツの抵抗運動(レジスタンス)について。当時のドイツにおいても、命を賭してナチス軍事政権に抗議・抵抗した人々が存在したことを忘れてはならない。シンドラーについてはスピルバーグの映画で有名になったが、その他に1944年7月シュタウフェンベルク事件を起こしたシュタウフェンベルク伯爵、およびこの事件の中枢にいたオルブリヒト大将や「砂漠の狐」と呼ばれ尊敬されていたロンメル将軍、「白バラ運動」の中心人物フーバー教授やショル兄妹およびそのグループ、ドイツ国防軍司令部の情報部長官でありながらユダヤ人救出作戦を実行したヴィルヘルム=カナリス将軍、およびカナリスとも接触があった告白教会を指導したボンヘッファー牧師等。彼らはシンドラー以外全員処刑されている。
 
3.5つの問に対する答
 
 ここで最初の5つの問に戻る。
 
 都合上、上の問に対して逆の順序で話していく。
 
6. なぜユダヤ人はヨーロッパに住んでいたのか?そしてどのような生活を送っていたのか?
 
 これについては歴史を語ることによってすでに答えた。
 
5. 例えば、どのような有名人がユダヤ人なのか?
 
 これについては、以下に名前と職業そして主な業績だけあげておく。
 
4. なぜユダヤ人は優秀なのか?
 
 1993年までの統計によれば、104名のユダヤ人がノーベル賞を受賞している。ザッと計算してみるとノーベル賞受賞者の総数は600〜700名であるが、受賞者の15〜17%がユダヤ人であることになる。これは約1000万人というユダヤ人の人口を考えると信じがたい程の数字である。また日本との比較では、人口が日本人の10分の1に過ぎないユダヤ人が、日本人の約10倍受賞しているということは、同じ対人口比率で比較した場合、実に日本の100倍の受賞者を輩出している計算になる。
 『ユダヤ人はなぜ優秀か?』という本によれば、ユダヤ人の子供はまだ言葉の意味を全然理解できない幼いときから、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)で「トーラ」と呼ばれるモーセの五書を丸暗記させられる。昔の日本の武士階級が漢籍の素読によって子供の知育を実行してきたように、幼い時期に暗記力を磨くことは、後の教育の強固な土台となるのかもしれない。
 ユダヤ教の教育に対する熱心さを示す統計資料がある。アメリカにおいては、ユダヤ人の25%以上が修士号を取得している、とのことである。
 いつ何時迫害によって国を追われるかもしれないユダヤ人にとって、知識というのは、唯一だれからも奪い取られる心配のないものなのであろう。そしてさらに4000年に及ぶ迫害の歴史が、彼らをして、中途半端で生ぬるい教育環境ではなく、せっぱ詰まった状況において学問に打ち込ませているのかもしれない。
 
3. なぜユダヤ人は多くの国で嫌われたのか?
 
 いくつかの理由をあげることができよう。
 まず、人間には本来異質なものに対する反感を持つ傾向があるようである。ユダヤ人はどこへ行っても、よそ者であり外国人であり異民族であった。そのような集団が、異なった宗教をもち、さらにその宗教が「選民思想」を掲げた排他的なものである場合には、その反感はなおさら強まるでろう。一般的に言って、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神教は、排他的、教条主義的、さらには原理主義的傾向を持つことが多い。しかも昔のキリスト教徒たちは、先に見たようにユダヤ教徒を「キリスト殺し」の民と見なすよう教えこまれていた。
 二番目に、すでに触れたように彼らは優れた才能を持っていたが、人は自分より優れた人間を見ると羨んだり嫉妬したりすることがあるが、その中に例えばマルクスやトロツキーのような社会主義者、共産主義者、無政府主義者、テロリストなどが含まれていればなおさらであっただろうと考えられる。
 三番目に、ヨーロッパには中世から「ユダヤの陰謀説」が存在した。ペストの際の一般大衆によるデマの流布についてはすでに述べた。1905年には「シオンの議定書」なる反ユダヤ本が現れたが、その内容は、「ユダヤ人は、悪辣な手段を弄して他民族や国家を腐敗、堕落させ、世界を征服しようと企んでいる」というものであった。今日の研究によれば、これはロシアの秘密警察がユダヤ人を陥れるために書いたものだとされている。国家というものは、社会を安定させるために、一般大衆にとっての不満のはけ口を必要とする。日本の被差別部落の誕生に関してもそうであったが、為政者は時に人為的に差別を作り出そうとするものなのである。
 
2. なぜユダヤ人はドイツで特に過酷に迫害されたのか?
 
 ヒトラーの存在が大きい。ヒトラーという残虐性とカリスマ性を持った一人の人間がドイツ(正確にはオーストリア)に生まれていなければ、ドイツがあそこまで残忍な行為に及ぶことは恐らくなかった。
 それでは何がヒトラーをあの行為に追いやったのかを考えてみる必要がある。父親のアロイスから受けた幼児期の過酷な体験がトラウマとして残っていたという説がある。あるいは、ヒトラーは美術学校に二度受験して二度失敗し、その後路上で絵を描きそれを売るという生活をしていたが、その絵も売れなくて哀れな浮浪者のごとき生活を余儀なくされている。そんな時、豪華な馬車に乗った裕福なユダヤ人が通りかかるのを何度も目にして、その屈辱感から反ユダヤ感情が育ち、復讐心へと膨張していったという説もある。どれも否定しきれない説であろうと考えられる。
 さて、裕福なユダヤ人に関しては、ヒトラーだけでなく相当数のドイツ人が同じような体験をしていたものと思われる。それでなければ、ヒトラーの考えがあれほど広く受け入れられたはずがないからである。実際、ドイツ、オーストリアの大富豪たちの中にはかなりの数のユダヤ人が含まれていたことは知っておく必要がある。
 それにしても、西ヨーロッパのユダヤ人たちは何故それほど裕福になれたのだろうか。すでに述べたごとくある時期から比較的自由に行動できるようになっていた。彼らの中には商人・高利貸しを職業とする者が多く、しかもユダヤ人はヨーロッパ各国に離散していたため、国際金融に通じていた。いわば彼らは国際的な金融シンジケートを形成していたのである。これによって彼らは急速に富を蓄積することができるようになった。
 ヒトラーが第一次世界大戦の初期に、かなりのドイツ国内のユダヤ資本が敵国に流れ、これがドイツの敗戦につながったと宣伝したが、これは根拠のないことではなかった。
 ところで、シェークスピアの『ベニスの商人』というドラマを知っているだろうか。あのドラマによって、高利貸しシャイロックのような強欲非道な人間が、あたかも典型的ユダヤ人であるかのような考えがヨーロッパに定着した、あるいは少なくとも定着するキッカケを作った。ヨーロッパのほとんどすべての高利貸しがユダヤ人であったというのは事実である。これは彼らが好んでやったことではなく、むしろ利子を取ってお金を貸すことを禁じていたキリスト教徒の方から、押しつけられた面が強いことを知っておく必要がある。
 ナチスの残虐行為に関して、ドイツ人の民族性そのものの中に残虐な傾向があるとする見解もある。そしてしばしばグリム童話に見られる残酷さが取り上げられるが、最近の研究によれば、グリム童話の多くはその原形がフランスなど南欧から伝わったもので、グリム童話の残酷からドイツ人の民族的残酷さを導き出すことはできないことが明らかにされている。
 しかしドイツ人の民族性に関しては、作家トマス・マンの意見は傾聴に値する。彼は『ドイツとドイツ人』という講演の中で、次のように述べている。ドイツ人には情熱(Leidenschaft)がある。これはドイツ人の宝であって、このお陰で、ルター、ベートーベン、ワーグナー、ニーチェなどの偉大な人間たちが生まれたのである。しかし、そこからはまたヒトラーも生まれた。ドイツ人の情熱はしばしば未知の暗黒に突進する傾向がある。ドイツ人はこの情熱を捨て去ってはならない。しかしそれだけではしばしば危険である。そしてマンは言う、ドイツ人にとって理想とすべき人間は、ゲルマン魂の権化のようなルターではなく、決して暗い情熱を捨てはしなかったけれども絶えず光を追い求め続けたゲーテである、と。
 
1. モーツァルト、ベートーベン、ゲーテ、カントなどのような偉大な音楽家、詩人、哲学者などを生んだ豊かな文化の国の国民人が、なぜヒトラーの蛮行を阻止できなかったのか?
 
 第一次世界大戦の敗北によって1919年にドイツは共和国となった。この国家は、当時としてはもっとも民主的な憲法であるワイマール憲法によって支えられていた。しかし、敗戦に際して締結したヴェルサイユ条約は、過酷な賠償金の支払い、領土の返還、海外植民地の放棄、再軍備の制限など、ドイツにとって極めて屈辱的な内容であった。1923年には未曾有の大インフレーションが起こり、失業者が巷に溢れ、国民の不満はやがて極限にまで達する。その際、民主的な憲法が却って仇となった。すなわち、ワイマール憲法はあらゆる政党に存在意義を認めていたため、ミニ政党が乱立し、政局は混乱を極め、国民は生活不安に喘いでいた。そんな中台頭してきたのがヒトラーであった。
 国民は不安定な政治に愛想をつかし、安定を求めていた。カリスマ性を持った強大な指導者を求めていた。そういう状況下でヒトラーは国民にヴェルサイユ条約の破棄を公約として掲げた。そして失業問題の解決と再軍備を約束した。ドイツ国民も、決してヒトラーに過半数の支持を与えたことはなかった。一部の国民の支持のみで、「総統」という絶対的権力の座に昇りえたのは、国会議事堂の放火など、ヒトラー自身の策略と陰謀によるのである。
 ドイツ人だけでなく、われわれは誰しも日常的な嘘や小さな嘘に対しては用心して敏感に反応するするが、巨大な虚偽に対してはしばしば無防備なのではなかろうか。 

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