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楢下宿

山形市の南、宮城との県境にほど近い場所に楢下宿はあります。 かつては羽州街道が通り、津軽・久保田・庄内など、東北の13藩が参勤交代の折に利用しました。 江戸へ向かうには本陣を有する出羽国最後の宿駅となり、奥羽山脈を越える金山峠を控える要衝でした。 金山峠付近には上杉軍と伊達軍が戦いを繰り広げた玉ノ木原の古戦場もあり、 重要な地点であった事がうかがえます。
楢下宿は、宝暦7年(1757)の大洪水の後に新たな町割りが造られると、以後その基本構造が幕末まで続きます。
旧街道は川を挟んでコの字型に屈折し(画像中の赤く塗った道筋)、 同じ川を二度渡らなければならないのが少し珍しいかもしれません。 二つの橋は明治期に石橋へ架け替えられ、屈折した道も利便性を図って直進する道がひらかれました。 この新道によって本通りから外れる形となった下町・横町は比較的開発されずに古民家遺構が遺され、 歴史国道に選定されるまでに至っています。(でも実は県道…?)

下町より村の外れに移築された旧丹野家滝沢屋。 庄屋を務めた由緒ある家柄で脇本陣、旅籠屋として大名や上級武士の宿泊に利用されました。 土間、勝手、中間に続いて上下の座敷が設けられています。 楢下宿の古民家の中では、唯一有料で公開していますが、中には展示もあり入場料200円の見応えは十分。

滝沢屋より街道を下る形で進むと新町と呼ばれた地区です。 古い町並というよりは、古い家が点在しているような感じでしょうか。
道路左側には旧武田家が見えてきます。


武田家は、道路に面した右隅の入口から入ると、左側に中間、その奥に上段の間が並びます。 宝暦八年(1758)の屋敷割絵図には旅籠屋であることが記載されてます。 また、柱から宝暦年間の墨書が発見されて建築年次も明確に分かる貴重な建物です。 武田家は勝手に見学できるので、内部も写真撮ってきました。 居間は土間にむしろを敷いただけ…見てるだけで鳥肌立ちそう…。

武田家と並ぶこちらの遠藤家は一般のお宅で公開はしていませんが、歴史のある家である事がうかがえます。 増築部分を取っていったら…

本来は真っ赤の防火関係の設備ですが、この地区では控えめの色で景観作りに一役かっています。

現在では直進している道路は街道時代は右折する道で、角には番所がおかれていました。 直進する道は、明治16年に開通したものです。

右折すると金山川にかかる新橋を渡り、同時に旧粟野家住宅が見えてきます。
古洋風の新橋とその近くに整備された微妙にしゃれた広場も相まって、何ともちぐはぐな景観です。 それも日本らしいといえば、そうなのかもしれません…
橋を渡り終えると下町となります。

眼鏡橋は水害の度に流される木造橋に変わって、明治に入ってから架けられたものです。 当時珍しい石造りのアーチ橋は、落ちるのではないかという不安から、なかなか渡る者が居なかったそうです。 この下流にも覗橋と呼ばれる石橋が現存します。


旧粟野家です。庄内屋と呼ばれ脇本陣でした。 道路側の出っ張りがもとの玄関となっており、玄関の間、下中間、上中間、上段の間と並んでいます。 その名の通り、庄内藩との関係が深かったようです。こちらも無料公開。

無料公開の古民家最後の一つが旧粟野家大黒屋です。もともとは道路向かいに側に滝沢屋と並んで建っていましたが、 こちらに移転されました。付近は本陣・問屋の斎藤家もあった宿場の中心地でした。 各十畳の上段・中間を街道沿いに配した造りで、証文から文化年代の建築とみられています。 当時の建築の時点で古材を利用しており、木材の年代はさらに遡ります。
訪問時、ここは小学生が何かのイベントをしており、良く見れませんでした。 子供達も積極的にこういう家に触れる機会があると良いですね。

宿場の端に一里塚跡があります。 塚は無く石碑がおかれていますが、これは近年のものの様です。 一里塚は奥州街道からの分岐、桑折宿から数えて十二番目のものだそうです。

おまけ…滝沢屋の近くのノラ猫。観光客がエサを与える事を覚えたのか、ぴったりマークされ続けました…(笑)


羽州街道宿駅 楢下(ならげ)宿 〈山形県上山市楢下〉
国土交通省 歴史国道選定
国指定文化財:羽州街道楢下宿・金山越
県指定文化財:旧丹野住宅滝沢屋
市指定文化財:庄内屋・大黒屋・山田屋・武田家
アルカディア街道復興計画モデル地区

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