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中国の故事〜楚漢編〜
「四面楚歌」
秦の統一国家の崩壊後,天下の派遣をめぐって混乱が続いた.この乱世もやがて劉邦と項羽の「楚漢戦争」に集結し,二大国が5年間天下統一にむけて争っていた.強兵を誇り,自らが天下無双の武人であった項羽率いる楚軍は常に優勢で連戦連勝であったが,漢軍には張良,蕭何(しょうか),陳平といった謀略を得意とする側近が多く,次第に戦況を覆していき,周りの国々を味方につけついには形成逆転,項羽を垓下(がいか)で包囲した.かの地でとどめをささんといく重にも兵を配置した漢軍をみた楚軍八千は愕然とした.兵糧も数日分しかない状態で,突破することができようか,次第に逃げ出す兵がでてくるという有り様であった.ある夜のこと,四方を取り囲む漢の陣営から楚のなまりで楚歌が聞こえてきた.兵達もちろん,項羽もおおいに驚いた.
「おお・・・漢はすでにわが楚を占領したのか!それにしてもなんと楚人の多きことよ」
これを聞いた兵達も,一刻後には9割が脱走し,漢へ投降してしまった.実はこれは漢軍の策で,漢人に楚の言葉を覚えさせ,楚軍に故郷の歌を聞かせることで士気を下げる心理作戦だったのである.結局これが決定打となり,翌朝,項羽は八百余騎を率いて囲みを突破するが,烏江(うこう)で自害,楚漢戦争は集結した.
このことから,四面楚歌とはまわりをすべて敵に囲まれて孤立無援の状態になることを意味するようになった.
「背水の陣」
紀元前204年,大将軍・韓信は漢王劉邦に趙へ出兵を命じられた.関中を手にしたとはいえ,項羽に成皋(せいこう),敖層(ごうそう)といった穀倉の拠点を攻め落とされたとあっては,劉邦の居城・ケイ陽(けいよう)が落城するのも時間の問題であった.したがって,楚軍の側面を牽制するためにも,趙国を制圧する必要があったのである.このとき趙軍二十万に対し,韓信は二万の兵で出陣した.だれもが無謀な戦だと感じていたが,本拠が包囲されているときにあまりそちらに戦力をさく事ができないのも事実であった.趙軍は趙王・歇(けつ)を擁し,上将軍・李左車(りさしゃ)が兵を率いていた.知将・李左車は
「趙への入口,井セイ口(せいけいこう)は山脈に隔てられ,兵の進軍には細い谷間を通らねばなりません.漢軍は必ずここを通り,戦列もままならぬでしょう.ここで奇襲をかければ労せず一網打尽にできますぞ」
と進言した.しかし歇はこちら二十万に対し,漢軍二万という圧倒的な兵力差に油断しきっている様子で.
「敵はたかが二万ではないか.趙王であるこのわしが,漢軍を恐れ,小勢を奇襲したとあっては,他国の嘲笑をうけよう.ここは正面からぶつかり,叩き潰すのだ!」
とまったく聞き入れなかった.一方,斥候から井セイ口には兵が潜んでいないという報告を受けた韓信は,はて?と訝(いぶか)った.
「李左車ほどの男が井セイ口の奇襲作戦に気づかぬはずはないのだが・・・さては趙王が聞かなかったのか.この様子では将兵もかなり油断しているだろう.よし,敵が動かぬ内に一気に谷をぬけるのだ!」
と全軍に命令をだした.このとき,別働隊二千を間道から趙軍の背後に周るように指示した.無事に谷をぬけた漢軍はおびただしい数の趙軍の旗をみて恐れをなした.二十万対二万である.漢軍に士気が奮わないのも当然であった.そこで韓信はわざと川を背にして陣を布き,将兵を集めて張り上げんばかりの声で鼓舞した.
「よいか!我らの背にはテイ水(ていすい)の流れがあり,ここから一歩も後ろに退くことは許されぬ!故郷へ帰りたくば,趙軍に勝つしかないのだ!わしの予想通り,趙軍は無勢の我が軍を完全に侮っている.今が好機ぞ!」
前に進むも後ろに引くも死が待っている.どうせなら漢王のために戦って死ねというわけではない.韓信には勝算があった.
「密かに兵を趙軍の背後に周らせた.別働隊が城を占拠し,漢軍の旗が立てばそれが合図だ!勝利は目前ぞ!」
これで漢軍は大いに奮い立った.あえて味方を死地に追いやる事で士気を高める韓信の策は見事に成功した.一方,漢軍の陣形をみた趙の将校は
「漢の陣を見ろ,川を背にするとは兵法の基本もわからんらしい.」
とあざ笑っていた.歇も一気に叩き潰せと全軍に突撃命令を出そうとしたとき,李左車が諌めた.
「なりませぬ,これは漢軍の策で背水の陣です.先に楚王(項羽)がこの策で大勝したことがありました.「死地の兵は強し」といいます.敵は遠方よりの行軍で兵糧も不足しておりますゆえ,篭城すればやがて退きましょう.そのときに追撃すればよいのです.」
歇は不満気に何もいわなくなったので,その場を去り,李左車は城内の将校にも決して討って出ぬように命じることにした.しばらくして,軍鼓の音とともに城門が開かれた.驚いたのは李左車である.
「これは・・・おのれ,わしの命令を無視して軍勢を動かすとは!いったい誰だ!?」
と激怒したが,
「趙王でございます.」
「なんと・・・あれほどお諌めしたというのに・・・」
瞬く間に顔が青ざめ,と愕然とした.趙軍十数万が漢軍めがけて突撃していくのが見えたのである.やむをえぬ,李左車は残りの兵を率いて王を護衛すべく城を飛び出した.戦況はなんと趙軍二十万と漢軍二万が互角にわたりあっていた.むしろ死に物狂いの漢軍の勢いに圧倒されがちなのである.李左車の予想したとおりであった.勝利を確信していた趙軍にあせりが見え始めたそのとき,城内におびただしい数の漢の旗が掲げられた.韓信の放った別働隊が空家同然の城を占領したのである.
「城が落ちたぞ!全軍突撃せよ!!」
これに呼応して城内からも漢兵が討って出,寡勢の漢軍が趙軍を挟撃する形になった.本陣を失った趙軍は大混乱に陥り,二十万の兵は四散,漢軍は大勝利をおさめることができたのである.
このことから,「背水の陣」とは文字通り,水(川)を背にして陣を布くこと,わざと不利な陣立てをして戦うことである.転じて失敗が許されない状況で覚悟を決めて事にあたることにたとえるようになった.現在では「あとがない」,「絶体絶命」といった,勝機のない場合の意味にとらえられることが多いが,由来から考えるとこれは間違いであることがわかる.
「左遷(させん)」
前206年,劉邦は項羽に先んじて関中入りを果たした.秦王・子嬰(しえい)は劉邦に降伏,このとき始皇帝の統一国家は15年,三代にして滅んだ.遅れて項羽が関中にやってきた.出陣前,楚王は劉邦か項羽,先に関中入りを果たしたものがその王となれという命を下したのであるが,項羽はそれを反故,大軍にまかせて劉邦を脅迫し,「鴻門の会(こうもんのかい)」で君臣の立場をはっきりさせた.その後,項羽は西楚の覇王と称し,戦功のあった将校を各地に封じたのである.このとき項羽は劉邦に関中を与えず,はるか西方の関中の一部,漢中(蜀の地)へ封じる措置をとった.さらに身近な者を漢中の東の要害に配置,監視させることで謀反を防ぐようにした.しかたなく漢中王となった劉邦は部下と共に任地へ赴いたが,その途中
「項羽は身近な者ばかりを中央に封じ,自らも咸陽(かんよう)にとどまっております.あなたを漢中のような遠くはなれたところへ行かせるとは,完全な左遷です.」
劉邦も気落ちしている.
「漢中は民も少なく,中原へ出るにも兵の通る道が狭すぎる.これでは天下は望めぬな・・・」
「なにをおっしゃいます.ここの兵達は皆,東の出身でございます.いつか漢中王が中原へ進出なさることを望んで従っておるのですぞ.望郷の念による兵達の士気は高まっております.早めにご出陣なされますよう.まだまだ天下は望めますぞ」
これを聞いた劉邦はうなずき,項羽との対決を決意した.
このことから,「左遷」とは「左(西)」に「降す」という意味を持つ.一説では漢の時代,右が尊ばれ,左が蔑む方向であるからだともいわれている.今では官職を落とすこと,もしくは地方へ追いやることを意味するようになっている.
「骸骨を乞う」
紀元前204年,劉邦と項羽の戦争は激化し,すでに3年も戦いつづけていた.項羽が北上し,劉邦のたてこもるケイ陽城で対決していたときのこと,項羽はすでに補給線がのび,また劉邦も項羽に食糧が貯蓄されている敖層(ごうそう)までの補給線を断たれ,お互いに補給線の確保が困難となっていた.兵も次第に飢えてきており,士気は下がる一方で,たまりかねた劉邦は張良に相談した.
「兵も飢えては戦など無理じゃ.張良よ,項羽と和睦をしてはどうか.このケイ陽を境に西を漢とし,東を楚として天下を二分すると申し出れば項羽も受け入れるのではないかのう」
「項羽の軍師に范増がいる限り,まず承諾しないでしょうな.和睦などせずとも天下を狙える底力が楚にはまだ十分にあることを承知しているからです.が,とりあえず書簡を送ってみてもよろしいかと」
劉邦は祈る気持ちで和睦を申し入れた.項羽も疲弊した兵力ではケイ陽を抜くことはできぬと考えており,和睦の条件もわるくないとしてそれを受け入れようとした.その時,項羽の心情を察した范増は,項羽につめよった.
「なりませぬぞ.漢は今が弱りきっているときです.ケイ陽で討ち取らねば必ず後悔することになりましょう」
語気を強める范増に意を決した項羽は和睦を拒否,さらにケイ陽城の包囲を強化してしまった.困り果てた劉邦に,かつて項羽の下にいた陳平が一計を案じた.
「項羽は短気でうたぐり深い性格です.范増と項羽の間を割くようにしむけて不信を抱かせ,范増を失脚させましょう.范増さえいなくなれば,漢の天下はもう手に入れたようなものです」
張良もその策を勧めた.陳平は黄金を惜しみなくばらまいて,項羽陣内に流言を広めた.
「范増さまは先の恩賞が不足なのを怨み,密かに漢と通じているらしい」
このような噂が兵士たちの間でまたたくまに広がった.もちろん項羽にもその情報は届き,疑心をつのらせて自然に范増を遠ざけるようになってしまった.後日,項羽は和睦があきらめきれず,使者を漢へよこした.張良らは使者を丁重にもてなし,上等の酒と料理を卓にならべて
「ようこそいらっしゃいました.亜父(あふ:范増のこと)はお元気でしょうか?」
と何気なく聞いた.使者はなぜ范増のことを聞かれるのかわからず
「私は項王の使者として和睦の書簡を持参してきたのです.」
と不機嫌そうに答えた.これに張良・陳平はいかにもわざとらしく驚き
「なんと・・・亜父の使者ではないのか!これは失礼した」
と目の前の料理をすべて片付けさせて,かわりに粗末な食事をもってきたかと思うと,さっさと退席してしまった.この報告を聞いた項羽は,范増が漢と通じているとすっかり信じ込んでしまい,范増の権限をすべて取り上げてしまった.このとき范増は項羽が漢の策略にはまったことに気づき,
「これは我らの間を割くための漢の策略ですぞ.本当に私が漢と内通していると信じておられるのか!」
と言ったが,項羽の疑惑の視線は范増の異見を許さなかった.手遅れだと悟った范増は
「天下の形勢はあらかた決まったようなもの.あとは王みずからおやりなさい.私は骸骨を乞うて幕営から去りとうございます」
と願いでたところ,項羽は
「そうか,達者でな」
あっさりとこれを認めた.范増はすぐに陣営を去ったが無念からか,旅の途中で背中に悪性の腫れ物ができて,75歳で死んだ.唯一の知将を失った楚軍はそれ以後,一直線に衰退への道を進むことになった.
このことから「骸骨を乞う」とは自分の半生をかけて主君に対して忠義を全うし,一身も尽くしてきたが,残ったむくろだけは自分のものとして返していただきたいということを意味しており,転じて「老いた者が辞職を申し出る」ことを意味するようになった.