from magazine "yamete" numero o4.
LA RIVISTA DELL'EROTISMO GIAPPIONESE
これは在英、在仏、在独ならびに在欧諸国の日本人の方々に向けて、日本で起きた事件や出来事を要約し、日本語にて報道する『英国ニュースダイジェスト』の「ジャパンだより」というコラム記事に、96年前の2月から4週間おきに連載をはじめた原稿のバックアップです。海外駐留の日本人という読者像を想定したのですが、頭が弱いせいか正しい日本文化ルポになってない部分もありましょうが、それはそれ……。ってわけで、99年末に連載を完了させてもらいました。日本国内で読めるのは……とりあえずココだけ【木村】
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東西の風俗史全般にたいする該博な知識で知られるフランスの文学者ロミ(の弟子でした:訂正/木村)の新作は、排泄物にかんする文化史。同書の巻末、つまり現代の考証部分に、このような記述が目あった。「どうやら日本では、若い女性の排泄物が高値で売買されているらしい」と。どうやら日本の性産業をルポしたフランスのテレビ番組から仕入れた知識らしく、半信半疑のような言及でしかないが、もちろんこれは、日本ではもはや旧聞に属する、いわゆる「ブルセラ」嗜好……つまり女学生の衣服や下着、果ては髪や体液までが商品となる珍事を指し示したもの。事実であるばかりか、いささか古びた話題でしかない。しかし改めて考え直せば、西欧圏の識者をしてにわかには信じがたいエピソードであり、それを半ば当然のように受けとめる私たちの感性が磨耗しているのかもしれない。 下世話な話題続きで恐縮だが、もうひとつ日本に特徴的な珍事と思われるのが、いわゆる「盗撮ブーム」……女性のスカートの中身から、果てはトイレや更衣室での姿までを、小型化したビデオカメラで盗み撮りする、というものだ。今度はドイツのテレビ局が訪日し、さるアダルトビデオ・メーカを訪問した。最初はキュートで若い日本の女性が平気で裸や性行為を撮らせることに感心していた取材班だが、ある女子トイレを盗み撮りしたビデオを映したとたん、「これはモラルに反している! こういうビデオを撮るのは卑怯な行為だ!」と怒りだしたという。あまりの憤慨ぶりに、日本側スタッフはその映像が会社の者ではなく、一般人からの投稿作品であることを説明できなかったという。欧米にもセックスをモチーフにしたビデオ産業はいくらでもあるとはいえ、こうした趣向の作品はモラル的にまず(オーバーグラウンドでは)受け入れられない、と。 ピーピング・トムの逸話を例に取るまでもなく、「のぞき」という心性が人間の奥底に誰もが(ある意味)共有するものだとしても、覗き見の行為が許されるわけではないし、ましてはそれを録画し、商品化し、販売する営為が正当化されるはずもない。しかし現実にはそういうビデオが年間で何百タイトルと製作され、数万円の値段で売られるという市場がげんに存在する。さらには女子更衣室や女湯での盗撮にいたっては、女性の協力者によって成立しているのだという……。こういう紹介をすると「日本のイカれた側面」をいたずらにクローズアップしているようだが、“他所のひと”が驚愕し憤慨したのは、どう考えて単なるカルチャーギャップではすまされないのだし。 |
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日本特有のオトナの遊興であるパチンコ。「数字合わせ」で大当たりが出るなど、その遊技台が一段とゲーム化の様相をおびてきたことは旧聞に属する話だとして、最近そのパチンコ台の盤面に山上たつひこの『がきデカ』を筆頭にした「懐かしのマンガ・キャラクター」が大々的に起用され、かなりの人気だという話を聞いて感心してしまった。とはいえそれは、いにしえの「マンガ」世代が成人となり、さらには遊興客の主体である中高年層にまで底上げされていった結果にすぎないのかもしれない。だが同時に「マンガ=子供の文化」といった認識はもはや時代錯誤もはなはだしく、日本人のある層にとって、マンガやアニメのキャラクターのもつ意味なりシンボルは「一生モノ」にも近い強度があることを、改めて知らされたエピソードでもあった(たとえば欧米のカジノや賭場で、ディズニーやアメコミのキャラクターがライセンス使用されるような事態が、今後出現するだろうか?)。 かたやわが国の美術館では最近、こうした「マンガ」をテーマにした展覧会が矢継ぎばやに開催された。そこでのモチーフは有名漫画家の回顧展だったり、あるいは通史的なもの/ジャンル別など、幅はあるにせよ……共通しているのは「美術館で『マンガ』を展示する」という構図である。しかしそもそも「読まれる」ことを前提として描かれた「マンガ」が手元を離れ、額縁に入れられ、壁面に展示されたとき、それは「見られる」ことを強いる“美術作品”へと様変わりしてしまう。おおかたのマンガ展は「原画」展であり、複製作品としてのマンガ原稿を、ある意味フェティッシュ=骨董的に扱ったものだったりもする。 こうした展覧会を企画した発案者の念頭に「『マンガ』を『美術』の一部に回収してやろう」というような「奢った」気持ちがあったとも、特に思えない。ただし逆説的に「美術はハイ・カルチャーであり、マンガはサブ・カルチャーにすぎない」といった垣根なり前提そのものが、そもそも日本では確立していなかったせいで、「マンガを美術館に展示する」という試み自体がさほどラディカルでもなく、むしろ自然に受容されてしまうことについて、どれだけ自覚的だったかといえば疑問は残る。あたかも賭博とマンガが違和感なく共存してしまうよう……そもそも日本独特の文化的/社会的状況を追認する構図として……美術館を飾るマンガ原画とパチンコ台の上のマンガ・キャラが、オーバーラップしてくるのである。 |
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暮れから年明けにかけて、インターネットからみの事件が、やおら日本のニュースを騒がせた。最近の例でいえば、特定の女性の暴行をそそのかす内容を掲示した人物が恐喝容疑で逮捕されたり、あるいは他人の個人情報を勝手にホームページ上で販売するサービスが検挙されたり……等々。こうしたネット・コミュニティの負の側面があらわになるたび、そこでの「匿名性」をマスコミは槍玉にあげる。素性を明らかにぜずとも不特定多数が交流できる世界……そこには落とし穴も多いが、逆に実名では明かせない話題(性的マイノリティや、こころの問題など)を臆することなく意見交換できることで、救われたり励みになるケースも稀ではない。しかしそのさじ加減は、微妙きわまりない。 そういう意味でも印象深いネット事件が、昨年12月に起こった「毒物宅配騒動」だった。とある東京の女性が宅配便で届いた青酸カリを飲んで自殺した。送り主は札幌在住の男性であり、さらにこの二人の接点は「自殺」をテーマにしたホームページだった。この男性は彼女以外の複数の人物にも青酸カリを送付していたことから、大掛かりな自殺ほう助の容疑がかけられた。しかし東京の女性の自殺が判明した当日、彼もまた自宅で服毒自殺をはかり、事件の真相は闇に包まれていった。 世間の風潮として、この男性をネットを使って毒物を販売した悪党とみなす向きもなくはなかった。しかし彼の得た金銭は、わざわざリスクを負って毒物を入手し頒布する労に見合うとは到底思えない。冒頭で挙げたネットを悪用した愉快犯や営利目的とは異なる別のモチベーションが、そこに見出されるべきだろう。 薬品会社の勤務歴もある男性は、自殺や精神病にかんするホームページの掲示板に薬物の解説などを投稿しているうち、多くの人々から「薬品の権威」として頼られるようになったという。自殺志願者達のネット上の相談役になった彼は、それを大きな自己の拠り所にしたようだ。しかし現実のカウンセリングでないそこでのやり取りには限界がある。それを超え出た部分のケアとして、実際の毒物が持ち出されたのだろう(同時に相談役である彼自身にも、少なからぬ死への衝動があったわけだ)。男性から毒物を送ってもらった女性のひとりがのちのマスコミの取材にたいし「青酸カリは生きるための『お守り』でした」と語っていた。彼自身もそのつもりだったと。しかしその『お守り』が効力を失ったとき、支払われた代償は大きかった。 |
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昨年秋に放映され、話題をよんだ缶コーヒーのCM。それには2つのパターンがあって、ひとつは中年サラリーマンが居酒屋で同僚相手に国際情勢の話をしていて「結局日本って世界でなめられてるじゃん。俺ならガツンと言ってやるよ!」とまくしたてると、いきなり米国大統領会談の現場にワープし、大統領じきじきに「率直な意見を聞こうじゃないか。ガツンと言ってくれ」と返され、つまる……というもの。もうひとつはK1の試合会場にいた観客のいち青年が「あんな蹴り食らっちゃダメだよ。俺ならよけちゃうよ〜」とつぶやいていると、次の瞬間リング上にワープして、プロの格闘技選手を目前に固まる……というもの。 どちらも窮地に追い込まれた当人が、最後にポケットから缶コーヒーを取り出して飲む……というオチで、以前は「やすらぎ」やリラックスといった効用を強調したCMが受けていたことと較べても、これらの「ピンチ」は作り話でありながら、愚痴っていても一向にらちがあかない、当世ニッポンをの状況を微妙に反映していて、リアルだ。 そして今年に入り、当CMシリーズの最新作が放映された。今回もまたサラリーマン男性が部下に向かい「人の上に立つ奴は人望がないと。ただ力で相手をねじ伏せるやり方はどうかな……強いだけじゃダメなんだよ」と説教をたれつつ冬の街頭を歩いている。すると突然(?)関取の背中にぶつかり、振り向いた力士に「あっそう」と返され、気がつくと土俵上。行司に「時間です、待ったなし」といわれて絶対絶命……というもの。 こうやって文章化すると、基本的には前2作の設定ともカブっているため、さほど目新しさを感じないかもしれないが、不思議とこの新作が斬新に思えたのは、ひとえにここでの力士が、当代きっての横綱貴乃花本人だったという“意外さ”にあったようだ(前の大統領篇がクリントンのそっくりさんであった、ということもあって……)。 昨年の洗脳騒動〜親子・兄弟の不仲説以来、かつてのサラブレッド的な扱いから一変して、ある意味ヒール(悪役)的な役回りを甘受しつつあった貴乃花だが、そこにきて「強いだけでイイんだよ!」とも受け取れかねない役どころへの出演、である。血筋や家筋、部屋や家庭といった伝統社会特有の因習に押しつぶされそうになった彼の離反的態度と、CM内の役どころがあいまって、サラリーマンの処世術を「力」でねじふせる彼の眼差しに、奇妙な説得味を感じてしまったのである。 |
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老舗の岩波書店から出た『定年後』という本が売れている。「働きづめの10万時間の後、まったく自由に使える10万時間が待っている」と帯文句にあるよう、会社勤めをリタイアしたあとの生活設計を(余生というより)第二の人生として積極的に活用するための提言や体験記、年金・福祉関係の資料まで収録されている。会社員という人種が大半を占め、同時に高齢化社会を迎えつつある日本にとって、いかにもタイムリーなテーマだ。しかも終身雇用制度の存亡が問われている今後、会社人間の定年は60歳とは限らないだろう。より前倒しでこうした転機を迎えるケースなど、この手の話題は若い人にも無縁ではなくなってくるように思えてくる。 作家の赤瀬川原平氏が昨年秋に上梓した『老人力』という本も、いまだ売れ行き好調だ。流行語にまでなったこの老人力とは、普通なら「老化する=ボケる/耄碌(もうろく)する」とみなされるところを「老人力がついた」と言い換えることで、脱力した態度やものの見方にもそれなりの「プラス面」を見出していこう……というもの。一方で雑誌ブルータスは先日“もうすぐ老後を迎えるロック世代へ”という見出しで、内外ミュージシャンのエイジング(歳の取り方)について特集した。サブカルチャーやポピュラー音楽が産声をあげてはや30年余り、往時の若者文化の担い手も等しく年期を積んでいるわけだが、時の経過が生む“ほころび”を取りつくろうことなく屹然とし続けることが、イメージリーダーとしての彼らには希求されている。 ところで前述の『老人力』の中で赤瀬川氏は「若い頃、自分は趣味を軽蔑し、思想を尊敬していた……しかし歳をとると趣味の世界に素直に向かうようになる」と打ち明ける。「自分の力の限界を知った後で何かを始めてみると、むしろ力が空回りしない」のだそうだ。同時に最近の若者が、ためらいもなく趣味に走れるのは、若くして彼らがすでに年の功を積んでいるからだ……という。時代や文化にも年齢がある以上、思想や革命、科学技術に対する信仰が成立しづらくなった昨今は、そういった近代的「世界観」の老年期にあたる。時代そのものの有限牲がみえているところに生まれついた若者は(その文脈では)「すでに老成している」という氏の指摘は、かなり鋭い。と同時に、そこで老成を取りつくろうことなく、20世紀文化のエイジングを進めていった先にしか、新しい「世界観」は開けてこないのだろうけれど。 |
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先の東京都知事選を制した石原慎太郎氏は、価値観の混迷する現代日本にて、歯に衣着せぬその断定的な物言いがアピールしたというもっぱらの評判だが、同時に氏は若者のしつけにたいしても口うるさい人物で、「しごき」によって心頭滅却をはかる「スパルタ教育」の提唱者でもある。 ほぼ一年前の新聞紙上で石原氏は、当時社会問題だった凶悪少年犯罪に対する処方箋として、戸塚ヨットスクールでとられたしごき教育の復活を提言していた。心を健全化するためには、もはや言葉による教育では足りず、肉体と付随する脳幹の錬磨が必要だ、と。脳幹には恐怖や歓喜、怒り、忍耐といった、生きるための基本的な衝動を培い、制御する機能があるという。あらゆる欲望が労せずに叶えられる「だらけた生活様式」の中では、肉体同様、脳幹もまた弱体化してしまう。社会の中で競い合い、耐え忍びつつ逞しく成長する「耐性を培う」こと……そうしたストイシズムがもたらす人生的な愉悦にこそ「生きることの妙味」があるというのが、彼の持論なのである。 しかし勤勉さや成功、国家や会社への奉仕……こうした価値観を必要としたのが、かつての近代社会の形成期だったとすれば、ひとたび成熟期を迎え、社会が成長の限界にさしかかったとき、こうした「頑張り」は不要になったり、逆に足かせにすら、なりうる。今日の先進諸国における意味の喪失とは、そういうことだったはずだ。社会学者の宮台真司氏は、ヨーロッパを筆頭にした成熟社会ほど、意味や物語から強度や体感へと、人々が希求するものが移り変わっている現状を指摘する。たしかにグルメやダンス、スポーツやゲームなどは、ただひたすら楽しく、気持ちよく、充実すればいいものだ。日々の私たちの歓びからは「意味」性がボロボロと剥がれ落ちているのかもしれない。 しかし、かつてのような大文字の「物語」こそ、もはや成立しえないとしても、「動機づけ」の部分において「意味」への渇望は、根絶やしにはできないのではなかろうか? たとえば日本の人気テレビ番組『電波少年』において(評判になった猿岩石の大陸横断無銭旅行以来)、若手芸人たちが身体ひとつで無理難題にチャレンジする体当たり企画がたえず高い視聴率を維持しているよう、実はきょうびの若者たちも「鍛えられた脳幹」→耐性の先にある「生きる歓び」に、密やかな憧れをいだいているようだから、である。たとえそこに、「やらせ」というヴァーチャルな「しごき」が仕込まれていたとしても……だ。 |
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「時代の流れに単に乗ることよりも、自分の経験に裏打ちされた価値観で物を選ぶことができる、そんなあたりまえの生活をしている人たちが、近頃妙に気になる」。最近出た、とある男性誌に掲載されていた記事の一節だ。たしかにもっともらしい意見だが、うがった読み替えをすれば「単に時流に乗っかって、自分の経験と関係ない評判でしか物を選べない、そんな異常ともいえる生活をしている人たちは、もういい」ということなのか? しかし消費社会の正体を冷静に見据えれば、流行だブームだといった消費者操作的な流れによって世の一面が成り立っていたことは、否定しようもない。程度問題こそあれ、先に読み替えたような生活とは、実は異常でも何でもなく(少なくともこれまでは)そのほうが「あたりまえ」だったのだ。 とはいえここ10年ほどの世相の移り変わりが、旧態依然とした価値観に揺さぶりをかけてきたことも、また一方での事実だ。冒頭に引用した雑誌の巻末には、ちょうどこのような挨拶文が載っていた。「いまだ不況から抜け出せずにいるニッポン。そこではっきりしているのは、バブル的価値観がまったく通用しない時代が到来した、ということ。この世紀末を生きる男たちには、自分のことは自分で始末するタフネスが要求される。学歴や肩書や収入で人の価値は決まらないし、モノの価値も値段では決まらない。いい男、いい女、いい洋服、いいクルマ、うまい酒……その値打ちを決めるのはあくまで自分。そして選んだ結果ともなうリスクを負うのも、自分なのである」と。 ブランドや値段や見かけではなく、実質を見極めよ……と、これまたなんとも口当たりのよい提言ではあるが、一読しただけでどうもひっかかる箇所がある。つまり「自己責任」だの「個人主義」みたいな(それまた西洋流価値観の受け売りめいたものでしかないのだが)お題目をかかげ、価値の相対性を説くわりには、おのれの価値基準の拠り所となるアイテムは、あいも変わらず異性や服装、クルマや酒だったりする……という不思議だ。「バブル的価値観が通用しない」とは、そうじゃないってことではなかったのか? 残念ながら今の日本で創刊される男性誌から、酒、車、女みたいなアイテムを排除しては、媒体そのものが成立しないというのが実情のようだ。ならばことさら「新しい価値観」みたいなことを声高に謳わなければいいのに……と同時に、新しい価値観に倣った個人は、もう雑誌なんて読まないのかもしれないが。 |
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「裏原宿系」というブームをご存知だろうか? 今から五年前、東京の原宿と表参道の間にある遊歩道沿いにストリート系ファッションを扱うショップが複数オープンしたのがそもそものルーツだが、マウンテンバイクからフィギュアまで、このエリアで扱われる商品は、いつしかファッションにとどまらぬ、若者文化全般への影響力を持つようになる。大資本に頼らず、あくまでも仲間内での趣味や関心にのっとった経営……この不景気の下、ひとつ間違えれば「お店ゴッコ」で終わってもおかしくないものだが、限定生産といったプレミア性や、若者たちのカリスマが身につけているというステイタス性などの付加価値が功をそうし、立派な新興ビジネスとして注目を集めている。 いわばこれは既存の輸入ブランド崇拝に対するカウンターといえるかもしれないし、ファッションにおけるインディーズ・ブームと読み替えられるかもしれない。路地裏の洋服屋がこしらえた「少数限定販売商品」には、マス・プロダクツにはないバリューがまごうことなく存在する。しかしそれがスニーカーや腕時計やジーンスの「レアもの」価格を支える気分とどう違うのかというと、よくわからない。 ちなみに最近この遊歩道エリアは土日ともなると、不要になった裏原宿系古着を売り買いする若者でごったがえす、フリーマーケット会場と化しつつある。当然、許可を得て出店しているわけもなく、警官が巡回すると露店は速攻でたたまれ、通行人を装うという他愛もなさ……しかし売り値はそれなりの高額で、中には一日二〇万円以上の売上げをみせる強者もいるという。 もともと日本でフリーマーケット=通称フリマと呼ばれているものは、欧米でいうところの「蚤の市」(Frea Market)とはいささか様相が異なっていて(実際日本のそれは"Free Market"という造語だ)「家庭の不用品を活用し、モノを大切にする運動」として定着してきたものだ。しかし昨今の若者が、飽きた服をフリマに出したり、聴かなくなったCDをすぐ処分したりするリサイクルの現場をみていると、それだけの不用品を抱えて暮らしている事態そのものに(いわゆるバブル的な)消費衝動の余熱を感じずにはいられない。昨今のフリマの活気も、裏側から見れば「買った品物にさほど固執せず/飽きたら手放しても呵責はない」こうした感覚の副産物ともいえる。ブランド崇拝とフリマ感覚……それは消費社会を支える究極の「諸刃の剣」ではなかろうか? |
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それが「生きる励み」になるか、はたまた「悶着」や「依存」の火種になるかはケース・バイ・ケースだとして、いわゆる「恋愛」をめぐる通念や言説なるものは――人間に普遍的なテーマである以上――需要にはこと欠かないものだ。とはいえ日本における「それ」は(マスメディアや世間の風潮が圧力を加えることで)ややもすれば過剰なエスカレーションに発展する傾向がないとも限らない。現にわが国でテレビをつけてみれば、トレンディドラマやあまたの流行歌が恋愛の素晴らしさを主張し、繁華街を歩けば手を絡めたカップルの姿が嫌でも目に入る。そしてそれは一部のマイノリティ――そういう恋愛体験から縁遠い人間にとって、「恋愛するのが当たり前」みたいなプレッシャーとなっているようでもある。しかし不思議とそういう話題は、これまであまり取り上げられる機会をもたなかった。 ところがそうした風潮に真正面から異をとなえた本が、最近評判になっている。文芸評論家小谷野敦の著書『もてない男』だ。ここでの基調にあるのは「“恋愛教”なるものが蔓延している現代の日本において、“もてない”ということは恥ずべきことなのか?」といったもの。かくして氏は、古今東西の文学作品からマンガや演劇、ポップス、テレビドラマなどで描かれてきた恋愛観を分析し、巻末では「恋愛なんてやめておけ?」としめくくる。その文章は必ずしも作品の客観的な論評に終始しているわけではなく、そこに(ガールフレンドも彼女もいたことがないという)筆者自身の「もてない」体験=ルサンチマンが随所におりこまれることで、エッセイ的にも読み進められる。ひとつ間違えば陰惨な話題に陥りかねないところに筆者の「芸」が加味されることで、救いもあれば説得味も増している。 詳細に触れるいとまはないが、ここでの「もてる/もてない」問題は、いわゆる容姿の「美/醜」ではなく、コミュニケーション・スキル=「恋愛上手/下手」についての問題ともいいかえられ、いかにも現代的な葛藤だといえる。そもそも「近代的恋愛」なる理念自体が、西洋から輸入された借り物にすぎないし、自由恋愛が同調圧力を生み出す事態は、アメリカのような民主国家でも強固に存在はする。それでもかつて「大和魂」といえば、なんともマチズモ=男性本位的な意識の代名詞だったことを想えば、それが雲散していった先に、本書のヒットがあるという構図は、なんとも現代日本に特徴的な出来事ではなかろうか。 |
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9月頭、農林省記者クラブでの会見場に日の丸を持ち込もうとした係員と記者たちの間で小競り合いが起こり、この夏制定された「国旗国歌法案」のはらむ問題が、あらためて再燃しはじめた。その議論の本筋はさて置くとして、法案審議の喧々囂々のさい、とある新聞に「いっそジョン・レノンのイマジンを国歌にすれば…」という(進歩人の?)意見を目にしてびっくりした記憶を、ここに記しておきたい。 まずは個人的な見解……君が代も日の丸も、自分はそれを国歌/国旗として賛同できるだけの理念を(それらの推奨者たちと)全面的には共有できないし、逆にジョン・レノンの曲は、ビートルズ時代も解散以降も、好んで聞いていた方である。だけどそれでも、「何でイマジンが日本の国歌に?」という疑問は底なしに拡がる。 申し訳ないことにその新聞記事はナナメ読みしただけで、あらためて検証する暇もなかったため、うろ覚えであることをお断りしたうえで、どうやらその意見を言われていた方は「日本は平和憲法を持っているので歌詞の意味にマッチするし、ジョン・レノンの奥さんはヨーコ・オノで日本とも関わりがある……」みたいな理由を述べていたようだ。 繰り返しになるが、僕はジョン・レノンは好きだし、イマジンは(彼のベストだとは思わないにせよ)名曲であることも異存がない。しかし、あれはジョンがひとりで弾き語り、それを各自で聞く歌だからこそ、いいのではないか? 全員で合唱したり、オーケストラが入ったりすれば、キモチ悪いことおびただしい。つまり国歌とは対極にあるような歌なのではあるまいか? そういう部分に気が回らないデリカシーのなさでは、イマジン提唱者と君が代提唱者は大差ない……とまでいったら、言い過ぎだろうか? 話かわって、あるテレビ番組でレポーターが街行く人に「君が代の“君”は何の意味だと思いますか?」という質問を繰り返したところ、典型的なガングロ茶髪のコギャルが「え? 君が代の“君”? 知ってるよぉ、テンノ〜でしょ、テンノォ。」と無邪気に答えていたのをみて「ああ、国旗国歌が法制化されたからといって、若いひとたちの信条意識までが即、民族主義的に洗脳されてしまうとやみくもに思いこむのも、なんか違う……」という感想をもった。これは先の「教科書論争」にもいえることだけど、別段学校で教わることだけを後生大事に覚えこんで生きていく……という事態こそ、非‐現実的だからである。 |
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2年ほど前、ここでJポップなる音楽について書いたことがあった。軽くおさらいすればJポップとは、90年代ニッポンのポピュラー音楽の総体をさす便利な言葉であり、そこにはかつての大衆歌謡やニューミュージック、ロックやインディーズまでもが含まれてくる。その前身のひとつである“渋谷系”音楽に象徴的なよう、デザインや写真、ファッションモードなど、総体的なビジュアルコンセプトとサウンドの洗練によって、たしかにそれは旧来の邦楽と較べて、格段にを垢抜けたイメージを獲得した。だが、だからといって、それが日本の枠を越え、諸外国でも通用する音楽になったかというと、残念ながらそうではなかった。大雑把だが、そんなわけで個人的にJポップの“J”という記号からは、どこかしら「エセ洋楽」チックなニュアンスを感じずにはいられなかった、という主旨だっだ。 でもって今度は「J文学」……だそうだ。ほとんど洒落から始まったようなこのネーミング、90年代デビューの小説家をまとめて紹介する際、とある版元が苦肉の策として捻出したものだが、当初の予測を上回る好反響を巻き起こし、ほとんど瀕死の状態だった“日本ブンガク”界のカンフル剤となりつつある。 そもそも映画だ文壇だといった、ついこの間まで古い体制を引きずってきた権威主義的な分野において、結果そこから生まれる表現が面白くも何ともなくなっていたというのは、たしかだ。で、そういう風潮のもと、権威や伝統から分断されたところからつむぎ出された(朴訥とした)表現の新鮮さに注目が集まるというも、まあ“あり”だろう。そういう意味でもこのJ文学キャンペーンには、自分も少しは手を貸してきたのだけれど……どうも最近、風向きが怪しくなってきた。最近の若者向け読書ガイドやブックカタログをひもとくと、そこには「本はジャケ買い!」とか「お部屋のインテリアに単行本を」みたいなことを、何の臆面もなく表明している「愛書家」たちの姿が……あげくの果てには(DJならぬ)「BJ(ブックジョッキ−)」だ、そうだ。なんだそれ? たしかにかつての書生たちが小難しい本を(背伸びして)読み齧った行為の背景にも、「見栄」という動機が歴然とあったとはいえ、表紙の色やデザインによって本が蒐集されていく(しかもいい若者が)というのは……反動的な物言いであることを承知の上でいえば、本末転倒もいいところ。そもそもそれが“カッコ良い”のかどうか? |
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ここしばらく、日本の雑誌やテレビ番組でよく使われている言い回しのひとつに、“カリスマ”という言葉がある。例えば芸能人や有名人御用達のヘアカットの達人を“カリスマ美容師”と呼んだり、渋谷の繁華街にある人気のブティック販売員を“カリスマ店員”と呼んだり……といった案配だ。 カリスマDJとか、カリスマ作家というように、いわゆる「表現者」、しかもそれが熱烈な信奉者(ファン)を擁しているアーティストに、こうした形容がほどこされるケースなら、以前にもあった。カリスマ(charisma)なる言葉の原義を振り返ってみれば、ギリシャ語の「神の賜物(たまもの)」⇒神より特別に授けられた才能⇒超人的/非日常的な資質や能力⇒(英雄・教祖などに見られる)大衆をひきつけ心酔させる力……こんな調子だ。翻って、日本語のニュアンスとしての、今どきの“カリスマ”はどうかといえば……“カルト”というと(どうもオウム事件以降)狂信的な印象が払拭できないけれど……より大衆性をそなえた分野において“憧れの的”となるパーソナリティ、その程度のものだ。“アイドル”とか“マドンナ”、“〜界の若大将”“〜界の聖子ちゃん”みたいな(昔からよくある)敬称・愛称の最新形態と思えば、それ以上でもそれ以下でもないのかもしれない。 そこで今度は“カリスマ”当事者にフォーカスをあてると、こうした形容をほどこされる対象が(職業差別的な意識はないことを、あらかじめお断りしたうえで)とどのつまりは一介の従業員だという側面でいっても、彼(女)はいわゆる特権的/支配階級的な存在では到底ない……と同時に、そのことが(逆説的に)重要点のようにも思えてくる。つまり学生ふぜいやヤングのみんなが、自分達とさほど変わらない境遇/生活水準の職業人を、親しみをこめて(と同時に、その職能=スキルにはリスペクトをもって)接することのできる、そんな微妙なポジションにいる同世代人を“カリスマ”視しているわけだ。 天上人ではないけどイイ仕事をする……それじゃあ90年代版の“職人”じゃないのか?と思っていた矢先、今度は“カリスマOL”なるものが出現……それって80年代に“キャリアウーマン”と呼ばれた人種と、やっぱり違うのかしら?? 時として、この一連の“人気者”探しが……階級社会が曖昧にしか機能していない……ニホン独特の「悪い冗談」のようにも思えてくるのだが、どうだろう。 |
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気がつけば西暦2000年まであとひと月足らず。本連載コラムも「ジャパンだより」から「世紀末ニッポン異聞」とタイトルを替え、96年2月より50回ほど連載を続けてきたのだが(厳密には来年までが20世紀とはいえ)ミレニアムを迎えて世紀末というのも違和感があるので、これをひとつの区切りとして、今回を最終回としたい。 思い返せばこの4年間……それは20世紀終盤というだけではなく、ここ日本を例にとっても、社会的/生活意識的な大変容の波に万人が翻弄された時代と、位置づけられるのではないか? もちろんある日本人にとっては、例えば明治維新や太平洋戦争、あるいは敗戦後の経済復興や安保闘争などが、一大変革期に相当するのかもしれない。ただこの数年間の出来事が、かくも突出し、未曾有の事態であるという根拠として、「日本人の心の闇」なるものが、ここまで急速に拡大していった現実を、改めて指摘しないわけにはいかないからだ。 ……と、ここまで書いてきて、どうも話が抽象的すぎるように思えてきた。たとえば(得意な)卑近な例でいうと、近ごろ日本の小学生のあいだでもお化粧やダイエットがブームだという。しかしてこれを「いつの時代も子供はオトナの真似をしたがる無邪気な生き物」だとノンキに受け止めるか、あるいは「現代日本に特有の“自意識”の病いが、とうとうここまで低年齢化したか」と憂うのか……もはや詳述するいとまもないが、ここでいう日本人の「心の闇」の前提にあるものは、成熟した物質文明〜近代社会/ネットワーク化する情報産業/高度資本主義の市場原理/信仰なき民族の共同体意識の崩壊……これら諸条件が巧妙に折り重なったところに立ち現われたものだ。それは日本に独自のものであると同時に、世界中の成熟社会が早かれ遅かれ、直面する命題でもある。 しかしてこうした現状に自分が「絶望」しているかというと、不思議とそうでもなかったりもする。変革期とは、旧来の価値観やルールが通用しなくなる時代だ。そしてフリーに近い業態で、さらには妻子のような扶養家族もいない今の自分は(幸か不幸か)旧来の日本的価値観に、制約も恩恵もさほど受けていないせいか、ことの推移を総体的に眺めることができるから……なのかもしれない。 というわけで、21世紀を迎えても今しばらくは、この「世界有数のストレス社会」のてんまつをこの国に居ながら、見届けてやろうと思っている。長いことご愛読、ありがとうございました。 |
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