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と、のっけからミもフタもない話で恐縮だが、この厳然たる事実を指摘してくれたのは、かの異端文学と博物誌の偉才渋澤龍彦氏。そのとおり。豊潤な外観と彩りと芳香につい惑わされがちな花だが、その機能に想いをはせれば、みずからの種の果てしない繁栄のためにギラギラと開ききった生殖器官にほかならない。見渡すかぎりの花畑は楽園にもなぞえられる光景だが、一皮めくればそこに淫靡なほどの猥雑さ/キッチュなまでの過剰さを見いだすことは、そう難しくはない(その末裔ともいえるのが、今どきのコギャルがやたらと髪や腕につけている例の花飾りではないのか?)。
ところでかつて六〇年代後半、アメリカ西海岸から世界中に伝播した対抗文化(カウンターカルチャー)において、花はラブ&ピース、そして自由のシンボルだった。いわゆるフラワー・ムーヴメントというやつだ。そんな時代に産声をあげたヒットチューンが、薄曇りの近未来マンチェスターに四六時中流れている……英国SF界の寵児ジェフ・ヌーンの長篇第二作『花粉戦争』の舞台である。
ある春の早朝、黒タク運転手コヨーテが死体で発見される。口からは無数の花を生やして。捜査にかりだされた女警察官シビルは、シャドウという特殊能力によって、被害者のいまわのきわの意識をリプレイできた。彼女がそこで目撃したのは、無数の花が踊り狂う光景と、運転手仲間ボーダへの愛慕の情だった……その日を境にマンチェスター市内には膨大量の花粉が飛乱するようになり、市民生活は混乱をきわめる。蔓延する花粉症がきっかけで反目しあう異種族たち。一触即発の厳戒体制のなか、重要参考人ボーダの行方をさがすシビルは、上司クラッカーの口からボーダの意外な正体を知らされる……
『花粉戦争』は、ヌーンの名を一躍カルト作家に高めた第一長篇『ヴァート』の世界を継承しつつ、現実と幻想の混濁が一段とエスカレートしている。必ずしも前作を読んでいなくても、独立した物語として十分楽しめるが、ヴァートなる珍妙なガジェットの仕組みや、様々な混血種のキャラクターを満喫できるという意味では、そちらも読んでおいて損はない。なにせめっぽう面白い小説だし。
しかしこれがヌーン初体験という方のために、ヴァート世界のあらましを老婆心ながら説明しておこう。まず肝心のヴァートだが、これは羽の形状をした一種のドラッグであり、同時にそれがもたらす幻覚体験や幻覚世界をも総称するもの。効用別に色分けされ、ソフトウェア感覚でチョイスできる(なにせ服用するとメニューコマンドやスタッフクレジットが出てくるくらいで、映画やTVゲームといった既存の仮想体験をひっくるめた性格すらうかがえる)。
もうひとつの特徴が、人間と動物と機械と幻覚(?)のあいだの雑婚=異種交配が進展し、異常なまでに複雑な混血種(ハイブリッド)が社会を覆っていること。真正人間、ヴァート族、シャドウ族、ロボ族、犬族……これら前作でもおなじみの面々に加え、本作ではゾンビという最下層の賤民が新たにエントリーされる。現実のマンチェスターもまた、有色系移民やその二世三世が独特のコミュニティを形成しているらしいので、そうした多民族都市の暗喩的なニュアンスも、ここには含意されているのだろう。
ヴァートにしてもハイブリッド社会にしても、ヌーンはそれらに必要十分な科学的(合理的)説明を用意してはいない。物語が進展するなかで必要とあらば、その片鱗をうかがわせるといったやり口だ。しかし本作では、かくもヴァート世界に混血種が蔓延するようになったそもそものきっかけが明かされていく。かつて英国に蔓延した不妊病の解決薬〈大豊穰薬十号〉は服用者の欲情を暴走させ、その矛先を人間にとどまらせず、犬やロボットやヴァート生物、果ては死者とすら肉の交わりを持つにいたったのだ、と。この種族の境界をなし崩す際限なき“融合”は、突然の花粉の大氾濫によって、ついには植物種と動物種のあいだにまで拡張していく。解説冒頭の見方からすれば、花粉症とは植物による無差別レイプなのだろうか? しかしそれですら、究極の謀叛劇……「物語=夢」が「現実」に取ってかわろうという神話的謀略の、ほんの幕明けでしかなかった。
著者ヌーンの経歴は、柳下毅一郎氏による『ヴァート』の解説でも触れられているので、ここではかれのホームグラウンドであるマンチェスターについていささか付言しておこう。イングランド北西部ランカシャー地方の工業都市、イギリス一降水量の多い湿潤な気候と豊富な資源から、一八〜一九世紀には産業革命の拠点として一世を風靡したことは社会科の教科書のとおり。しかし七〇年代以降のイギリス経済の不調の波をもろに受け、今日の産業基盤は衰退をきわめている。
そうした衰退感の効用か、同地はまたイギリスのユニークな若者文化の発信地のひとつでもある。パンク以降のニューウェーヴ期にはスミスやジョイ・ディヴィジョンといったシニカルなバンドを輩出し、より最近でいえば、八〇年代末に栄華を誇ったマンチェスター・ムーヴメントが記憶に新しい。ストーンローゼスやハッピー・マンデーズといった、サイケデリックにファンクやアシッドハウスのエッセンスを取り入れたグループがこの地で次々と気勢をあげ、スター不在のUKロックシーンに衝撃をあたえた出来事だ。本拠地のクラブ・ハシエンダの営業停止や地元レーベル、ファクトリーの倒産などで、ムーヴメントそのものは九一年には早くも失速してしまうのだが、これら一連のマンチェスターサウンドがE(エクスタシー)と呼ばれる多幸性ドラッグや黎明期のレイヴカルチャーにただならぬ影響を受けていることを想うと、ヌーンの案出したヴァート世界にも、そうしたネオ・サイケ的な痕跡を探したくもなるのだが……じっさいに本書でヌーンが引き合いにだしてくるサウンドときたら、見事なまでに回顧的な六〇年代サイケ&ポップス。トラフィックにザ・ムーヴ、ジミ・ヘンドリクス、ビートルズ、ストーンズ、(シド・バレット在籍時の)ピンク・フロイド、ドアーズ、マーク・ボランといった面々だ。該当するディスクをお持ちの読者の方は、それをガンガン鳴らしながら読んでみるのも一興かもしれない。
こうしたノスタルジックな音楽を始終かけまくり、狂言回しの役割をはたしているガンボ・ヤーヤーが率いる「海賊放送」なるものも、日本人のわれわれにはいまひとつピンと来ないものかもしれない。要は非営利/非公認の草の根放送局なわけだが、かつてロンドンでも一九六四年頃、テムズ川に浮かぶ船上で海賊ラジオがスタートし、既成の放送番組のように大衆迎合的ではなく、実験的なレーベルやヒットチャート以外のLPの楽曲を率先して紹介したという。時には無意味な宣伝文句やニュース速報、ジングルなどをコラージュし、そこにエコーをかぶせるなど、かなりブッ飛んだ放送のスタイルに時の大人はまゆをひそめたが、若者からは根強い支持をえたようだ。しかし政府はこれらを社会撹乱のもととみなし、船舶や飛行機の管制無線を妨害するという理由から強く取り締まり、六六年秋には続々と摘発され廃止へと追いやられた(これはフラワー・ムーヴメントの隆盛と衰退に、ほぼ合致する時期でもある)。オルタナティヴ・メディアとしての海賊放送はスクウォッティング(住居不法占拠)運動などとリンクしつつ、「自由ラジオ」の名のもと七〇年代後半にイタリアからヨーロッパ諸国へと飛び火してゆくが、それらの役割には警察無線を傍受してデモ隊に密告するといった、いわゆる本来のハッカー的要素が多分に含まれていた。本作で陸のタクシー王コロンブスと「コミュニケーションの覇権」を競いあうガンボのゲリラ的戦術にも、そうしたハッカー精神がしっかり継承されているのが面白い。
前作『ヴァート』の成功によって、ヌーンは英国版サイバーパンクの騎手と崇められ、書評誌もこぞってフィリップ・K・ディックやウィリアム・ギブソン、カート・ヴォネガットにアンソニー・バージェスらを引き合いに出しつつ賞讃しているが、ヌーン本人はSFはあまり読んでいないらしく、むしろアメリカのクライムノヴェルから学んだものが大きいと語り、みずからの小説を「アヴァン・パルプ」と称している。たしかにかれの物語は、電脳空間や先端テクノロジーがにぎにぎしく出現するようなしろものではないが、複数の主観性がせめぎあうリアリティの多層性や、社会の変動に準じて不可避的に変容していく身体感覚をみずみずしく描くその筆致からは、ディックやギブソンをアップデートした新世紀の探偵幻想小説の息吹きが感じられよう。紙幅の都合上、ここではあえて触れなかったが、古典神話的な寓意を近未来活劇に巧みに取り込んでいくあたりも、通受けする要因かもしれない。
ちなみにジェフ・ヌーンの長篇第三作Automated Alice(早川書房近刊予定)はしばしヴァート世界から離れ、一九九八年のマンチェスターに迷い込んだ“不思議の国のアリス”の冒険譚だという。本作のさらなる後日談は、現在執筆中のNymphomationのほうに引き継がれているようなので、そちらも楽しみなところである。