「おちこち」に見る言霊の変遷

塾頭 神谷 雄高

         ()はじめに
 私は漱石のファンではないが、『猫』のファンである。
 『猫』はいうまでもなく漱石を世に押しだした出世作である。 出世作というくくりで見てみると、ベートーヴェンの「英雄交響曲」やオーソン・ウェルズの「市民ケーン」などには、その芸術家の秘密が詰まっている、というのが私の持論である。
 漱石についても、中期以降の円熟した作品には、それはそれで独特の味わいがあることに異論はない。しかし『坊っちゃん』以後は、『猫』で発揮されたような才気煥発と湧くようなユーモアは全く影をひそめている。文豪といわれる漱石の主な作品には、流行作家になって以降「ユーモア」と「古典への造詣」について深くこだわった風には見受けられない。小説家としての漱石研究や文芸評論は無限に多く、殆ど研究されつくした観もある。しかし、なぜ漱石は『猫』で「おちこち」に深くこだわったのか。また「おちこち」にはどんな言霊があるのか、といった論考には、まだお目にかからない。そこで、今回は塾頭のふと感じた「おちこちとは何か」という素朴な疑問から出発してみよう。

       ()漱石の「おちこち」・越智東風君
 夏目漱石の出世作となった『吾輩は猫である』には、奇名の登場人物が多い。主人公の苦沙弥先生からして「くしゃみ・クサメ(嚔)」をもじっており、迷亭をはじめ水島寒月、立町老梅、天道公平などが顔を出す。漱石研究では、これらの登場人物のモデルとなった実在の友人・知人が誰であるかといった興味が主題になることが多い。ここでは、そういった人物譚ではなく、なぜ漱石はこういう奇名人を登場させたか、から始めてみよう。とくに東風君は重要である。
 越智東風君は、はじめの方で東風君自身が「おちこち」と読んでほしいと希望している。ところが、苦沙弥先生宅での談論の場になると、いつのまにやら「とうふう」と振り仮名が打たれていて、ちょっとチグハグな感がする。漱石自身は、フルネームで使う時には「おちこち」の方が面白味があり、本人を前にした時には「とうふう君」の方が格調があると思ったのだろう。しかし漱石が「おちこち」という言葉に、なにか独特の思い入れを持っていたのではないか、と感じたのは次の三つの理由からである。  1.彼が傾倒していた蕪村に「おちこち」の名句が多いこと、そして彼に親炙していた芥川龍之介も小説の中で「おちこち」を効果的に使っていること。  2.『猫』で越智東風君が登場するとき、迷亭がやたら「雲井」をくゆらすのは何かの暗喩ではないか。  3.越智東風君に新体詩の作者という役回りを演じさせているのは蕪村を暗に意識していたのではないか、という3点である。
 これは後段で詳しく述べることにして、とりあえず「おちこち」という言葉の変遷から見てみよう。

      ()おちこちは「遠近」か
 おちこちは古い大和ことばで、すでに万葉集にも詠まれている。
      若き子どもはをちこちに騒き泣くらむ《巻十七》
      ま玉つくをちこち兼ねてことはいへど《巻四》
とあり、子どもの歌は「あちらこちら/ここかしこ」の意であるとされ、ま玉の歌は「将来と現在」という意味に使われていると広辞苑は解説している。ここでは後世で使われるようになった「遠近」の意味はまったくない。
 さらに、『伊勢物語』では
      信濃なる浅間のたけに立つ煙お(を)ちこち人の見やはとがめぬ
とあり、[をちこち人]として「あちこちの人」と解釈している。
 また、『源氏』では
      をちこちもしらぬ雲井に眺めわび かすめし宿の梢をぞとふ 《明石の巻》
と詠まれており、ここでも「ここかしこ」の意が強く「遠近感」は弱い。(特に、この『源氏』の一首に注意) 
 これらを見ると「をちこち」は、もとは「あちらこちら」または「将来と現在」という意味だったことがわかる。いずれの歌をみても、遠近の感じは薄く、「遠くと近く」と解釈するだけでは歌のこころが一気に平板にならざるをえない。
 しかし、現代では「おちこち」に漢字が使われるときには「遠近」と表記され、とくに散文になると芥川に見られるように、遠近と書いて(おちこち)と振り仮名してあるくらいである。
 本来「おちこち」に古くからあった「ここかしこ」や「現在と未来」といった意味はすでに失われ、単に「遠くと近くと」という意味のみに取られるようになっているのである。そのような変化はいつごろから始まったのだろうか。
 
      ()をちこちにある多義性・流人の詠
 ところが、この「おちこち」の深い意味を見事に歌い上げた詠がある。

    をちこちのたつきもしらぬ山中に おぼつかなくもよぶこ鳥かな

である。

 この歌は、梅原猛『水底の歌』(新潮社刊)で、柿本人磨呂が「さる」という別名で正史に登場している、という論考をした時、引かれていた有名な歌(読み人知らず)である。
 梅原氏によると、藤原公任が三十六歌仙を編んだ時に、猿丸太夫の歌として撰したことを支持し、これは人磨呂を猿丸太夫として復権しようとしたのではないか、という問題を提起した。そして、この歌は流刑者または隠遁者が草深い田舎に来て「どちらの方向もわからず不安な夜を迎えている寂寞とした心境」と解釈している。おおむね妥当な読解であるが、おちこちに続く「たつき」には「生活の手段。生計」と「林の中に立つ木」がかけられていることにも注意しなければならない。
 つまり、ここでは「おちこち」は遠近という風景描画的というより、「右も左も分からない不安」という心象描画的に使われているのは明らかである。なんとも寂寥にあふれた心地を偲ばせる傑作といえるだろう。
 ここでは「おちこち」はまず「ここがどこかすらわからない」の意味と「現在と将来も見通しがつかない」に掛けて使われている。つまり詠者の心象風景を何重にも掛けた重層的な歌なのである。そしてそこには流刑人として、これから訪れる運命への限りない不安が込められている。こういった意味を見落としてしまっては歌のこころそのものが見えないといわねばなるまい。
 もし、この秀歌を「歌会はじめ」よろしく荒涼たる風景の中で朗詠すれば、音楽的芸術品としても、激しく聞く者の胸裏に迫ってくるにちがいない。

      ()蕪村による転回・明るい「おちこち」
 ところが、蕪村になると「おちこち」は、これらの重層な意味を忘れたかのように、クルリと転回した全く明るい情景として使われている。
        をちこちに滝の音聞く若ばかな
        遠近をちこちとうつきぬた哉 
        梅遠近南(みんなみ)すべく北すべく

などの秀句があるが、いずれもどことなく牧歌的である。
 「滝の音聞く」の解釈には、
 [「をちこち」は遠近の古い言い方。遠くから近くから、あちこちから滝の音が聞こえてくるというのだが、いくつもの滝があるわけではない。ひとつの滝の響きが、この若葉の茂る山の中にいると、まるでいろいろな方向から聞こえてくるような気がするのである。視覚と聴覚の両面から、生命力あふれる自然と一体化する喜びが詠われている。]などがある。
 なぜ、蕪村の「おちこち」は、こんなに明るいのだろうか。
 言うまでもなく蕪村は南画の第一人者であり、生前は俳人としてより画家としての名声を得た。彼に風景画の感覚が横溢していたことは想像にかたくない。後年、俳諧者として完成の域に達する頃、しきりと芭蕉への回帰を志しているが、終生「わび・さび」の境地に没入することはなかった。そして、残されている「蕪村のおちこち」には、かつて人麻呂や『源氏』で詠われたような深い意味を感じとることはできない。
 それは彼が幸福な人生を送った何よりのあかしであり、社会的没落者または罪人としての境遇を味わうような経験があれば、「おちこち」の別の歌も詠んだことだろう。

       ()新体詩人としての蕪村
 はじめに漱石が蕪村を強く意識して「おちこち」君を登場させたのではないか、と書いたのには理由がある。
     君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に
     何ぞはるかなる

     君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
     をかのべ何ぞかくかなしき

 萩原朔太郎は「この詩の作者の名をかくして、明治時代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだらう」といっている。
 この詩は、蕪村の『北寿老仙をいたむ』(1745)という詩の冒頭の二節なのである。朔太郎は続けて言う。「これが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新体詩の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。」と言っている(『郷愁の詩人与謝蕪村』1937)。
 つまり、蕪村は江戸時代にあって、すでに明治の新体詩ムーブメントの先駆者であったことになる。漱石がこのことを知らなかったはずはない。
 「おちこち君」の登場は、決して菅原道真の『東風吹かば...』から、その語感だけを借用した、というような軽い意味ではないのである。蕪村の「おちこち」の多用を通じて、さらに「新体詩」という蕪村の先駆性をこの言葉に託したかったのではないか、とさえ思えるのである。漱石の俳句と古典への造詣を物語るものである。

       ()言霊はよみがえるか
 ただ、唯一残念なことは、漱石自身「おちこち」を他にもかなり多用しながら、このことに触れた作品にめぐりあえないことである。しかし、冒頭でのべた「おちこち」と「雲井」との連想は示唆的である。
 漱石が猿丸太夫や『源氏』の歌を研究したかは定かでないが、蕪村を愛したことから見て、明るく転回したこの蕪村流が意識の中に強くありながら、『源氏』の「をちこち」を暗喩したことは何を意味するのだろうか。漱石に「言葉の復権」という観念が、脳裏のどこかにあったのではないか。
 「おちこち」とはかつて重奏的な深い言葉であった。
 万葉集ではやさしくおおらかに使われており、人麻呂と『源氏』で一気に深くなったが、南画の風流人「蕪村」で洗練された。漱石は、そこに何かを感じたのに違いない。言霊の復権といえば大きすぎるテーマに聞こえるかも知れないが、初期の漱石にはそういった古典へのこだわりが深く潜んでいたのかもしれない。これをあとづけるには、もっと多くの論証が必要であろう。
                                  2001年4月29日

参考文献
梅原猛『水底の歌』
図説『日本の古典14芭蕉・蕪村』
駒田信二『漢字読み書きばなし』
萩原朔太郎『郷愁の詩人与謝蕪村』
広辞苑第4版

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