日本帝国は、もともとはアメリカと戦争する意志など無かった。これはアメリカも同様。日露戦争直後からアメリカは対日戦を企んでいたという俗説もあるが、それは誤りだ。
しかし日中戦争の過程で、両国間に摩擦が生じていくことになる。
そして日独伊三国同盟の締結とともに、それは決定的な対立に変貌する。
では、日本帝国は何故、三国同盟を結んでしまったのか。そしてアメリカは何故、それで日本帝国を敵視するようになったのか。
ここでは、それについて記してみたい。
それでまあ、結論自体は簡単だ。
当時、アメリカとドイツは、既に実質的には敵対関係にあった。そのドイツと、日本は同盟を結んでしまった。故に、日本とアメリカも敵同士となってしまった。そういうことである。
そして、日本が何故ドイツと同盟したのかというと、それによって大きな利益があると期待できたからである。それは残念ながら大はずれで、取らぬ狸の皮算用に終わってしまうのだが。
つまりは、日本自身が戦略的な誤判断を犯してしまったということだ。
元来、日本帝国はソ連を敵視していた。だから、同じくソ連を危険視するドイツと、防共協定を結んでいた。これが1936年11月25日のこと。(翌年、それにイタリアが加わる)。
もともと、日本とドイツはそのような間柄だったのである。そして、ソ連からの防衛を担当する陸軍は、特にドイツとの接近を希望していた。
そのため防共協定を同盟に発展させようとしていたのだが、これには海軍が反対し続け、実現には至らなかった。
ところが、独ソ不可侵条約で状況は一変する。敵であるはずのドイツとソ連が、突如として条約を結んだのだ。
これが1939年8月23日のことで、ドイツがポーランドに攻め込んで第二次世界大戦が開始されるのは、その翌月である。
これはもちろん、日本との防共協定に違反している。そのためドイツとの同盟の話も、日本では一時的に消えてしまう。(ちなみにこのようなドイツの背信行為は後に尾を引き、後の三国同盟の際なども、「ドイツは信用できるのか?」という話が出ている)。
また、この独ソ不可侵条約の締結は各国に大きな衝撃を与え、日本では時の平沼内閣が「複雑怪奇」の言葉を残して退陣している。
そしてポーランド侵攻後、ドイツはめざましい勝利を重ねた。
まず、1939年9月、ドイツはポーランドに侵攻し、その直後にイギリス・フランスはドイツに宣戦し、これで第二次世界大戦が開始される。(ちなみにソ連は、ドイツに呼応してポーランドに攻め込み、その東半分を我がものとした)。そしてポーランドは一ヶ月でドイツの軍門に下った。
翌1940年5月、ドイツ軍はフランスに攻め込み、翌6月、フランスはドイツに降伏する。まさしく電撃的な、ドイツの勝利だった。
この時点でドイツとの戦いを続けているのは、わずかにイギリス一国だけとなる。後に激突することになるものの、ソ連はまだドイツの友好国であり、アメリカはまだ参戦していない。
そのイギリス軍も命からがらフランスから逃げ帰ってきた状態であり、ドイツの優勢は確実視されていた。イギリスの敗北も間近か?と思われていたのである。
そして続く同1940年夏、ドイツは最後に残ったイギリスを下すべく、イギリス本土上空での航空戦を試みる。まずイギリス空軍を撃滅しておいて、次にドイツ陸軍をイギリス本土に上陸させるというもくろみである。
これが、バトル・オブ・ブリテンである。
もっとも、そのドイツ空軍の攻勢を、イギリスはついにしのぎきる。だからドイツ軍は、イギリス本土への上陸作戦を延期せざるを得なかった。
実のところは延期ではなく中止だったのだが、しかしドイツは、イギリス本土への上陸も間近であるように宣伝し続けた。その後も。
アメリカというのは好戦的な国ではない。少なくとも当時のアメリカ国民は、戦争に巻き込まれたくないと念願していた。「ヨーロッパのことはアメリカには関係ない」というわけであり、いわゆる孤立主義である。
民主主義国であるアメリカは、だから第一次世界大戦と同様、すぐさまヨーロッパの第二次世界大戦に加わることは出来なかった。
しかしながら、アメリカ政府の意志は反独であり、この時点でイギリス支援を開始している。また、戦争の準備も。
すなわち、既にこの段階において、ナチス・ドイツ打倒はアメリカの方針となっているのである。
そしてアメリカは、このドイツ軍が圧倒的優勢と見られる1940年夏の状況において、しかしイギリスの敗北はないと、正しく判断していた。
それでは、その1940年夏のバトル・オブ・ブリテン(英国本土航空決戦)当時は、実際には、どのような状況だったのか?
ドイツがイギリスに勝利できる可能性はあったのか?
作者としては、これは断言できると思う。
ドイツがイギリスに勝利できる可能性は皆無だった。
そして、これは冷静な判断力がありさえすれば、当時の人々にも判定できていたはずだった。
つまり、である。
もともとドイツ軍は陸軍国である。強力な陸軍力を誇っているが、海軍力は弱い。そしてイギリスの場合、これが逆転する。海軍は強力だが、陸軍の方は弱い。
そしてドイツがイギリスに攻め込もうとする場合、英仏海峡を横断する必要がある。つまり、海を渡る必要がある。従って、海軍対海軍の戦いに突入するわけだが、しかし海軍力に劣るドイツは、そこでイギリスには絶対に勝てない。
その海軍の非力を空軍力で補うことは、可能ではある。しかしドイツ空軍は、爆撃機ではイギリス空軍より優勢だが、戦闘機戦力では「わずかに優勢」のレベルでしかなかった。故に航空優勢を確保することは出来ず、それではイギリス海軍を叩くことも出来ない。
ちなみにドイツ空軍の航空機は、航続距離が短いという欠点を持っていた。だからイギリスを空爆する際も、その南部の地域だけしか、攻撃できていない。イギリスにしてみれば、軍需工場をそこから北へ疎開させてしまえば、もはや空襲の心配もなく、悠々と生産にいそしむことが出来るというわけである。
したがって、ドイツの優勢のうちに戦争が終わる可能性は、もちろん想定できたと思う。すなわち、アメリカが参戦することなく、ドイツ優勢のうちに、ドイツとイギリスの痛み分けで戦争が終わる可能性は。
しかし以上のような論拠から、イギリスがドイツに敗北して戦争が終わることは、それこそ万に一つの可能性としてしか考えられない。
また、アメリカは参戦こそしていないものの、既に反独親英の旗幟を鮮明にしている。そのアメリカがイギリス側に立って参戦すれば、第一次世界大戦の時と同じく、ドイツの敗北で戦争は終わることになる。いかにドイツ軍が精強とはいえ、アメリカの巨大な国力にかなうはずがない。つまり、イギリスの逆転勝利である。
そして現実に、ドイツはバトル・オブ・ブリテンに勝利できなかった。イギリス空軍は、ドイツ空軍の攻撃をしのぎきったのである。どだい、戦闘機戦力はほぼ五分なのだ。イギリスが負けるはずがない。
そして空軍対空軍の戦いに勝利できない以上、ドイツのイギリス本土上陸作戦も不可能だった。
したがってイギリスが敗北する可能性も、少なくともドイツの直接侵攻によるものは、この時点で消滅したと言える。
そして実は、ドイツがイギリス本土攻略に成功したとしても、まだ戦争は終わらなかった。
その場合には、イギリスは海軍を海外植民地へ脱出させ、戦争を継続するつもりだったからだ。アメリカの支援を受けつつ。
もっとも、このことは当時秘密にされていたのだが。
ちなみにイギリスは、フランスが降伏した後、フランス海軍の艦艇をイギリス側に回航させるよう要求している。そしてそれを拒否された後、イギリスは容赦なく、フランスの艦艇を撃沈した。
なんとしても海上戦力の優位を保たなければならないからであり、そのためにはフランス海軍をドイツの戦力に加えさせるわけにはいかなかったからである。
昨日の同盟国であっても容赦しない、きわめて合理的な戦略だ。
また、イギリスという国がいかに戦略的な判断力・決断力に優れているかを示す事例のひとつと思う。伝統的にアングロサクソンはそうした能力に秀でている。ところが日本人は、どうもそのあたりが民族的に弱い。
そのバトル・オブ・ブリテンの話はさておき。
日独伊三国同盟が締結されるとき、とにかくヨーロッパでは、既に第二次世界大戦が開始されていたわけである。
ドイツは破竹の進撃を続け、イタリアは既にドイツの同盟国として参戦し、フランスはドイツに降伏。
ソ連は、後にドイツと死闘を繰り広げることになるのだが、1940年時点では親ドイツの立場。
イギリスは、そのときは単独でドイツとの戦争を継続中。
アメリカは、まだ参戦していないものの反独の方針を明確にし、イギリスに対する支援と戦争準備を進めている。
1940年の時点では、欧米諸国は、以上のような関係だった。
それでは、極東の日本にとっては?
まず、以上の戦いはヨーロッパでのことであり、それが極東に飛び火することはあり得ない。故に、日本が無理矢理戦争に巻き込まれることもない。
また、泥沼の日中戦争に疲弊し、そして中華民国をイギリス・アメリカが支援していたとはいえ、直接にはイギリスともアメリカとも戦争状態にはない。
そして、自然な考え方をするならば、である。
アメリカは日本よりはるかに強大な大国である。日本海軍の研究でも、アメリカとの戦争には敗北するという結果が出ている。
そればかりでなく、日本が生きていくために必要な物資は、アメリカから輸入している。アメリカとの関係が冷却化しその物資を止められてしまったら、それは日本にとって致命的な結果となる。
しかるに、ドイツとアメリカは今や実質的には敵同士であり、ドイツとの同盟はすなわち、アメリカを敵に回すことを意味する。
そもそもナチス・ドイツは、日本との防共協定を突然に破って、ソ連と不可侵条約を結ぶような国である。信用できない。
したがって、日本はドイツと同盟することは出来ない。日本がとるべき道は、傍観もしくは親英親米路線である。
と、以上のようになる。
ところが、日本陸軍、近衛文麿(日独伊三国同盟締結時の首相。第二次近衛内閣)、松岡洋右(同、外相)は、そのようには考えなかった。
1:フランス・オランダが既に敗北している以上、その二カ国が東南アジアに有している植民地に日本が進出できる可能性があり、そうすれば日本にとって必要な物資を入手できる。しかしそのためには、ドイツに接近している必要がある。
2:ドイツはイギリス本土への上陸を計画しており、イギリスの敗北も間近であるはずだ。
3:日本が勢力を伸ばしていくことにより、アメリカとの戦争に突入してしまうおそれがある。しかしこれは、ドイツとの同盟で回避できる。日本とドイツと同時に戦争しなければならないとなれば、アメリカは算盤をはじいて参戦を思いとどまるだろう。
4:日独伊三国同盟にソ連を加えて四国同盟とすれば、アメリカに対する日本の対場は、更に強固なものになる。(ドイツとソ連は当時友邦であり、ドイツも一度は四国同盟を本気で考えたらしい)。
5:日本の立場の強化は、日支事変解決にも役立つ。
と、だいたい以上のようなものである。
要は、危険が伴うことは承知していたが、それ以上の利益が見込まれた。あるいは、目がくらんだということだろう。
ちなみに陸軍は、第二次近衛内閣の前の米内内閣を、倒閣工作により倒している。ドイツとの同盟に反対していたからであり、これも陸軍が行った政治介入のひとつである。
昭和天皇も反対されていたのだが、いつもの通り、そのご意志は国策に反映されなかった。
そして、1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国同盟が締結される。
これにより、日本とアメリカとの対立は、決定的なものとなった。
そして日本の目論見は、もろくも崩れ去っていく。
ひとつは、アメリカの対日姿勢である。
そもそもアメリカは脅されて引くような国ではない。また、「算盤をはじいて戦争を思いとどまる」ような計算高い、あるいは老練な国でもない。
だからアメリカは、ドイツと同盟して反米路線を確定した日本に対し、さっそく強硬姿勢で応じた。
鉄鋼とくず鉄の禁輸である。
それが実施されたのは1940年9月26日、三国同盟締結の前日である。
危惧されていたことが早くも現実になったわけである。ドイツとの同盟はアメリカとの対立となり、アメリカとの対立は日本の物資調達の大きな障害になるという、予想されていた事態が。
また、期待していたドイツ軍のイギリス上陸も、なかなか実行されない。
実際には、ドイツは既にそれを中止しており、あくまで宣伝工作のひとつとして「上陸するぞ」と言っているだけだった。なのだが、日本はそれを察知できなかった。(さすがに後で気がつくのだが、ドイツの潜水艦戦によりイギリスが屈服する可能性があると、それでも負け惜しみ的に言い続けた)。
それどころか、四国同盟に加えるはずのソ連を攻撃することを、ドイツは既に決定していた。
この情報は、ドイツがその決意を固めた直後の1940年12月(三国同盟締結の三ヶ月後)から世界に流れ始め、言うなれば公然の秘密という状態になっていた。
にもかかわらず日本は本気にせず、1941年(昭和16年)4月13日に、ドイツ訪問後の松岡洋右が、帰路のモスクワで、日ソ中立条約を結んでしまう。
そしてドイツは同1941年6月22日にソ連攻撃を開始し、それに日本は驚愕する。さすがにその直前には気がつき、寝耳に水というわけではなかったものの。
つまり、ドイツがイギリスを打倒するという当てもはずれ、また四国同盟という構想もご破算となってしまったわけである。
そして日本では、ドイツのソ連攻撃に呼応し、日本もソ連を攻撃しようという案が浮上する。いわゆる北進論である。
なのだが、それに方針を決定することは出来ず、結局、南進と北進の両方に備えることが決められる。(後に「ドイツが短期にソ連を打倒することはなく、またその後も必ずしも戦況は有利にならない」と判断され、ソ連攻撃は最終的に放棄される)。
ちなみに松岡洋右は「ウラジオストックがドイツ領になってしまったら、ソ連領でいるより日本にとって危険だ」と発言し、ソ連攻撃を主張している。少なくとも彼は、ナチス・ドイツを信頼できる盟友とは思っていなかったし、これはソ連についても同様だった。
そして、以前に「南進論」として決められていたことを実行するということで、南印(南ベトナム。当時フランス領)への日本軍の進駐が実施される。これが、1941年7月末のこと。
そしてアメリカは、この時ついに日本との対決を決定する。
日本に対する石油の禁輸である。