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青柳新太郎随筆集

 

 

「犬の系譜」

 

ここで云う犬とは、他ならぬ我が家の飼犬チィー坊のことである。チィー坊の出自について少しく疑義のあるところを私の記憶が確かなうちに正しておこうと思う。

チィー坊の母系すなわち母犬は血統の確かな甲斐犬であった。これは元の飼い主である入谷参勇氏が山梨県石和温泉の愛犬家から大金と引き換えに連れ帰った犬であって、私自身がこの眼で見ているのだから間違いはない。一方、父系はまったく分らない。つまりどこかの野良犬がきて飼い主も知らないうちに母犬を孕ませたものである。チィー坊は甲斐犬の特徴を色濃く残してはいるが、体毛などは洋犬の特徴を示している。目玉のくりっとした黒の中型犬である。

チィー坊が4歳になるまで育てた入谷参勇氏の叔父貴に当たる人物が安東一家井川貸元3代目の入谷雄一氏である。この人物については、島田市在住の俳人、松下三郎氏の書かれた一文があるのでここに紹介しておく。

《 白兎さんの話に、清水一家井川貸元、入谷という名前がでてくるが、昔、会ったことのあるお爺さんの縁故の人、あるいは、その人本人である可能性が強い。

 昔、山村井川では楽しみが少なかったので,博打の類は結構発達していた。女衆の間でさえも宝引(ホッピキ)が盛んに行われていたし、我々がよくやったのがチョボイチである。もちろん丁半も盛んで、田代の諏訪神社の祭礼には、清水一家の親分が出向くほどで、昔ながらの賭場風景が見事に再現されていた。

 この入谷というお爺さんは、大変穏やかな性格だったが、井川近辺の貸元で、川狩り(材木流し)の人足衆について、彼らの行う丁半の胴元をやっていた記憶がある。

 昭和30年代初頭、井川ダム建設の関係で、建設業者が大勢はいり込んできたので、地元やくざの入谷お爺さんと、建設業者のやくざとの間でいざこざが起こったことがあった。賭場へ乗り込んできた建設業者のやくざが、縄張りを主張してきて、お爺さんの持っているテラセンの上がり金をよこせといってきたのである。驚いたことに、一見優しそうに見えた、このお爺さんは少しも騒がず、清水一家の縄張りであることを主張して、昔風の見事な仁義を切って退散させたのを覚えている。(松下三郎・・・私の寝言より抜粋)》

ここで松下三郎氏のいう清水一家とは、かの有名な清水次郎長親分の構えた一家である。安東一家貸元の入谷雄一翁がいつの間にか清水一家になってしまうのにはそれなりの理由がある。

次郎長には前後三人の妻がいたことはよく知られている。その三人目の「お蝶さん」は、三河(愛知県)西尾藩士、篠原東吾の長女として天保8年(1837)4月28日に生まれた。本名は「けん」。次郎長より17歳年下である。33歳で次郎長の後妻に入ったときには既に実子入谷清太郎がいた。子供がいなかった次郎長はお蝶の連れ子清太郎を非常に可愛がったそうである。

次郎長の菩提寺梅蔭寺の境内にある「次郎長遺物館」には、次郎長愛用の胴田貫やさまざまな遺品が陳列されているが、それらの大半はお蝶さんの遺子清太郎の入谷家が所蔵していたものである。
 入谷家の所蔵品の中でも珍しいのは、あの富岡鉄斎の富士の絵である。鉄斎が清水港波止場の『末廣』に泊まった際、描いたものと思われ、お蝶さんの手から、その子清太郎、孫の麟助へと受け継がれて残された。
 入谷麟助はお蝶さんと目鼻立ちの似た美男子で、事業家タイプであり、昭和戦前、鈴与商店の関係会社の重役をつとめた。麟助には二人の息子がいたがいずれも太平洋戦争で戦死している。

一方の安東一家とは、幕末の博徒、安東文吉あんどうのぶんきち1808 - 1871年)こと西谷文吉(にしたにぶんきち)が駿河国府中(現:静岡県静岡市葵区)に構えた一家である。文吉は二足草鞋の大親分で別名「暗闇の代官」とか「日本一首継親分」などと呼ばれていた。

文吉は、駿河国安倍郡安東村(現:静岡県静岡市葵区)の豪農であった甲右衛門の子に生まれる。大柄で相撲を好んだため10代の文吉は弟の辰五郎と江戸の清見潟部屋に入門し、芳ノ森の四股名で土俵に上る。後に故郷に戻るがバクチ打ちの群れに入り、自らすすんで人別帖より削られ無宿となる。兄同様に無宿となった弟の辰五郎と府中伝馬町の裏長屋に住み、夜は問屋場の人足部屋で壷を振っていた。この頃、お尋ね者の大場久八も文吉を頼ってくる。文吉20代半ば、友人が「炭彦」親分と借金のもつれで揉めた時には喧嘩相手の炭彦を斬る。この後、衆望を集め親分となるが場所的によい賭場を持っていた事もあり多くの猛者を統率していく。

大勢力となっていく文吉を見込んで天保9年(1838年)、駿河代官所は文吉と辰五郎の兄弟を呼び出して十手取縄を預けようとする。この背景には封建社会の建前だけでは解決できない遠州博徒の騒乱を文吉の手を借りて収めようとする意図があった。揉め事を押し付けられた文吉は固辞したが結局は引き受ける。二足草鞋となってからは乾児に賭場を運営させて、自らはバクチをしなかったとされる。文吉には十手と同様に公用手形の交付権も与えられていたために無宿の旅人で事情を抱えている者はこれを庇っている。「首継親分」の呼び名はこれに由来する。

遠州の博徒、国領屋亀吉こと大谷亀次郎は後年、幕末動乱のやくざ社会の様子を尋ねられた際に「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越喜左衛門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・。みんないい顔だったよ」と名前を挙げているが「文吉さんはどうでしたか」と聞かれた際には土地の方言を使って「あの人はオッカネェー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を畏れたとされる。

安東一家は2代目安東の須磨吉こと西谷須満吉、3代目渡辺綱吉、4代目長倉長作、5代目青木定吉と昭和も戦後まで続いた。なお、安東一家井川貸元の初代は文吉直系の小長井清次郎、2代目は入谷松吉、3代目の雄一は松吉の実子であり昭和36年12月21日行年62歳で没している。

 

「M氏の鯉」

 

 ウイリアム・エル・ムーア氏と私はまったく面識がない。それどころかムーア氏は今から11年も前の1996年に異国の地であるこの日本で既に亡くなっている。

 プライバシーにかかわる問題もあるからここに詳しく書くことを差し控えるが、ムーア氏の名前や住所は今でも住宅地図に載っているし、昭和20年代にNHKラジオの英語講座に講師として出演していたことは当時の新聞のラジオ番組欄で確認できる。ここらあたりまでは公然の事実として書いても差し支えなかろう。

 それでは、どこでムーア氏と私とが結びつくのか、そのあたりの事情をかいつまんで説明する。ムーア氏の敷地と私が関係している事業用地とが隣接していて、しかも事業用地を測量したときの引照点がムーア氏の敷地内に設置してある。引照点というのは多角測量の控えのポイントである。最近、事業用地の一部を再測量する必要が生じたのでムーア氏のご遺族を探し当てて、敷地内立ち入りの了解を取り付けたのがこの私である。

 ムーア氏の住宅は富士を望む海岸の絶壁の中腹に建っている。いや、絶壁の中腹という表現は正確さを欠く。絶壁の中の小さな稜線の鞍部に載っているというのが正しい。海抜高度69メートル。周囲は鬱蒼とした自然林である。建物は今にも崖から転がり落ちそうにも見えるが、地盤は岩盤で意外と安定しているようである。ひところは浮浪者が住み着いたりして怪しげな雰囲気であったが、最近では警備会社によって遠隔管理されている。

 建物の裏手に広さ数平方メートルの小さな瓢箪池が設えてある。坪数にして2坪弱といったところである。ことしの春先、つまり2007年の2月頃のことであるが、何気なく覗いた池の表面に直径7〜80センチの澄んだ水面が見えて、真ん中に一尾の錦鯉がじっと沈んでいた。錦鯉の体長は30センチほどで、極端な頭でっかちで胴体の部分は扁平に痩せ、まるでシーラカンスの化石のようにも見えた。

 飼い主が亡くなってから既に11年の歳月が流れている。山中のそれも周囲の樹木からの落ち葉でほぼ埋め尽くされた小さな池の中でたった一尾だけ生き残った錦鯉の生命力に私はある種の感銘を覚えた。

 野生の鯉がどんなものを餌としているのかよく解らないが、この錦鯉はたぶん池に発生するボウフラを主食として、周囲の樹木から落ちてくる毛虫や昆虫、稀に迷い込む蚯蚓や百足や馬陸などを食べて辛うじて生き延びていたのではないかと考えられる。また、周囲が樹木に囲まれていて水温の急上昇や蒸発がさけられたこと、建物の屋根から雨水が補給されたことなど幾つかの好条件が重なったことも幸いしたのであろう。

 さて、聞いたことのあるような台詞だが、見てしまったのだから仕方がない。私は直径1メートルにも満たない水溜りで健気に生きている錦鯉をこの目で見てしまったのである。見ちゃった以上はやるしかないのです。

 私は先ず、道具の準備から始めた。捨ててあった自転車の荷物篭を外してきて長さ1.5メートルほどの柄を付けた。これで池を埋め尽くしている落ち葉を掬い取ろうという魂胆である。次にラーメン屋が茹でた麺を掬うときに使うあのステンレ製の網にも竹で柄を付けた。池の底に沈殿している泥を掬い取ろうという目論見である。この二つの道具は思惑通りの活躍をしてくれて池の中の固形物は殆んど除去できた。

 世の中には色々な人がいて様々な意見がある。ムーア氏遺愛の錦鯉についても、別の鯉もいる川か大きな池へ放流してやったらどうかという意見もあったし、いや下手に動かして鯉ヘルペスに罹っては可哀想だという反対意見もあった。11年間も自力で生き延びてきたのだから今さら餌までは与えなくてもいいのではないかという意見もあったし、いや、これ以上痩せ衰えたら生きてはいられまいという意見もあった。世の中は常に動いているから先々のことは誰にも分からない。錦鯉だって先々のことより今日明日の餌が欲しいのではないか、私は勝手にそう考えて必要最小限の餌を与えることに決めた。

 金魚屋の女将は商売上手とみえて、錦鯉と聞いた途端に色がよくなるビタミン入りだことのどうだことのと詳しく説明しながら数種類の餌を私の前に並べて見せた。鯉の餌には水に浮かぶものと沈むものとがあるようだ。私は水に浮かぶタイプのものを選んで購入した。代価は一袋750円である。以来、一日置き程度で数十粒の顆粒状の餌を与えているが、最近ではすっかり普通の魚形に戻り、広くなった池の中を悠々と泳いでいる。

 

 

【紙魚の独言・しみのひとりごと】

 

 おい、若い衆、あんた、不惑四十になるかならぬかの歳じゃろう。ええっ。その割にはおぐしが薄いなぁ。なんかご苦労でもされたのかね。それとも副作用の強い薬の飲みすぎかな。まあ、そんなこたぁどうでもいいわ。禿には福音ともいえる耳よりな話があるんじゃが聞いてくれるかね。

俺か。おりゃぁな。『□○書房・ほうえんしょぼう』の本棚に巣くう紙魚じゃよ。

名前か。紙魚の老い耄れに名前なんぞは不要なんじゃが、『大言海』の裏表紙に棲んでおるゆえ、仲間の紙魚諸君からは「大言海の五郎」と呼ばれておるんじゃ。

なっ。なにぃっ。『大言海・だいげんかい』を知らないってか。『大言海』とは、かの大槻文彦文学博士が著した国語辞書のことじゃないか。

ええっ。なんだって、少し耳が遠いんでな。そりゃぁ紙魚だって寄る年波には克てんのじゃよ。

ええっ。なっ。なにぃ。紙魚の耄碌爺風情に人間様の言葉が喋れる訳がねぇって。じょ。冗談いっちゃぁいけねぇよ。こちとらぁ大言海の五郎ってぇ二つ名ぁ背負った紙魚でぇ。そこいら辺にのたくってるちんけな蟲たぁちぃっとばかっし出来が違うんでいっ。

この編の主人公は、青柳新太郎の書斎「□○書房」に巣くう紙魚の長老で「大言海の五郎」と呼ばれている。

負けず嫌いで、偏屈で、嘴ばっかりが変に達者で、空威勢のよい年寄りである。だが、一寸した話を聞いただけでも、ただの耄碌爺でないことは、賢明な読者の皆さんにはお判りになるだろう。

今回は、この老人ならぬ老紙魚が、半生を費やして舐めまわした、和漢の書籍の中から、「知らずとも全く困らぬが、知っておれば猶一層困らぬ」という、一風変わった話を紹介してみたい。

早速じゃが、読者の諸兄諸姉は、もちろん遊郭は御存じだな。然様、江戸で吉原、京都で島原、大阪では新町、長崎では丸山、駿府では二丁町が有名な遊郭だったな。古くは、東海道は手越(静岡市手越)の宿の遊女なども有名だったがね。

昔は売春が公許されていたんでな、各地に遊郭があったんだよ。それなのに、あの菅原通済とかいう、お節介な爺さんが、自分の一物が役立たずになったからといって、三悪追放とかいって騒ぎまくってな、若い衆には何の相談もなしに『売春禁止法』なる法律を制定させたんだよ。

自分が若い頃には、散々やりちらかしたくせに、まったく身勝手の強い爺さんだった。まあ、この御仁は天神さんとして親しまれておる菅原道真公三十六代の遠孫で、鉄道業界から土建業界をも支配する黒幕として君臨した人物でな、なかなかの大物だったんじゃよ。

なにっ。禿に効く秘薬とやらを早く教えろだと。慌てなさんな。焦るでない。慌てる乞食は貰いが少ないと、かの俚諺にも云うではないか。

ところで禿はいまさら説明しなくても解かるな。そう。頭の毛が抜けて無くなることだな。つるっ禿・里芋頭・河童禿、他にも色々な禿げ方があるぞ。そうだ、禿頭病という厄介な病気もあったっけな。

古来、中国では髪の毛のことを「血餘・けつよ」という。何といったかな。養毛剤だったか発毛剤だったか、とんと忘れてしまったが、こんな文句の宣伝文句があったな。

毛髪は、有り余る血液から生まれるのであり、豊潤な血流の証明であると考えられておった。確かこんな文句が続いていたような記憶があるんじゃがな。

昔の中国では髪の毛を血液の余りと考えた訳だな。中国といえば漢字発祥の国だが、毛髪に関係する文字も仰山あるぞ。

「髪」の音はハツで、髪の毛の意味だが、一寸の百分の一を表す長さの単位としても使うんだよ。間一髪の髪はこの意味だ。

「髭」の音はシで、口ひげの意味だ。

「髟」の音はヒョウで、長いかみの毛の意味。

「髢」の音はテイで、入れ髪、或いは添え髪のこと。入れ髪では解からないって。それでは「かもじ」ではどうかな。

「髦」はボウで、垂れ髪のこと。

「髥」はゼンで、頬ひげのこと。

「髫」はチョウで、うない髪のこと。

「髱」はホウで、「たぼ」のこと。

「髷」はキョクで、縮れ毛のこと。日本では「まげ」にあてる。

「髻」はケイで、「たぶさ」或いは「もとどり」の意味。キツと発音すると、竈神の意味もある。

「鬆」はショウで、髪が乱れるの意味だが、ゆるい、しまりがない、の意味にも使う。骨粗鬆症(こつそしょうしょう)などというのがその用例だな。

「鬘」はバン、またはマンと発音し、髪かざりのこと。

「鬚」はシュ、またはスと発音し、顎ひげのこと。

「鬟」はカンで、まるく束ねた髪のこと。

「鬢」はヒンまたはビンで、びん即ち耳のそばの髪の毛のことだ。

「鬛」はリョウで、これまた顎ひげのこと。

この他にも「髣髴」という熟語があるな。ホウフツと発音するが「彷彿」と同音同義で、よく似ているさま、ありありと思い浮ぶさま、などの意味があるな。

勿論、この外にも毛髪に関する漢字はあるんだが、なんせ字画の多い字ばかりなんで、記憶能力にも限界があるんじゃよ。

実のところ、青柳の爺さんの知合いにも、禿げた人や髪の毛が極端に薄い人がおってな、禿とても決して他人事ではないと、かねがね心配しておるんだよ。

ええっ。何っ。青柳の爺さんはどうかって。あの爺さんは、下半身の方はさっぱり駄目だが、大した苦労がない所為か、髪の毛だけはたっぷりあるし、いまだに黒々としてるんだよ。ただし、少し癖毛だがね。

何っ。発毛の秘薬っ。ええっ。変に勿体をつけるなって。勿体なんかちっともつけちゃあいないよ。けれども話にゃぁ筋道ってぇものがあるでしょう。

そうそう急くな。慌てなさんな。話の舞台は、花のお江戸の吉原だ。そうだ、吉原遊郭だ。遊郭というのは女郎屋がわんさと軒を並べている歓楽街ですよ。

女郎屋ってなにだって。ちょっと、若い衆。いいかげんにしなさいよ。さっきから話がちっとも前に進まないじゃぁないか。女郎屋ってのは、お金を取って■■■■(いいこと)をさせる商売屋ですよ。■■■■じゃぁ解からないって。ちょっと、お前さん、とっとと家へ帰って、お袋さんにでも教えてもらいなさい。

そこでだ。話は再び元へ戻るが、大体が漢字の「商」という字の起源からして、股間の穴の形、つまりは女陰を意味するという説もあるぐらいだ。

従って、商売の「商・あきなう」の字は、本来は、大声で呼び込むことを意味する「唱」の字を充てるべきものらしい。

唱えて売る。これが商売の原義だとすれば、祭礼・縁日の露店で香具師のお兄さんが、威勢のよい口上を並べて物を売る、所謂「啖呵売・たんかばい」が、商売と呼ぶのに最も相応しいと、俺は思うんじゃが如何なもんかな。

あゝ。若い衆。ちょっと待って。いいことを思いついた。そこにほれ、丁度いいお師匠さんがおいでになる。秣場(まぐさば)さんにご指南を仰ぎなさい。なんてったって秣場さんは百戦錬磨の豪傑ですからね。

ところで吽公(うんこう)さんは何人斬りでしたっけ。しかし、斬るというのもなんだかおかしな表現だな。得物は男子の一物なんだから、突くとか刺すとかいうべきじゃあないんかしら。そんなこたあ此の際どうでもいいや。どうもいかんな悪い癖じゃ。

遊郭も江戸の吉原ともなれば、女郎の数も並ではないぞ。だが、人数が多ければ多いほどいるのが、有るべき処に毛の無い妓(こ)だ。そうだ。俗に「土器・かわらけ」ともいうが、当今では「パイパン」などともいうそうな。パイパンとは白板のことで麻雀牌の一つだな。

そうだ、若い衆。白・發・中(ハク・ハツ・チュン)で大三元というやつじゃ。

有り過ぎても困るが、無くても困るのが毛だ。何っ。今度はなんだ。そう。そうだよ。無くても困るのが陰毛だ。■■■■(だいじなところ)の縮れ毛だよ。

『万葉集』の一首に「凡有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖可忍而有香聞」という歌があってな、天平二年(730年)太宰帥大伴氏に、児島という遊行女婦が贈った歌として載っておるんじゃ。

漢字の羅列だから鹿爪らしいが、これは万葉仮名といって、表音文字と思って間違いないな。解かりやすく片仮名書きすると「オホナラバ、カモカモセンヲカシコミト、フリイタキソデヲ、シノビテアルカモ」となるんだね。

これを更に読下文に直すと「凡ならばかもかも為むを恐みと振り痛き袖を忍びてあるかも」となるようだな。

この『万葉集』九六五の一首を、普通は「貴方が、九州の大宰府へ行かれるというので、一緒に連れていってよと訴えたが、連れては行けぬと諭された。だから、私は袖を振るのをも我慢して、じっと忍んで見送っておりますよ」といった程度に、当たり障りなく訳しているんだな。

『古語辞典』などにも、「右毛左毛」を「右にしたり左にしたり・・・ああしたりこうしたりして、ほしい儘にいろんな事をする」といったふうに逃げておるんだよ。

だがね。人間の体毛が右と左に分かれている場所は、ただの一ヶ所だけなんだから、本当の歌意は、もっともっと肉体的にエロチックに解釈するべきだという説もあるんだよ。なにっ。そうだもっと助平にじゃ。

江戸時代の人は、これを「チンチンカモカモ」などという言葉にして結構頻繁に使っていたようなんだな。例えば「別嬪じゃぁねえか、かもって、かもかもしたいじゃぁありやせんか」とか、「締め切った小部屋で、ちんちんかもかもしてる最中に、とんだ邪魔が入りゃあがって」などといった具合に使っておるんだな。

だからさ。実は『万葉集』のマンが曲者でな。万葉時代の女性は、極めておおらかに性を謳いあげておったという訳さ。おおらかにね。

何っ。煩いねえ。お前さんは。ほら、だから話を途中で忘れてしまうじゃあないか。ちょびちょびしないで、おとなしく聞いていなさい。

ええっと。さっき何処まで話したっけ。あゝそうだったな。パイパンのところまでね。カワラケすなわちパイパンじゃったな。

でね。有るべき処に毛がないと、もちろん女郎も不憫だが、女郎を抱えた楼主も困るんだよ。

何故かって。毛のない妓はどうしても客に嫌われることが多い。お客が寄らない。抱えている女郎の稼ぎが悪ければ楼主が儲からない。損をするのは誰でも嫌だから、楼主も知恵を絞るという訳さ。

そこでだ、何とかしてカワラケの妓に毛を生やしてやろうと、考えだされた妙法が、なんと蚕の餌にする桑の葉の利用だったという訳さ。

蚕のことは知っているかな。然様、蓑虫と同じ蛾の仲間だ。鱗翅目蛾亜目カイコガ科に属する昆虫ですな。カイコは「飼い蚕」という意味で、クワゴの家養変種だとされておる。従って、家蚕(かさん)ともいうな。

カイコガの幼虫が所謂、カイコで、飼育して繭から絹糸を得るわけだ。繭は一本に繋がった長い糸で出来ておるんじゃよ。長い糸ね。

卵から孵った直後のカイコは、多毛で黒く、これを毛蚕(けご)という。いいですか。カイコの毛虫は毛蚕ですぞ。毛蚕。多毛で黒い。いいな。

毛蚕は成長すると、やがて脱皮して、白色で斑紋のある幼虫に姿を変える。毛蚕から数えて四回の脱皮を重ね、蛹(さなぎ)になる前の幼虫は熟蚕(じゅくご)と呼ばれる。熟蚕だ。

熟蚕の体色は、やや透明で、なおも桑の葉を食み続ける。そして暫くすると、美しい糸を吐いて我が身を包み、繭を作るのじゃよ。

繭の中で蛹化(ようか)したカイコは、やがて成虫と姿を変えますな。これを完全変態といいますぞ。完全変態と。何っ。お前さんは、ただの変態じゃあないか。

カイコの蛹の身体の中にはマルキピーシ管という器官がありましてな、これを取り出して見ると真っ黄色をしておるんじゃ。

解剖用のメスで、これを切って中を見ると、真っ黄色な物質が詰まっておって、これを顕微鏡で覗いて見ると、美しい黄色い結晶が見えるんじゃよ。

これが何という物質の結晶か想像がつくかな。解からんじゃろう。

実は、これはビタミンB2でしてな、ビタミンB2が純粋に濃縮して結晶しておるんじゃよ。そこで皆さんに考えて欲しいんだがね、一体全体このビタミンB2は何処から来たものかっていうことをさ。

何っ。解からないって。お前さんも盆が暗いねえ。さっきから一々煩いことを言っておるが、俺の話を全然聞いちゃあおらんじゃないか。

蚕は卵から孵ったばかりの毛蚕のときから、桑の葉っぱしか食っちゃあおらんだろうに。してみればビタミンB2の源泉は、桑の葉っぱにあるとしか考えられんじゃろう。

そこでだ、今度は桑のことについて少しばかり研究してみようという訳だ。いらぬ心配をするな。万事は俺に任せておけ。

先ず、クワの植物分類学上の位置についてだ。位置について、ヨーイドンではないぞ。おいっ。若いのっ。他人の話を聞きながら欠伸(あくび)をするなっ。失礼じゃあないか。ええっ。

さてっと。ここにおいでの皆さんは、界・門・綱・目・科・属・種という分類の方法をご存知かな。かい・もん・こう・もく・か・ぞく・しゅ。おや、ご存知ない。

なっ。何っ。臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前だとう。そりゃあ忍術の呪文じゃないか。お前さん一体どこでその「九字印契・くじいんけい」を覚えなすったね。何っ。陰茎じゃない印契だ。護身の秘法として九字を切るだろう。あれだよ。驚いたなあ俺も。だが、残念ながら全く関係ないねえ。

例えばじゃ。あの動物園にいるライオンじゃ。ライオンを例にとってみるとこうなるな。動物界・脊椎動物門・哺乳綱・食肉目・ネコ科・ヒョウ属のライオンということになる。

それでは、問題のクワはどうかな。植物界・顕花植物門・被子植物亜門・双子葉植物綱・離弁花亜綱・イラクサ目・クワ科・クワ属、のクワということになるな。

ところがな、世の中そうそう簡単には済まされないんだよ。クワ属のクワにはな、所謂、マグワのほかにヤマグワ・ケグワ・シマグワ・ハチジョウグワ・ロソウなどの種類があるのでな。山桑・毛桑・島桑・八丈桑・魯桑じゃ。細かい分布のことなどは省略するが、これらの桑はすべて蚕の餌になると考えてよろしい。

桑はな、元々が中国原産の落葉の低木または高木でな、乳液があるんじゃよ。乳液だ。解かるな。日本でも蚕の飼料作物として、古くから栽培されておる。我が国へ養蚕技術が伝播したのも古いことなのでな。

中央アジアあたりでは、街路樹としても広く利用されていてな、その椹果(じんか)は重要な食料となっておるんじゃ。椹果じゃ。すなわち桑の実のことだな。

地中海沿岸地方からインドにかけては、食用にするための品種を栽培しているとも聞いたことがある。熟れた桑の実は多汁質で美味いもんだぞ。何っ。多汁質とはジューシーなということだ。

樹幹の材はやや堅いが、強度があって紋理や色沢が優美で且つ工作し易いので、床柱、床板、家具、指物の材料として賞用されておる。

春に採った根皮を桑白皮(ソウハクヒ)といい、消炎・利尿・鎮咳・去痰などの目的で漢方方剤(かんぽうほうざい)に配合される。

葉は桑葉(ソウヨウ)と呼んで、中国では駆風薬に使われる。果実は桑椹(ソウタイ)と呼び強壮薬にされる。樹皮は酒に浸して桑酒を作る。また、樹皮は製紙原料にもする。

駆風薬とはなんぞや。腸管内に集積するガスを排泄させる作用のある薬剤、と辞書にあるな。屁だ。いや、屁になる前の濃縮ガスかな。

どうだ。解かったかい。根っこ・樹幹・樹皮・葉っぱ・果実そして街路樹を兼ねた果樹としての利用価値、そして蚕の唯一の飼料植物。これじゃあ、この次に桑の樹を見たときには思わず伏し拝みたくなるだろうよ。

さてさてと、ぼちぼち行っても田は濁るか。御託を並べるのはこのくらいにしてそろそろ結論に入りますか。何っ。前置きがくどすぎるって。怒るな。お前さんのように、一々頭の鉢から湯気を立てていると、ますます髪の毛が抜け落ちるぞ。ああ、桑原くわばらだ。

桑の葉を利用したカワラケの治療法というのはだね、実はいたって簡単なことなんだ。だがね、だがしかし、この方法は、江戸の吉原で、大昔からずっと、遊郭が廃止になるまで続けられてきたというんだ。

先ず、桑の葉をよく揉んで軟らかくして、青い葉の液が出るようになったのを局部に当てる。これを根気よく続けていると発毛してくるということだ。

この毛生えの妙法が■■■■の本場というか、専門家とでもいうのか、江戸は吉原遊郭で、二百数十年ものあいだ連綿として施されてきたということは、余っ程のこと効力だあったという何よりの証(あかし)じゃあなかろうか。

俺の話はこれでお終いだ。どれ、帰って寝るとでもするか。

何っ。桑の葉の食い方だとう。おい、お兄さん、嬉しいことを聞いてくれるねえ。桑の葉の食し方ね。色々とありますよ。色々とね。

先ず、一番美味しく、しかも手早く料理できるのは、桑の若葉を空揚げにする方法ですな。若葉ですよ。若葉。カラッと揚げて貰いたいもんだね。カラッとね。風流ですな。実に風流な桑の葉の食し方だ。

次にか。お次の献立は天麩羅だ。何だって。空揚げも天麩羅も大して変わらんじゃあないかって。馬鹿をいうな。天麩羅は天麩羅専門店もある立派な料理の方式だ。

薄く衣をつけて、上等の油で揚げた桑の葉の天麩羅。細く刻んだ桑の葉と桜海老の掻揚げ。乙(おつ)ですな。実に乙な桑の葉の食し方だ。話しているだけで涎が垂れそうだ。

何っ。桑の葉の天麩羅はおかしい言い方だって。実はそうなんだよ。天麩羅の本義は魚貝の身に衣をつけて揚げた物のことで、野菜の天麩羅というのは蕎麦粉の饂飩というのに等しいんだよ。しかし、最近では野菜の天麩羅という言い方をしてるんだよな。

硬い葉っぱは、ジューサーにかけて青汁にする。布巾で絞って滓を漉して、蜂蜜などを加え野菜ジュースの要領で飲用されては如何かな。ただし、味の方は保証のかぎりではありませんぞ。

最後に一つ、俺の口から申し添えておこう。この一文を読んで、どうしても桑の葉の天麩羅を食してみたくなった諸君は、遠慮をせずに、秣場さんに相談してみなさい。

秣場さんは『桑蒿倶楽部』の会員だから案外簡単にお世話してくださると思いますよ。では、御免なさいよ。

完。

【山菜礼讃】

【蓬・ヨモギ】

 和菓子屋の店先にヨモギ餅が並ぶと、私は春来たれりの思いを確かにする。言わずもがなヨモギ餅は春の季語である。ヨモギと言えば源氏物語に「蓬生の巻」があり、枕草子の「庭なども蓬にしげりなどこそせねど云々」という件(くだり)、はたまた後拾遺和歌集の藤原実方の一首を知らぬわけでもないが王朝文学について云々する積りはさらさら無い。

 私がここで草餅と云わずヨモギ餅と言ったのは、餅草にはオヤマボクチや母子草、つまり春の七草の御形であるが、これらも餅に搗きこんで食するからである。餅草としては、むしろハハコグサの方が古いようである。また、蕎麦打ちのつなぎにオヤマボクチを用いることも古くから行われている。

 因みに、ヨモギはもとよりオヤマボクチも母子草もキク科の植物である。序でのことだから触れておくが、「山で美味いはオケラとトトキ」と並び称されるオケラも、嫁菜飯に欠かせぬヨメナも、蕗味噌にするフキノトウもキク科植物である。

 キク科ヨモギ属。私の故郷、静岡ではヨモギと呼ばずヨムギと訛る。日本中、そこかしこいたるところに分布しているのだからまさかヨモギを知らぬ人はいないだろう。だからヨモギそのものについてあれやこれやあげつらうことはしないでおく。我が家の飼い犬ジョン・万次郎、チィ坊両君さえも朝夕の散歩の都度に道端のヨモギへ小便をかけている。

 私が子供の頃の田舎では、桃の節句の菱餅は、赤を蜀黍餅、緑がヨモギ餅で、黄色はクチナシで染めるものと相場が決まっていた。また、端午の節句には菖蒲と一緒に束ねて軒先へ挿したり、菖蒲湯にも入れたものである。

 さて、ヨモギ餅に搗きこむヨモギであるが、東京などの老舗では伊豆七島あたりからその年の新物を取り寄せているそうだが、多くの場合は前年に摘んで、灰汁で茹でて、筵にひろげ天日干しにして乾燥保存したものを用いるのである。保存技術が進んだ昨今では、冷凍保存したものを解凍して使うことが多い。

 私がちょくちょく行く「真富士の里」という農家の主婦が運営する店の人気商品にヨモギ饅頭というものがある。粒餡をヨモギ風味の皮で包んだ蒸し饅頭である。ヨモギはミキサーにかけて粉砕してあるので色と味と匂いはまぎれもなくヨモギだが、昔のように草の繊維が混じっているということはない。

 ここまでの話しは前置きである。前置きの長いのが私の悪い癖だが、ここからがいよいよ触りということになる。

 六年ほど前のことだから、その時の状況を今でもよく憶えている。私は安倍川の護岸工事に従事していた。さよう安倍川餅の安倍川である。

 春先のことである。陽当たりの良い河原にヨモギが萌えていた。昼の休憩時間に土方仲間の森爺がヨモギを摘みだした。私はすぐさま、そのヨモギをどうするのかと森爺に訊いた。

 朴訥な性格の森爺は、言葉少なく天婦羅に揚げると美味いのだという。野生化した蒟蒻玉から蒟蒻を造り、ワラビやゼンマイを上手に灰汁抜きするこの老練な土工の言葉に異論をさしはさむ余地などまったく無い。森爺はヨモギだけでは料理が侘びしいから生椎茸や人参、豚肉なんぞをネタにするのだという。

 こういう場合に携帯電話は至極便利だ。安倍川の河原からすぐさま自宅へ電話が掛けられるのである。私が今夜のお菜はヨモギの天婦羅だと言えば、妻はすかさず酒の支度をして待っているという。酒と聞いてはこちらも黙ってはおられない。私は河原の枯れ草を掻き分け、鵜の目鷹の目でヨモギを探したのであった。

 ヨモギを摘むと独特の匂いがする。かなり強い匂いだがそれは必ずしも不快ではない。しかし天婦羅に揚げると、この匂いも軽減するし、癖のない味に仕上がるのである。

 しかしいくらヨモギの天婦羅が美味いからといって、街の有名天婦羅店の座敷へ上がりこんで鶴首して待っていたところで滅多なことで食膳に供されることはないだろう。専門店の天婦羅といえば、小柱の掻揚げ、車海老、穴子、キス、野菜といえば萌やし三つ葉かアスパラガスかシシトウといったところが定番だろう。私がこれまでに他所でヨモギの天婦羅を食したのは、山梨県は塩山市、あの快川和尚で有名な恵林寺の御門前にあるお店で山菜てんぷら蕎麦を食べたときのたった一度きりである。

 ヨモギを語るときにどうしても避けて通れぬのが灸(やいと)である。

 ヨモギは漢方では艾葉(ガイヨウ)と呼ぶ。止血、収斂、つまり血管の収縮を促すという効能である。吐瀉薬や腹痛、子宮出血などにも用いられる。乾燥した葉を突き砕き、葉身部を除いた腺毛、毛などの塊が艾(もぐさ)で灸(やいと)に用いる。

 物事の始まりを皮切りというが語源は最初にすえる灸のことである。子供の頃によく両親の背中へ灸をすえたものだ。皮切りは熱く、灸の痕は火ぶくれになるが、そのうち瘡蓋になり、むず痒くなるそうだ。そうだというのはいかにも無責任だが、私はいまだにお灸というものをすえたことがないので解からないのである。

 安倍川の西岸に手越という集落がある。古くから東海道の宿駅であるが夙に手越の遊女として名高いのである。うら若き遊び女が増水で安倍川を越せぬ旅人の無聊を慰めたということなのだろう。その手越に高林寺と東林寺という二つの名刹がある。両寺は灸所として有名である。高林寺は東海道に面してわかりやすい場所だから当地を通行のみぎりは立ち寄られるとよいだろう。

 蛇足を承知でもう一つ書いておく。

 子供の頃、ちょっとした切り傷や虫刺されなんぞには、ヨモギの葉をよく揉んで当てたものである。数年前に泊まった民宿の薬草風呂がヨモギの匂いだったので湯に浸してあった袋をこっそり開いてみた。袋の中身はヨモギやゲンノショウコなど身近にある数種類の薬草であったが、あの厄介な痔にもヨモギの煎じ汁で腰湯をすると効果があるそうだ。

 食べて美味しく、灸にして疲労を癒し、薬草としての効能もある。まさにヨモギさまさまである。

 ヨモギを天婦羅に揚げると美味い。この一言を云うために随分と能書きを並べたものである。

 

【五糞書・ごふんのしょ】

 二天一流の開祖、宮本武蔵玄信が著した『五輪書』に野糞の極意は書かれていない。

だが、生きるために食餌を摂れば必ず排泄せねばならぬというのが生きとし生ける物に負わされた宿命である。

しからばここに青柳維新入道白兎が恥を忍んで野糞の極意を伝授しようというのが地・水・火・風・空、五巻の趣旨である。

【地之巻】

この巻では野糞をするときの地理的条件について要諦を述べる。

先ずは足場を確かめることが肝心である。みだりに崖っぷちなどへ近寄ってはならない。

足を滑らせて転げ落ちては怪我をする。どうしても斜面を利用したいときには立木などにしっかり摑まって谷側へ尻を突き出してやるがよい。

無闇に急いで見境なく屈むと障害物で尻を傷つけることがあるので注意を要する。小枝といえども柔らかな尻に刺されば痛い。

蛇、百足、蜂などには特に警戒が必要である。井川大日峠で、こともあろうに恥部を蝮に咬まれて落命した女性の実例を筆者は知っている。

深山、荒野といえども人の通路へ脱糞するのは避けるべきである。

人が飲用する懼れのある渓流などを糞尿で汚染してはならない。

【水之巻】

 この巻では糞と水との因果関係について述べる。

便所のことを手洗いと云い手水(ちょうず)ともいう。厠(かわや)の原義は川屋だという。雪隠(せっちん)というのは禅家の用語だが雪も水の一形態に過ぎない。

かように糞と水との因果関係は深い。

時にして渓流の石を跨いで野糞をすることもあるが、あれは一種の緊急避難であって通常の場合は絶対にやってはいけない。

山間地では下流で飲料水に利用している場合が多いからだ。

野糞を垂れたあと手を洗う水が無いときは、水のある所まで辛抱するより仕方がない。

しかし不運にも糞で指先などを汚してしまった場合は、柔らかな草の葉などをよく揉んで拭いとるとよい。何事も工夫が肝心である。

【火之巻】

 この巻では野糞を垂れる時の身構えについて述べる。

登山愛好者などが山で雉を撃ちに行くと言えば野糞をしに行くことだ。女性の場合は花摘みに行くなどと言う。雉を撃つ時の射撃姿勢は銃をやや中腰に構えるらしい。

野糞の姿勢も始めはやや腰を浮かせ気味に入り、周囲の状況が安全であることを確かめてから、もう一段、腰を落とすとよい。花摘みの場合も要領は同じである。

俗に、蛇が女性の恥部に侵入したとか言う話を耳にするが俄かには信じがたい。蛇といえども天岩戸(あまのいわと)と石垣の隙間との識別はつくはずである。

あれは、蛇が鎌首を擡げるのと股間の一物が勃起するのを卑猥に連想した想像上の被害ではないのか。しかし、蛇は人の数十倍も温度の変化に敏感である。いきなり射程距離内に人間の体温を感知すれば餌と勘違いして咬みつくのは当然である。

従って、露出する身体の範囲で温度の高い部分すなわち放尿時の恥部は最も危険な箇所といわねばならない。屈んで用を足す女性の場合は特に注意が必要である。

毒蛇の害から身を守るためには手頃な棒切れなどで草叢を叩いて安全を確かめる方法が最もよい。蛇は霜が降りる頃になると冬眠に入るので晩秋から早春にかけての低温期は安全である。

【風之巻】

 この巻では野糞の後始末について述べる。

野糞であれ尻を拭う紙があれば問題ない。雑誌、新聞紙などで代用する場合はよく揉んでから使用するとよい。紙の代替品を自然界に求めるとすれば、蕗の葉などの広くて柔らかいものが最適である。柔らかな草を束にして使ってもよい。木の葉などは青葉よりも落ちて湿ったものの方が柔らかでよい。

尻を拭うのに、滑らかな肌の石とか藁縄などを使用した例もある。パンツ、ステテコ、タオル、ハンカチなどを尻拭きに使うのは邪道である。

己の糞は猫でも隠す。所謂、猫糞(ねこばば)である。万物の霊長たる人間が糞を隠さないとすれば猫にも劣る。糞は土で覆うのが最善だ。土に含まれるバクテリアが分解を早める。次いで、砂、砂利、小石、礫と続く。

尺を超える石の場合はあらかじめ石を外して出来た穴に用を足し、事後に元のように石をはめ込んでおくとよい。土石がうまく利用できない時は落ち葉、枯れ草などで充分に覆うがよい。それも出来ない時は棒切れでも立てればよい。要するに、後から来た人に不愉快な思いをさせないことこそ野糞常習者の大切な心掛けである。

【空之巻】

 この巻では野糞の奥義について述べる。

野糞の深奥は「融通無碍・ゆうずうむげ」である。一切の拘りを捨てさり自由な境遇、無我の境地に身を置くことである。

人間には道徳、礼儀、常識など様々な束縛がある。だから座敷や台所へ糞をする人はいない。道路の真ん中や他人の屋敷も除かれる。しかし道路の脇の側溝や畑ともなると筆者にとってはしばしば絶好の排泄場所となる。

脱糞は便所で、という頑冥な固定観念を捨てなければ到底、野糞の名人上手にはなれない。身を山野の草木土石に同化させることが肝要である。

人は鳥獣蟲魚の仲間である。己を空しくすることが野糞上達の秘訣である。

野糞の場所を無闇に選んではいけない。何処へでも用が足せなければ達人とは言えない。工事現場などの人がいるところで糞をひるためには若干の小道具がいる。新聞紙でもベニヤ板でもダンボール箱でも何でもよい。

後ろに遮蔽物があって前だけ隠せばいいような場所を選び、新聞紙を両手でひろげて読むような格好でしゃがむ。顔の表情はいかにも新聞を読んでいるように装うことが秘訣である。ダンボール箱の場合はコの字型に囲う。いずれにせよ素早く事を済ますことが肝要である。

このときビニール袋とかセメント袋などがあれば大きい方だけ載せるとよい。後始末が楽である。

「何いってやんでぇい。いいかげんにしねぇかい。糞ったれ野郎っ」

読者諸兄の罵声が聞こえてくるようである。野糞に極意も秘伝もありはしない。ただ尻の穴のしまりが悪い情けない男の戯言である。

完。

 

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