
ある崖上の感情
1
ある蒸暑い夏の宵のことであつた。山ノ手の町のとあるカフエで二人の年が話をしてゐた。話の樣子では彼等は別に友達といふのではなささうであつた。銀座などとちがつて、狹い山ノ手のカフエでは、孤獨な客が他所のテーブルを眺めたりしながら時を費すことはさう自由ではない。そんな不自由さが ―― そして狹さから來る親しさが、彼等を互に近づけることが多い。彼等もどうやらさうした二人らしいのであつた。
一人の年はビールの醉ひを肩先にあらはしながら、コツプの尻でよごれた卓子にかまはず肱を立てて、先程から殆ど一人で喋つてゐた。漆喰の土間の隅には古ぼけたビクターの蓄音器が据ゑてあつて、磨り減つたダンスレコードが暑苦しく鳴つてゐた。
「元來僕はね、一度友達に圖星を指されたことがあるんだが、放浪、家をなさないといふ質に生れついてゐるらしいんです。その友達といふのは手相を見る男で、それも西洋流の手相を見る男で、僕の手相を見たとき、君の手にはソロモンの十字架がある。それは一生家を持てない手相だと云つたんです。僕は別に手相などを信じないんだが、そのときはさう云はれたことでぎくつとしましたよ。とても悲しくてね ――」
その年の顏には僅かの時間感傷の色が醉ひの下にあらはれて見えた。彼はビールを一と飲みするとまた言葉をついで、
「その崖の上へ一人で立つて、開いてゐる窓を一つ一つ見てゐると、僕は何時でもそのことを憶ひ出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失つて浮草のやうに流れてゐる。そして何時もそんな崖の上に立つて人の窓ばかりを眺めてゐなければならない。すつかりこれが僕の運命だ。そんなことが思へて來るのです。―― しかし、それよりも僕はこんなことが云ひ度いんです。つまり窓の眺めといふものには、元來人をそんな思ひに驅る或るものがあるんぢやないか。誰でもふとそんな氣持に誘はれるんぢやないか、と云ふのですが、どうです、あなたはさうしたことをお考へにはならないですか」
もう一人の年は別に醉つてゐるやうでもなかつた。彼は相手の今までの話を、さう面白がつてもゐないが、さうかと云つて全然興味がなくもないといつた隱やかな表情で耳を傾けてゐた。彼は相手に自分の意見を促されてしばらく考へてゐたが、
「さあ …… 僕には寧ろ反對の氣持になつた經驗しか憶ひ出せない。しかしあなたの氣持は僕にはわからなくはありません。反對の氣持になつた經驗といふのは、窓のなかにゐる人間を見てゐてその人達がなにかはかない運命を持つてこの浮世に生きてゐる。といふ風に見えたといふことなんです」
「さうだ。それは大いにさうだ。いや、それが本當かも知れん。僕もそんなことを感じてゐたやうな氣がする」
醉つた方の男はひどく相手の云つたことに感心したやうな語調で殘つてゐたビールを一息に飲んでしまつた。
「さうだ。それであなたもなかなか窓の大家だ。いや、僕はね、實際窓といふものが好きで堪らないんですよ。自分のゐるところから何時も人の窓が見られたらどんなに樂しいだらうと、何時もさう思つてるんです。そして僕の方でも窓を開けておいて、誰かの眼にいつも僕白身を曝らしてゐるのがまたとても樂しいんです。こんなに酒を飲むにしても、どこか川つぷちのレストランみたいなところで、橋の上からだとか向ふ岸からだとか見てゐる人があつて飲んでゐるのならどんなに樂しいでせう。『いかにあはれと思ふらん』僕には片言のやうな詩しか口に出て來ないが、實際いつもそんな氣持になるんです」
「なるほど、なんだかそれは樂しさうですね。しかし何といふ閑かな趣味だらう」
「あつはつは。いや、僕はさつきその崖の上から僕の部屋の窓が見えると云つたでせう。僕の窓は崖の近くにあつて、僕の部屋からはもう崖ばかりしか見えないんです。僕はよくそこから崖路を通る人を注意してゐるんですが、元來めつたに人の通らない路で、通る人があつたつて、全く僕みたいにそこでながい間町を見てゐるといふやうな人は決してありません。實際僕みたいな男はよくよくの閑人なんだ」
「ちよつと君。そのレコード止して呉れない」聽き手の方の年はウエイトレスがまたかけはじめた「キヤラバン」の方を向いてさう云つた。「僕はあのジヤツズといふ奴が大嫌ひなんだ。厭だと思ひ出すととても堪らない」
默つてウエイトレスは蓄音器をとめた。彼女は斷髪をして薄い夏の洋装をしてゐた。しかしそれには少しもフレツシユなところがなかつた。寧ろ南京鼠の匂ひでもしさうな汚いエキゾテイシズムが感じられた。そしてそれはそのカフエがその近所に多く住んでゐる下等な西洋人のよく出入りするといふ噂を、少し陰氣に裏書してゐた。
「おい。百合ちやん。百合ちやん。生をもう二つ」
話し手の方の年は馴染のウエイトレスをぶつきら棒な客から救つてやるといふやうな表情で、彼女の方を振返つた。そして直ぐ、
「いや、ところがね、僕が窓を見る趣味にはあまり人に云へない欲望があるんです。それはまあ一般に云へば人の祕密を盗み見るといふ魅力なんですが、僕のはもう一つ進んで人のベツドシーンが見たい、結局はさういつたことに歸着するんぢやないかと思はれるやうな特殊な執着があるらしいんです。いや、そんなものをほんたうに見たことなんぞはありませんがね」
「それはさうかも知れない。高架線を通る省線電車にはよくさういつたマニヤの人が乗つてゐるといふことですよ」
「さうですかね。そんな一つの病型があるんですかね。それは驚ろいた。…… あなたは窓といふものにそんな興味をお持ちになつたことはありませんか。一度でも」
その年の顏は相手の顏をぢつと見詰めて返答を待つてゐた。
「僕がそんなマニヤのことを云ふ以上僕にも多かれ少なかれそんな知識があると思つていいでせう」
その年の顏には僅かばかりの不快の影が通り過ぎたが、さう答へて彼はまた平氣な顏になつた。
「さうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味で見る一つの窓があるんですよ。しかしほんたうに見たということは一度もないんです。でも實際よく瞞される、あれには。あつはつはは ……僕が一體どんな状態でそれに耽つてゐるか一度話して見ましようか。僕はながい間ぢいつと眼を放さずにその窓を見てゐるのです。するとあんまり一生懸命になるもんだから足許が變に便りなくなつて來る。ふらふらつとして實際崖から落つこちさうな氣持になる。はつは。それくらゐになると僕はもう半分夢を見てゐるやうな氣持です。すると變なことには、そんなとき僕の耳には崖路を歩いて來る人の足音がきまつたやうにして來るんです。でも僕はよし人がほんたうに通つてもそれはかまはないことにしてゐる。しかしその足音は僕の背後へそうつと忍び寄つて來て、そこでぴたりと止まつてしまふんです。それが妄想といふものでせうね。僕にはその忍び寄つた人間が僕の祕密を知つてゐるやうに思へてならない。そして今にも襟髪を掴むか、今にも崖から突落すか。そんな恐怖で息も止まりさうになつてゐるんです。しかし僕はやつぱり窓から眼を離さない。それやそんなときはもうどうなつてもいいといふやうな氣持ですね。また一方ではそれが大抵は僕の氣のせゐだといふことは百も承知で、そんな度胸もきめるんです。しかしやつぱり百に一つ若しやほんたうの人間ではないかといふ氣が何時でもする。變なものですね。あつはつはは」
話し手の男は自分の話に昂奮を持ちながらも、今度は自嘲的なそして惡魔的といへるかも知れない挑んだ表情を眼に浮べながら、相手の顏を見てゐた。
「どうです。そんな話は。―― 僕は今はもう實際に人のベツドシーンを見るといふことよりも、そんな自分の状態の方がずつと魅惑的になつて來てゐるんです。何故と云つて、自分の見てゐる薄暗い窓のなかが、自分の思つてゐるやうなものでは多分ないことが、僕にはもう薄うすわかつてゐるんです。それでゐて心を集めてそこを見てゐるとありありさう思へて來る。そのときの心の状態がなんとも云へない恍惚なんです。一體そんなことがあるものですかね。あつはつはは。どうです、今から一獅ノそこへ行つて見る氣はありませんか」
「それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境には入つて來ましたね」
そして聽き手の年はまたビールを呼んだ。
「いや、佳境には入つて來たといふのはほんたうなんですよ。僕はだんだん佳境には入つて來たんだ。何故つて、僕には最初窓がただなにかしら面白いものであつたに過ぎないんだ。それがだんだん人の秘密を見るといふ氣持が意識されて來た。さうでせう。すると次は祕密のなかでもベツドシーンの祕密に興味を持ち出した。ところが、見たと思つたそれがどうやらちがふものらしくなつて來た。しかしそのときの恍惚状態そのものが、結局すべてであるといふことがわかつて來た。さうでせう。いや、君、實際その恍惚状態がすベてなんですよ。あつはつはは。空の空なる恍惚萬歳だ。この愉快な人生にプロジツトしよう」
その年には大分醉が發して來てゐた。そのプロジツトに應じなかつた相手のコツプへ荒々しく自分のコツプを打ちつけて、彼は新らしいコツプを一氣に飲み乾した。
彼等がそんな話をしてゐたとき、扉をあけて二人の西洋人がは入つて來た。彼等はは入つて來ると同時にウエイトレスの方へ色つぽい眼つきを送りながら年達ののテーブルへ坐つた。彼等の眼は一度でも年達の方を見るのでもなければ、お互に見交はすといふのでもなく、絶えず笑顏を作つて女の方へ向いてゐた。
「ポーリンさんにシマノフさん、いらつしやい」
ウエイトレスの顏は彼等を迎へる大仰な表情でにはかに生き生きし出した。そしてきやつきやつと笑ひながら何か喋り合つてゐたが、彼女の使ふ言葉はある自由さを持つた西洋人の目本語で、それを彼女が喋るとき年達を給仕してゐたときとはまるでちがつた變な魅力が生じた。
「僕は一度こんな小説を讀んだことがある」
聽き手であつた方の年が、新らしい客の持つて來た空氣から、話をまたもとへ戻した。
「それは、ある日本人が歐羅巴へ旅行に出かけるんです。英國、佛蘭西、獨逸と随分ながいごつたごたした旅行を續けておしまひにウイーンへやつて來る。そして着いた夜あるホテルへ泊るんですが、夜中にふと眼をさましてそれから直ぐ寐つけないで、深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺めるんです。空は美しい星空で、その下にウイーンの市が眠つてゐる。その男はしばらくその夜景に眺め耽つてゐたが、彼はふと闇のなかにたつた一つの開け放された窓を見つける。その部屋のなかには白い布のやうな塊りが明るい燈火に照らし出されてゐて、なにか白い煙みたやうなものがそこから細く眞直ぐに立騰つてゐる。そしてそれがだんだんはつきりして來るんですが、思ひがけなくその男がそこに見出したものは、ベツドの上に肆な裸體を投げ出してゐる男女だつたのです。白いシーツのやうに見えてゐたのがそれで、靜かに立騰つてゐる煙は男がベツドで燻らしてゐる葉巻の煙なんです。その男はそのときどんなことを思つたかと云ふと、これはいかにも古キウイーンだ、そしていま自分は長い旅の末にやつとその古いキへやつて來たのだ ―― さういふ氣持がしみじみと湧いたといふのです」
「そして?」
「そして靜かに窓をしめてまた自分のベツドヘ歸つて寐たといふのですが ―― これは随分まへに讀んだ小説だけれど、變に忘れられないところがあつて僕の記憶にひつかかつてゐる」
「いいなあ西洋人は。僕はウイーンへ行き度くなつた。あつはつは。それより今から僕と一獅ノ崖の方まで行かないですか。ええ」
醉つた年はある熱心さで相手を誘つてゐた。しかし片方はただ笑ふだけでその話には乗らなかつた。
2
生島(これは醉つてゐた方の年)はその夜晩く自分の間借してゐる崖下の家へ歸つて來た。彼は戸を開けるとき、それが習慣のなんとも云へない憂鬱を感じた。それは彼がその家の寢てゐる主婦を思ひ出すからであつた。生島はその四十を過ぎた寡婦である「小母さん」と何の愛情もない身體の關係を續けてゐた。子もなく夫にも死別れたその女にはどことなく諦らめた靜けさがあつて、そんな關係が生じたあとでも別に前と變らない冷淡さ若しくは親切さで彼を遇してゐた。生島には自分の愛情のなさを彼女に僞る必要など少しもなかつた。彼が「小母さん」を呼んで寢床を共にする。そのあとで彼女は直ぐ自分の寢床へ歸つてゆくのである。生島はその當初自分等のそんな關係に淡々とした安易を感じてゐた。ところが間もなく彼はだんだん堪らない嫌惡を感じ出した。それは彼が安易を見出してゐると同じ原因が彼に反逆するのであつた。彼が彼女の膚に觸れてゐるとき、そこにはなんの感動もなく、何時も或る白じらしい氣持が消えなかつた。生理的な終結はあつても、空想の滿足がなかつた。そのことはだんだん重苦しく彼の心にのしかかつて來た。そのうちに彼はリばれとした往來へ出ても、目分に萎びた古手拭のやうな匂が沁みてゐるやうな氣がしてならなくなつた。顏貌にもなんだかいやな線があらはれて來て、誰の目にも彼の陷つてゐる地獄が感づかれさうな不安が絶えずつき纏つた。そして女の諦めたやうな平氣さが極端にいらいらした嫌惡を刺戟するのだつた。しかしその憤懣が「小母さん」のどこへ向けられるべきだらう。彼が今日にも出てゆくと云つても彼女が一言の不平も唱へないことはわかりきつたことであつた。それでは何故出てゆかないのか。生島はその年の春ある大學を出てまだ就職する口がなく、國へは奔走中と云つてその日その日を全く無氣カな倦怠で送つてゐる人間であつた。彼はもう縱のものをにするにも、魅入られたやうな意志のなさを感じてゐた。彼が何々をしようと思ふことは腦細胞の意志を刺戟しない部分を通つて拔けてゆくのらしかつた。結局彼は何時まで經つても其處が動けないのである。――
主婦はもう寢てゐた。生島はみしみし階段をきしらせながら自分の部屋へ歸つた。そして硝子窓をあけて、むつとするやうにこもつた宵の空氣を涼しい夜氣と換へた。彼はぢつと坐つたまま崖の方を見てゐた。崖の路は暗くてただ一つ電柱についてゐる燈がそのありかを示してゐるに過ぎなかつた。そこを眺めながら、彼は今夜カフエで話し合つた年のことを思ひ出してゐた。自分が何度誘つても其處へ行かうとは云はなかつたことや、それから自分が執こく紙と鉛筆で崖路の地圖を書いてヘへたことや、その男の頑なに拒んでゐる態度にもかかはらず、彼にも白分と同じやうな欲望があるにちがひないとなぜか固く信じたことや ―― そんなことを思ひ出しながら彼の眼は不知不識、若しやといふ期待で白い人影をその闇のなかに探してゐるのであつた。
彼の心はまた、彼がその崖の上から見るあの窓のことを考へ耽つた。彼がそのなかに見る半ば夢想のそして半ば現實の男女の姿態が如何に情熱的で性慾的であるか。またそれに見入つてゐる彼自身が如何に情熱を覺え性慾を覺えるか。窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸してゐるやうであり、彼はまた二人の呼吸を呼吸してゐるやうである、そのときの恍惚とした心の陶醉を思ひ出してゐた。
「それに比べて」と彼は考へ續けた。
「俺が彼女に對してゐるときはどうであらう。俺はまるで惡い暗示にかかつてしまつたやうに白じらとなつてしまふ。崖の上の陶醉のたとへ十分の一でも、何故彼女に對するとき歸つて來ないのか。俺は俺のさうしたものを窓のなかへ吸ひとられてゐるのではなからうか。さういふ形式でしか性慾に耽ることが出來なくなつてゐるのではなからうか。それとも彼女といふ對象がそもそも自分には間違つた形式なのだらうか」
「しかし俺にはまだ一つの空想が殘つてゐる。そして殘つてゐるのはただ一つその空想があるばかりだ」
机の上の電燈のスタンドヘは何時の間にかたくさん蟲が集つて來てゐた。それを見ると生島は鎖をひいて電燈を消した。僅かさうしたことすら彼には習慣的な反射 ―― 崖からの瞰下景に起つたであらう一つの變化がちらと心を掠めるのであつた。部屋が暗くなると夜氣が殊更涼しくなつた。崖路の闇もはつきりして來た。
しかしそのなかには依然として何の人影も立つてはゐなかつた。
彼にただ一つの殘つてゐる空想といふのは、彼がその寡婦と寢床を共にしてゐるとき、不意に起つて來る、部屋の窓を明け放してしまふといふ空想であつた。勿論彼はそのとき、誰かがそこの崖路に立つてゐて、彼等の窓を眺め、彼等の姿を認めて、どんなにか刺戟を感じるであらうことを想ひ、その刺戟を通して、何の感動もない彼等の現實にもある陶醉が起つて來るだらうことを豫想してゐるのであつた。しかし彼にはただ窓を明け崖路へ彼等の姿を晒すといふことばかりでも既に新鮮な魅力であつた。彼はそのときの、薄い刄物で背を撫でられるやうな戰慄を空想した。そればかりではない。それがいかに彼等の醜い現實に對する反逆であるかを想像するのであつた。
「一體俺は今夜あの男をどうする積りだつたんだらう」
生島は崖路の闇のなかに不知不識自分の眼の待つてゐたものがその年の姿であつたことに氣がつくと、ふと醒めた自分に立ち返つた。
「俺ははじめあの男に對する好意に溢れてゐた。それで窓の話などを持ち出して話し合ふ氣になつたのだ。それだのに今自分にあの男を自分の欲望の傀儡にしようと思つてゐたやうな氣がしてならないのは何故だらう。自分は自分の愛するものは他人も愛するにちがひないといふ好意に滿ちた考へで話をしてゐたと思つてゐた。しかしその少し強制がましい調子のなかには、自分の持つてゐる欲望を、云はば相手の身體にこすりつけて、自分と同じやうな人間を製造しようとしてゐたやうなところが不知不識にあつたらしい氣がする。そして今自分の待つてゐたものは、そんな欲望に刺戟されて崖路へあがつて來るあの男であり、自分の空想してゐたことは自分達の醜い現實の窓を開けて崖上の路へ曝すことだつたのだ。俺の祕密な心のなかだけの空想が、俺自身には關係なく、ひとりでの意志で著々(ちやくちやく)と計畫を進めてゆくといふやうな、一體そんなことがあり得ることだらうか。それともこんな反省すらもちやんと豫定の仕組で、今若しあの男の影があすこへあらはれたら、さあいよいよと舌を出す積りにしてゐたのではなからうか ……」
生島はだんだんもつれて來る頭を振るやうにして電燈を點し、寢床を延べにかかつた。
3
石田(これは聽き手であつた方の年)はある晩のことその崖路の方へ散歩の足を向けた。彼は平常歩いてゐた往來からヘへられたはじめての路へ足を踏み入れたとき、一體こんなところが自分の家の近所にあつたのかと不思議な氣がした。元來その邊は無暗に坂の多い、丘陵と谷とに富んだ地勢であつた。町の高みには皇族や華族の邸に竝んで、立派な門構への家が、夜になると古風な瓦斯燈の點く靜かな道を挾んで立ち竝んでゐた。深い樹立のなかにはヘ會の尖塔が聳えてゐたり、外國の公使館の旗がヴイラ風な屋根の上にひるがへつてゐたりするのが見えた。しかしその谷に當つたところには陰氣なじめじめした家が、普通の通行人のための路ではないやうな隘路をかくして、朽ちてゆくばかりの存在を續けてゐるのだつた。
石田はその路を通つてゆくとき、誰かに咎められはしないかといふやうなうしろめたさを感じた。なぜなら、その路へは大つぴらに通りすがりの家が窓を開いてゐるのだつた。そのなかには肌脱ぎになつた人がゐたり、柱時計が鳴つてゐたり、味氣ない生活が蚊遣りを燻したりしてゐた。そのうヘ、軒燈にはきまつたやうにやもりがとまつてゐて彼を氣味惡がらせた。彼は何度も袋路に突きあたりながら、―― その度になほさら自分の足音にうしろめたさを感じながら、やつと崖に沿つた路へ出た。しばらくゆくと人家が絶えて路が暗くなり、僅かに一つの電燈が足許を照らしてゐる、それがヘへられた場所であるらしいところへやつて來た。
其處からはなるほど崖下の町が一と目に見渡せた。いくつもの窓が見えた。そしてそれは彼の知つてゐる町の、思ひがけない瞰下景であつた。彼はかすかな旅情らしいものが、濃くあたりに漂つてゐるあれちのぎくの匂に混つて、自分の心を染めてゐるのを感じた。
ある窓では運動シヤツを着た男がミシンを踏んでゐた。屋根の上の闇のなかにたくさんの洗濯物らしいものが仄白く浮んでゐるのを見ると、それは洗濯屋の家らしく思はれるのだつた。またある一つの窓ではレシーヴアを耳に當てて一心にラヂオを聽いてゐる人の姿が見えた。その一心な姿を見てゐると、彼自身の耳の中でもそのラヂオの小さい音がきこえて來るやうにさへ思はれるのだつた。
彼が先の夜、醉つてゐた年に向つて、窓のなかに立つたり坐つたりしてゐる人びとの姿が、みななにかはかない運命を背負つて浮世に生きてゐるやうに見えると云つたのは、彼が心に次のやうな情景を浮べてゐたからだつた。
それは彼の田舎の家の前を通つてゐる街道に一つの見窄らしい商人宿があつて、その二階の手摺の向ふに、よく朝など出立の前の朝餉を食べてゐたりする旅人の姿が街道から見えるのだつた。彼はなぜかそのなかである一つの情景をはつきり心にとめてゐた。それは一人の五十がらみの男が、顏色の惡い四つ位の男の兒と向ひ合つて、その朝餉の膳に向つてゐるありさまだつた。その男の顏には浮世の苦勞が陰鬱に刻まれてゐた。彼はひと言も物を言はずに箸を動かしてゐた。そしてその顏色の惡い子供も默つて、馴れない手つきで茶碗をかきこんでゐたのである。彼はそれを見ながら、落魄した男の姿を感じた。その男の子供に對する愛を感じた。そしてその子供が幼い心にも、彼等の諦めなければならない運命のことを知つてゐるやうな氣がしてならなかつた。部屋のなかには新聞の附録のやうなものが襖の破れの上に貼つてあるのなどが見えた。
それは彼が休暇に田舎へ歸つてゐたある朝の記憶であつた。彼はそのとき自分が危く涙を落しさうになつたのを覺えてゐた。そして今も彼はその記憶を心の底に蘇らせながら、眼の下の町を眺めてゐた。
殊に彼にさう云ふ氣持を起させたのは、一棟の長屋の窓であつた。ある窓のなかには古ぼけた蚊帳がかかつてゐた。その隣の窓では一人の男が盆槍手摺から身體を乗出してゐた。そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、箪笥などに竝んで燈明の灯つた佛壇が壁ぎはに立つてゐるのであつた。石田にはそれらの部屋を區切つてゐる壁といふものがはかなく悲しく見えた。若し其處に住んでゐる人の誰かがこの崖上へ來てそれらの壁を眺めたら、どんなにか自分等の安んじてゐる家庭といふ觀念を脆くはかなく思ふだらうと、そんなことが思はれた。
一方には闇のなかに際立つて明るく照らされた一つの窓が開いてゐた。そのなかには一人の禿顱(はげあたま)の老人が煙草盆を前にして客のやうな男と向ひ合つてゐるのが見えた。暫くそこを見てゐると、そこが階段の上り口になつてゐるらしい部屋の隅から、日本髪に頭を結つた女が飲みもののやうなものを盆に載せながらあらはれて來た。するとその部屋と崖との間の空間が俄かに一搖れ搖れた。それは女の姿がその明るい電燈の光を突然遮つたためだつた。女が坐つて盆をすすめると客のやうな男がぺこぺこ頭を下げてゐるのが見えた。
石田はなにか芝居でも見てゐるやうな氣でその窓を眺めてゐたが、彼の心には先の夜の年の云つた言葉が不知不識の間に浮んでゐた。―― だんだん人の祕密を盗み見するといふ氣持が意識されて來る。それから祕密のなかでもベツドシーンの祕密が捜し度くなつて來る。――
「或ひはさうかも知れない」と彼は思つた。「然し、今の自分の眼の前でそんな窓が開いてゐたら、自分はあの男のやうな欲情を感じるよりも、寧ろもののあはれと云つた感情をそのなかに感じるのではなからうか」
そして彼は崖下に見えるとその男の云つたそれらしい窓を暫く捜したが、何處にもそんな窓はないのであつた。そして彼はまた暫くすると路を崖下の町へ歩きはじめた。
4
「今晩も來てゐる」と生島は崖下の部屋から崖路の闇のなかに浮んだ人影を眺めてさう思つた。彼は幾晩もその人影を認めた。その度に彼はそれがカフエで話し合つた年によもやちがひがないだらうと思ひ、自分の心に企らんでゐる空想に、その度戰慄を感じた。
「あれは俺の空想が立たせた人影だ。俺と同じ欲望で崖の上へ立つやうになつた俺の二重人格だ。俺がかうして俺の二重人格を俺の好んで立つ場所に眺めてゐるといふ空想はなんといふ暗い魅惑だらう。俺の欲望はたうとう俺から分離した。あとはこの部屋に戰慄と恍惚があるばかりだ」
ある晩のこと、石田はそれが幾晩目かの崖の上へ立つて下の町を眺めてゐた。彼の眺めてゐたのは一棟の産科婦人科の病院の窓であつた。それは病院と云つても決して立派な建物ではなく、晝になると「姙婦預ります」といふ看板が屋根の上へ張出されてゐる粗末な洋風家屋であつた。十ほどあるその窓のあるものは明るくあるものは暗く閉されてゐる。漏斗型に電燈の被ひが部屋のなかの明暗を區切つてゐるやうな窓もあつた。
石田はそのなかに一つの窓が、寝臺を取圍んで數人の人が立つてゐる情景を解放してゐるのに眼が惹かれた。こんな晩に手術でもしてゐるのだらうかと思つた。しかしその人達はそれらしく動きまはる氣配もなく依然として寝臺のぐるりに凝立してゐた。
暫く見てゐた後、彼はまた限を轉じてほかの窓を眺めはじめた。洗濯屋の二階には今晩はミシンを踏んでゐる男の妻が見えなかつた。やはりたくさんの洗濯物が仄白く闇のなかに干されてゐた。大抵の窓はいつもの晩とかはらずに開いてゐた。カフエで會つた男の云つてゐたやうな窓は相不變見えなかつた。石田はやはり心のどこかでそんな窓を見度い欲望を感じてゐた。それはあらはなものではなかつたが、彼が幾晩も來るのにはいくらかそんな氣持も混つてゐるのだつた。
彼が何氣なくある崖下に近い窓のなかを眺めたとき、彼は一つの豫感でぎくつとした。そしてそれがまがふ方なく自分の祕かに欲してゐた情景であることを知つたとき、彼の心臓は俄かに鼓動を揩オた。彼はぢつと見てゐられないやうな氣持で度たび眼を外らせた。そしてそんな彼の眼がふと先程の病院へ向いたとき、彼はまた異樣なことに眼を瞠つた。それは寢臺のぐるりに立ちめぐつてゐた先程の人びとの姿が、ある瞬間一度に動いたことであつた。それはなにか驚愕のやうな身振に見えた。すると洋服を着た一人の男が人びとに頭を下げたのが見えた。石田はそこに起つたことが一人の人間の死を意味してゐることを直感した。彼の心は一時に鋭い衝撃をうけた。そして彼の眼が再び崖下の窓へ歸つたとき、そこにあるものはやはり元のままの姿であつたが、彼の心は再び元のやうではなかつた。
それは人間のさうした喜びや悲しみを絶したある嚴肅な感情であつた。彼が感じるだらうと思つてゐた「もののあはれ」といふやうな氣持を超した、ある意力のある無常感であつた。彼は古代の希臘の風習を心のなかに思ひ出してゐた。死者を納れる石棺のおもてへ、淫らな戲れをしてゐる人の姿や、牝羊と交合してゐる牧羊~を彫りつけたりした希臘人の風習を。―― そして思つた。
「彼等は知らない。病院の窓の人びとは、崖下の窓を。崖下の窓の人びとは、病院の窓を。そして崖の上にこんな感情のあることを ――」