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秦の穆公(?〜前621)

姓は贏(えい)、名は任好。在位三十九年。晋国と深くかかわりを持ち、恵公(夷吾)、文公(重耳)を擁立して即位させた。あるとき名馬が異民族に盗まれたとき、穆公(ぼくこう)はそれを許し酒まで与える寛大さを見せたが、深く恩を感じた彼らに「韓原の戦い」で命を救われた。武力だけでは不足と内政面を重視、奴隷であった百里奚(ひゃくりけい)を登用して外交に力を入れ、異民族を従えることで千里の地を得た。春秋五覇の一人に数えられ、一代で秦を大国にしてしまった名君。


「兄弟相続の国」

秦の穆公(ぼくこう)は周の平王即位のときに諸侯に封じられてから九代目の君主にあたる。秦は商王朝からある西戎の支配国として古いが、秦国は周の柱である姜族と仲が悪かったため、周王朝の国として認められおらず、文明の低い野蛮な国として蔑まされてきた経歴を持つ。周王室に内紛が生じ、いったん滅亡したが、洛陽で平王が即位するときに大いに貢献したので、やっと中原の諸侯として認められたのである。さらに珍しいことに、秦では君主は兄弟相続を旨としていた。したがって、父の徳公から長男の宣公に渡り、次男の成公が継ぎ、末っ子であった穆公が君主につけたのである。即位は紀元前659年であった。


「奴隷・百里奚の登用」


晋の献公が虞という国を滅ぼした時、百里奚(ひゃくりけい)という臣が捕虜となった。百里奚は虞で虞公にさんざん献策したがとりあげられなかったため、虞公はついに国を滅ぼしてしまった。献公は
「それほどの賢臣ならなぜ虞は滅んでしまったのだ。百里奚ごとき臣はわが国にはいて捨てるほどいるわい」
と百里奚を登用せず、奴隷としてあつかっていたが、献公の娘の伯姫(はくき)は彼の才能を見抜いていた。伯姫は十年に一人の逸材が晋で埋もれて朽ち果ててしまうのを不憫に思っていたので、秦の穆公に嫁いだときに撲の一人として秦へ連れて行った。後に伯姫は穆公に寵愛され正室となった人物である。あるとき伯姫は穆公に
「晋から公に贈り物がありますの。なかなか手に入れがたい貴重なものでございます。」
と、百里奚を呼び寄せ、穆公に拝謁させた。穆公からすれば、いきなり奴隷が宮殿に入り込み、平伏したのでいささか気分を害したが、伯姫の手前、話だけでも聞くことにした。
「そろそろ中原へ覇をとなえたいとおもうのだがどうであろう。成功するだろうか」
「いまはまだ時期尚早であると思います。私が愚考いたしますところ、秦国には天下を統一する条件がそろっておりまする。一に秦国は中原から離れており、中原の諸国が戦争にあけくれ疲弊していくのに巻き込まれる心配がありません。二に秦は自然の要害に囲まれており、攻めるに堅く守りに易い土地であるから亡国の愁き目になることもありません。三に中原諸国は領地を広げるのに諸侯を取り込んでいくしかありませんが、秦は西方には多数の小部族(西戎)がいるだけで、西に目をむければ千里の地を得ることが可能となり天下統一の足がかりとすることができます。こうしたことから秦国がもっとも天下に近い位置にいると申し上げたのです」
壮大な計を聞いて穆公は興奮冷めやらず、百里奚の手をとった。
「先生、これからも余の師としてご教授くだされ」
こうして百里奚は穆公の参謀として秦の内外を担うことになったのである。


「夷吾を後見す」


晋国では内乱がおこっていた。ときに晋の献公の時代で、正室の驪姫(りき)が息子の奚斉(けいせい)を太子にしようと他の公子の殺害を企んだからである(驪姫の乱)。やむなく亡命した公子の夷吾(いご)は秦を頼ってきた。夷吾は
「私が即位した暁には黄河の南にある河外の五都城を割譲いたします」
と穆公を買収した。どちらかといえば僕公は人格者の重耳を君主にしたかったが、夷吾の後見となれば、晋の領土割譲に加え、恩を売ることにもなる。また、夷吾では到底晋国を治めきれるはずがなく、いずれは重耳が継ぐことになろう。そのとき重耳を擁立すれば秦からすれば二度君主を立ててやったことになり、後々の秦の外交にも有利に働くのは間違いなく、十分利があると判断した上であろう。こうして紀元前650年、秦軍の援助を受けた夷吾は帰国し、無事即位を果たして恵公となった。しかし、恵公は即位すると領地の割譲が急におしくなり、側近達も穆公とは単なる口約束であったことを主張、反古することを勧めた。即位して四年目、秦に使いを出し
「我が晋国は内乱の後処理に追われ、国全体が疲弊している状態です。さらに今年は大旱魃になりまして人民達が飢え、そこで縁の深い秦国を頼ってきたのです。どうかわが国をお救いください」
といった。約束の領地割譲に対して一言も発言しないばかりか、君主に立ててやったことに対して恩にも感じていない様子である。その上、大旱魃(かんばつ)で飢饉であるから食糧を用立ててくれとは図々しいにもほどがある。秦の群臣は恵公の忘恩ぶりに激怒したが、穆公は
「たしかに恵公の非道ぶりは許しがたいが、晋の民には罪はあるまい」
と寛大な態度をみせ、紀元前647年,大量の食糧を舟にのせて晋へ輸送してやった。「泛舟の役」という。まさに仏の穆公である。


「仏の顔も三度まで」


翌年(前646年)、今度は秦国が大飢饉に見舞われた。穆公は晋に救済を頼んだところあっさり断られた。
「わが国が秦に対して食糧を援助する必要はない。どうしても欲しければ力づくで奪われよ」
と使者を追い返してしまったのである。さらにその飢饉に乗じて秦国に攻め込もうとした。仁義も何もあったものではない。顧みれば穆公は恵公に三度裏切られている。
・驪姫の乱で亡命してきた夷吾を受け入れ、厚く遇したが礼どころか感謝もされなかった
・夷吾を秦の軍隊を派遣し晋まで送り届けて即位させたが領地割譲の約束を反古された
・昨年の晋の飢饉に大量の食糧を援助したが、逆に援助を頼んだときは断られたあげく、危機に乗じて攻め込んできた
この恵公の仕打ちにはさすがに仏の穆公も怒髪天を突く激怒振りをみせた。
「うぬ!晋国の子倅が。恩を仇で返しおったわ!こうなったら坐して死すより立ち上がって活路を開く!晋軍の食糧を奪い取れ」
秦は大軍を率いて怒涛のごとく進軍し、晋軍が攻めてくるより先に晋国内に攻め込んだ。


「忘恩の末路・報恩の恩恵」


晋国に攻め込んだ穆公は怒りにまかせ、次々と晋城を陥落させていった。一方いつのまにか逆に攻められる立場となってしまった恵公は狼狽し、あわてて軍を興して韓原というところで布陣した。両軍入り乱れての混戦となった。このとき晋の韓簡という武将に追い詰められ、もう少しで捕らえられるところであったその時、不意に謎の一団が矢を番えて穆公を援護した。晋軍は何処からあらわれたともわからぬ援軍に浮き足立ち、崩れたのでその三百人ほどの一団はさらに攻撃をかけて逃げる晋軍を追いかけていった。穆公はなんとか助かったという安堵感よりも、なぜ彼らが自分を助けてくれたのか、そして彼らが何者なのかを知りたく、一人に問い掛けた。
「我々は公に恩がある者なのです」
といった。その頃、勝報が入った。先ほどの一団が恵公を捕らえたという。それは秦軍の完全勝利を意味していた。


「酒の恩に報いた異民族」



「そちたちはどこの者であるか」
穆公が恵公を生け捕ってきた異民族らしき一団に聞いた。話を聞くと穆公にも心当たりがあった出来事が今回のおもわぬ助太刀となってかえってきたことを確信したのである。今から三年前、穆公の馬車を引いていた名馬がいなくなるという事件があった。穆公はその馬が気に入っていたので家臣たちにくまなく探させたところ、馬を屠って食べていた集団を見つけた。まぎれもない穆公の名馬であった。気落ちしたがすでに食べられていてはしかたがない。穆公はその集団を咎めることなく
「馬肉は消化に悪い。酒なしでは腹をこわすかもしれぬぞ。」
といって、彼らに酒樽をいくつか与えて去っていった。彼らは後でそれが穆公の名馬だったことを知って深くその寛大さを称え、いつか恩返しをしようとおもっていたのであった。穆公は自分の徳が大きな恩恵となって帰ってきたことに深く感謝した。


「重耳の即位」


恵公は伯姫の兄にあたる。穆公をはじめ秦の群臣は恵公を処刑したいほど憎かったが伯姫に命乞いされ、許してしまった。その条件として大量の食糧と太子の圉を人質とすることを約束した。人質とはいえ圉は太子であるから秦で厚遇されていた。穆公からすれば時期君主によしみを通じておくことは外交上有利であることだったからである。しかし圉が晋へ逃亡した時、穆公も激怒し代わりに恵公の兄の重耳を秦に迎えた。恵公が没すると太子の圉が即位して懐公となったが秦は重耳を伴って即位させた。晋の文公の誕生である。紀元前636年のことであった。つくづく秦の穆公は晋とのかかわりが深いといえる。


「捨てきれぬ中原への夢」


穆公は機嫌が悪かった。それもそのはずである。せっかく君主にしてやった晋の文公(重耳)が秦を差し置いて覇者となってしまった。晋と秦はよしみを通じているが心中おだやかではない。やはり秦が中原から遠すぎるためか。そんな折、晋の文公から国書が送られてきた。
「晋に従属していた鄭国が楚に背いてしまったためこれを討伐したい。ついては秦からも一軍をもって派遣されたし。鄭国は貴国に進呈しよう」
共同で攻めた国をすべて秦が貰い受けてよいというのはうまい話のように思えるが、これに百里奚らは反対した。
「鄭国を得て何の利益があるというのです。秦から中原は遠すぎ、結局統治できず手放してしまうのが関の山です。先の城濮の戦いで鄭は晋に背きましたが、かの国は何度も晋と楚の間を離反している国であり全く信用なりません。再び晋の手にわたることがわかっているから重耳殿もこう申しているのでしょう。のってはいけません。」
しかし、穆公としてはどうしても中原に出たい気持ちがあり、鄭をそのための足がかりとしたい。
「いや。鄭の地なくしてわしの中原への進出は成し遂げられない。晋とともに鄭を討つ。鄭をとれば晋国を脅かすことも可能ではないか」

「東よりも西を攻めるべきです。西の戎(西戎)族を支配すれば中原にでることなく千里の地を得ることができましょう。」
結局百里奚ら賢臣の諌めを聞かず、穆公は鄭に向けて軍を進めた。


「心理戦」


紀元前630年、鄭伯(鄭の文公というが重耳とは別人)は秦が攻めてくると聞いて驚愕した。晋と秦の連合軍に包囲されてしまったのである。
「秦と晋に攻められてはわが国のような小国ではひとたまりもないぞ。どうすればよいか」
そこに家臣の燭子武と(しょくしぶ)いう老人が進み出て
「公よ、心配はございません。秦晋同盟は表面上のもの。利害が一致しなければ無意味なものでございます。そこで私を穆公に遣わし、いかに鄭を攻めるのが無益であるかを説得させてくださいますよう。」
といった。さっそく鄭公は燭子武を秦陣営に送り込んだ。穆公に拝謁かなった燭子武は秦側に利がないことを懸命に説いた。穆公は百里奚と同じことを燭子部に指摘され、しばらく迷っていたが
「わしに撤兵を説得にくるとは無駄だとはおもわなかったのか。年寄りに免じて命だけは助けてやろう」
といって燭子武を返してやったが、秦は鄭の北の城門を占拠しただけで、そこに守備隊を残して撤兵した。これには晋の文公が驚いた。
「まさか、鄭が秦に降ったのか。わしの作戦も秦がいなければ成り立たない。しかたがない撤兵しよう。」
このとき鄭は晋に亡命していた公子蘭(らん)を太子とすることで晋と和解することができ、危機を乗り切った。


「好機到来」


紀元前628年、在位わずか9年にして晋の文公が没し、子の襄公が継いだ。再び中原における覇者が不在となったため穆公は東征つまり中原への進出を企んだ。このとき鄭国でも君主交代があり、公子蘭が即位したが、蘭は晋に亡命していたため晋育ちであり、そのため晋になびいてしまった。このとき鄭国内には秦軍が駐屯しており、いちおう秦の従属であったのである。これを東征への口実とした穆公は
「よし、ただちに鄭を討て!文公は没し、晋は喪で軍を動かせん。もう邪魔するものもおらぬ。即位して32年、ついにわしの時代がきたのだ」
と興奮していた。しかし百里奚は
「おまちください。鄭討伐は賢明ではありません。以前に申しましたように無益でございます。無駄な戦であろうと民への負担は大きくなるのですぞ。いままで積み重ねてきた盛名をこんなことで損ないますな」
と反対の姿勢をくずさない。穆公は嘆息した。
「ああ、そちは口をひらけば西へ西へというばかりじゃ。わしに中原へ覇を唱えさせてはくれぬのか・・・」
翌年(前627年)、秦は鄭を攻めた。


「秦晋の戦い」


鄭を攻めたことで、実質晋との同盟を破棄したことになる。穆公は孟明子、白乙丙、西丙術の若き三将軍に兵三千、兵車三百乗を与えて軍を派遣したが、百里奚ら先見の明のある家臣たちは今回が遠征であるに加え、晋と鄭を相手にするには分が悪すぎる。この戦が負けるであろうことを予感していた。 途中、鄭の使者であるという弦高という男がやってきた。牛を献上し秦軍を慰労したいという。孟明子はここで野営を張ることにした。急ぐこともない行軍であったし、遠征にすこし疲労していたので兵士達はおもわぬご馳走にすこしばかり羽をのばしていた。しかしこれは鄭の罠であった。秦軍をここで足止めし、本国に秦軍の到来を急報した。さらに城の北門を占拠している秦軍を全軍で攻撃して追い出し、晋へ援軍を要請した。秦は占拠していたはずの鄭城の北門を奪い取られ、手も足もでなくなってしまったのである。結局帝国の討伐に失敗し、孟明子らは軍を引き上げることにした。その途中、峭山(しょうざん)というところで険しい山に囲まれた谷を通っていた時、不意に上から岩石や矢が降り注いできた。趙衰率いる晋軍が待ち伏せしていたのだ。思わぬ伏兵に秦軍は浮き足立ち、逃げることもかなわず全滅してしまった。


「開眼」


百里奚は去った。いくら東征を諌めても聞き入れてもらえず、用無しと感じたのだろう。穆公はこの後も幾度か無益な東征を決行したがいずれも不首尾におわり、国民の怨嗟の声を高めるばかりであった。三度目の遠征には
「成果なくして帰るべからず」
と大夫らの家をすべて打ち壊し、それで舟を作って渡河した。さらに渡りきった後その舟を燃やしてしまったのである。けっして勝つまで帰らないとの決意の表れであった。晋としてはもう秦軍を相手にすることはなく、軍を興さなかった。したがって戦う相手もないまま秦軍は立ち尽くし結局引き返すしかなかった。かつて惨敗した峭山を通りかかったとき、まだその痛ましさがのこる戦場後をみて穆公は涙した。やっと自分の無益な戦いが民を苦しめている事を悟ったからである。こうして僕公はふたたび中原に目を向けることはなく、ひたすら西の西戎を平定することに力をいれた。そして二十に及ぶ西戎の国々を平定し、その支配領域は千里に及ぶ西戎の支配者として君臨する。西域で覇業を成した穆公は紀元前621年に没した。そのとき穆公の徳をしたって殉死した者が百七十人に及んだといわれている。


追記:「穆公が覇者たる所以」


秦の穆公といえば、斉の桓公、晋の文公につぐ第三の覇者に挙げられている。しかし、穆公は桓公のように中原の諸侯をまとめることもなければ、文公のように周王朝から策命を受けることもなかった。つまり、実質中原において覇者たる実績を残していないのである。そういった意味で桓公、文公といった覇者とは異質であることが感じられるだろう。また桓公や文公が覇者になれたのは家臣の力によるところが大きかったことは明らかである。桓公には管仲と鮑叔、文公には趙衰など数人の傑物が仕えていた。彼らの功績が大きすぎたせいか、君主の器が際立たず、くすんで見えてしまうのは否めない。一方穆公にも百里奚が仕えていたが、穆公自身、大器を思わせる数々のエピソードを持っていることが興味深い。覇者になれたのも穆公の英邁さがそれにふさわしいと判断されたのだろうと思われる。もし桓公や文公が穆公の立場であったら覇者となれていたかどうかと考えると疑問を感じてしまう。偏った私評ではあるが三国志で言えば、穆公は曹孟徳タイプ、桓公や文公は劉玄徳タイプといえそうであるがどうだろうか。