7:基礎からの満洲帝国

7−6:満洲事変前夜・関東軍の意志

 周知の事実だが、満洲事変は関東軍の暴走から始められた。
 では、関東軍は何を意図していたのか?また、当時の日本政府の意図は、どのようなものだったのか?



<7−6−1:最初に結論から>
 現在でも「満洲事変は日本の自衛だった」と主張する人はいる。失礼ながらそれ、自衛戦争という言葉の意味すら理解していない人々の戯言でしかないのだが。
 ここは結論からいくが、関東軍は自衛のために満洲事変を起こしたのではない。また、日本政府がそれを追認していくのも、同じくそれが自衛であったからではない。

 それは、あくまで日本の勢力拡大が目的だった。

 しかもそれは、国際連盟規約や不戦条約や九カ国条約に違反する、違法な軍事行動によって実行された。(念のため、それらの条約には日本も調印している)。だからそれが「自衛か?侵略か?」と問われれば、侵略だったという他ない。
 それを「自衛だった」とか「日本は正当だった」とか言うのは、事実を歪曲する虚偽である。



<7−6−2:日本の満洲経営の実態>
 その論拠として、まず日本の満洲経営の実態をみてみたい。

 そもそもの話、日本が本格的に満洲に乗り出すのは、日露戦争に勝利した後である。それにより南満洲を日本の勢力下とすることができたからだ。
 なのだが実は、その<勢力下>という表現は、必ずしも実態に即したものではない。日本が南満洲に大きな影響を持つようになったのは確かだが、しかし満洲経営自体には成功していなかったからである。

 では、それは現実にはどのようなものであったのか?

 まず、日本は南満洲の全域を支配下としたわけでは、決してない。
 日本は、関東州(遼東半島の先端にある旅順と大連)ならびに満鉄(およびその付属地)だけを、しかも領有ではなく清帝国(後に中華民国)から一定期間租借する権利を、帝政ロシアから譲り受けただけである。
 ただし、南満州に対する大きな影響力を、日本はそのほかに持っていた。例えば、日本は南満洲各地に領事館警察を置き、それにより満洲で活動する日本人を保護しようとした。この点、支配下ではないとしても、影響下には確かに置いていたわけである。(ただしこの領事館警察は、中華民国との条約違反ではあった。そして関東州と満鉄付属地以外で活動する日本人は少なく、しかもそれはしばしばアヘン売買など犯罪的活動に従事するもので、この点からすると日本政府は犯罪に荷担していたことになる)。

 そして日露戦争の勝利後、多くの日本人が満洲に渡っていったのだが……
 しかし実はそれ、ほとんど日本の支配下である関東州と満鉄付属地に限られていた。しかもそこで、日本人同士で完結する閉鎖的な狭い社会を作って、暮らしていた。現地の中国人社会とは隔絶した状態で、日本本土とほぼ同様の生活を送っていた。
 精力的に中国人社会に飛び込んでいこうとしていた日本人は、ほとんどいなかったのである。ただし皆無ではなく、少数ながら、いたことはいたのだが。
 つまり当時の日本人は、野心的に南満洲全域へ進出をしようとしていたわけではない。いうなれば、その非常に狭い一角に「ミニ日本」を作り、そこに引きこもって暮らしていたのである。そうなった原因は、ここではさておくが、とにかく結果としてはそうなっていた。
(念のための注釈だが、国策移民として日本人が満洲各地に送り出されるのは、満洲国建国後、1937年以降である。それ以前、農民として満洲に入植した日本人は、いない。関東州などで農業を試みた日本人がいたことはいたが、それはごく少数、1929年時点で1500人程度である。誤植ではない。たったの千五百人である)。

 では、そのような状態で、日本人がどのような経済的成果を、満洲から得ることができただろうか?
 というと、実はほとんどないわけである。満鉄ならびにその付属地の撫順炭坑といった成功例を別とすれば。
 何しろ在満の日本人のほとんどは、閉鎖的な日本人社会内部だけで暮らしていたわけである。となれば、その商売も、もちろん日本人相手に限られ、儲けもたかがしれている。当時の満洲の総人口は三千万もいるのに、在満の日本人はたった24万でしかない。

 そして当時、松岡洋右が言い出した「満洲は日本の生命線」という言葉が流行していたわけだが。しかし以上のような実情と対比すれば、それ、ほとんど誇大妄想的な発言といえる。
 また、満洲をあたかも「希望の土地」であるかのように見ることも、当時の日本人には広がっていた。しかしこれも同じく、現実と乖離した空虚な夢でしかない。



<7−6−3:満洲事変前夜の状況(1)・中国側および日本政府>
 前節で述べたように、第一次世界大戦後あたりから、中華民国では国権回復運動が過熱化していった。
 そしてそれは、満洲にも波及し、例えば旅大回収運動が起きている。また、張学良が満鉄の平行線を建設したり、商租権に関する問題(日本人が満洲の土地を借りる場合の制限)など。

 では、そのような中国側の排日活動は、日本にとって重大な危機だったのか?

 というと、Noである。
 確かに問題は問題だが、しかしそれほどの重大な問題では、決してなかった。
 他でもない、当時の日本政府(若槻内閣)と昭和天皇が、そのように判断していたのである。お疑いなら、その点、調べてみていただきたい。

 その論拠は要するに、先述の<満鉄を除けば、日本の満洲経営は全く成功していない>という実情である。
 その実情故に、排日運動で日本帝国(または在満の日本人)が耐え難いダメージを受けることなど、そもそもありえなかったのだ。満鉄と関東州を別にすれば、日本にとって満洲は、手放すことが惜しい土地などではなかったのである。
 そして満鉄にも関東州にも、中国側からの直接的攻撃は加えられていない。当たり前の話で、そんなことしたら日本は自衛として正々堂々武力行使できる。そんな恐ろしいこと、中国側にできるわけがない。

 だから昭和天皇と若槻内閣は、満洲の問題を、断固として対決しようとはせず、音便に外交交渉によって解決するつもりでいた。そうできると思っていたわけであり、武力行使が必要などとは全く考えていなかったのである。
 これは、当時の状況を冷静に見た、きわめて妥当な判断と言えよう。

 にもかかわらず、日本国内では声高に満蒙の危機が叫ばれるようになっていく。実情と乖離した、イメージ先行の誇大な文言として。
 そしてそれは、深刻な不況下にあった当時の日本内部の閉塞感と相まって、大きなうねりとなっていく。
 軍の行動を後押しする国民世論として。また、そのお先棒を担ぐ新聞報道の数々として。

 なお、「当時の満洲では、日本人に対する迫害が行われていた。だから日本の満洲事変は正当だ(あるいは、不当ではあるが一理ある)」とおっしゃる方もいる。
 が、それは単なる思い違いである。
 当時在満の日本人は、先述のように、ほとんど関東州と満鉄付属地に集まって暮らしていた。そしてそこは、日本の力によって治安は保たれている。故に、日本人に対する迫害など、無理である。(それとは別に嫌がらせ的なことは行われていたが、その程度では武力行使の理由にはならない)。
 また、中国では後に、日本人および親日派と見なされる中国人に対するテロが、頻発するようになる。有名どころでは、汪兆明暗殺未遂がそれである。が、それも満洲事変後の北支工作以降、日本の侵略が激しくなっていった後のことである。満洲事変以前、そうした事件は起きていない。せいぜい中村震太郎大尉事件があるくらいだろうが、これは偶発的な犯罪と見なすべきことである。



<7−6−4:満洲事変前夜の状況(2)・石原莞爾と関東軍>
 周知のことだろうが、満洲事変は、関東軍の参謀である石原莞爾と板垣征四郎の主導で実行された。そして板垣征四郎は、石原莞爾から大きな影響を受けていた。

 では、石原莞爾はどのような意図・判断を持っていたのだろうか?

 石原莞爾の言動については、『満蒙問題解決私見』など色々なものが残されているので、今でも確認することができる。
 石原莞爾は、自衛のために満洲事変を起こそうなど、さらさら考えていなかった。
 石原莞爾が意図していたことは、日本の勢力拡大である。

 それは第一に、満蒙を日本領とすることによる日本の力の増大である。(一応注釈。関東軍と石原莞爾は、当初満蒙を日本領とするつもりで、満洲事変を開始した)。
 ただし石原莞爾は、それだけで充分とは判断していなかった。満蒙だけでは、日本の必要のすべてを満たすことはできないからである。だから彼は、満洲事変を実行する前の段階で既に、その上さらに万里の長城以南の中国要部、または南洋方面へ勢力を伸ばしていくことを、構想している。もちろんそれは、武力行使、あるいはそれを含む手段によってである。
 くどいようだがこれ、満洲事変実行前での構想である。その時点で、彼はそこまで考えていたのである。
 ただしその時点では、具体的な計画ではなく構想でしかないのだが。だがとにかく、これだけみても、彼の意図が自衛などではないこと、明らかだろう。

 そしてもう一点ふれておかなければならないのは、「国家改造」についてである。石原莞爾は、満洲での行動を日本の「国家改造」に波及させようと言う思惑も持っていた。
 では、この「国家改造」というのは、どういうことなのか?
 まあ、「国家改造」という考え自体は多くの人が抱いており、人によっては思想的な色彩も加わる。
 なのだが根本的には、「総力戦を戦うことができる体制作り」ということである。
 つまり、第一次世界大戦において、戦争のあり方は根本的に変化する。つまり軍隊同士の戦闘に限られず、国家同士がもてる力のすべてを振り絞って戦う総力戦ということである。
 なのだがしかし、日本帝国には、その総力戦を戦う体制が整えられていなかった。体制も何も、そもそも欧米並みの資金力・工業力がない以上、日本に総力戦を戦うことは不可能という判断だったのである。
 逆に言えば、「日本には、第一次世界大戦後の新しい戦争を戦う能力がない。だから日本は、欧米諸国とは戦争しない」というのが、第一次世界大戦後頃の日本帝国の方針だったわけだ。そして、<自国は弱いから強国との戦争は回避する>という判断は、きわめて合理的かつ自然である。
 けれどもそのような状況は、陸軍の軍人たちの看過できるところではなかった。つまりは、誰の言葉かは忘れたが「軍人にとって、国家の安全が脅かされていない日は、一日たりともない」ということである。そういうところから、国家改造という構想が出てくることになった。
 そしてこれは、いうなれば日本の内的な強化を意図するものといえるだろう。満洲事変には、そういう思惑もあったわけである。
(余談だが、結局のところ、総力戦を戦える体制が日本で整えられることは、なかった。にもかかわらず、日本はアメリカとの総力戦に突入していくわけで……。単に国力や科学力で負けていたのみならず、このような点でも日本はアメリカに決定的に劣っていたのである)

 ただしやっかいなのは、<石原莞爾の意志>イコール<日本軍(または関東軍)としての意志>と短絡的に見なすことはできないというところである。
 そもそも、石原莞爾が日本軍(または関東軍)を支配していたわけでは決してない。また、石原莞爾に心酔する日本陸軍軍人は少なくなかったが、しかしその思想をそのまま盲信していた人物はいない。例えば石原莞爾は『世界最終戦論』で日米戦争を予言していたが、満洲事変の段階でそれを本気にしていた軍人など、おそらくひとりもいない。

 だがとにかく、関東軍としても、その行動を日本の権益の防衛のみに限る意志は、当初からなかった。関東軍が意図したのは、自衛の範疇を逸脱した満蒙全域の占領であり、それを日本の支配下とすることである。(当初は日本領とする意図、後に表面上は独立国の体裁をとることに)

 で、とにかく関東軍の意図としても、断言できるわけである。
 それは自衛ではなく、不当な武力行使による日本の勢力拡大が、真の目的だった。

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