
街道マメ知識
●街道の整備 ○街道の宿駅 ○街道の旅人
慶長5年(1600)、関ヶ原で勝利を得た徳川家康は全国支配の基礎を固めると、翌年には江戸と京都を結ぶ東海道を定め、
それまでは各地の戦国大名が個々に整備した交通網を全国規模へと展開していきます。江戸時代の交通は、
封建社会の下でありながら高度に発展していきます。
18世紀後期のオランダ商館医ツュンベリーの「江戸参府随行記」では日本社会の主要道路や交通施設について、
ヨーロッパの道路よりも好印象である事が書き記されています。
| 五街道 ごかいどう |
江戸幕府が道中奉行の管轄下で支配・整備した、東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を指します。 ただし、初期の頃は徹底された概念が無く、東街道や日光海道、中仙道などの表記も使われていたようです。 享保元年(1716)に公文書での名称が定められ前述のように統一されました。いずれも江戸日本橋を起点としており、 江戸の防衛を念頭において設定されたものでした。各藩の地方主要道でも五街道に倣った整備が義務づけられます。 |
| 東海道 とうかいどう |
もっとも有名な江戸時代の道、品川〜京都の53宿で約492キロ。美濃路・佐屋廻りが付属します。 他が街道なのに対して海端を通るので海道と呼ぶ事が幕府によって取り決められています。 温暖な太平洋側を通り、幕府と朝廷とを結ぶ道として最重要視されました。 橋を架けなかった大井川・天竜川や箱根峠は江戸防衛の要害であったと考えられています。 |
| 中山道 なかせんどう |
東海道の裏街道とも言うべき道で、江戸と京を結ぶ第二のルート。板橋〜守山の67宿で約533キロです。 信濃、美濃などの山間地を通る険しい道ですが、川越えや海越えの危険を減らすことができました。 文久元年(1861)十四代将軍家茂に降嫁する和宮一行は、勤皇の志士達による和宮奪還を警戒し、 東海道ではなく要害険阻な中山道を選びました。 |
| 日光道中 にっこうどうちゅう |
千住〜日光の23宿で約144キロ、壬生道、水戸佐倉道が付属します。 元和3年(1617)、家康の廟所が久能山から日光山へ移されると将軍の東照宮参詣の為に設定されました。 しかし実際には将軍の行列は華美を極め、莫大な経費浪費の為に12代将軍家慶に至るまで20回にも満たなかったそうです。 宇都宮から奥州道中が分岐します。 |
| 奥州道中 おうしゅうどうちゅう |
日光道中の宇都宮から分岐して白河までの10宿、約85キロです。 仙台の伊達氏や、強力な外様大名の多い東北への備えとして整備されました。 奥羽の玄関口、白河に譜代大名を配し、いざと言う時にはすぐに援軍を送れる体制を整えたようです。 戊辰戦争関係の史跡も多く見られます。 |
| 甲州道中 こうしゅうどうちゅう |
当初は内藤新宿〜甲府、後に中山道上諏訪まで延長して45宿、約220キロです。 徳川家親藩領の甲斐への道として整備されました。幕府は万が一江戸が危機的な状況に陥った場合に 甲府城を避難場所とする考えがありました。内藤新宿、八王子など周辺に信頼できる配下を置き、街道の備えも万全でした。 |
| 脇往還 わきおうかん |
脇街道・脇道ともいいます。幕府が五街道に次いで重要視し勘定奉行の管轄下においた街道です。 越後では佐渡三道の「北国街道」、「三国街道」、「会津街道」がこれに当たります。 また、単に本道に対しての脇道(間道)という意味合いで使われる時もあり、この場合はどの街道に対しても使われます。 |
| 間道 かんどう |
本道(本来の大通り)に対しての裏道(脇道)。あまり人目に付きたくない人や、関所・番所やぶり、抜荷にも使われました。 戦争時には峠を守る敵の背後へ奇襲をかける事ができる、地元民しか知らない様な間道が戦局を左右しました。 |
| 宿駅制度 しゅくえきせいど |
徳川政権による主要街道の整備にともない、街道沿いの町や村が、 馬や人足を提供して旅行者や荷物の輸送を助ける宿駅制度が整えられました。 これは適当な間隔で宿(宿駅・宿場)を設定して、荷物をバケツリレーの方式で宿から宿へ次々と送っていく形で、 幕府は各藩の地方街道にもこれを義務づけます。賃金は「無料」と、藩や幕府が定める「御定賃金」、 利用者が直接交渉して決める「相対賃金」の三種に分けられます。宿にとっては「相対賃金」が一番の収入源になるわけですが、 地方で利用者の少ないの宿では負担ばかり大きく、宿駅として成り立たなくなる村も少なくありませんでした。 |
| 関所 せきしょ |
古代律令制下では防衛・治安維持目的の関所、やがて中世にかけては通行料徴収の為の関所が乱立しますが、 江戸時代の関所の目的は主に「入り鉄砲に出女」と言われるように、江戸への武器の持ち込みと、 江戸から諸大名の人質である妻女らが国元へ逃亡する事を監視する為のものでした。 越後では北国街道の関川の関所が「重き関所」とされていますが、これは加賀藩を監視する目的がありました。 出羽街道浜通りの鼠ヶ関の関所は、中世のもので奥羽の三大関所の一つと言われています。 |
| 口留番所 くちどめばんしょ |
基本的に幕府以外が関所を設置する事は出来なかったので、 各藩は国境直前の集落に口留番所を設置して街道の交通を取り締まりました。 ここでは、藩の財源となるべき品の流出や農民の逃亡を監視しました。単に番所とも呼ばれ、 この場合は見張り場所という意味合いが強くなります。 |
| 関所手形 せきしょてがた |
関所の通過に特に厳しかったのが入り鉄砲、出女、乱心者、手負、囚人、首、死骸などで、 これらが関所を通行する際に必要な証明書です。通過するものの詳細が書かれて幕府老中や幕府御留守居職が発行しました。 一関所の通過に一枚ずつ必要になります。慶応3年(1867)に廃止されます。 この頃には幕府は関所の取締りどころではありませんでした。 |
| 往来手形 おうらいてがた |
住所、氏名、行き先、宗教、行き倒れた際の処置方法などといった事が書かれた証文で、身分証の役目をします。 取締りが厳しかった女性に比べて、男性の場合は名主や旦那寺発行の往来手形があれば関所を通過できました。 この往来手形は関所近くの茶屋や旅籠屋などでも有料で発行してもらう事ができた為、 手形を持たぬまま旅に出る者も増えました。 |
| 人見女 ひとみおんな |
改め女・改め婆とも呼ばれます。女性が関所を通過する際に、本人確認や密書の有無を調べるために使われる女性です。 場合によっては服を脱がされて調べられる事もありました。しかし、もともとは武家の出女を調べる関所のはずが、 身分の高い奥方や女中には手を出せず、庶民ばかりが厳しく取り調べられるようになります。 今も昔も、お役所仕事の融通の利かなさは同じようです。 |
| 関所破り せきしょやぶり |
厳しい調べが待ち構える関所や番所を通らずに、間道や抜け道を通って関所や番所を越える事です。 手形を持たない女性等が多く行いました。付近の茶屋や旅籠が有料で手引きする場合が多く、 見つかれば共に極刑となりました。しかし、記録に残る人数は意外と少なく、ほぼ黙認されていたのではないでしょうか。 |
| 一里塚 いちりづか |
幕府は慶長9年(1604)、一里ごとに5間四方の塚を造って樹を植え、街道の距離の目安とすることを定めました。 五街道を中心に、全国に普及していきました。これは中国の制度を起源とし、織田信長、豊臣秀吉も行いましたが、 全国展開したのは江戸時代になってからの事です。塚上の樹には、榎や松、 杉などが植えられ旅人の休憩場所としても親しまれました。 |
| 並木 なみき |
一里塚の設置とともに幕府が行った整備が並木です。松や杉が大半でしたが、柳や桜など様々な種類がありました。 夏は木陰を提供し、冬は吹雪から旅人を守りました。戦争など緊急時の燃料・材木確保・障害物構築の目的も考えられます。 昭和中頃までは各地に残っていましたが、現存するものは激減しています。 |
| 道標 みちしるべ |
街道の分岐点に置かれた石の行先案内です。自然石に彫られたもの、四角い石柱にしたもの、 地蔵様や庚申塔などの信仰石造物を兼ねたものなど多彩です。これは幕府や藩の整備ではなく、 沿道民や講中が善意、寄進的な目的で設置したのもです。移動されながらも現在まで残るものも多いようです。 |
| 追分 おいわけ |
街道の分岐点です。間違いやすい箇所には道標が設置されました。 現在でも追分と呼ばれる地名が各地に残りますが、この分岐点に由来するものです。 |
参考資料
図説・新潟県の街道 「図説・新潟県の街道」刊行会/編 郷土出版社
日本史小百科 交通 新井秀規 櫻井邦夫 佐々木虔一 佐藤美智男/共編 東京堂出版
図説江戸6 江戸の旅と交通 竹内誠/監修 学習研究社
日本の街道ハンドブック 稲垣史生/監修 三省堂}
江戸の旅 今野信雄/著 岩波書店
江戸の旅人たち 深井甚三/著 吉川弘文館
江戸の旅風俗 〜道中記を中心に〜 今井金吾/著 大空社