
本論もそろそろ佳境に入る。満洲事変そのものについての、レポートである。
ここは長くなるが、最初は満洲事変勃発直後の状況について、日本側に視点を置いて、述べてみたい。
<7−8−1:満洲事変前夜。関東軍と陸軍中央(1931年9月14日)>
満洲事変そのものは、関東軍の暴走により勃発した。
なのだが、満蒙を領有すること(ないし、そこに親日政権を樹立し日本の影響下に置くこと)は、陸軍内部で広く、ただしもちろん秘密裏に、議論されていた。
つまり、政府はそれでも蚊帳の外だったものの、陸軍としては前もって、少なくとも構想としては、承知していたのである。(ただし、その情報は事前に漏れだしており、政府の方が何も察知していなかったわけではない)。
ただし、その決行については、関東軍と陸軍中央は意見を異にしていた。
つまり陸軍中央としては、「武力行使も辞さぬ覚悟で、反日が目立ってきた満蒙の事態にあたる」とは、決めていた。それはすなわち、外交的に事態が改善されるなら、それはそれで結構と言うことであり、武力行使は既定ではない。
これに対し、関東軍は既に武力行使を決意していた。この時点では、満蒙を日本領とすることを、である。
明らかに食い違っている。
より正確には、関東軍と陸軍中央の両方に、武力行使を決意していた人物と、それに慎重な(あるいは、時期尚早と判断する)人物とが、いた。だから、これまた話がややこしいことになっている。
事実として、1931年9月14日(満洲事変の四日前)になって、軍事課長永田鉄山大佐は、参謀本部第一部長建川美次少将に、東京から満洲への視察行を依頼している。関東軍の不穏な空気が察知されたため、<止め男>としての派遣である。ちなみにこのとき、南次郎陸相と金谷範三参謀総長は「隠忍するように伝えよ」と、建川美次に言っている。だから陸軍内部でも、これらの人物は間違いなく、少なくともその時点では、決行する意志はなかったのである。
なのだがしかし、その建川少将が実は武力行使に賛成で、前もって関東軍の将校たちと気脈を通じていた。だから、自分が到着する前に決行するように、という電報が、立川少将の手により関東軍に向かって発せられる。
これにより関東軍は、当初9月28日の予定を、9月18日に繰り上げて決行する。
なお、当時の関東軍司令官は新任の本庄繁だったのだが、しかし彼自身には、当初は満洲事変決行の意志はなかった。満洲事変を主導する中心的役割を果たしたのは、参謀である石原莞爾と板垣征四郎である。
そしてこれ、当時の日本軍に内在した弊害を現すエピソードでもある。それはすなわち、司令官の意志ではなく幕僚の思惑によって実質的に事が運ばれてしまうという、命令によって動く組織であるはずの軍隊には本来あり得ないはずの歪んだ状態である。……おそらくはそれだから、軍の暴走などという秩序だった近代国家にあるまじきことが起きるのだろう。
(ちなみにこのあたり、調べていくと色々おもしろい。興味のある方は、お調べください。例えば、ドイツ式の軍隊だと、参謀が指揮官の代行をする場合もある。けれどアメリカ式の軍隊だと、そういうことはしない)。
<7−8−2:張学良の指示(1931年9月6日)>
満洲事変の当時、張学良自身は北京(当時の地名では北平)にいた。
当時の張学良は、陸海空軍副司令という、蒋介石に次ぐ重要な地位にあった。だからである。
その張学良は、1931年9月6日(満洲事変の12日前)、根拠地の奉天へ電報を打っている。
「日中関係は緊迫している。だから、もし日本軍が攻撃してきても、それに抵抗してはならない。抵抗した場合、かえってそれを口実とされ、日本軍につけ込まれる」という内容である。
中華民国側のこのような消極的姿勢、日本軍に対して抗戦せず外交的に解決を図るという姿勢は、その後も満洲事変を通じて貫かれる。
これが、満洲事変の勝負を決めた、と言うより、そもそも勝負にならなくさせた、最大の要因となる。
<7−8−3:関東軍勝利の要因>
では、先回りして説明しておく。
満洲事変の当初、日本軍は何故、勝利することが出来たのか?
当時、関東軍は1万人ほど。これに対する張学良の軍勢は、22万。これだけ見れば圧倒的な兵力差だが、なぜ関東軍の勝利となったのか?
まずひとつには、それが不意打ちだったからである。中国側は日本軍との戦闘を全く予期していなかった。
22万の張学良軍とはいえ、実はその半数は北京方面に派遣され、残りも満洲各地に分散されていた。いかに強大な軍団でも、小部隊ごとに分散配置されていたのでは、真の実力は発揮できない。
これに対して関東軍は、事前に入念に計画を立て、能動的に戦闘できた。
また、もともとの軍隊としての資質の差もある。
この時点では、装備・訓練度・補給・軍紀・指揮官の能力など、全ての面で、日本軍は中国軍を遙かに凌駕していた。
少数の精鋭部隊が多数の雑兵を蹴散らすことは、別に珍しいことではない。
更に、もうひとつ決定的な要因がある。
戦意の差である。先述のように、張学良は、「日本軍に抵抗するな」と指示している。そして事実、満洲事変では、中国軍は戦わずに撤退することがほとんどだった。その発端となった奉天でも。また張学良の満洲最後の根拠地となった、錦州でも。
勝ち負け以前に、これでは戦にならない。
一応注記しておきたいのだが、満洲事変の際、現地の民衆(もちろん日本人を除く)が、日本軍を支持したという事実はない。最近(でもないのかもしれないが)、日本の右よりの方の中には、そういう有りもしない事実をねつ造する方もおられるので、念のため。
いや、そういうことが起きるくらいなら、そもそも満洲で反日運動が盛んになるはずがないし、となれば満洲事変を起こす必要があろうはずがない。違うかな?
ただし、一般の民衆とは違う有力者の中には、積極的に日本軍に協力しようとする者も居た。これもまた事実である。
<7−8−3:1931年9月18日(事変当日)>
1931年(昭和6年)9月18日夜、関東軍は、奉天郊外の鉄道を形ばかりに爆破(その直後、列車が支障なく通過できている)。関東軍は、それを中国軍の攻撃と偽り、事前の入念な計画に従って行動を開始した。
これが柳条湖事件(日本では当初、『柳条講』と誤報)である。
中国側は、それを全く予期しておらず、完全な不意打ちとなった。そして先述の、「日本軍に抵抗するな」という指示である。
だからこの時、奉天では、ごく一部が例外的に武器を取ったのを除き、中国軍は戦わずに逃げた。
そして関東軍は、奉天を占領。
更に側面の営口、後方(朝鮮との国境にある)の鳳凰城・安東、また満鉄北端の長春(ここでは中国軍も頑強に抵抗)を、翌19日のうちに占領した。
そして関東軍は、満洲全域の占領という目的を達成するため、更に事態を拡大しようとする。
そのひとつが、朝鮮軍(当時日本領だった朝鮮に駐屯する日本軍)への出動要請である(後述)。
<7−8−4:第一報後の日本政府(1931年9月19日)>
東京では、翌19日午前10時、緊急閣議が開かれた。当時は、若槻礼次郎内閣である。(ただし、同年12月、満洲事変の最中に、閣内不一致により総辞職)。そして当時の外相は、幣原喜重郎。陸相は、南次郎。
この時、若槻首相は、南陸相に問いただした。陸軍の行動は自衛なのか?と。
南陸相は真相を察知していた。どころか、少なくとも基本的な部分では、関東軍と意を通じていた。が、それを正直に言えるわけが無く、自衛である旨、回答した。正直に言ってしまったら、陰謀そのものが露見してしまい、それでジ・エンドである。
しかし幣原外相らはそれに疑念を抱いていた。もともと事前に陸軍の謀略に関する情報は漏れだしており、時の外相・幣原喜重郎や最後の元老・西園寺公望なども、満洲のきな臭い兆候は察知していたのである。これは昭和天皇の耳にも入っていた。
それに加えて同19日、奉天の林久次郎総領事から、「今次の事件は陸軍の全く計画的行動に出でたるものと想像せらる」等の電報が打たれており、それが手中にあったのである。とはいえ、それだけでは陸軍の陰謀をあばく証拠にはならない。
結局、この閣議では、陸軍の思惑に反し、不拡大方針が決定される。
また9月24日になり、日本政府は世界に向かって声明を出す。今回の事件は自衛のためであり、日本に事件拡大の意図はなく、また中国政府と協調して事態解決に臨む。そういった内容である。
先回りしていっておくが、関東軍はその不拡大方針を無視して暴走、ひたすら事態の拡大を目論んだ。それにより、日本帝国全体を、関東軍の思惑通りにひっぱろうとしたのである。
時の首相・若槻礼次郎は、その事態に困惑した。「政府は不拡大を決定し、陸軍大臣・南次郎もそれを了承している。にもかかわらず、何故、関東軍は言うことを聞かないのか?」と。
このあたり、若槻礼次郎自身の手記『明治・大正・昭和政界秘史−古風庵回顧録−』(講談社学術文庫)P335〜にも記されている。
そうなった理由のひとつは、ある意味において、実は陸軍中央も関東軍とグルだったからである。
先述のように、完全に意見が一致していたわけではないにしても、構想としては、陸軍中央も関東軍の意図を承知していた。だから、陸軍中央として関東軍に対して不拡大を指示はしても、「何が有ろうと絶対に拡大させるな」式に厳命することはなく、そのため関東軍の暴走が可能となる余地が生じた。陸軍大臣の南次郎などには、躊躇する態度も見られたのだが。
ちなみに、東京裁判では南次郎当人が、この旨の証言をしている。「関東軍に対し、行動を中止するように厳命させようと思えば出来た。しかし、やらなかった」という内容の。
(ただし厳密には、ここもややこしい話になる。というのは、陸軍大臣である南次郎には、関東軍に対し、直接に命令を出すことは出来ない。しかし人事の方を、動かすことは出来る。だから関東軍の行動が意に沿わないのであれば、その指揮官らを解任し、東京へ召還してしまえば良い。しかし、南次郎はそうしようとはしなかった。東京裁判では、そこを突かれたのである。「それは、関東軍の行動を容認していたということではないのか?」と。南次郎は潔く答えた。「そうなる」)。
そしてもうひとつの理由は、明治憲法の欠陥である。つまり、政府は陸軍に対して命令することが出来ない。それが出来るのは天皇だけだが、しかし昭和天皇はそうしようとしなかった。これが、関東軍と言うよりは陸軍全体としての暴走を可能にした、根本的な要因である。
<7−8−5:統帥権干犯>
さて、それではここで、もうひとつ説明しておく。統帥権干犯について、である。
そもそも軍隊は娑婆とは違う。そこには軍隊式の規律があり、軍隊式の規範があり、軍隊式の誇りがある。
そのひとつが、<命令には絶対服従>である。つまり、ひとたび上官から命令されたなら、それは必ず実行されなければならない。逆に、命令もないのに、勝手に行動を起こしてはならない。
これは軍隊として、最低限、守られなければならない規律である。強調しておくが、<最低限>である。それが失われてしまったら、それはすなわち軍の崩壊となるからだ。だから軍は、それへの違反者に対しては厳罰で臨む。それは、しばしば死刑となる。これについては、どこの国の軍隊も同じである。
当時の日本帝国では、天皇が軍の総指揮官であり、軍全体に対して命令を下すという建前になっていた。それがすなわち、統帥権である。そして、天皇の命令もないのに勝手に軍を動かす行為は、その統帥権を侵すものであり、「統帥権干犯」と呼ばれる。これは、死刑に値する大罪である。
念のため。道徳的な罪ではない。法に規定されている犯罪なのである。(陸軍刑法三十五条・三十八条。規定は「死刑に処す」である)。
そして、である。
満洲事変を起こした軍人たちは、天皇陛下の命令もないまま、勝手に謀略を計画し、自らの意志で日本軍を動かした。これは疑問の余地無く、統帥権干犯である。つまり、彼らは本来、英雄ではない。いやしくも法治国家であるならば、犯罪者として処罰されるべき人間たちだったのである。
しかし、当時の日本は、それをなし崩し的に認めてしまう。処罰どころか、賞賛を与えてしまうのだ。
それが結局、陸軍の統制を乱すことになり、後に陸軍は更に暴走を重ねていく。最後には、日本そのものを滅ぼすまでに。
(なお、何度も書いているが、陸軍だけが悪いというのは誤り。政府、海軍、あるいは国民自身や新聞も、戦争には荷担し、そして誤った道筋を歩んでいったのである)。
<7−8−6:朝鮮軍独断越境(1931年9月21日)>
それでは、話は事変勃発直後に戻る。
その時関東軍は、朝鮮軍に出動を要請した。それにより事態を拡大させ、満蒙全土を占領しようと言う思惑からである。
そして朝鮮軍は、それに答え、直ちに出動準備をした。が、そこで一旦停止する。陸軍中央から、「勅命あるまで待て」と命じられたからである。
そしてその理由は、先述の「統帥権干犯」である。命令もなく外国に軍隊を送ることは、まさしくその統帥権干犯に当たる。(一応註:当時の朝鮮は日本領であり、国内。そして満蒙は中華民国領であり、国外)。
しかし、先に説明したとおり、事変勃発直後の緊急閣議(19日)では、不拡大方針が決定されている。これでは、朝鮮軍に対する命令が出るわけない。
しかし21日になり、当時の朝鮮軍司令官・林銑十郎が、独断で朝鮮軍の一部・混成第三十九旅団を越境させる。林銑十郎は、この事件により「越境将軍」と呼ばれるようになる。
ちなみに、林銑十郎自身が記した(と判断される)『満洲事変日誌』(みすず書房)によれば、当初から彼自身は派遣に積極的だった。この機に武力で一気に問題を解決しようという意志で、満洲事変勃発後、関東軍からの要請が来る前に、軍の出動準備は開始している。
これはすなわち、林銑十郎に対しても、事前に満洲事変の根回しが行われていたという証拠でもある。
ちなみに朝鮮軍出動の口実だが、これは少々ややこしい。
つまり、当時、満洲の情勢は小康状態にあった。これでは、わざわざ朝鮮軍を派遣する必要はない。そこで関東軍は、居留民保護という名目(現実には、そういう事態は起きていない)で、吉林に軍を送る(現実には無血で入城)。
これらの行動により、「このままでは南満洲が手薄になり、関東軍は危機に陥る。だから朝鮮軍が必要だ」という口実を、ねつ造したのである。
そして、朝鮮軍は越境した。
その後、22日になり、この朝鮮軍の越境を、若槻首相はあっさり追認してしまう。そして、昭和天皇へもこれに基づく上奏がなされ、結局、統帥権干犯ではないことに、されてしまった。
これにより、陸軍の暴走は加速されることになる。
つまり、「やってしまえば、それは後から認められる」という前例になってしまったのである。少なくとも結果的には、これは若槻首相の大きな誤りだった。
<7−8−7:昭和天皇の意志>
さて、少なくとも名目的には、当時の日本は「天皇主権」の時代である。だからここで、昭和天皇の意志を見ておきたい。
結論から行くが、昭和天皇御自身は平和主義者であり、国際協調を重視していた。他国の領土を侵害しようとは、本来、全く意図していなかったのである。
そしてまた、昭和天皇ももちろん、満蒙は中華民国領であると思っていた。そこに新国家を建設することは、不当な行為であると認識していた。
当然、満洲事変も拡大には反対だった。武力によって問題を解決しようとは(あるいは日本の利益のために現状を変えようとは)、考えていなかった。
しかし昭和天皇は、同時に明治憲法を遵守しようとされていた。その明治憲法には、「天皇は補弼により統治を行う」と規定されている。
だから昭和天皇は、たとえそれが自らの意志に反する場合でも、内閣の上奏を退けることはしなかった。
先述の、朝鮮軍の越境についても、そうである。それは決して、昭和天皇の望むところではなかった。しかし上記の理由から、「比度ハ致方ナキモ将来ハ充分ニ注意セヨ」と、しぶしぶ裁可する(9月22日。独断越境の翌日)。
また、後の10月8日(錦州爆撃が行われた日)、「陸軍が満洲に独立政権建設の意図を持っている」と聞かされた昭和天皇は、「陸軍ノ意見適当ナラザル様思ハル。其積リニテ陸軍中央部ニ注意スル様ニ」と述べている。
なお、明治憲法には、天皇大権の規定もある。
だから昭和天皇は、拒否しようと思えば出来たのである。昭和天皇自身の意志に従い、軍に対し断固たる命令を下すことが。
しかし昭和天皇は、そのような絶対君主ではなく、啓蒙君主であろうとした。
しかし日本帝国の体制は、それを許さなかった。
政治と軍事が完全に切り離されていた当時の日本帝国においては、それは<実質的に統治者が存在しない無責任体制>を生み出すことに、繋がってしまった。
そして日本帝国は、「戦略無き国家」として迷走のあげく、自ら破滅の道を進んでいくことになる。これは、明治憲法に内在していた大きな欠陥故だった。また、当時の政治家・軍人も、それを認識し克服しようとまでは、考えが至らなかった。
(なお、明治時代には元老たちがいた。だからその時には、この欠陥は発現しなかった。ああ、誤解の無きよう。あくまで「この種の欠陥は発現しなかった」というだけで、それはすなわち「別種の誤りなら起きるよ」ってことであり、別に元老たちが完璧だったと言うわけではない。以前、私の論を誤解する人もいたので、念のため)。
そして、もうひとつ。臣下たちの考えである。
昭和天皇が平和主義的考えを持っていること、また国際協調を重視していることは、もちろん臣下も承知していたはずである。少なくとも、国家の中枢の要人たちは。
しかし、それでも陸軍は、武力行使を意図し、暴走を繰り返していく。また、政府もそれを追認し、引きずられていく。
では、臣下たちは、昭和天皇の意図を、どのように見ていたのだろうか?
「臣下である自分はそれに従うべき」と、考えなかったのだろうか?
彼らだって、自国の君主である(あるいは、現人神である)天皇を敬う気持ちは持っていたはず。にもかかわらず、何故、そのような行動を取っていったのか?
このあたり、どうも私には納得いかない。
<7−8−8:錦州爆撃(1931年10月8日)>
本来の根拠地、奉天を失った張学良は、9月27日、錦州を新たな根拠地とした。
そして10月8日に関東軍は、その錦州に爆撃を加える。単に、事態のさらなる拡大を狙ってのことである。石原莞爾自身がそのように意図し、実行させた。
これが後のチチハル占領などと併せて大きな国際的問題となっていくのだが、それは次項で。
<7−8−9:チチハル入城(1931年11月19日)>
事変勃発後、数日にして関東軍は、錦州を除き、南満洲の主要部を占領した。
次に関東軍は、北部のチチハルに矛先を向けた。
このチチハルでは、馬占山という馬賊出身の有力な人物が、張学良の命を受け、日本に抵抗していたのである。
関東軍は、ここでは馬占山の抵抗より、むしろ厳しい自然環境(酷寒)に苦しんだ。しかし結局、馬占山はチチハルから後退、代わって日本軍が入城する(11月19日)。
更に、その馬占山が日本側に降り、これで満蒙北部もほぼ日本側の手中に落ちた。
なお、実際の所、日本の味方をした中国人も、少なくない。
有名どころでは溥儀や汪兆銘だろうが、馬占山の他にも、満洲事変の際に日本側に寝返った有力者たちがいた。もともと関東軍としては、張学良軍を撃破すれば、その配下の弱小軍閥を寝返らせることは出来るだろうと考えていたのである。
なお、後になって馬占山は更に「表返り」、日本に反旗を翻す。日本はその討伐を試みるが、馬占山はソ連に逃亡、第二次世界大戦後まで生き延びる。
<7−8−10:若槻内閣総辞職〜犬養内閣成立(1931年12月11日〜13日)>
この時、日本では政変が起きている。
若槻内閣が閣内不一致により総辞職、替わって犬養内閣が成立する。ここで外相・幣原喜重郎も政界から退き、幣原外交もこれでお終いとなる。(なお、その幣原喜重郎は、後に、終戦直後の困難な時期に首相を務める)。
これまでの若槻内閣は、事態を拡大させないことを意図していた。が、結局は陸軍を押さえることが出来ず、関東軍の暴走を追認していくことになる。
そしてこれは、日本の外交も苦しいものとした。政府が不拡大を宣言してはいても、関東軍はそれを無視して暴走するのである。だから発言と行動が食い違ってしまい、それでは外交自体が不可能だ。幣原喜重郎はそれでもなお日本の国益を守ろうとしたのだが、そこにはやはり無理があった。
犬養内閣も、満洲事変を追認した。ただし、満洲国承認には慎重な立場だった。(犬養内閣の時代、1932年3月1日、満洲国の建国宣言)。
そして犬養毅は、1932年、5・15事件により暗殺される。(この犬養毅が、昭和の日本帝国では、最後の政党内閣となる)。
そして中華民国側でもやはり政変が起き、1931年12月15日に蒋介石が下野している。ここでの蒋介石は日本に対して戦いを挑もうとせず、それが国民(特に学生たち)の大きな反感を買ってしまったからである。
ただしこれは一時的なものであり、1932年2月には、汪兆銘と蒋介石の連立体制が出来上がる。
ちなみに当時の日本は、暗殺やテロやクーデター未遂が頻発する異常な情勢だった。
そもそも若槻内閣の前、首相であった浜口雄幸が、暗殺の犠牲になっている。その場での死こそ免れたものの、重傷を負い、それが原因で死に至っている。
犬養毅は、5・15事件により暗殺。そのほかにも血盟団事件なども起き、ことも有ろうに陸軍内部で永田鉄山が斬殺されるという事件も起きている。
陸軍のクーデター未遂としては、3月事件や10月事件があり、こうした流れの果てに、あの2・26事件が起きるわけである。
こういうありさまでは、日本という国全体が、もはや常軌を逸していたと言って良いかと思う。
<7−8−11:錦州占領(1932年1月3日)>
それでは、話は満洲に戻る。
これまでの関東軍の行動により、最後に錦州が残るだけとなっていた。(正確には、それとハルビン)。
この攻略は、1932年1月3日に行われた。この時中華民国は抗戦を指示していたものの、しかし張学良は、戦火を交えることなく後退していく。(なお、蒋介石は前年12月15日に、一端下野している。だから、抗戦の指示が出たわけである。当時は孫科政権だが、これは1月1日〜1月28日までの短命だった)。
日本の方は、その後退を待って進軍し、だから錦州をほぼ無血で占領できた。
なお、前年1931年12月10日に、国際連盟では、満洲へ調査団を派遣することが、当の日本まで含めて合意されていた。その時、戦闘は控えるようにとされていたのだが、しかし日本は匪賊討伐の権利を留保、錦州攻略はそれを口実として行われた。
また、さらに2月5日、日本はハルビン(満洲北部のソ連勢力圏にある都市)も占領。これで満蒙の主要部分は、ほとんど日本の支配下となった。
<7−8−12:その後……>
この後のことについては、また後で触れる。ここでは、簡単に触れるだけにしたい。
まず、1932年1月〜3月にかけて、第一次上海事変が勃発する。
そして同1932年3月1日、第一次上海事変の最中、「中華民国から自発的に独立した」という建前のもと、満洲国が建国される。
ただし、まだ反日勢力は残っており、その時点で満蒙での戦いが終わったわけではない。また、後に満洲帝国の一部となる熱河省(北京北方の内モンゴルの一部)も、この時点ではまだ日本軍の占領下になっていない。
その熱河省の攻略は1933年3月で、これにより万里の長城以北が日本の勢力圏となる。
そして、1933年5月31日、日中間に塘沽停戦協定が成立、ここで日本対中華民国の戦いは一区切りとなる。1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件、日中戦争の開始まで。
なお、溥儀が帝位につき、満洲国→満洲帝国となるのは、1934年3月1日のことである。
そしてもうひとつ忘れてはならないのが、リットン調査団である。
このリットン調査団は、1932年(昭和7年)2月から8月にかけて日本・中華民国・満洲国を調査、同1932年10月に国際連盟に報告書を提出する。
その報告書の内容は、有名だろう。日本の行動を侵略と見なし、満洲国を傀儡国家と見なすものだった。ただし日本の要求を否定するわけではなく、満洲には中華民国主権下に独立政権を樹立することを提案している。
その顛末もまた、有名だろう。日本(反対)とシャム(棄権)を除く国際連盟全加盟国が、その報告を元にした勧告案に賛成した。
日本はそれを不服として国際連盟を脱退、国際的孤立への道を進んでいくことになる。
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