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1:対米戦までの道のり

7:南印進駐と石油の禁輸

 日本がアメリカとの戦争を決意したのは、直接的には、アメリカが日本に対して行った石油の禁輸が原因である。
 では、なぜアメリカはそれを行ったのか?
 また、その後に日本はどのように対米戦を決意していったのか?
 ここでは、それを見てみたい。



7−1:当時の石油

 まず、当時においても現在と同様に、石油は近代国家が生きていくためには不可欠の重要な物資だった。軍事作戦だけでなく、経済活動にも。

 ただし現在とは異なり、当時のアメリカは石油の輸出国だった。
 そして日本は、そのアメリカから石油を輸入していた。この一点からしても、日本はアメリカと対立する道を選択するべきではなかったのだ。

 そして、日本の南印進駐への対抗措置として、アメリカは日本への石油禁輸を実施し、諸国もそれにならった。
 それ以前にも日本に対して経済的な圧迫は加えられていたが、これで日本には一滴の石油も入ってこないことになり、その立場は非常に苦しいものになってしまった。





7−2:南進論と南印進駐

 それでは、日本は何故、1941年(昭和16年)7月末の南印(当時フランス領の南ベトナム)進駐を行ったのか?

 以前から、日本には南方に進出しようという構想があった。
 もともとは日本海軍が構想したもので、そのために海南島占領が実施されている(1939年・昭和14年2月。南進のための基地としようという考えだったが、名目は蒋介石政権との戦いのため)。
 ただしそれは、他の列強、特にアメリカと戦争してでも、といった激しいものではなかった。そしてこの時点では、海軍の構想にとどまっていた。
(筆者が想像するに、海軍は、単に陸軍への対抗意識だけから、実際にはやるつもりのない構想を掲げて見せたのではないか?)

 だったのだが、ヨーロッパでの第二次世界大戦の開始・ドイツの大勝利とともに状況が変わる。
 当時の東南アジアは、イギリス・オランダ・フランスの植民地となっていた。そして、オランダ・フランスは既にドイツに敗北、イギリスがドイツに敗れるのも間近か?という状況となったのである。
 日本にしてみれば絶好のチャンス!であり、いわゆる「バスに乗り遅れるな」である。(ただし昭和天皇は、このような人の弱みにつけ込むやり方は嫌っておられた)。
 そして日独伊三国同盟が結ばれた1940年(昭和15年)9月に、日本はさっそく北印(北ベトナム、当時フランス領)への進駐を行っている(時間的には同盟締結の前。日本自らがフランス側と交渉して。いわゆる援蒋ルートを遮断しようと)。

 とはいえ、さしあたって日本は、それ以上南進はしなかった。それがアメリカとの激突につながる可能性があったからだ。逆に言えば、「アメリカと衝突しないように南進する」という考えだった訳である。



 そして1941年(昭和16年)になって、今度は南印への進駐が計画される。
 それは、ひとつには物資調達に支障が出てきたからである。オランダ領のインドシナからも、フランス領のベトナムからも。
 そしてもうひとつは、タイ(当時の東南アジアで唯一の独立国)と仏印(フランス領・ベトナム)に対する影響力を保持するためだった。

 なのだが、そのどちらにも差し迫った緊急性も必要性もなかった。
 だから独ソ戦が始まって北進論が考えられたときに(1941年6月。南印進駐の実行は同7月)、「やめてはどうか」とか「6ヶ月延期してはどうか」という意見が出ている。
 にもかかわらず、「既に決められたことだから」と実行されてしまうのだが。





7−3:イギリス・アメリカの反応

 しかしイギリスは、日本の南印進駐を非常な脅威と受け取った。
 もともとイギリスから見れば、三国同盟の締結以来、日本は敵性国家である。現在イギリスと戦争中のドイツと同盟を結んでいるのだから。そしてドイツは、日本に対し、イギリス領のシンガポール攻撃を要求し続け、これはイギリスも察知していた。
 しかし、日本が南印に進むまでは、イギリスにとって日本の脅威は大きなものではなかった。東南アジアのイギリス最大の根拠地、シンガポールを、日本は攻撃できないからである。

 しかし、それは日本の南印進駐で一変する。

 お手元に世界地図があれば、ちょっと参照していただきたい。南ベトナムの更に南に何がある?海を挟んで、当時はイギリス領であったマレー半島とシンガポールである。つまり日本は、南印へ軍を進めることにより、いつでもマレー・シンガポールを攻撃できる状況となったのだ。
(また、日本が蘭印・オランダ領インドネシアを攻撃する可能性も考えられていた)。

 これは、イギリスおよび、その友好国であるアメリカにとって、看過できる事態ではなかった。
 それ故に、ここで石油の禁輸という最終的な対抗措置が実施されることになる。

 それ以前にも、日中戦争を遂行する過程、および南方への武力進出の過程で、日本とアメリカの摩擦は深まっていった。そして、この段階でも日本への石油禁輸は検討された。が、その時は実施されなかった。なぜなら、それが日本を対米戦争に駆り立ててしまう危険があったからだ。
 逆に言えば、日本と戦争するリスクを冒してでも、日本の南印進駐には対抗しなければならない。そのようにアメリカは判断したわけである。



 しかし日本側は、そのようなイギリス・アメリカの反応は予想していなかった。
 もちろん、石油の禁輸という対応も。
 予想していたら、日本は南印進駐など行っていたはずがない。

 もともと日本は、アメリカ相手の戦争を始める意志はなかった。
 日本海軍の仮想敵はアメリカ海軍であり、また石原莞爾も『世界最終戦論』でアメリカとの戦争を予言しているが、どちらも想定にすぎず、実際に戦端を開こうというものではなかった。
 それが変わるのは、石油の禁輸以後である。
 そしてその事態をもたらしたのは、南印への進駐であり、日独伊三国同盟である。
 つまり他ならぬ日本自身が戦略的に誤った決定を下し、自らに災いをもたらしていったのだ。

 また実際のところ、日本にはシンガポールや蘭印(オランダ領インドネシア)を攻撃する意志などなかった。
 なのだが、イギリス・アメリカにとって、そんなことはどうでも良いことである。というのも、攻撃する意志があるか無いかなど、そもそも確認しようがあるまい。
 日本は既に敵性国家であり、その敵性国家が攻撃しようと思えば攻撃できる位置に進出してきた。だから、対抗措置を執った。そういうことなのである。
 日本はこの点、あまりに読みが浅かった。





7−4:日本の戦争決意

 以上のようにして石油の禁輸が行われた後、日本はアメリカとの戦争を決定していく。

 日本が生きていくためには、どうしても石油を獲得する必要がある。しかしそのためには、アメリカの要求を受け入れるか、あるいは戦争か、ふたつにひとつしかない。
 しかし日本には、アメリカの要求をのむ気はさらさら無かった。とりあえず南印から撤兵して交渉の糸口を作ってみようとか、たったそれだけの意志さえ。
 となれば、残る道はたったひとつ。
 戦争である。
 もっとも、その前に日米交渉を行い、平和理に日本の要求をアメリカに受諾させようと試みてはいるのだが。

 しかし、対米戦を決定していく過程においても、軍部の影響は大きかった。



 まず日本陸軍は、この石油禁輸が行われた1941年(昭和16年)8月に、早々と対米戦の決意を固め、その方向へ日本帝国を進ませようとする。
 ただしその時点では、海軍の方は対米戦には反対だった。アメリカとの戦争には確実に敗北するという予想があったからである。もっとも、最終的な決心は保留したまま、それでも戦争準備は進めていくのだが。
 これは政府(第三次近衛内閣)も同様で、こちらも対米戦争の決意は出来なかった。



 そして、これらの妥協によってできあがったのが、1941年(昭和16年)9月6日の御前会議での、「交渉による解決の見込みがない場合には、戦争に踏み切る」旨の決定である。

 つまり、戦争という文言が盛り込まれているが、しかし期限は決定されていない。しかも「見込みがない場合」であるから、可能性があるのかないのか、後にまた議論する必要がある。つまり、これでは実際に戦争を開始する決定とは言えない。

 このあたり、いかにも「合意で動く日本帝国」らしい。根本的な意思統一を行うことなく、上辺の文言だけを調整して決定したふりをしているのだから。
 また、それは「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」の、平和を望むという昭和天皇の意思表示があったにもかかわらず、決定されたものである。天皇主権の実態がどのようなものであったか、よく表している事例でもある。



 その後、9月25日の大本営政府連絡会議で、陸軍と海軍は以下のような要望を、口頭で政府に伝えた。

 作戦の都合上から軍事行動の開始は遅くとも11月15日であることが必要、そのためには10月15日から戦争準備を開始しなければならない、だから日米交渉の正否を早急に判定してほしい。
 と、そういったものを。

 しかるにその9月の時点では、日米交渉はうまくいかず、日米首脳会談を構想したものの実現の目途すら立っていない(後の10月2日に中止と決まる)。そのような状況の9月末の「10月半ばまでに決定してほしい」という要望は、「さっさと対米戦を決めろ」という意味にしかとれないだろう。
(この点、海軍の意図が分からない。陸軍と違い、この時点で海軍は、まだ対米戦を決意していないはず。というのは、10月12日に「海軍は交渉継続を希望するが、表だって言えないので、首相一任とする」旨を近衛文麿に伝えているからなのだが)。

 そして海軍と異なり陸軍(陸相・東条英機)は、対米戦の決意を下すよう、近衛文麿に圧力をかける。

 しかし近衛文麿にその決断は出来ず、しかし陸軍を説得することもかなわず、ルーズベルトとの首脳会談に最後の望みを託したもののこれにも失敗。
 結局、その陸軍の頑固さをこぼしつつ、第三次近衛内閣は、全てを放り出すように総辞職してしまう(10月16日)。



 その後継として、東条内閣が成立する(10月18日)。

 陸軍は既に対米戦を決めており、だからその陸軍から首相を選ぶことには、反対の声が多かった。そもそも東条英機は、第三次近衛内閣では陸相をつとめ、対米戦の決意を下すよう近衛文麿に迫ったその人である。
 なのだが、「陸軍を押さえられる人物」ということで、内大臣・木戸幸一が、そのように天皇に内奏してしまう。その木戸幸一の判断自体は、間違いではなかったのだが。

 しかし東条英機は、すぐさま対米戦を決定することはしなかった。
 昭和天皇が、「アメリカとの戦争を再検討するように」と発言されたためである。平和を念願しておられた昭和天皇だが、明治憲法の規定上、「対米戦を中止せよ」とは命令できない。
 そして東条英機は、天皇の臣下である日本帝国の首相として、その職務を生真面目に果たした。再検討を行っても、結局、結論は変わらなかった訳なのだが。



 その後も激論が交わされ、そして11月5日、また御前会議が開かれる。

 ここでついに、「12月1日午前零時までアメリカとの交渉を試みる。それまでに交渉がまとまらない場合、外交は打ち切り戦争を開始する」という旨が決定された。
 事実上、戦争に直結する決定である。

 この時には、陸軍はもちろん戦争に賛成。政府は、陸軍軍人の東条英機が首相。そして海軍も、今では「戦機は今!」と意志を変えてしまっていた。
 つまり、「合意で動く日本帝国」に、合意が出来てしまったわけである。これにより、初めて日本の進む道は決定された。



 しかしそれでも、日本はその後に最後の交渉を試みた。
 しかし、11月26日にハル・ノートを突きつけられ、これも結局不成功に終わる。

 そして12月1日が訪れ、「11月5日の決定に従って」、開戦が決定される。
 12月8日の真珠湾攻撃、およびマレー半島への攻撃である。



 以上が、日本が対米戦を決定する経緯である。

 ところで、あまりに当然のことだが、日米交渉が成功していれば戦争は回避できた。これも間違いのない事実だろう。
 では、日米交渉はどのように進められたのか? どうして失敗したのか? 日米交渉を終わらせたハル・ノートとは何だったのか?
 これが、次のテーマである。




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