

在パラグアイ日本商工会議所
ラ・コルメナ移住地 入植70周年記念式典行事レポート
2006年5月15日(月)、ラ・コルメナ移住地の入植70周年記念式典行事が行われ、当商工会議所からも出席させていただきました。当日の天候は快晴で、ラ・コルメナ市が近づくと美しいラ・コルメナ富士を望むことができました。
ラ・コルメナ移住地 入植70周年記念式典行事レポート(2006年5月15日(月))
ラ・コルメナ移住地の入植70周年記念式典行事が行われ、当商工会議所からも出席させていただきました。当日の天候は快晴で、ラ・コルメナ市が近づくと美しいラ・コルメナ富士を望むことができました。
《午前8時すぎ 式典開始》
会場の宮坂公園には日系人の方々・パラグアイの方々共に多くの人が集まりました。
@ パラグアイ・日本国歌斉唱 A黙祷 の後、
B ラ・コルメナ市長 オジリオ・カバジェロ氏
C ラ・コルメナ文化協会会長 千葉玄治郎氏
D パラグアリ県知事 Dr.Jorge Varuja
E JICAパラグアイ事務所 斉藤寛志所長
F 在パラグアイ日本国特命全権大使 飯野建郎大使
以上5名の来賓の方の挨拶がありました。
(写真:式典-01)
(写真:式典-02)
(写真:コルメナ日本語学校改装記念式典)
当会初代会頭 笠松尚一氏 胸像除幕式》
式典のプログラムの中に、当商工会議所の初代会頭である故笠松尚一(ヒサカズ)氏の胸像除幕式がありました。笠松氏(当会会員笠松信吾氏のお父様)は、1936年にサンパウロより着パした測量技師で、パラグアイ移住のパイオニアというべき方です。31年前に当会(在パラグアイ日本商工会議所)を創立され、亡くなる直前(2002年)まで会頭を務められました。また、1983年には日系老人クラブの創立もされ、その会長(及び中南米日系老人連合会副会長)在任中にアスンシオン福祉センターが完成しました。さらにパラグアイ都道府県人会連合会会長を務められるなど、パラグアイ日本人社会のために一生尽くされた方でした。この度、ラ・コルメナ市、ラ・コルメナ日本人会、パラグアイ香川県人会がスペンサーで、宮坂公園に胸像が立てられました。
(写真:故・笠松尚一氏胸像-01:初代当商工会議所会頭)
(写真:故・笠松尚一氏胸像-02:初代当商工会議所会頭)
《10時頃より 華やかな記念パレード》
14 de Mayo 通りにて
NIHONGO GAKKO 生徒、パラグアリ陸軍、海軍、ラ・コルメナ日本語学校生徒及び教員など
(写真:記念パレード-01)
(写真:記念パレード-02)

(写真:記念パレード-03)
《昼過ぎ 祝賀会開始》
室内体育館はとても華やかに飾られ、昼食にはアサード・巻き寿司・サラダ・フルーツなどのおいしい料理がもてなされ、お祝いのムードに満ちていました。会場の全員が揃っての乾杯をした時には、その場に参加できたことをとても光栄に感じました。
@ 和太鼓 Aフラメンコ B中平マリコ歌謡ショー
Cラ・コルメナ日本語学校生徒による「ラ・コルメナ70年のあゆみ」
D鬼剣舞 E安来節 Fよさこい乱舞 など
盛りだくさんのアトラクションがあり、会場は大いに賑わいました。

(写真:祝賀会-01)

(写真:祝賀会-02)
(写真:白沢寿一会頭夫妻)
(写真:笠松信吾さん)
《その他 展示・販売》
◎ ラ・コルメナ入植当時の貴重な写真や物の展示
◎ 当会特別会員JICASV米田氏によるラ・コルメナ産ワイン、梅酒、ドライマンゴーの販売
◎ 入植70周年記念グァンパ・ボンビージャセット、饅頭などの和菓子の販売
(写真:コルメナの特産品を来場者に説明する米田特別会員)
この日1日を通していろいろな方にお会いできましたし、ラ・コルメナの方々による丁寧な準備のおかげで大変楽しませていただきました。パラグアイ最初の日本人移住地であるラ・コルメナ市入植70周年の歴史的行事を体験することができ、嬉しい気持ちで帰って参りました。
(写真:記念カプセル)
(写真:コルメナ70周年を祝う記念品)
パラグアイに根付いて70年=ラ・コルメナ=日本移民発祥の地=記念行事で節目祝う(ニッケイ新聞・2006年5月20日(土))
パラグアイのラ・コルメナ移住地で十五日、同市の創立と入植七十周年を祝う記念行事が挙行された。戦前で唯一の移住地として、パラグアイ日本移民の道を切り開いたラ・コルメナ。開拓初期の苦難、戦中の困難を乗り越え、ここから幾多の人材が同国社会に巣立って行った。パラグアイ独立記念日にあたるこの日、式典には周辺各国、日本からも慶祝団が参集。七十年のあゆみに思いをはせ、未来への決意を新たにした。 「道もなく、牛車に揺られて来た。木を一本ずつ倒しての開拓の苦労はどこも同じだ」。指導移民の父に連れられてブラジルから移動して来た飯原善広さん(90)は入植当時を振り返る。今では三十人の孫や曾孫に囲まれている好好爺だ。三六年にはじまったパラグアイへの日本人移住。その二年前にブラジルで日本移民を制限する「移民二分制限法」が成立したことが、同国への計画移住につながった。ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の宮坂国人専務(当時)が調査団を派遣。報告を受け三六年五月十五日、パラグアイ拓殖組合(パラ拓)のスタッフが同地に入植する。同六月にブラジルからの指導移民が、そして八月、日本から最初の計画移民が入植した。ミツバチの巣箱を意味する「ラ・コルメナ」。以前は別の名前を持つ村の一集落だった。当時の人口は日本人三百六人、先住者五百十四人と記録されている。度重なるバッタの襲来に苦しんだ初期移民の時代。敵性国民とされた第二次大戦中は後続移民も途絶え、同移住地がパラグアイ全土の日本人収容所となるなど、多くの困難を乗り越え、歴史を刻んできた。現在の人口は五千三百人。日系は三百五十人と、全体の数パーセントに過ぎないが存在と貢献度は大きい。三軍総司令官のホセ・ケイ・カナザワ将軍や同国石油公社ペトロパールのアレハンドロ・マコト・タカハシ総裁など、ここからパラグアイ社会に多くの人材を輩出している。
◎ ◎
式典当日は雲ひとつない日本晴=B市民全員が集まったかのような熱気あふれる一日だった。オジリオ・カバジェロ市長、飯野建郎特命全権大使、陸海空三軍将官、斎藤寛志JICAパラグアイ事務所長をはじめ多数の来賓が出席。アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、日本からも慶祝者がはせ参じた。パラグアイ日本人会連合会の小田俊春会長は、祝辞の中で「移住地の子供たちに不死鳥のような働きを期待する」と述べた。会場では、初期移住当時の先住者の中で生存している長老二名(女性九一歳、男性八八歳)に対し、千葉玄治郎ラ・コルメナ・パラグアイ日本文化協会会長から日系社会の感謝の気持ちをこめた表彰状を伝達。ブラ拓派遣の技師として移住地発掘のために奔走、パ国日本人移民の祖と仰がれた故笠松尚一氏(元日本人会連合会長)の胸像が飯野大使、日本人会会長、笠松家関係者によって除幕された。生涯をかけて日系社会を支えた故アグスチーナ・ミランダ女史(十三日付け本紙既報)の等身大銅像が市内中心部の公園に建立された。市内の全校生徒と三軍音楽隊による記念パレード。改築された日本語学校校舎の完成式も行われ、それに合わせて児童生徒と父母らの作文、習字、絵などが入ったタイムカプセルが学校の庭に埋められた。移住百周年を迎える二〇三六年に目覚めることになっている。父の代から五代続いて男の長子に恵まれているという三井波夫さん(八四)は笑顔で「感無量だ」の一言。五代目のコルメネンセが今年の二月に生まれたという。七十年の時を経て、コルメナ日系社会も三世、四世の時代に入っている。この日はその子供たちが劇「ラ・コルメナ70年のあゆみ」をけなげに演じて会場に感動と感涙をもたらした。当日顕彰された先駆移住者は以下の通り(敬称略)。【功労者】三井波夫(長野)森谷不二男(静岡)関実五郎(群馬)【高齢者】根岸はな(群馬)飯原善広(北海道)関勇寿(群馬)岡田米(岡山)三井波夫、森谷不二男、林しげ(群馬)三井ひろえ(長野)後藤喜代江(山形)【初年度入植者】飯原善広、森谷不二男、関勇寿、根岸はな、関年子(群馬)後藤喜代江、関淳子(群馬)大江高夫(山形)金沢とよ(福島)関実五郎、山崎富美子(北海道)。
南米開拓の父、 笠松尚一さん (香川県・土庄町)
笠松尚一氏は南米移住の先駆者として、ブラジルやパラグアイで大活躍された方です。氏は、四海村村長笠松信次郎氏の孫で、明治四三年長浜で生まれ、伊喜末高等小学校、宇都宮高等農林を卒業された後、昭和六年ブラジルへ移住、営農指導者として活躍されました。昭和一一年には、パラグアイ拓殖組合のスタッフとして隣国パラグアイに派遣され、ラ・コルメナに移住、他地区からの移住者の開拓と生活指導に当たられました。昭和二二年にラ・コルメナ市が誕生すると、日本人でありながら初代市長に推されました。昭和二七年、戦後南米移住が再開されてから、大勢の移住者の生活援助に奔走されるなど苦労の連続でした。昭和三五年からは活動の拠点を首都アスンシオンに移され、パラグアイ日本人会会長・日本商工会議所会頭・香川県人会会長など歴任され、南米移民の父と尊敬されてきました。平成一〇年、平井知事とご一緒にご自宅を訪れ、苦労話や、「皆さんの幸せのために奉仕することが自分の信念である」とのお話を聞きました。しかし、平成十三年九一歳で天寿を全う、惜しみて余りある人を失いました。ラ・コルメナ市には氏の胸像や笠松通りと名付けられた通りがあります。本年は、日本移民七〇周年にあたり、九月八日には記念式典が行われます。遠く地球の反対側で活躍されたわが町の偉人をたたえ、町からラ・コルメナ市の学校へ日本語の教科書を贈る予定にしております。