出羽六十里越街道トレッキング

出羽六十里越街道トレッキングツアー

世界遺産に指定された参詣道、紀州熊野古道がある。西の霊場、熊野に並び称されたのは東の出羽三山であった。 東の修験道の中心地として一般民衆の信仰が厚く、江戸時代に「お山詣り」呼ばれる湯殿山詣りは全盛を極めた。 古来より日本人にとって山は神々の宿る神域であり、汚れを祓う神聖な場所とされ、 出羽三山の主体と考えられた湯殿山には多くの行者が足を運んだのである。
庄内と山形をつなぐ山岳道であると共にこれら月山、湯殿山への参詣道でもあった街道が出羽六十里越である。 1200年以上ともいわれる深い歴史を持ち、物資が行き交い、白装束に身を包んだ行者が祈りを捧げ、 軍馬が蹄音を響かせた六十里越街道。今回偶然にもそのウォーキングイベントを知り参加する事となった。

2005年7月9日、南国では梅雨明けも宣言される頃だが東北日本海側のそれは遅い。 数日前まで豪雨が続く天気だったが、この日は久しぶりに青い空が見えた。 スターウォーズの初日公開に後ろ髪を引かれつつも、一路、山形県朝日村を目指した。 道連れは北方新道大峠編で登場以来、ファンからのメールも絶えない?F氏である。

山形と鶴岡を結ぶ六十里越街道 このイベントは山形県朝日村観光協会アルゴディア研究会の主催で行われており、 聞くところによると他にも歴史と自然をテーマとしたトレッキングツアーを開催しているようだ。
六十里越街道についてもう少し書くと、端的には山形と鶴岡をつなぐ街道といって良いだろう。 現在は山形自動車道と国道112号線が月山と朝日連峰の間を縫い、その横に旧国道がさらに小刻みな曲線を造ると、 お手本どおりの道の変遷を見る事ができる。
旧街道は鶴岡から大小幾つもの峠を越えて進む。松根、十王峠、大綱、田麦俣、 細越の峠を過ぎると左に月山・湯殿山への分岐が登っている。 街道は最高所の大岫峠を越えて志津、本道寺、寒河江、山形と続く。 山岳部分の多くが開発から逃れ、また街道に参詣道が混じった古道という点で興味は尽きない。
六十里越といえば新潟にも同名の街道があるが、ある規準で距離を測るとちょうど六十里になる説と、 実際の六里が六十里にも感じられる険しい道だからという二説がある。 ここの六十里越は前者である可能性が高いという。

田麦俣小学校跡に参加者が集まる 今回のイベントは田麦俣の集落で集合、出発となる。 早めに着いた我々がブラブラしている間にどんどん参加者が集まった。 全員で30名程度になり、その中には地元の新聞社の姿もあった。 ほとんどが地元の人達で県外からの参加は我々だけだった。それが珍しかったのか、 新聞社の取材を受けると「昔の人と同じ気持ちになれるのがいいんです…」ちょっと調子にのってみた。

まずは山船頭人と呼ばれるガイドの方から街道とコースのについての説明を受ける。 前述したように、六十里越街道とは鶴岡・山形間で到底1日で歩ける距離ではない。 今回のイベントではこの田麦俣から細越を越えて湯殿山神社への参道までを歩く予定だ。 距離的には10kmにも満たないコースだが、街道の核心部分といってよい場所であり、歩き応えは十分だろう。 なお、本レポートの解説はこの山船頭人やスタッフの方達の説明と、この時貰った冊子を参考にした。

田麦俣〜参詣道分岐までの詳細図
≪六十里越街道ウォーキングマップより≫

多層民家 この田麦俣、まずは目を惹くのが茅葺の多層民家である。 二軒が現存し、うち一軒は県の文化財に指定された遠藤家住宅で、もう一軒はなんと宿泊できる。 養蚕から生まれた美しい反りと輪郭をもった屋根は兜造りと呼ばれ、日本の山郷に深い味わいを与えている。 鶴岡の至道博物館に移築されたものも見学したが、やはりこれはここにあって美しい。
数十年前までは山の斜面にひらけた村の多くが、まだこの造りであったという。 あれが残っていれば白川郷にも負けなかったんだが…スタッフの方のつぶやき少し寂しかった。

山道への入口 田麦俣から少しばかりアスファルトの旧国道を歩くと立派な山道の入口がある。
いきなりの急登となり、ここは蟻腰坂と呼ばれた。その由来は行者が連なって歩く様が蟻の列のようだった事、 また蟻のように這いつくばって登らなくてはいけない程の急坂である事だという。
道は思ったよりも細く、人一人が歩く程の幅しかもっていない。これでは荷を積んだ牛馬がすれ違うのは大変だっただろう。 もっとも純粋な荷物の運送は最上川を使える為、その点ではそれほど多くは無かったのかもしれない。 それは庄内藩が長い歴史の中で、この街道を参勤交代に使った例が一度きりであったという事からもうかがい知れる。

急坂も終わりに差しかかると田麦俣が一望できる広場があり、ここを弘法茶屋跡という。 かの弘法大師も休憩したと伝えられる場所で、常夜灯と石碑が残る。 常夜灯はL字型の街道の角にあり、窓もL字にくり抜かれているのが面白い。 この灯籠の奉献者は村上の八兵衛という者らしい。 この八兵衛がうっかりかどうか分からないが、越後人がしっかりと足跡を残している所が嬉しい。 村上の八兵衛の灯籠

馬立にて説明を受ける 茶屋の先で牛馬の荷を積み直したという馬立がある。ここまで来ると道幅は十分に広く、牛馬のすれ違いもわけはない。 茶屋の先というのが、茶屋で一緒に休ませて糞尿でもしたら大変だからとの説明で妙に説得力を感じた。
進むうち道は深いU字の底を通り、辺りを見回すと同じ様な溝が無数に分岐しているように見える。 これは、色々な理由で付け替えられた為にできた廃道の跡だという。 その理由には深く浸食され過ぎた事であったり、また茶屋の客引きの為でもあるのでは?とスタッフの方が教えてくれた。 千年以上の歴史街道が一筋である方がおかしい。 そう思えば50年にも満たないアスファルト道路などヒヨッコ同然といえよう。

ヒヨッコ道路からトラックの騒音が近づいてくる。旧街道が一度112号線に分断される為だが、 これだけの距離を新旧並んで通っていて一度の分断で済んでいる方が幸いと言えるだろう。 しかしここの横断はちょうど国道のカーブにあたり、見通しが悪い為に注意して渡らなければならない。 ドライバーにしてみてもここは高速道路をつなぐ自動車専用道路であり、 いきなり人が横断してるとは思いもよらない事だ。 一度車道に分断される

車道を渡って対面の旧街道へ登っていくと、花ノ木坂にさしかかる。 気が付けば辺りにはブナ林が広がり、緑の葉と灰色い幹、足元の茶褐色が爽やかなコントラストを作っていた。
真ん中の二本がラブラブナ
ブナの中にラブラブナと名づけられたものがある。 別々の木からの二つの枝が手をつないだラブラブ状態のもので、枯れるまで離れる事はない。 さすがに近年付けられたものだが洒落ていて面白い。しかし、もともと街道の地名の由来なんてそんなものなのだろう。 何百年前に誰かがつぶやいた「蟻の様だ」の一言が蟻腰坂になり、 茶屋が宣伝目的で使った「弘法大師も休憩した」のキャッチフレーズがそのまま弘法茶屋になったのかもしれない。 あと百年もすればラブラブナも真面目に街道の旧跡に並べられ、六十里越街道の新たな歴史となるだろう。

ねじれ杉と保存碑 ブナが続き独鈷清水と呼ばれる湧水がある。これも弘法大師が独鈷で突き出したといわれるもので、 近くにはその大師が手を拭いたために葉がねじれたと伝わる杉もある。
その先も様々な言い伝えの残る場所が訪れる人を飽きさせない。 弘法大師が火を焚いて祈祷したといわれる護摩壇石、これは良く聞く座頭まくり、護身仏茶屋跡、一ノ坂・二ノ坂、 小掘抜(こほんのき)・大掘抜(おおほんのき)、長坂と次々に名前の付けられた場所を通っていく。 中でも気になったのが、大掘抜・小掘抜でどちらも緩やかな丘を切り通した掘割道だが、造った意図が不明だという。 幅は一間程度で掘ってあるが、その高度はせいぜい5メートル程を下げているにすぎない。 それが数十メートルかにわたって続いてる。 実はこれと同じものを庄内の越後との国境付近で見た。(ここ) 同じ統治者による意図的な構造だろうか? だとすればやはり防御施設の可能性が高いような気もするが…所詮、素人の浅知恵だろうか…。
護摩壇石
なぞの大掘抜

途中、スタッフの方の一人が宗教道路のわりに石碑が少ない事を指摘して教えてくれた。 湯殿山と羽黒山の宗教争いによって、対立する宗派の石碑を投棄してしまった為ではないかという。 今なお谷底に眠る碑は多いのかもしれない。

細越峠で昼食となった。細越は細声でもあり、これより神聖な土地に入るので騒がしい事は慎むようにとの意味があるそうだ。 ここも茶屋跡であり、今でも名残りの石組みを見る事ができる。
集団の端の方でF氏とバーナーに火を着けると、細声にふさわしくない轟音を響かせて湯を沸かした。 不粋なものを持ってきてしまったと後悔したが、これを使わなければメシにありつけない。 他にその様なものを持ってきてる人はおらず、新潟からの客はちょっと変な奴らだと思われたかもしれない。

細越を発つと近くに遥拝所があるという。わけあって神社まで行けない人が彼方に御神体を拝む所だが、 街道筋から少し離れる為に今回はそこまでは行かない。 山船頭人が枝を払ってその方向を見せてくれたものの、深い森の中に御神体を見つける事はできなかった。

大きな塹壕内にて 緩やかに下って行くと道が少し湿り気を帯びてくる。戊辰戦争の砲台跡という旧跡がそのような気分にさせたのかもしれない。 この戦争で庄内藩が内陸からの進攻に備えて一帯を要塞化した場所であり、付近には塹壕跡が鮮明に残る。 ここを破る事を困難と見たのか、新政府軍がここに全面攻撃をしかける事はなかった。 砲台は石組みを伴う立派なもので、塹壕も排水処理、飲料水の確保なども念頭においてあり庄内藩のやる気が感じられる。 他にもまだまだ草木に埋もれた塹壕はあるという。 また全面戦闘は無かったとはいえ、はやり小競合い程度はあったのだろう。首切り場などのドロドロした伝承もあるそうだ。

湿地帯を進む この辺りはブナ林などは少なく、小さな湿原のような場所も通る。 大きな木が立たない為に上方向の視界が開けると、今までの道とは全く違う雰囲気になる。 時期が時期なら湿地に咲く花が街道に彩を添え、それがまた神域への誘いとなるわけだ。

笹小屋の説明を受ける 地図に目をやると参道の分岐は近いが、その手前に笹小屋跡の旧跡がある。 注連寺・大日坊より出張して登拝者の賄い接待をした所で、石組みや足を洗う水槽の跡が残る。
明治期には近くの沼で採れたニガリを使って豆腐料理を作っていたという。 この笹小屋の古写真があるが、歩いている人や座って何かをしている人などが写り当時の賑わいを想わせる。 これは昭和初期の写真だが、その位なら写っている人も元気かもしれない。昔話などうかがいたいものだ。

参篭所跡の碑 笹小屋の先の参篭所跡には、多くの石組みや石碑が草木に埋もれている。 荒行の地である仙人沢が近く、即身仏を目指した行者がここに篭って修行をしたという。 他にも説明を聞いたはずが、そのまま現地に忘れてきたらしい…。 ボサッとと聞いていたわけでもないのだが、この街道は色々な由来が多すぎて一度では覚えきれない…(汗)。

大きな湯殿山碑 凡字川にかけられた一本橋を渡って大きな湯殿山碑があり、 山船頭人が参拝の節?を披露してくれると何だか参詣気分が盛り上がる。 石碑の前に並んで記念撮影をする。そろそろ疲れの顔色も見えてきたか。
この先の街道は沢伝いに行くわけだが崩壊の為に通れないらしく、連絡用の急な階段を登った。 この辺りは連絡道や林道が重なってどこが街道なのか分かりづらいようだ。 頭の中で整理しようと歩いたが案の定、いつの間にか街道と分かれ湯殿山参道に入ってしまった。
道幅は狭まり、街道の雰囲気と明らかに違うのが分かる。この辺りにきてブナやナラなどの樹木の大きさが目に付いた。 神聖な土地に手を付ける罰当たり者が居なかったのだろう。

薬師小屋跡
本日5つめの茶屋跡、薬師小屋跡がある。 この距離中にこれだけの茶屋があるというだけで、どれほどの多くの往来があったかは想像に難くない。 ここも窯場と炊事場の跡が残り、当時の様子をしのばせる。 もしかしたら自分の先祖の中にも、ここで休んだ人が居るのかも知れないなどと、 そんな他愛も無い事を考えて喜べるのも古道トレッキングの楽しみだったりする。

最後の踏ん張り所、懺悔坂 薬師小屋を後に最後の急坂が懺悔坂である。 辛い坂道を登る姿が、神社を目の前にして過去の過ちを懺悔しているかのようであるという。 とはいえ、登山道に慣れていればそれほどの坂でもないと余裕をこいているが後日、月山に登って知る事となる。 月光坂こそが真に恐ろしい急坂である事を…。

懺悔坂を登りきると峠を越えて道は下りとなり、木々の緑の間から朱色の大鳥居が見えてきた。 今日のゴールの湯殿山参篭所だ。 アスファルト道からの入り口には小さな標識があるだけで、車で来た人はおや?と思って通り過ぎるのだろう。 せっかく歩いて来たというのにアスファルト道があると少し拍子抜けかもしれないが、道中も含めて参詣なのだ。 車で来たら大鳥居が見えた時の達成感は無い。点から点では無く、線の旅がここにあった。 草木からのぞく朱色の鳥居

参篭所の駐車場で迎えのバスを待った。 風が心地よく吹き抜けると、大鳥居の下に連なる幟を躍らせた。標高は1000mに近く太陽の下でも暑さは感じない。
ゴールの湯殿山参篭所
ここまで来たのだから湯殿山神社の御神体を拝みたかったが、実は結構距離があるようで今回は諦めた。 御神体まではこの先、往復200円払ってバスで行くか、20分程度歩いて行かなければならない。 (月山登山の際に改めてその望みがかなった…なんか不思議な神社。 カメラ持ってたおっちゃんは神社の人にマジギレされてた…)

笹小屋豆腐料理 バスが来るとそれに乗り込み湯殿山ホテルへ向かう。
ホテルの温泉で歩いた汗を流し、さっぱりした所で笹小屋豆腐にちなむ豆腐料理を頂く。 失礼ながら、この参加料でこんなご馳走が出るとは思っていなかったので、色々な豆腐料理が並んで少し驚いた。 この入浴・料理に加えて、ガイド料や保険料、記念写真代も含めて3000円では赤字なのでは?と心配になるが、 ホテル側のイベントにかける情熱がこの値段で抑えているという。 その情熱はホテルの廊下に所狭しと並ぶ、在りし日の田麦俣の写真からもうかがえた。 それは明治期と言えば納得しそうな、しかし現在といっても通用しそうな、不思議な集落の写真だ。 中には芸術家の岡本太郎が撮ったものもある。

しばしの歓談の後、田麦俣の集落へ向けてバスが出るとイベントは終わり、一日を共に歩いた一同は解散する。
初めは少しの心配もあったが、とても充実した一日だった。 隣の県にこれほど立派な旧街道が眠っていたとは大きな発見だったし、 それを広める為に努力しているアルゴディア研究会の活動は素晴らしいと思う。
六十里越街道は世界遺産への登録も目指しているという。 熊野古道へは行った事がないが、恐らくそれに劣らないものだろう。 しかし、正直いって今現在の知名度は高くは無い。 自分にできるのはこうしてレポートを書いて紹介する事くらいだが、 アルゴディア研究会や関係者の地道な努力と情熱が報われる日が来る事を願う。
同会長が問いかけた。「人は何故、山に登らなければならなかったのだろう?」 アルピニストならば「そこに山があるから」と答えれば良いが、古道トレッカーとしてはそうはいかない。 出羽三山が開山1400年を迎える今、人が山を通して自然と自然の中の自分を見つめ直した時、 そこに答えはあるのかもしれない。

最後に関係者・参加して一緒に歩いた方々、素晴らしい山歩きを有難うございました!

千手ブナ前の記念撮影

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