
中国の故事〜春秋編〜
「管鮑(かんぽう)の交わり」
これは春秋時代最初の覇者、斉の桓公に仕えた管仲(かんちゅう)と鮑叔(ほうしゅく)の終生変わりない友情を称えて生まれた故事である。二人は幼い頃から共に学業を学び、武芸に勤しんだ。互いに英才で甲乙つけがたいほどであったが、鮑叔は管仲の着眼と先見の明を尊敬していたため、いつも一歩引いた付き合いをしていたのである。二人は生計を立てるために商売をした。このとき得た利益を二人で分けることにしたが、出資額は鮑叔の方が圧倒的に多かったにもかかわらず、管仲は分け前を当たり前のように五分五分とした。これを聞いた人は管仲の欲の深さを罵ったが、鮑叔は
「この商売がうまくいったのも管仲が商才を発揮して、うまく利益をあげることができたからだ。それに彼の家は貧しいのであるから、この報酬は当然である。管仲の欲が深いのではない」
と、全く不平を言う様子がなかった。またある時、管仲が困った鮑叔のためにある事業の計画をたててやったが、それが見事に失敗してよけいに鮑叔を苦しめたことがある。それでも、鮑叔は決して管仲をうらむことはなかった。物事には時勢があり、うまくいくときもあればそうでないときもあることを知っていたからである。また、管仲は弓術の名手であり、戦場でも後方支援を主としていた。また形勢が不利になると真っ先に退却した。これを見た人たちは管仲を卑怯者だといったが、鮑叔は否定した。管仲にただひとり老母がいることを知っていたからである。
以来、友人としてこれ以上ないくらいの親密であることを「管鮑の交わり」というようになる。
管仲は斉の後継者争いのとき桓公の命を狙った人物であるが、鮑叔は桓公に管仲を登用するよう進言し、その才能を評して自分より高い官位の宰相に推挙した。このエピソードが「管鮑の交わり」を世間に広めた。似たような故事に「刎頚(ふんけい)の交わり」がある。
「倉廩(そうりん)実ちて礼節を知り、衣食足りて礼節を知る」
斉の宰相となった管仲が桓公に富国強兵の基本方針を述べたときに言った言葉。
「富国強兵の基礎は人民であり、人民を増やすには経済を豊かにすることである。」
富国として具体的には、産業を奨励し、貨幣や物価の安定に力を注ぐ一方、いままでの高い税を軽減することで人民に活気があふれ、結果国の財政が潤うという政策である。強兵はそれからであるという。史記では「倉廩実ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」と記述されている。つまり、倉廩(米倉)がいっぱいになって生活にゆとりが出てきて初めて、人々は礼をいうものに目をむけることができるということを言いたかったのであろう。
「風馬牛(ふうばぎゅう)」
斉の桓公は中原に覇を唱えた春秋時代最初の覇者である。紀元前656年、諸侯を率いて小国の蔡を伐った桓公はそのまま南に進軍し、とうとう楚の国境に達した。楚の成王は斉軍の侵略の意図を図りかねて、使者を遣わして桓公に尋ねた。
「斉国は北、わが楚国は南にあります。この両国がこれほど隔絶した位置にあり、風する(さかりのついた)馬牛も及ばないといえましょう。にもかかわらず、貴公がわが楚にやってこられたのはいかなるわけか」
このとき斉の宰相・管仲は故事を持ち出してこういった。
−昔、周の召康公がわが斉の始祖(太公望)に、天下に罪をなす諸侯がいれば、これを討伐せよといわれた。いま楚は周王室に対して貢物も送らずこれをないがしろにしているとしてその罪を問いにきた。また周の昭王が漢水で溺死された(紀元前1002年)ことに関して詳細をお聞きしたかった−
というなれば無理やりのこじつけた理由をならべたてたのである。これに対して楚は
「貢物の件はたしかにこちらに非がありましょう。今後、納めることを約束いたします。ただ、昭王の件に関しては当方の預かり知らぬところでございます。存分に漢水を見聞なさるがよろしいでしょう。」
と答えた。こうして両国の和平交渉が召陵で行われたのである(召陵の盟)。この話から、盛りのついた馬や牛でも遠く離れてしまっては仕方なくすごすだけであるという意味で、転じて「遠く離れてしまった事に関しては預かり知らぬ(まったく関係ない)こと」をたとえていう言葉になった。
「歯牙(しが)禍をなす」
晋の献公(重耳の父)は近隣諸国や小部族を攻め滅ぼし、支配を拡大していった。また同姓の国に対しても軍隊を差し向け、翼を本拠としていた本家を破って分家の献公が晋の正当な君主として立った相当な野心家である。即位して五年目、驪戎(りじゅう)という異民族を滅ぼした時、君主の娘であった驪姫(りき)、少姫姉妹を手に入れた。姉の驪姫は絶世の美女として歴史に残る人物である。献公は驪姫を寵愛し、七年後に男子奚斉(けいさい)が生まれた。献公はすでに長子である申生を太子に立てていたが、驪姫が執拗に奚斉を太子にしてほしいとせがみ、献公もまた、驪姫を喜ばせたいがために正室斉姜(せいきょう)が生んだ申生とその弟、重耳と夷吾(いご)を辺境の守備に赴かせ、後継者争いから遠ざけようと画策したのである。献公が没したあと、奚斉が後を継いだがそれに不満であった家臣たちによって殺されてしまった。申生は自殺し、夷吾と重耳の後継者争いへと発展していくのである。この内乱は驪姫の口からすべての元凶が始まったといってよい。このことから悪意ある言葉が禍をもたらすことを「歯牙禍をなす」というようになった。とは「歯牙」口やくちばしを意味している。
「宋襄(そうじょう)の仁」
宋の襄公が紀元前638年,鄭へと攻め込んだ時のことである。鄭は楚と隣接した小国であり、自国の軍事力では到底防ぎきれない。そこで同盟国の楚に救援を求め、宋軍と楚軍は泓水を挟んで対峙した。圧倒的兵力を誇っていた楚軍がまず渡河を始め、それをみた左師(左大臣)の目夷(もくい)がまず,楚軍が圧倒的な兵数だっため渡河を始めました.目夷は
「敵は我らより大軍ですから渡河しきる前にたたいてやれば勝算はあります」
と進言した。襄公は
「それは卑怯ではないか?覇者たる者のする行為ではない」
と言って取り合わない。そのうち、楚軍が渡河しきってしまい,陣形を整え始めた。目夷は
「陣形が整っていない今こそ,好機ですぞ」
と言ったが、襄公は
「陣形が整うのを待ってやろう」
と攻めようとしなかった。そして楚軍の陣形が整ったとき襄公ははじめて
「今じゃ,突撃〜!」
と戦闘開始の銅鑼をならしたが、あっというまに敗北した。このとき襄公は戦で股に傷を負ってしまい,それがもとで翌年あっけなく死んでしまう。このことから襄公は無用の情けや憐れみをかけて自分を滅ぼす愚行者の象徴とされているようである。また,このときの彼の行動は後に「宋襄の仁」と言われ,無用の情けを意味するようになっている。しかし、意外にも史記を書いた司馬遷はその史書「史記」で、「春秋の礼儀の失われた時代に襄公の礼譲の心は賞賛に価する」と記述しており、襄公を誉めている。まあ,たしかにそうかもしれないが、何も戦場で礼譲の心を示さなくてもいいように思える。誰だ??春秋の五覇に襄公を入れたのは^^;
「未亡人」
紀元前582年、魯の成公(在位:前590〜前573)は宋の文公(在位:前610〜前589)に先君・宣公(前608〜前591)の娘・伯姫を嫁入りさせることにした。小国ではあるが、ここ数年は戦も落ち着き、他国へ嫁いだ姫は幸せでありましょうと宋への使者であった季文子は復命ついでに宋を見聞したありのままを伝えた。これを聞いた伯姫の生母で宣公夫人・穆姜(ぼくきょう)は大いに喜び
「あなたの忠勤には大変感謝しております。先君および未亡人のわたしにまでこれほど尽くしてくださるとは、本当にお世話になりましたね」
と使者をねぎらったという。
話はかわるが、同じく春秋時代の中期、衛の定公が亡くなったとき、太子はまったく悲しむ様子を見せなかった。これを見た定公夫人・姜氏が
「父に対して追悼の意もしめさないとは、きっと未亡人の私をないがしろにし、国をも滅ぼす暗君となりましょう」
と嘆いたため、太子はこれを恥じ、態度を改めた。
現在、未亡人とは夫を無くした妻をさす言葉で何気に使われているが、実際の意味は深く、他人に対して用いることは無礼極まりない言葉なのである。元来、未亡人とは夫を亡くしたにもかかわらず、それに寄り添って死なずに申し訳なく生き長らえております、という意味合いをもつ謙譲語で自身が使う言葉だった。
「唇滅びて歯寒し」
春秋時代に虞という国があった。晋の献公からカクを攻めたいので軍隊を通過させて欲しいという依頼があったとき、大夫の宮之奇は
「唇ほろびて歯寒しという言葉があります。カクが唇ならわが国は歯なのです。唇が滅んでしまえば歯は前面にさらされるではありませんか。つまり次の標的にわが国が選ばれるのは必定なのです。いまはカクと手を組んで晋にあたるべきで晋軍を通すなど絶対になりません。」
と強く反対した。しかし晋は虞公が贈り物に弱いことに目をつけて軍隊の通過を承諾させてしまった。こうしてカクはよもや虞が晋軍を通すとも思わず、狼狽したところをあっけなく討たれてしまい、返す刀で虞も滅んでしまったのである。
「鳴かず飛ばず」
楚の荘王は即位するとすぐさま家臣たちに布令をだした。
「我を諌める者は容赦なくこれを誅す」
つまり、荘王自身、好き勝手にやるがそれに対して口出しするものは容赦なく処刑すると公言したのである。そして即位から三年間、政治に関しては一切口を出さないどころか、朝廷にも顔をださなかった。その間、荘王は後宮に入り浸って酒色にふけっていたが、たまりかねた家臣の伍挙(ごきょ)と蘇従(そじゅう)が荘王の前にかしこまった。荘王は左右に妾をはべらせて酒をのんでいたが、かまわず伍挙は荘王に
「殿下、ひとつなぞなぞ遊びをいたしましょう。山の山頂に大きな鳥がじっとしております。この鳥は三年の間鳴きもしなければ飛ぶこともしませんでした。この鳥はいかなる鳥でござりましょうや?」
と穏やかにいった。荘王はふふんと笑い
「その鳥はひとたび鳴けばその声に大いに人々は驚き、ひとたび飛び立てば天に達するだろう。伍挙よ、そなたの言はよくわかっておる。さがるがよい」
蘇従は平伏して
「ならばその鳥はいつ飛び立つのでしょうか。いつ鳴くのでしょうか。一刻も早く飛び立って天下を窺い、一刻もはやく鳴いて人々を驚かしていただきたいのです。もうその鳥が止まっている山頂は崩れやすくなっているのですどうかお察しください!」
と必死の形相であった。しかし荘王は悠々と
「ふむ。なぞなぞといえどもおまえは今わしを諌めたことには変わりないが、覚悟はよいのか?」
「その鳥の雄姿が本望でございます。そのためならこの命など惜しくはありません」
蘇従はきっぱりと答えた。
「よし!」
荘王は急に立ち上がり
「緊急の登朝会議じゃ!太鼓をたたけ」
とすぐさま礼服に着替え、玉座についてしまった。何事かと事情をつかめていない家臣たちに対して荘王は
「わしは三年間、じっとおまえ達をみていたのだ。わしが政務をしなかったことをよいことに自身の仕事をおろそかにしたもの、罪を犯したものはことごとく免職する!」
と無能な部下や不穏分子を粛清し、このとき約半数が免職されてしまった。このとき伍挙と蘇従は高位に抜擢された。みごとに大鳥が鳴いて人々を驚かせたのであった。またこの大鳥は飛び立ち、この後三年間で南方を平定し、覇権を確立したことで春秋四人目の覇者として君臨した。大鳥が天に登ったのであった。
それ以来、「鳴かず飛ばず」という故事は自身は能力がありながら、あえてそれを誇示しようとせず、時期を見て必要なときに発揮することを意味するようになる。「能ある鷹は爪を隠す」に似た意味といえるだろう。
「鼎(かなえ)の軽重を問う」
春秋時代、楚は武王時代から王号を自称するようになった。それ以後、周王朝を軽んじる態度は子々孫々に受け継がれていったといってよい。近隣諸国を次々に併呑し、南方で国力を増大させていった。楚の荘王は三年間「鳴かず飛ばず」であったが、ついにその翼を広げて大空に飛び立った。鄭国を属国とし、南方を平定していくとともに、中原の覇権を窺うまでにのし上がっていった。そして楚の荘王八年、戎という異民族を討伐するために洛水まで進軍したときのことであった。実は戎の討伐はみせかけで楚の強力な軍事力を諸侯ひいては周王朝に見せつけるために周の国境付近で大規模な軍事演習つまりデモンストレーションを行ったのである。驚いた周の定王は大夫の王孫満を使者として荘王を慰労させた。そのとき荘王は王孫満に向かって
「古に鋳造された九鼎(きゅうてい)洛陽にあると聞くが、その形状や大小、軽重はいかなるものなのか」
九鼎とは夏・商・殷の三代にわたって伝えられた宝器である。禹王が金(当時の青銅)で鋳造し、王位伝承の象徴として周に祭られているのである。鼎は足が三本あり、後の三国時代のように天下を三分することを「鼎立」というのはこれが語源といわれている。九鼎というように鼎は九つあり、当時、中国全土の九つの州をあらわしたもので、これを手にすることが天下の支配者であることを証明したのである。周王の使者に挨拶もせず荘王はこの九鼎の軽重を問うた。
「何故にそのようなことを聞かれます?」
と王孫満は戸惑ったが、荘王は
「それ楚に持ち帰るために、聞いておるのじゃ」
と尊大な態度を崩さない。鼎の軽重を問うということは自国に持ち帰り、今後、楚が天下に号令を下すぞという意味であり、とどのつまり、周王朝はすでに国運が尽きており、王の威権など備わっていないと見下したということである。それを敏感に感じ取った王孫満は、すかさず言い返した。
「それはなりません。九鼎は天命のままに有徳の王へ受け継がれるものです。天下の帰趨は徳にありて鼎にあらず。周の徳は衰えたりといえども、天命はまだ定まらず。天命なき者が力で動かそうとしても、九鼎がたとえ小さくても重くて動かせないでしょう。いまだ軽重を問うべきではありません。」
と気迫に満ちた返事に荘王は押され、鼎を持ち帰るのをあきらめた。さらに周の国境から兵を退き、自国に帰っていったのである。この話では実際に王孫満が荘王をやりこめたように記述されているが実際はそうではない。実際に大軍で周に押し寄せ、鼎を奪ったすれば周王朝をいまだ掲げている中原諸国を一斉に敵にまわすことになる。中原の大国斉や晋を同時に敵に回して勝つことができるだろうか。答えは否である。計算高い荘王は自国の軍事力が未だ中原を威圧するに至ってないことから、時期にあらずと察して退却したのである。
以来、支配者を滅ぼしてそれに取って代わり、自身が天下に君臨しようとすることを「鼎の軽重を問う」というようになった。現在日本では他人,特に権威を持つ者に対してその実力のほどを試すときにつかわれる言葉である。
「羊斟(ようしん)の怨み」
中原に位置する鄭は南北に晋と楚といった大国に挟まれ、対立する二国に対して二股外交を巧みに続け、生き残った小国である。他国からすれば裏切りを平然と肯定するあまりにも信用のおけない政策に対して
「日の出には晋を賞賛し、日の入りには楚に平伏す」
と皮肉をこめて鄭人をあざけった。紀元前609年、鄭は隣国でやはり小国の宋へ出兵した。そのときの宋軍の元帥を務めていた華元は兵たちの鋭気を養うために羊の肉の羹(あつもの:スープ)をふるまった。華元のねらいどおり大将からおもいもよらぬご馳走を受けた兵たちの士気は一気に高まった。鄭軍と宋軍の兵力は互角、この士気ならば勝利は間違いないと確信した華元は全軍に出撃命令を出した。ところが、華元の兵車の御をつとめている者がなかなか出発しようとしない。
「おい!出撃命令はもう出ているぞ。さあ、車を引くのだ」
華元がいくらどなっても御者は不満げにそっぽを向いて発しようとはしなかった。怪訝に思った華元がそのわけを聞くと
「ほかの兵士や将たちはおいしい羊の羹を食べていたのにわたしだけいただいておりません」
華元は、あっ!と思った。ついうっかり自分の御者にふるまうのを忘れていたのである。しかし、もう羹はすっかり平らげてしまって残っていない。それよりもいざ出陣というときに、たかが羹ごときでだだをこねる御者に腹が立ってきた。
「もう戦ははじまっているんだぞ、それくらい後でいくらでも食わせてやる!はやく出撃せんか!」
と怒鳴り散らした。やっと御者も車を走らせたが、宋軍の先鋒はすでに鄭陣へ達そうとしていた。一方、華元の御者はさすがに大将の御をつとめるだけあって綱裁きは見事である。瞬く間に先陣に追いついた。
「やればできるではないか。後で褒美をとらそう」
と、華元は機嫌を直したのもつかの間、華元の兵車はそのまま先陣を追い越し、そのままただ一車敵陣に突っ込んでしまった。無謀である。鄭軍はおろか見方の宋軍もあっけにとられてしまった。なにより一番驚いたのは華元自身であっただろう。鄭軍の大将であった公子帰生(字:子家)は一直線に向かってくる大将を訝りながらもまぎれもなく華元であり、あっさり捕らえて捕虜とした。あとはもう一方的な戦である。一兵も失うことなく大将を生け捕りにした鄭軍は事態をのみこめない宋軍に突撃し、あっというまに壊滅させた。帰生からすればたなからぼたもちといえる大勝であった。このとき、宋の大棘(たいきょく)で行われたことから「大棘の戦い」と呼ばれ、この戦で宋は兵車460乗を失った。戦らしい戦もさせてもらえずに捕虜となった華元は帰生に
「私は宋公に恨みを抱いておりましてこの戦で鄭につこうと考え、投降したのです。」
と偽り、油断した帰生の隙をみて逃げ帰った。帰生は華元こそ逃がしたものの、予想外の大勝によって鄭の英雄になったといわれている。後世の人々は御者を「羊斟」と呼び、この一連の出来事を「羊斟の怨み」として、食べ物の恨みは怖いということの格好の故事として語り継いだ。
「食指(しょくし)が動く」
食指とは人差し指のこと。紀元前607年、鄭国に友好のしるしとして楚の荘王が巨大なすっぽんを鄭の霊公に贈った。すっぽんはこの時代から貴族のあいだで珍味として重宝されていた食材であった。霊公はこれを近臣たちにふるまおうと料理人に羹(あつもの:スープ)を作らせ、昼食にだした。めったにお目にかかれないご馳走に重臣たちは驚き、口々に霊公をほめそやした。しかし、顔を向け合ってにやにや笑っている者たちがいた。公子帰生(子家)と公子宋(子公)であった。
「お前たちなぜ笑っている。わけを申せ」
と少し不機嫌に問うと、そのうちの宋が自分の人差し指を差し出して
「実はこの指にはすごい力が備わっていまして、この食指が動くと必ずご馳走にありつけるのです。一度目はそれで珍しい魚に、二度目は珍しい鳥に、三度目は珍しい果物をたべることができました。そして今日、公からお招きを受けたとき、この食指が動き出し、めでたくすっぽんをいただけたという次第でございます。」
と得意げに語った。霊公はそんなばかげた話があるかとそっぽを向き、宰夫(料理人)が羹の碗を配っているとき
「おい、子公に食わせることはない、下げよ!」
といった。―ほれ、食指が動いても汝はすっぽんにありつけないではないか―とその力を否定したのである。これに顔をしかめた子公は不意に立ち上がり、碗の中に指を突っ込んでスープを嘗め、満足そうにその場を立ち去った。霊公はしばらくあっけにとられていたが、ふとわれにかえると突然激怒し、子家に子公の無礼を怒鳴り散らした。子家はただただ平伏して謝罪するしかなかった。子家は急いで子公の館に行き
「おい、公はたいそうご立腹であったぞ。早めに詫びを入れておいたほうがよいのではないか」
と子公を心配して忠告したが、当の子公は
「いや、いまさら詫びを入れても許されまい。というより俺の腹の虫が収まらないんだ。いっそのこと霊公を殺してしまおう。子家、お前も協力しろ」
と無理やり子家を引っ張り込んで暗殺に荷担させた。翌日子家は子公に言われたとおり、子家が自殺を図り、もう幾ばくもない命である、死ぬ前に霊公に一言謝罪したいと偽って霊公を子公邸まで誘い出した。子公は見舞いにきた霊公に対して枕もとから短剣を取り出して霊公を突き殺してしまった。霊公がすっぽんを与えなかったために殺されたという、たかだか食い物の争いが殺人にまで発展した故事である。このことから「食指が動く」といえば食欲がきざす、また転じて物事を求める心が動くということを意味するようになった。これに似た言葉で「食指を動かす」ということもあるが、これは自分のものにしたいという気をおこすとか、欲しがるという意味である。
「死屍に鞭打つ」
春秋時代末期、揚子江の中流に楚、下流に呉、さらに南方には越という国があった。紀元前522年、呉に一人の男が亡命してきた。伍子胥(ごししょ)という男で、祖国の楚で父と兄を無実の罪に問われて処刑され、自身もお尋ね者となって呉に流れ着いた。伍子胥の父は伍奢(ごしゃ)といい、楚の太子建の太傅(たいふ:後見役)をしていた。あるとき楚の平王は太子建に秦の王女を娶らせようとしたが、王女があまりにも美人であったためそれを横取りしてしまった。そそのかしたのは平王に取り入っていた奸臣の費無忌(ひむき)である。時がたつにつれて、費無忌はいつか太子が即位したときに花嫁横取りの報復を受けるのではないかと不安になり、先手を打つことにした。平王にありもしない太子建の謀反を讒言したのである。平王にしても太子に対する後ろめたさがあり、この話に乗って始末しようと考えた。そこに詰問を受けたのが太子の太傅である伍奢であった。伍奢は太子の謀反をかたくなに否定したが聞き入れられず、
「汝は太傅の身でありながら、太子に反逆をそそのかした罪人である。しかし、これまでの功に報い、子を然るべき官職につけよう。ここへくるように手紙をかくのだ。」
といわれた。伍奢は
「私を処刑すれば子供たちが敵を討つことを恐れ、召喚を装って始末するつもりであろう。息子たちもそれくらいは看破するが、長男の尚は父を思って応じるだろう。だが次男の子胥は絶対仇を討とうとするぞ。これで楚の運命はきまったようなものだ。」
と予言した。こうして伍奢と長男の尚は平王に殺され、子胥は楚を脱出、追っ手を逃れ先に逃亡した太子建の一家のあとを追った。伍子胥は楚をでるとき
「みておれ、楚はきっと亡国の目に苦しむだろう」
と深く仇を誓った。伍子胥の手配により、公子建(太子は廃嫡された)は宋→鄭→晋とわたったが、晋国で鄭を攻略中、策略に失敗し鄭の定公に殺されてまった。晋を去った伍子胥は呉へ亡命し、太子光(のちの呉王闔閭)の客となり、楚へ復讐する機会を待った。そして紀元前512年のこと、伍子胥を愕然とさせる出来事が相次いだ。仇敵である楚の平王が死に、さらに翌年には費無忌も内乱で殺された。伍子胥の怨みをはらす相手が相次いでこの世を去ったのである。それでもこの怨みは楚国そのものであると自分を叱咤し、ますます復讐心を燃やした。この年、呉王僚はその内紛に乗じて楚に兵を送った。このとき国内の守備兵が少ないのを見計らって光がクーデターを起こし、僚を殺害、伍子胥もそれに加担し、光の即位を支援した。呉王闔閭の誕生である。この事件により伍子胥は闔閭の側近として楚へ復讐するための権力を手に入れたといえる。これ以後、伍子胥は孫武(孫子)と幾たびか楚に攻め入り、紀元前506年、ついに楚の首都を陥落させた。伍子胥は楚の昭王は取り逃がしたものの、先王(平王)の墓を掘り返し、その屍に鞭打つこと300、孫武がとめるのも聞かずひたすら打ちつづけたという。これにより楚から亡命して16年という月日を費やしようやく伍子胥の復讐は成った。この伍子胥が行った執拗な復讐劇のすさまじさは広く伝わり、そのすさまじさ故に親兄弟の仇を見事に討ち果たしたものの賞賛されることはなく、復讐鬼を思わせた。またその行為は人々によって「死屍に鞭打つ」という言葉としてその復讐心の深さを表す代名詞もしくは行為を示すようになったといわれている。
「日暮れて道遠し」
「死屍に鞭打つ」という悪鬼を思わせる復讐を果たした伍子胥に使者が訪れた。伍子胥が楚にいたときの親友、申包胥(しんほうしょ)という人物からであった。伍子胥が楚を逃れるときに彼を見送った申包胥に
「命をかけて楚を滅ぼしてみせる」
と誓ったが、申包胥はそれに対して
「それならば、私はそれを命がけで守ってみせよう」
と答えたことがあった。申包胥は呉楚の戦争から逃れ山中に身を隠していたが、伍子胥のあまりにも残酷な報復に対してそれを大いに嘆き使いをよこしたという。申包胥からの使者は−もと平王の臣でありながら、その死をはずかしめる行為は天道にもとるぞ、いつか天に罰せられよう−と伝えると
「吾、日暮れて道遠し(もう老いてしまっているのに為すべきことは多い)。故に理にしたがって行う時間がないのだ。」
と答えた。もう呉に亡命して16年が経ってしまっていた。自分の老い先を悟った伍子胥はその行為の残虐さを年のせいにすることで正当化しようとしたのかもしれない。このことから、「日暮れて道遠し」というのは、自分には期することが大きくありながら、肉体は年老いてしまって容易に達せられなくなってしまった、ということを意味するようになった。
「顰に倣う(ひそみにならう)」
春秋時代の末期、呉越戦争が勃発し、両国はしきりに抗争を繰り返していた。ついに越は呉との戦いに敗れ、呉の属国として扱われるようになり、越王句践(こうせん)もまた呉王夫差の奴隷として生き長らえ、復讐の機会を窺っていた。このとき越は呉の弱体化の策としてとびきりの美女50名を夫差に献上し、骨抜き作戦をけしかけた。この中の西施(せいし)というとくに美しい女性が夫差の目にとまり、夫差に寵愛された。たちまち宮女たちの羨望のまなざしが彼女に向けられたことは言うまでもない。西施には持病の癪があり、普段から痛い胸をさすりながら眉をひそめ、歩くことがしばしばあった。しかし西施のそんな姿がまた美しく、見る者を魅了したのである。このうわさはたちまち世間にも広まり、町村の娘たちは競ってこれを真似するようになったという。このとき村一番の醜女(しこめ)といわれていた娘も例にたがわず西施に倣った。しかしこれをみた人々はただでさえ醜い女が恐ろしい形相で腰をくねりながら近づいてくる異形に青ざめた。子供たちは泣き叫び、富豪は門を固く閉ざし、農民たちは一家を連れて村の外まで逃げ出したというから笑えない大事件にまでなったといわれている。後に荘子が語った言葉に
「今の春秋時代において、威光の衰えた魯や衛に対して、いにしえの周王朝のような礼(徳)をもって治めるような政治を再現させようとする孔子は西施の顰に倣った醜女の如くである」
と孔子を批評したものがある。このことから「顰に倣う」といえば、自分の力量(もしくは時代、背景、環境)をわきまえず、ただ理想を追うことの愚かさを意味するようになった。
「陶朱猗頓(とうしゅいとん)の富」
紀元前473年、越王句践は宿敵呉を滅ぼし、「会稽の恥」をすすぐことに成功した。こうして句践は覇者として天下にその名をとどろかせるに至ったが、なんといっても名臣范蠡(はんれい)の功績が大きかった。句践はその功に上将軍の位で報いたが、范蠡は
「わが君は難を同じくしているときはよいが、安(平和)をともにするべき人物ではない。私はもう用無しであって、後年きっとわが君よりわが身に禍が降りかかるであろう。上将軍など大命の下には以って久しく居りがたし。」
と友人にこぼした後、官を辞して家財を家人や民に分け与え、処分してから家族で斉に去った。斉にやってきた范蠡は姓名を変え、「鴟夷子皮(しいしひ)」という、物資の流通(交易)を商売とした。物価の変動や過不足を正確に見極め、利益を得ることでたちまち巨万の富を築いた。こうして商売をするうちに名声が高まり、斉公より宰相の位についてほしいという仕官の話までやってきた。しかし范蠡は
「家にあって千金をもうけ、また宮仕えにおいて宰相になるなど栄華の極みとなりましょう。栄華を極めてしまうことはすなわち次に没落が待っているということです。私にとっては禍をまねくだけです。」
と断った。こうして斉で得た富をまたことごとく斉の民に分け与え、今度は陶へ去っていった。ここでも名を朱と改めて再び交易をはじめたところ、また巨万の富を築いてしまった。人々はそんな彼を「陶朱公」と呼んだ。
同じような話で魯の猗氏(いし)という土地で、塩と牧畜によって王をもしのぐ財を築いた人物がおり、彼は「猗頓(いとん)」と呼ばれた。このことから、富者の財をたとえて「陶朱猗頓の富」という言葉がうまれ、金持ちのことを略して「陶猗」ともいうようになった。
「千金の子は市に死せず」
春秋時代末期,呉越戦争が終わると越王句践(こうせん)を補佐してきた范蠡(はんれい)は上将軍の位を授かるも「大命の下には以って久しく居りがたし」として野に下った.越を出た范蠡は交易を商売として成功し,瞬く間に大富豪となり「陶朱公」とよばれた.あるとき商いで楚へ出かけていたときのことである.范蠡の次男が殺人をおかし,楚の法により死刑を宣告されてしまった.当時殺人は最も重く,市斬(みせしめのために市場で処刑すること)と決まっていたが,「千金の子は市に死せず」という言葉があるように,役人に大金をつかませればこれを許してもらえた.したがって富豪であれば大罪を犯しても金で不問となる時代だったのである.范蠡も次男の助命のために黄金20000両を工面し,それを車に乗せて末子を使いとして楚へ走るよう命じた.それに長男が反発して言うには
「弟にこのような大事を任せるには荷が重過ぎます.私は一家の長男で家の事は父より家督を命じられて取り仕切っておりますのに,どうして私に行かせてくれないのですか」
と騒ぎ立てた.長男は父に自分が後継者として一人前であることを認めてもらいたいという功名心があったといえるだろう.母親も長男の言い分が最もであるとうるさく言うため,仕方なく長男に行かせることにした.范蠡は長男に一通の添書を託し
「よいか,楚にはわしの友人で荘生(そうせい)という人物がいる.彼にこの添書きを渡し,指示されたことだけを行うのだ.けっして勝手な行動を起こさぬよう」
とくれぐれも軽挙に及ばぬよう念を押した.車をひいて楚についた長男は荘生の家を見つけたが,なんとも汚いあばら家であったので中から出てきた老人に対してもなんとなく信用できなかった.添書きを受け取った老人は一読すると
「陶朱公のご子息の件,たしかに承った.君はその車を倉庫に入れてすぐに帰りたまえ.まもなく君の弟は釈放されるであろう.」
といった.老人の家をでた長男は彼を信用できず心配になったため,自分の力で助命工作をしようと家から持ってきた自分の100両を使って楚の高官へのつてを探った.役人から買収しどうにか高官へ拝謁が叶った長男は弟の釈放の助力を頼み込み,了解を得ることに成功した.一方荘生は楚王に謁見していた.実はこの荘生,楚王から篤く信頼されていた道者であり,楚王に
「東の空に凶星が宿りました.王は民に徳を施し,この不吉な星を払わねばなりません」
と進言した.楚王はそれを聞き入れ,大赦令を出すことにしたのである.これにより,次男の罪は不問となり助かった.宿で連絡を待っていた長男は高官からの連絡で大赦令が出されるので弟は助かるよという報告を受けた.てっきり自分の工作がうまくいったものと思い込み,それならば荘生に支払った金を返してもらおうと思って家を訪ねたところ,
「車なら倉庫に置いてある.もって帰るがよい.陶朱公によろしく伝えてくれ」
とあっさり返してくれたので,父から預かった金を一銭も使わず知恵をつかって弟を助けたと有頂天であった.長男が去った後,荘生は内心穏やかではなかった.
「おのれ小僧め,帰れといったのにこそこそと小細工を弄しおって.大赦はわしが楚王に進言したことを知らぬとはいえ,陶朱公の息子にしてはなんという思慮の足りなさよ.」
といい,その足で楚王に会いに行った.翌朝,長男が市場を歩いていると,広場がどうも騒がしい.どうやら市斬が行われるらしいと聞いて,見物することにした.が,ひと目見て仰天した.大赦で助かったはずの弟が殺されているのである.長男は悲嘆にくれて遺体を実家に運んで帰った.これはもちろん荘生の仕業で,長男の勝手な振る舞いに
「陶朱公の長男は楚王が大赦を出したのは弟を助けるためだと吹聴しているようです.陶朱公の次男を処刑してから大赦をだされませ.そうしないと王政に傷がつきます」
といったからであった.帰ってきた長男から一部始終を聞いた陶朱公はため息をついて
「こうなることは予想がついておった.お前は父の亡命や,商売での苦労を見て育ったため,金の大切さが身にしみている.それに引き換え,末子は私が交易で成功し,富豪となってからの子で不自由なく育ったため金の大切さなどわからず,何の躊躇もなく湯水のように大金を使うことが出来るのだ.今回のような場合,金を惜しんでは助命出来なかったであろう.だから末子を選んだ.」
といった.これを聞いて長男は父には到底及ばないことを悟った.以上のことから「千金の子は市に死せず」とは前述したように,金持ちの子は大罪をも許されるといった古代中国(日本でも)の習慣で,金が法の上にたつこともある世の中の不公平さを表現する言葉でもある.
「怨み骨髄に入(い)る」
晋では文公が没した後、子の襄公が即位したが、喪に服していた。これを好機とみた秦の穆公はその隙に晋の属国であった鄭に兵をだした。自国の勢力を中原に拡大する野望があったからである。これには秦の重臣の蹇叔(けんしゅく)は
「秦が大国にのし上がるには以前百里奚が申しましたように、西の狄族を伐つのが最善です。鄭などたとえ手に入れても秦から遠く、とても統治できるものではありません。すぐさま奪い返されるでしょう」
と散々諌めたが聞き入れられなかった。穆公は孟明視、白乙丙、西丙術の若い三将をもって鄭へ送り出した。しかし芳しい戦果はあげられずに退却を余儀なくされたばかりか、軍を引きあげるときに晋の大夫趙衰に待ち伏せを受けて壊滅させられてしまった。孟明視ら三将は晋へ連行されてしまった。襄公が捕虜をみせしめのために処刑しようとしたとき、襄公の母(晋の文公夫人で秦の穆公の娘)が襄公にこう言った。
「この将軍たちは民や重臣の反対を押し切って軍を発したばかりか散々に兵を失い、今祖国で怨みが骨の髄まで徹しております。このまま秦に返しても到底許されずに処刑されるでしょう。ここは父(穆公)に処断をまかせておくにこしたことはありません」
襄公は母の言も最もであると、3人を秦へ送り返した。実は捕虜になった秦将を不憫に思った文公夫人の策で、襄公はまんまとはまったのである。晋の将軍先軫(せんしん)は
くやしさあまり
「せっかく私が捕らえてきた捕虜を女の策にのせられて逃がしてしまうとは、なんたる失態」
と襄公にむかって悪態をついた。先軫は後々になってこれをたいそう後悔し、己を恥じて襄公に詫びたあと、狄との戦いにおいて単身討ち入り、壮絶な戦死を遂げた。一方、無事に帰国が叶った孟明視らは穆公にあたたかく迎えられた。この故事から文公夫人の言から由来して人を怨んでその深いことをあらわすのに「怨み骨髄に入る」というようになった。
「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」
春秋時代末期,覇権を争う大陸の南では,呉が伍子胥(ごししょ),孫武(そんぶ)といった人材により紀元前 年には楚を壊滅寸前まで追いやり,ついに覇権を手にする事ができた.この当時,呉はすでに勝手に王号立てており,闔閭(こうりょ)は呉王と称していたが紀元前497年,呉の南に位置する小国,越で即位した句践(こうせん)が同じく勝手に王号を立て,自らを越王句践と呼ばせた.南国における覇権を自負していた闔閭は激怒し,
「分をわきまえず王号を称するなどわが国を対する畏敬,畏怖のない証拠である.ただちに兵を動員し,句践へ王の僭称をやめさせるのだ!」
と今すぐにでも出撃せんほどであった.これには伍子胥が諌めた.
「お待ちください.この乱世の時代,王号の僭称など大した問題ではありますまい.放っておきましょう.」
「いや,わが国も王号を立てている以上,威光に関わる.伍子胥,そなたは城に残り,楚が攻めてきたときこれにあたれ.わしが句践を跪かせて見せるわ!」
このとき孫武が不在であり,ほかに闔閭を止めるものなどおらず,翌年,2万の兵を率いて自ら遠征,姑蘇城を出発した.疾風のごとく兵をすすめ,あっというまに越軍の砦を包囲したが,いくら攻めてもびくともしない.力攻めが切れた頃,逆に疲れ果てた呉の陣営に越軍が夜襲をかけ,兵半数を失い,闔閭も右足の親指を槍で刺されるほどの重傷を負うといった大敗北であった.范蠡(はんれい),文種(ぶんしゅ)といった軍略家が率いる越にとって伍子胥,孫武を欠いた呉軍など楽な戦であったのである.なんとか国境まで逃げ延びた呉軍であったが,重傷を負った闔閭は指の傷が元で居城にたどり着けぬまま命を落とした.彼は死の間際,側近に
「夫差に伝えよ.わしの仇を討つのだ.わが国に帰ることのできぬわしの怨み,断じて忘れるでないぞ・・・」
と言いのこした.思いもよらず祖父の遺体を出迎えることになってしまった夫差は,後を継いで呉王となった.夫差は父の遺言を伝え聞いた後,就寝前には薪を並べた上に茣蓙(ござ)を敷き,そこに臥して苦痛に耐える事によって,祖父闔閭の遺言を決して忘れまいと気を引き締めた.これがいわゆる「臥薪」といわれる故事である.
夫差が越への復讐を誓って2年,呉はついに動いた.その間,ただひたすら強兵につとめてきたのである.もともと呉と越では国力が違いすぎるのであるが,このときの戦はまさに一蹴であった.軍備の整わぬ越軍を大軍でもって蹴散らし,句践を会稽山に追い込んだ.
進退極まった句践は使者をよこし,
「越はまさに亡国寸前であります.ただこのまま越を征服したところで,南の蛮国,なんの益もございますまい.越の土地,民の命を許していただけるなら,民は呉王に心服しましょう.また句践夫妻,軍師范蠡は,呉王の奴隷としてお仕えいたす所存でございます.」
と,夫差に降伏を申し入れた.伍子胥は句践の心理を悟り
「句践は心服したわけではありますまい.今討ち取らねば後の大きな憂いとなりましょう」
と句践を斬るようすすめたが,夫差は句践を奴隷とすることこそ,祖父の怨みも晴れようとききいれなかった.かくて句践夫妻および范蠡は夫差の奴隷として仕え,越国は呉の属国となったのである.だが,伍子胥の予感したとおり,もとより句践が夫差の臣となったのは後の復讐のためであり,生き残るためであった.句践は范蠡の知恵を借り,あらゆる手を用いて夫差の信用を得る努力をし,ようやく帰国がかなったのは2年後であった.句践の帰国を聞いた伍子胥は大いに驚き
「お許しになるつもりなら,始めから奴隷とすべきではありませんでした.句践に大きな遺恨を植え付けただけで,わが国にとって何の益があったでしょう.後に大きな禍をこうむりましょうぞ.かの夏王朝,桀(けつ)が商王朝,湯(とう)を拘禁したために,夏が滅んでしまった轍をふまれるおつもりか」
と夫差に言い寄ったが,2年間,尽くしてきた句践に対してまったく警戒心を解いてしまっている夫差には何を言っても無駄であった.
一方,帰国した句践は外では呉へ臣下の礼をとりながら,内では復讐を果たすため,富国強兵の政策に徹底的に取り組みだした.「会稽の恥」に対する恨みは大きい.句践は帰国を祝う臣下達に呉への復讐を誓い,その決意の深さを示した.それは宮殿に肝を吊るし,それをなめて苦さを噛み締めては誓いを忘れぬようにしたのである.これがいわゆる「嘗胆」の故事である.
そして20余年後,句践はついに出兵,夫差を自殺に追い込み呉を滅亡させた.ついに会稽の恥をすすぐことができたのである.
このことから,「臥薪嘗胆」とは,仇を討つために長い間苦労する事,将来の成功を期して辛苦することを意味するようになった.
「佳人薄命」
佳人というのは美しい人というだけでなく,品性,知性といった魅力を含んだ美女ととらえることができる.春秋時代末期,呉王夫差へ嫁いだ美女,西施(せいし)が呉の滅亡をこの目でみながら,若くして自殺したことから,後世になってこの言葉が発したようであるが,唐の時代の楊貴妃もよくたとえられている.素敵な女性に限って不運であり,不幸であると言う意味である.悲劇のヒロインは人々の同情,感動を誘い,興味をひくことから漢詩などによく用いられる言葉である.