心のふるさとを求めて
真宗大谷派(東本願寺)正 覚 寺
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◇ゆずりレーン(2000年6月)
車の運転をする時、その人の性格が変わることがあるとよく云われています。
私はペーパードライバーですが、助手席に座っていても、後ろの車に追い抜かれたりすると、「エー、なんていうことを・・・」、と思ったり、口に出したりしています。勝気な性格がこんなところにも出てしまいます。人に負けたくない、人より良くなりたい、と思う自分がいます。
横浜から車で石川県の輪島に向かう途中の能登有料道路に入ると、「ゆずりレーン」が目に入ってきます。最初にこの標示に出会った時には、思わず「アッ」という声が出ました。
横浜の高速道路では「追い越し車線」です。追い越し、追い越されるのではなく、ゆずり、ゆずられという言葉に思わず考えさせられてしまいました。
前者では、どちらも救われない。後者は、どちらも救われるという感じがします。
縁あって「開教所」をともに始めて、少しずつですがそんなことを大切に思える自分がいます。
◇二年生(2001年11月)
思い切って三十余年勤めた役所を退職し、大垣の真宗学院に学ぶことになって2年目になり、8月のスクーリングも無事に終えることができました。
この学びも、こわいもの知らずというか、とにかく夫と開教所を始めて、そこでさまざまな方と出会ったこともきっかけとなり、再出発することにしました。
真宗学院では、年齢も考え方も違う同級生と、熱心な講師の先生方に大いに刺激されると同時に、みなさんに支えられています。
講義内容はいろいろですが、基本は「自己をみつめる」・「自己を知る」ことであり、そのことを抜きにしては本筋ではないと2年目にして気がついてきました。
自我の強い私には少々しんどいことですが、自己への問い返しも、今ここで出来ることをありがたく思います。
◇誰が?(2002年3月)
大垣の真宗学院での12月のスクーリングも、何とか二回目を無事に終えることができました。昨年秋からのバザーや報恩講などの正覚寺の行事も、いつもながら皆さんに助けられてここまでやってきました。しかし、ちょっとした気のゆるみからか、1月には風邪をひいて寝込んでしまいました。
真宗学院は2年目になるとさらに密度が濃くなったように思え―私自身の受け止め方が少しは成長したのか―集中講義の内容などはまだ自分で消化しきれないでいます。先生方から教えていただくことは、私にとっては刺激が多く、また学友からも多くの刺激を受けています。風邪もひょっとしたら知恵熱だったのかもしれません。
昨年4月の朝日新聞に、アフガニスタンで長く医師として活動しておられる中村医師の一文がありました。=「本当は誰が私を壊すのか。」=、バーミヤンの巨大石仏がタリバンによって破壊された報道の後でした。それまで、私にとってはアフガニスタンの現状も、タリバンについてもまったく未知の世界で、ただ世界的な遺産ともいえる石仏の破壊行為を起こしたということにばかり目がいっていました。
ですから、その中村医師の文章も、アフガニスタンの現状に思いをはせるというところではなく、ただ何となく表現が気になり、切り抜きをしておきました。その表題にある「誰が」は、私とは別の人と思っていました。
9月11日にアメリカでテロがあり、その事件を見ながら、インターネットのホームページで「ペシャワールの会」(中村医師が所属しているNGO)を見つけ、活動への献金という行為しかできずにいました。また、11月のバザーでも、今年から抹茶のお休み処を設けましたが、そこに「アフガニスタン難民の方に」と書いた募金箱を作り置かせていただきました。
今までのバザーは、私たちと何らかの形でご縁があった団体や施設の品物を展示し、また売上金の一部を寄付させていただいておりました。今後も、お互いに協力し合うということで、このことは今後も大切にしていきたいと思っております。
今回、急なことだったのですが、アフガニスタンで長く活動している「ペシャワールの会」へ寄付させていただくということができたこと、またそれに協力してくださった方々に感謝いたします。
今後、どのように世界が動いていくのか、日本の対応も含めて、私自身も問われていくのだと思っています。毎日の暮らしをしっかりと見つめ、大切にしていくことが基本なのだと自分にいつも言い聞かせています。
先ほどの中村医師の一文に、「バーミヤンで半身を留めた大仏を見たとき、何故かいたわしい姿が、ひとつの啓示を与えるようであった。『本当は誰が私を壊すのか』、その巌(いわお)の沈黙は、よし無数の岩塊と成り果てても、全ての人間の愚かさを一身に背負って逝こうとする意思である。」、とありました。
ここでの「誰が」を、私のこととして受けとめる問い返しを、常にしていかなければと思っています。
◇バザーを終えて(2005年3月)
2004年11月に多くの方々に協力と参加をしていただき、バザーを開催することができました。
当日はお天気にも恵まれ、開催時間前よりたくさんの方が待っておられる状況に、うれしい悲鳴をあげました。
バザーも今回で八回目になり、毎年、毎年新しい出会いがあり、献品はもとより、準備、ちらしの個別配布、当日の販売、片付け・・・等、最初の頃のことを思うと、その協力の輪の広がりは本当に大きくなってきました。
開教所として歩みだして最初に報恩講をお勤めしましたが、輪島の正覚寺報恩講のために門徒の方々が提供してくださった大根等をおすそわけしていただき、横浜でこちらの皆さんと一緒にいただく、そんなところから始まったバザーでした。
福祉施設の製品の紹介・販売を中心に、売り上げはそれらの施設へ還元するという原点は変わらないものの、当日の内容は、皆さんの期待も含め、広がりを実感しています。
その中で、今でも悩むことのひとつが品物の値段つけです。手作りの品、野菜、思い出のつまった品々等も、多くの方に「そんなに安くして!」と言われます。私なども当初はずいぶん気をやんだものでした。できれば物々交換的に、購入希望の方に値をつけていただければよいのですが、限られた場所、時間ではそれはとても無理なことです。
今思っていることは、献品された品々すべてが仏様へのお供え物であり、そのおさがりを私たちがいただいているということです。皆さんに喜んで使っていただくことを第一にして、できるだけ低価格にしています。
ある人にとっては不用であるものが、ある人の手に渡ることによって生かされていく。「おたがいさま」という声が、提供された方、購入された方それぞれから発せられているように思います。
売上金額の数字も、正直言って気になります。少しでも多く・・・、とも思います。
でも、それ以上に、「今年も楽しみに待っていたわよ」、「献品はいつ持っていけばよいですか」、と声をかけて下さる方々や尋ねてきてくださる方々、そんな出会いに勇気づけられ、数字にあらわせない力がわいてきます。
これも阿弥陀さまのおかげだと思っています。
◎命(ぬち)どう宝 (いのちこそたから) (2005年10月)
七月の盂蘭盆会法要のおりに、六十年前に原爆投下の広島におられた方のお話を聞かせていただきました。
その方は、当時高等女学校の二年生で、八月六日のその日に家族も傷を負い、学友のほとんどが亡くなられました。
多くの犠牲者を目のあたりにし、傷ついて助けを求めている人がいても何もできないでいる自分に悩み・・・。
そして時が過ぎ、ご自身も被害者でありながら、「生き残った」という事実が、時には「なぜ私が助かり・・・」という、自分自身を加害者のように思わされてしまう悲しみを話してくださいました。
「いくつかの偶然が重なって、無傷で助かった」と話されたとき、多くの方の命をいただいて生かさせていただいているのだという言葉を思わされたものです。
その体験を通し、今私の目の前に、明るく前向きなその方がおられるのだと、あらためて感じさせていただきました。
新聞に被爆六十年のアンケートに対する回答内容が載っていました。
今現在も、当時のことを心の傷として、またさまざまな不安を抱えられている方の九割が、被爆体験の継承については、「体験を伝えることが必要」と答えられています。
「その惨苦の人生を誰にも歩ませたくない、切実な思いがみてとれる」(松尾広島大教授のコメント)
その体験を聞かせていただいた私は、あらためて『命どう宝』(いのちこそたから)、この言葉を皆さんといっしょに伝えていきたいと思います。
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