呂后(前239年〜前180年)

名は雉(ち)、字は娥[女句](がく)。中国史上で一番最初に名前が挙げられるほどの悪女で筆頭といえる。漢の高祖劉邦の正室として、劉邦の生前は夫につくす賢妻らしさも見えたが、高祖の死後、呂氏一族で中央を固め、高祖時代の功臣を次々と殺していった。高祖の寵愛をうけた戚夫人をなぶり殺しにした「人てい事件(ひとぶた)」は彼女の悪女ぶりを物語る有名なエピソードである。しかし、容貌に関しての記述はなく、美女であったかどうかは不明である。一方、内政面では評価される部分もあり、その点では名君の部類にはいるのかもしれない。


「劉邦に降嫁す」

呂公という人物がいた。わけあって郷里を出ることになり、呂公は沛県を訪れたとき親しかった県令に客として迎えられた。県令の客分であるから役人や地方の豪族たちは呂公がひとかどの人物であろうと歓迎の酒宴に礼物をもってやってきた。要するに金銭のことだが、この酒宴に「一万銭」とかいた札を差し出して出席した男がいた。これが、のちの漢の高祖となる劉邦その人であった。宴会に出席していてこれを聞いた県の属史の蕭何(しょうか)が
「おまえはたかだか泗上の亭長(国営宿舎の)であろう。一万銭もの大金をもっておるはずがあるまい。法螺をふくのはよせ」
といったが、劉邦は気にせず、宴会場にずかずかと入っていった。県の役人達は日ごろの劉邦の傍若無人ぶりや大言壮語を知っていたので、彼を目にすると露骨にいやな顔をしたが、ただ一人、呂公は人相を見る術を心得ており、彼の人相に大いに感じるところがあったので、自ら酒をすすめる始末であった。これをみた人たちは首をかしげたのはいうまでもない。呂公は劉邦に
「私はさまざまな人相を見てきましたが、これほど高貴な相をもった人ははじめてです。将来、大業を成就なさることは間違いありません。実は私に娘がおりまして、あなたのような方にもらっていただきたいのです」
といった。あまりに唐突であったので多少びっくりしたが認められて気は悪くない。劉邦は快く承諾した。これを聞いた呂公の妻は卒倒せんばかりの大声で言った。
「なぜ卑しい身分の亭長に娘を嫁がせるのです?あなたは娘を貴人に嫁がせるのだとおっしゃっていたではありませんか。」

「女にはわからんだろう。わしの目に狂いはない」
当の呂雉は父の人物鑑定眼が確かであることを理解していたので、素直に劉邦の妻になることを決意した。こうして呂雉は、すでに曹氏という妻がいたにもかかわらず劉邦に嫁いでいったのである。今まで金持ちの娘として何不自由なく暮らしてきた呂雉であったが、劉邦の実家は貧しく、したこともない畑仕事しなければならなくなった。それでも父の言を疑うことはなかった。


「亭長の妻から皇帝の正室へ」


呂雉が妻となってから三年後、劉邦は沛の県令となり、秦王朝に反旗を翻す兵を起こした。挙兵から七年、紀元前202年に劉邦は宿敵項羽を滅ぼし、ついに皇帝となった。漢の高祖の誕生である。呂雉は皇后となり、呂后(りょごう)と呼ばれるようになった。呂公の目に狂いはなかったことが証明されたのである。呂公は臨泗候に封ぜられた。しかし、それまでの呂雉の苦労は大変なものであったといわねばならない。劉邦は酒と女には目がなく、そのために呂氏の支度金まで使う有様であった。また、呂雉は劉邦との間に一男一女をもうけていた。後の恵帝と魯元公主である。戦争中は子供と項羽の捕虜になることもしばしばあった。劉邦は家族を捨てて自分だけさっさと逃走してしまったからである。また子供達を同じ兵車に乗せて逃走中の時、危うく敵に追いつかれそうになったので、兵車を軽くするために子供達を何度も蹴落としたこともあった。そのたびに家臣はその子供を拾い上げ兵車に乗せたのである。父親として最低な行動であるが、呂雉はそんな劉邦を見限ることなく妻として夫の高い志を愛し、連れ添った。その結果が位極まる皇后という地位であった。


「呂后の罠」


漢王朝を立てた高祖は、項羽との合戦における功臣を王に封じた。黥布(げいふ)、彭越(ほうえつ)、韓信らがそうである。しかし、彼らの勢力は侮れず、万が一謀反をおこされる事を恐れた高祖は、後になって劉姓でない彼らを王にしたことを後悔しはじめた。特に国士無双と謳われる韓信は軍略に優れており、項羽との合戦でも彼の軍略に頼るところが大きかった。したがってもし漢王朝を倒す勢力が現れるとすれば、韓信にほかならない。戦になれば高祖も勝てる自信はなかった。たまたまある者が、韓信が謀反を企んでいると讒言したため、高祖は韓信を長安に呼び寄せたが、韓信は罰せられることを恐れ、参内しなかった。高祖はこれを罪の口実として淮陰候に格下げした。少しでも韓信の勢力を殺ぎ落としておかなければ安心できなかったのであろう。韓信はおとなしく謹慎していたが、数年経っても王に復位させてもらえないことに不満を感じ始めた。このとき代の相国に封ぜられた陳キ(ちんき)という者が、一緒に漢に対して兵を挙げようと勧めてきたので、韓信はついに謀反を決心した。計画どおり,代で反乱がおこった。高祖は討伐すべく軍を率いて代に向かったので、韓信はその隙に長安を奪い取るべく、兵を挙げた。しかし、決行直前になって呂后に訴えた者がいたのである。
「主がいない今、私が漢王朝を守ってみせます。」
しばらくして、韓信のもとに高祖からの使者がやってきた。代の反乱が鎮圧したので祝賀会に参内されたしとのことであった。
(そんなばかな!代の反乱がこれほど早く鎮圧されるはずがないが・・・)
韓信は愕然としたが、使者に悟られてはならない。
「それはめでたいことです。国家の慶事ゆえ、すぐ参内いたします」
と長安へ参内し、呂后に慶賀を述べた。呂后は冷徹な笑みを浮かべ、周りの警護の者たちに命じ、韓信を縛り上げてしまった。
「のこのこと長安にやってくるとは、思慮深い韓信にしては落ち度でしたね。そなたが代の陳キと語って謀反を起こそうと企んでいたことはわかっていました」
呂后の罠だと悟った韓信は不覚とばかり歯噛みして言った。
「陳キが討たれ、代の反乱がそんなに早く鎮圧されるとは・・・つくづく不運よ」
これを聞いた呂后はほほほと笑い見下すように口を開いた。
「何をいっているのです?陳キはまだ代で必死に戦っておりますよ?あなたの呼応を期待してね。漢軍がそんなに早く鎮圧できるわけがないでしょう。使者は偽りで私が出したのですよ。私の計略もたいしたものですね」

「くそっ!謀られたか!」
呂后は高祖が帰ってくると、韓信を許してしまうことを恐れ、すぐさま韓信を処刑してしまった。また彼の一族もことごとく捕らえられ、斬首されたのである。


「功臣の粛清」


梁の王に封ぜられた彭越は、韓信と同じように高祖が代へ親征するときに病気と称して遠征しなかった。高祖はこれに対して激怒したため、彭越はあわてて謝罪でかけようとしたが、部下の将軍が反対した。
「最初に要請されたときに行かなかったのに、問責をうけてから行っても危険なだけです。必ず罪をこうむるでしょう。もうどうしようもありません。こちらが機先を制するのです!」
彭越も迷い、結局謝罪にも行かなかった。しかし、高祖に彭越が謀反を企んでいると密告した者があったため、すぐさま兵を派遣し彭越は捕らえられてしまった。高祖は彭越のかつての功を思い、平民に落として四川へ流罪として死罪を許した。この彭越の一行が四川に向かう途中、呂后の車とばったりであった。これが彭越の不運であったといわねばならない。彭越は呂后に涙して訴えた。
「私は決して謀反など企んでおりません。どうか無実を口添えしていただけないでしょうか。せめて流罪でなく故郷へ返してくれるよう取り計らってください」
呂后は無表情のまま彭越を見つめていたが、やがて
「わかりました。そなたの熱意に免じてそのことを奏上してみましょう」
といったので、彭越は大変感動して平伏した。呂后は洛陽へ着くと、高祖にこう言った。
「どうして、彭越を処刑しなかったのです?庶民に下すだけでは禍を除いたとはいえませぬ。」

「う〜む。わしは項羽との戦でずいぶん彭越に助力してもらったのだ。しかもいまさら言を違えて殺すとも言えぬ」
高祖はどうしても殺す気はないようである。そこで呂后は一計を案じた。腹心の者に彭越の謀反が事実であったと密告させたのである。これを聞いた高祖はしかたなく、斬首を命じた。呂后はすかさず彭越の三族を捕らえさせ、ことごとく処刑してしまった。また呂后は彭越の肉を切り刻み、塩漬けにして他の諸侯に送ったのである。漢に対して謀反を企むものはこの肉片のようになるぞとの脅しの意味がこめられていたのは明らかであった。これには諸侯も恐れおののいたが、ただ一人同列の黥布は次が自分の番であることを強く予感していたので、すかさず反旗を翻した。高祖は自ら兵を率いて討伐にむかった。黥布も豪傑であったが年には勝てず、あっさり鎮圧され処刑された。しかし、高祖自身も流れ矢にあたり、重傷を負ってしまった。


「高祖崩御」


高祖は矢傷がもとで床に伏せるようになった。衰弱した様子からもう長くはないと悟った呂后は高祖に聞いた。
「陛下。後のことを聞いておきたいのです。もし蕭何が亡くなった場合、誰を用いればよいのでしょう?」

「曹参(そうしん)がよかろう」

「では、その次は?」

「王陵がよかろう。また陳平を補佐とし、周勃に軍をまかせたなら安泰であろう」

「その次はどうでしょうか?」

「おまえは一体いくつまで生きるつもりなのだ?その先はおまえの知ったことではなかろう」
紀元前195年4月、高祖は長楽宮にて崩御した。六十二歳であった。


「趙王如意の暗殺」


高祖は生前、たくさんの美女を後宮に入れていた。特に晩年は戚夫人を寵愛した。呂后の息子盈が十六歳で即位して恵帝となり、呂后は呂太后(りょたいごう)として弱々しい恵帝の代わりに政治を取り仕切るようになった。まず、高祖の寵愛を独り占めにした戚夫人に復讐することにした。呂后が戚夫人をこれほどまでに憎んだのは他にも理由があった。戚夫人には如意(にょい)という子がいたが、夜な夜な寝所で盈を廃して如意を太子にたてるように高祖に何度も懇願していたのである。つまり正室の座をもねらっていたといえる。慌てた呂后は張良に相談することにした。張良は高祖が天下を統一したあと、世俗から離れて仙人のような暮らしをしていた。張良は呂后にこう助言した。
「昔、陛下が家臣に召抱えようとしたが、決して参内しなかった四人の賢人がいます。この四人を太子盈の後見にすることができれば解決するでしょう」
呂后はさっそくその学者たちに息子の後見になってくれるように頼み、承諾を得た。あるときその賢人が盈に付き従っているのをみて高祖が
「盈にはもうりっぱな翼が備わっていたのだな。いまさら太子を廃嫡することはできまい」
とあきらめた。盈の太子廃嫡はなんとかまぬがれたのである。しかし呂后の如意、戚夫人に対する恨みは骨髄に達していた。まず趙王である如意を長安に呼び寄せた。隙を見て殺そうとしたのはいうまでもない。しかし、まだ幼い如意が殺されてしまうのを哀れに思った恵帝は、如意と寝食を共にすることで保護する行動に出た。困った呂后はじっと機会を窺っていたがそれは意外に早く訪れた。ある冬の朝、恵帝は弓の稽古をしていたが、その日は特に寒かったため、まだ寝ている如意を起こさずに出かけた。しばらくして眼を覚ました如意は恵帝がいないことに気づいた。宮女に聞くと、
「陛下は弓の稽古に出かけておられます。きっといつもの弓道場におられましょう。今朝は特に寒うございます。羹(あつもの)をお召し上がりくださいませ」
とスープと酒を差し出されたので如意は一口すすった。実はこの宮女は呂太后の差し金だったのである。恵帝は如意が心配になっていつもより早く帰ってきたが、如意は鴆毒(ちんどく)の入った酒を飲んだため、すでに死んでいた。
「次は戚夫人か・・・」
呂后の眼は冷ややかであった。

「人てい:(人豚)」


呂后は戚夫人を捕らえて獄舎に閉じ込めたが、数日後にはやつれた戚夫人に対して、残酷な処刑をおこなったのである。まず、口にいん薬を流し込んで声をだせないようにし、耳に硫黄を流し込み、聞こえないようにした。次に美しい瞳をくりぬいたが、あまりの激痛に戚夫人は気を失った。そこで呂后は水をかけて正気づかせ、さらに両手両足を切り落としてのたうちまわる様を楽しげに見つめていた。この残酷極まりない仕打ちから呂后の戚夫人に対する憎悪はすさまじいものであったといわねばならない。まさになぶり殺しであった。やがて戚夫人は死んだが、死体を厠の中へ投げ捨てて人てい(じんてい)と名づけた。呂后は恵帝を伴って厠の前にやってきた。
「中をのぞいて御覧なさい。」
恵帝はおそるおそる中をのぞくと、なにやら塊がみえるが何かはわからなかった。そこで
「母上、これは一体なんでしょうか?」
と問うたところ、呂后は大笑いしながら答えた。
「あれは、戚夫人です。先帝を虜にし、私達をさんざん苦しめた女のなれの果てですよ」
恵帝は声も出ないほど蒼白になり、嘔吐号泣するとこういった。
「これが人としての所業でしょうか。私はあなたの子として皇帝を務める資格などありません」
それ以来、恵帝はしばらく寝込んでしまった。そして起き上がってからも政務を決して省みるようなことはしなかった。毎日酒色にふけった挙句、それが原因で病気となって紀元前188年に没した。


「呂后の専横」


呂太后の息子である恵帝は二十三歳の若さで早く没してしまった。しかも、張皇后には子が生まれていなかった。呂太后にとっては呂一族にゆかりのある者が即位しないと今の権力は保持できないと考え、後宮で生まれた子を張皇后の子とし(妊娠している娘を後宮にいれたともいわれている)、さらに事がもれるのを恐れてその母親を殺した。つまり、それらの子供達を皇后の子として育てたのである。なぜなら張皇后は呂太后の娘である魯元公主の娘であり、呂氏一族を皇帝の位にあげたいという野望があったからで、白羽の矢がたったのが恭をはじめとする六人の子供であった。つまり恵帝の子であることも疑わしい者が公子となった。なりふりかまわぬ呂太后の苦肉の策であったといえる。この恭が太子となり、即位して少帝となった。このとき五歳前後であったといわれている。数年後、ふとしたことから恭は生母が呂太后に殺されていたことを知ってしまい、密かに憎んでいた。
「いまは何もできないが、わしが成人したら必ず恨みをはらしてくれる」
恭の殺気を感じ取った呂太后は成人してからでは我が身が危険であると考え、無理やり帝位を廃し、さらに幽閉して殺害してしまった。次の皇帝には六人の子から弘をたてた。弘が即位してからはもう呂太后の専横はとどまるところを知らなかった。高祖の子である趙王友や燕王健など四人を殺害し、かわりに呂氏一族を王としていった。劉邦は生前、
「もし劉一族以外の者が王となるときがあれば、容赦なくこれを滅ぼせ」
と法を決めていた。したがって王陵は呂氏が王となるなどもってのほかであると猛反対をしたが、陳平は
「呂后が死ぬまでの辛抱だ。今たてつくのは得策ではないぞ。呂氏を廃し、劉氏の再興を謀るにはこうするしかないのだ」
と王陵を説き伏せた。呂太后の野望は呂氏による漢王朝ののっとりであることは誰の目にも明らかであったが、この時点で彼女の前に立ちふさがる邪魔者は皆無に等しかった。


「呂后を恐れず」


このころ、北方民族の匈奴はしばしば漢の領域に侵攻し、各地を荒らしていた。かつて高祖が三十六万の大軍で攻めたが惨敗したことは、家臣の記憶にも新しいことであった。匈奴では王を單于(ぜんう)とよび、このときは冒頓單于(ぼくとつぜんう)が治めていた。 あるとき單于からの書簡に目を通した呂太后は、顔を紅潮しわなわなと振るえた。書簡には
「ご機嫌うるわしく存じます。さて陛下は高祖に先立たれ、独り身のさみしい日々をおくっておられることでしょう。そこで私の有するものであなたの無き所を満たして差し上げたいが、いかがでしょうか?」
と書いてあったのである。激怒した呂太后はすぐさま周勃に軍を差し向けよと命じたが、将軍達に引き止められて思い直し、断りの返事を書いた。後日、單于から謝罪の書簡が届いた。あまりにも大人気なかったいたずらに恥じてのことであろう。結果的に呂太后の選択が正しかったのである。

「日食」


あるとき、宮廷内が騒がしいのに気づいた呂太后はふと外に出て女官に何事か聞いた。
「太后様!大変な事が起こりました。なんと太陽が消滅してゆくのです!何かに食われていくようにだんだんと・・・」
呂太后は空を見上げた。空が暗くなり、太陽がかけているという確かに見たことのない現象が現実に起こっていたのである。宮廷内は禍がおこるまえぶれではないかとパニックに陥っている。呂太后はほほほと笑い、女官にこういった。
「私は多くの人を殺しました。これは私のせいであって皆に禍がふりかかることはない。安心せよと伝えなさい」
呂后はけっして狂気であったわけではなく、自身がどんなに残酷なことをしていたかをちゃんと認識していたのである。したがってこのような呪術的な異常気象に対して、自分の罪が成した神の怒りであると思い込んだのだった。


「如意の呪いと呂后の死」


呂太后は定期的に郊外へ厄除けのお祓いに出かけた。紀元前180年3月、いつものようにお祓いをすませ、帰途につこうとしたとき不意に黒とも青ともいえる犬が飛び出してきて呂后に襲い掛かった。犬は呂太后のわきの下あたりを噛み付いた。驚いた呂太后はあわてて振り払ったが、気のせいだったのか犬はいつのまにか姿を消していた。不思議に思った呂太后は気になって占わせたところ、
「これは、如意様のたたりでございましょう。」
という。やがて噛まれたわきの下に、いつのまにか小さな傷ができ、しだいに大きくなり悪化していった。数ヵ月後にはそれが原因でもう床から起き上がれないほどであった。自身の死期が近づいたことを悟った呂太后は一族を集めた。そして趙王の呂禄と梁王の呂産には特に
「おまえたちは今、王として栄華を極めていますが、もともと先帝は劉氏の者以外は王となるべからずとおっしゃいました。したがって、多くの忠臣がおまえたちに不満を抱いています。ただ私を恐れているだけのことで、私がいなくなれば一挙に反乱をおこすことは間違いありません。それゆえ、まず兵権を掌握し一族協力してこれにあたりなさい。私の葬儀などはいつでもかまいません」
とくれぐれもいいきかせた。まもなく呂后は病死してしまった。紀元前180年、7月のことであった。呂后が死ぬと、陳平、周勃はすぐさま反乱をおこし、あっというまに呂氏一族を殲滅させてしまった。つくづく呂后あっての呂氏であったと感じさせる出来事である。


追記:「呂后は名君?」


呂后の専制については、残虐極まりない行為が多々あり、まったくの悪女っぷりであることは疑いの余地はない。しかし、こういった呂后の行為は政権争いにとどまっていたため、人民には何も影響はないどころか、かえって大変安泰であった。実際は天下にまで首が回らない状態であったといえるが、匈奴に対して戦を仕掛けるようなこともなかったため、人民の負担が軽かったこと、恩赦を施したり、凶作の土地には税を軽減するなど意外な善政をしていたことはおどろきの一言である。つまり、秦王朝のような厳格な法はなく、戦乱のない暮らしは大いに経済、文化の発展をとげた。急成長の時代だったのである。これが漢の400年の基礎となったのはなんとも不思議な気がする。