ここでは、満洲事変に至までの事情を、特に第一次世界大戦頃の中華民国側、及びその後のワシントン体制に注目して、レポートする。
<7−5−1:第一次世界大戦という契機>
ここで詳しくは説明しないが、1840年のアヘン戦争で敗北して後、清帝国は、列強の半植民地状態に陥ってしまう。
特に1894年、日清戦争に敗北して以来、それは顕著なものになる。弱小国である日本に敗北したことが、清帝国の弱体ぶりをさらけ出してしまったからであり、この時「眠れる獅子が眠れる豚になった」とまで評された。
(註:日本が列強の仲間入りを果たすのは、1905年、日露戦争に勝利してから。日清戦争当時は、まだ弱小国)。
そして太平天国の乱・義和団の乱といった国内の動乱を経て、1912年に清帝国は滅亡。中華民国(袁世凱政権)が成立する。1911年の辛亥革命の結果である。
が、清が結んだ不平等条約などは、当然のこととして、その後を継いだ中華民国に引き継がれる。
この時点では、それは何の変更もない。そして、変わる兆しさえなかった。
列強は、この時点では、対中政策を変えようとはしていない。また中華民国自身も、一丸となって列強に当たるどころか、その後、長きにわたる内戦を始める始末であり、それでは外侮りを受けるのも仕方有るまい。
なのだが、その後、中華民国の地位を変える事態が訪れる。
第一次世界大戦である。
そのために列強は、中国経営に没頭する余裕を失った。これにより中華民国には、中華民国独自の資本が育つ余裕が生まれた。
さらにこれが、新しい政治勢力を台頭させることになる。すなわち、国家のために、自ら能動的に行動する意志のある大衆が、登場するのである。
そしてもうひとつ、外交関係がある。
つまり中華民国は、第一次世界大戦に、連合国側に立って参戦した。したがって、終戦後のパリ講和会議に「戦勝国として」出席し発言できた。これは清末以来初めての、画期的なことだった。
なのだがしかし、そこに日本帝国が立ちはだかる。
<7−5−2:対華二十一ヶ条要求>
ここで注目したいのは、「その時、中華民国の大衆が立ち上がった」という点である。日本帝国が、対華二十一ヶ条要求という、中華民国にとって屈辱的な要求を突きつけた時に。
1915年1月18日、時の第二次大隈内閣は、中華民国(当時、袁世凱政権)に対し、対華二十一ヶ条要求を突きつける。
その内容は、政治的経済的特権を日本に与えることであり、中華民国の半植民地状態を継続させる要求に他ならない。なお、先にも述べたが、関東州(旅順と大連)と満鉄の租借期間を99年に延長することが、ここに含まれている。当初、関東州は1923年に返還、満鉄は1939年以降は「中国からの買収に応じなければならない」という、取り決めになっていた。
当時は第一次世界大戦(1914〜18)の最中であり、したがって欧米列強が中国に手出しする余裕がないことを見込んでの、火事場泥棒的やり方と言える。
これは、中華民国の朝野に大反発を引き起こした。
袁世凱も、何とか抵抗しようとした。しかし、1915年5月7日、日本帝国は最後通牒を発する。結局、袁世凱は、日本の要求の多くを受け入れざるを得なかった。これが1915年5月9日のことであり、同月25日に調印された。
しかし、中華民国の民衆は、それを黙過しなかった。その5月9日を国恥記念日とし、更にその民族主義的気運を高めていく。
なお、それは本来、日本だけを標的とするものではなかった。例えば、事実としてイギリスに対する抵抗運動も起きている。当たり前の話で、これはそもそも、列強全体に対する抵抗である。
ここは繰り返すが、当時の中華民国には、「現状の半植民地状態を脱却したい」という民族主義的気運が高まっていた。だから、半植民地状態を継続させようと言う二十一ヶ条要求が、大きな反感を買うことになってしまった。そういう機運が醸成されていない頃だったら、そうはならなかったのに。
つまるところは、「時代が変わってしまった」。そういうことである。
この二十一ヶ条要求は、少なくとも結果的には、中国の反日感情を激昂させ、しかし得たものは少ない、全くの愚かな行為だったと言える。
<7−5−3:「5・4運動」と「5・30運動」>
以上のような経緯で、中華民国内のナショナリズムは高まっていく。しかもそれは、トップに立つエリートだけではなく、国民全体としてのものだった。
その嚆矢として、まず「5・4運動」が起きる。
第一次世界大戦後の1919年1月、パリ講和会議では、日本の二十一ヶ条要求を追認した。これに憤激した中華民国の大衆が、5月4日、北京の学生デモを皮切りに、全国的な抗議行動を起こしたものである。(ちなみに同年3月1日、朝鮮では、日本からの独立を主張する「3・1運動」が起きている。日韓併合は1910年)。
中華民国当局はこの運動を弾圧しようとしたが、しかし運動の勢いには抗することができず、親日派の政府高官を解任する。そしてパリ講和条約では、中華民国の要求が入れられないことを理由に、調印を拒否する。
そしてこれが、5・4運動の唯一の成果となる。つまり、この段階では、何一つ実質的な成果は得られなかった。
次に、「5・30運動」である。こちらは、少々ややこしい。
まず、1925年5月半ばに、上海にある日本の工場で、労働争議など事件が起きる。しかしこれは、日本に対してのみならず、全体的な反帝国主義運動となっていく。そして1925年5月30日、その運動に携わっていた学生が、上海の租界内でイギリス警察に逮捕される。そしてそれに憤慨した大衆に対し、イギリスが発砲。死傷者を出す事態となり、これで一気に事件が拡大。
と、そういう発端となっている。ただし、これはまだ始まりでしかなかった。そして今回は、日本に対してではなく、イギリスに対する抵抗運動だった。
6月19日になり、今度はイギリスの根拠地である香港で、大規模なストライキが起きる。更に広州(イギリス租界がある)でもストライキが発生し、これに対してイギリスは発砲、また死傷者が出る事態となる。(香港も広州も広東省にある。遠隔地ではない)。
(なお、当時の広州には、「広州国民政府」が存在しており、孫文時代の国民党と共産党が合作していた。その広州国民政府が、その反帝運動を支援していた)。
このストライキは、1926年10月10日まで続いた。ただし今回も、実質的な成果を上げることは出来ていない。
なのだがしかし、明らかに中華民国国民は変わりつつあったと言えるだろう。もはや前近代的な被支配民ではない。はっきりした政治意識を持つ、近代国家の国民へと変わりつつあったのである。
だから、もちろん後の満洲事変・日中戦争においても、中国の民衆はそれに抗議の声を上げ、日本との妥協を模索する中華民国政府の弱腰を厳しく批判し、暴力を含む抵抗運動を起こした。(これは後述)。
<7−5−4:中国共産党>
本論では、あまりこれには触れない。これまた非常に面倒なテーマであり、深入りしていたら本題の満洲帝国が書けなくなる。
なのだがとにかく、中国で共産党が結成されるのは、上記の二つの事件の間、1921年のことである。
そして5・30運動では、中国共産党も、指導的役割を果たした。本論では触れないが、共産党の行ったことも、小さいものではなかった。また、それはナショナリズムの高揚と無縁ではなかった。
一応注記しておきたいが、共産党が先頭に立って中華民国国民を列強への武力闘争へと駆り立てていったというわけではない。共産党の行動とはまた別に、近代国家へと生まれ変わりつつあった中華民国国民が、それに目覚めていったのである。中国共産党が行ったことは、言うなればその炎に油を注いだと言うことである。
また、満洲事変の頃は、張学良が共産主義を弾圧していたこともあり、満洲のその勢力は大きなものではなかった。
日本と中国共産党との戦いと言うことなら、である。まず、日本が満洲事変を起こし、北支にも手を伸ばそうとする過程で、中華民国内の反日感情は極度に大きいものになる。中国共産党はそれを扇動し、国民党と日本軍を戦わせ、その漁夫の利を得た。と、そういうところである。
<7−5−5:ワシントン会議>
それでは次に、国際関係の話となる。つまりワシントン体制についてであり、当時の歴史を理解するためには、どうしても、これは落とすわけにはいかない。
ワシントン会議は、1921年11月〜翌22年2月まで、開かれた。ここでは、次の三つの条約が調印された。
○ワシントン条約(海軍軍備軍縮に関する条約)
○四カ国条約(太平洋地域における領土保全。本条約発効と同時に日英同盟解消)
○九カ国条約
うち、三番目の九カ国条約が、中国に深い関係がある。
この九カ国条約では、<中国の領土保全と主権尊重>および、<中国の門戸開放と機会均等>が約された。
とりあえず説明の必要があるのは、<中国の門戸開放と機会均等>かと思う。アメリカが求めたものであり、中国国内における自由交易を求めたものである。アメリカの政策には、この自由交易という思想が色濃く反映されている。ただしこれは、各国がそれまで中国に有していた既得権益まで否定するものではない。
そして、日本もこの九カ国条約に調印した以上は当然、それを遵守する義務があった。なのだがしかし、後の満洲事変〜日中戦争で、日本はこれを破っていく。
それは、短期的には日本に実利をもたらすことにはなったが、同時に国際的な信用を失わせた。そのため日本は、最終的には外交自体が不可能となっていく……
更にワシントン会議では、九カ国条約に関連し、中国の関税自主権や治外法権の撤廃や租界の解消も議題となった。
まず関税自主権だが、清末以来、中華民国はそれを失っていた。これは、非常に大きな経済的な痛手となる。直接的な税収を失うだけではない。これにより、<高い関税をかけるて安価な外国製品の国内流入を防ぎ、国内産業を育成する>ということが不可能となる。
ただし、種々の理由から、この時点では、ある程度関税を引き上げるという線にとどまった。関税自主権を取り戻すまでには至らなかったのである。
また、治外法権や租界の解消も、「原則として認める」程度にとどまっている。
もっとも、それも無理からぬ事かと思う。
なにしろ蒋介石が北伐を完成し、曲がりなりにも全国統一を成し遂げるのは、1928年になってからである。しかもその後、あろう事か国民党内部で、内戦を始めることとなってしまう。
とにかくワシントン会議の1921年時点では、中華民国は各地に軍閥が割拠する状態で、まだ統一されていない。そもそもワシントン会議にも、北京政府と広州国民政府が協調して代表者を出しているくらいである。
(ちなみに関税自主権については、28年になってまずアメリカとの交渉に成功。以後、各国との話し合いもつき、中華民国はそれを取り戻す)。
以上。とにかく、第一次世界大戦を契機として、中華民国の地位は高まった。
ただし、この時点では、まだ完全な近代国家、そして独立国となったわけではない。なにより中国国内の混乱が、まだまだ続いていた。
<7−5−6:不戦条約>
これも余談的な話だが、1928年に、不戦条約が結ばれる。国家間の紛争解決としての武力行使を、禁止する内容である。(ただし、当時は『パリ条約』と呼ばれていた)。
ただし、実質的には何の意味もなかった。
ひとつには、この条約は自衛戦争の権利まで放棄させるものではなく、したがって自衛と称して戦争を仕掛けることが、可能だったからである。
そしてもうひとつ。この条約を破った国に対する罰則規定もなかった。
ちなみに、これには日本も調印していた。そしてもちろん、調印した以上は遵守する義務が生じる。
にもかかわらず、日本は満洲事変を起こす。……自衛と称して。
そしてそれは、国際連盟規約違反・九カ国条約違反、そして不戦条約違反と、非難された。
ただし、ただ非難されただけで、その時点では、何の実効ある制裁措置も、執られなかった。
<7−5−7:幣原外交>
幣原喜重郎(1872〜1951)は、当時の外交官である。終戦直後の困難な時期に首相を務めたこともある。戦後は、政治家。
その幣原喜重郎は、1924年から1931年まで、田中義一内閣の期間(1927〜29)を除き、外相を務めた。
先に述べたとおり、ワシントン会議(九カ国条約)が、1921年である。これにより、中国を巡る新しい国際的枠組みが造られた(「ワシントン体制」)。
幣原喜重郎は、それに基づいて、国際協調的な外交を行った。いや、それはもちろん、調印した以上はその条約を遵守するのが義務である。
これは「幣原外交」と呼ばれ、海外から高い評価を得た。
この幣原外交だが、あくまで交渉による解決を、旨としていた。それは、「譲歩できるところは譲歩する」という事でもある。
そして、この方針は正しい。先に説明したとおり、今や中国の民衆自体が、変わっていたのである。民衆全体の意志としての抵抗運動とあっては、それに抗することは不可能。ならば「譲歩できるところは譲歩する」で行くしかない。いわゆるひとつの「損して得取れ」である。
ただし、幣原外交は同時に、「既得権益は何があっても守り抜く」という方針も堅持していた。この点、有名な作家の中にも誤解している人はいるので、どうかご注意いただきたい。だから、幣原外交を単に軟弱外交と評するのは、誤りである。そして既得権益を守ること自体は、公明正大な権利である。
なお、ここも誤解している人が少なくないのだが、この幣原外交は、田中義一内閣時代も引き継がれていた。
田中義一は山東省に出兵したことはあるのだが、しかしこれは、あくまで居留民保護のためである。それ以上の政治的目的があったわけではない。
しかし、結局のところ幣原外交は、日本国内からは「軟弱外交」と批判され、満洲事変の勃発と日本陸軍の暴走により、1931年に終焉を迎える。
後、日本は満洲事変〜日中戦争と、武力を行使し続ける。それも、自衛の範疇を逸脱した、不当な。
なのだがしかし、少なくとも日本帝国という国としては、当初からそういう意志だったわけではない。
いわゆる左派の方の中には、「日本は当初から計画的に侵略を意図していた」かのようにおっしゃる方もいるようだが、これは事実と相違する。いや、侵略は侵略だが、なし崩し的にそれは拡大されていったのである。
なお、この幣原外交は、当時のイギリス外交と似ている。イギリスは、中国の租借地の幾つかは手放したが、しかし上海租界や香港は断固として保持しようとしていた。
<7−7−8:過熱した国権回復運動>
以上、第一次世界大戦という契機を経て、中華民国において半植民地状態状態を脱しようと言う、民族主義的気運が高まっていく。 それは、自国を愛する人間なら国籍を問わず誰でも有するであろう、自然な情だと思う。
ただし問題は、それが過激なところまで走ってしまったというところにある。法と秩序を遵守して外国と協調的に、ではなく。特にそれは、排日運動の激化となって現れた。
そうなってしまったには幾つもの要因があり、また日本自身に非がないわけではないのだが……。
とにかく、当時の日本は満洲に利権を有していた。そして満州事変当時でも20万人の日本人が満洲にいた。となれば、「出て行け」と言われても、「はい分かりました」と言えるわけがない。なにしろ、現実の金と生活がかかっているのである。
そして日本は、ワシントン体制のもと、それを外交的に解決しようとしていた。軟弱外交と国内からは批判された、幣原外交である。これは、覇道ではなく王道をいこうとするものだったと言える。
しかし結局、関東軍(遼東半島先端の「関東州」や「満鉄・付属地」に駐屯していた日本陸軍)は、武力による解決を決意する。満洲事変である。
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