
それでは次に、外交関係に注目してみたい。
これは後述するが、結局の所、世界各国(日本とシャムを除く、当時の国際連盟加盟国すべて)は、後のリットン調査団の報告を受け、日本の行動を侵略と見なし、満洲国を不承認とする。
ただし、アメリカだけは、いち早く(1932年1月)不承認方針を宣言していた。とはいえ満洲事変勃発直後ではないし、また宣言しただけで何ら実効ある行動は伴わなかったのだが。
なお、スチムソンは当時のアメリカ国務長官。当時の大統領はフーバーである。
<7−8−1:第一報後の諸外国>
1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件の直後、その報は世界を駆けめぐった。
アメリカ・イギリス・ソ連といった諸国は、その時点で早くも、それが長期にわたって入念に計画された謀略であることを、見抜いていた。
ただし、その時点の諸国の行動は、単に憂慮していることを日本に対して伝える程度に、留まっていた。
それはひとつには、それまでの幣原外交が、世界からの信用を勝ち得ていたからである。
また、ここで率先して日本と対決しようとは、どの国も考えていなかったからである。それは、大恐慌の余波や、ソ連の場合は第一次五カ年計画の最中だったこと、イギリスの場合は経済危機やインドでの反英運動、などの事情による。逆に言えば、関東軍はそれを見越して満洲事変に踏み切ったのである。
なお、ここで諸外国は、日本対中国の戦争は望んでいなかった。そんなことになったら、彼らの権益も損なわれるからだ。
注意していただきたい。
彼らは、あくまで彼ら自身の利益のために、平和的解決を希望したのである。決して人道的理由からではない。
そして、そういう計算をする国々が、その後、どういう行動をとったかというと……。
<7−8−2:国際連盟への提訴・1931年9月21日>
当事者である中華民国は、後の日中戦争とは違い、ここでは日本との武力衝突は避け、外交的に事態を収拾しようとした。
そこで、まず1930年9月20日、中華民国は日本に対し、18日以降の日本の行動が不戦条約違反であると抗議を行い、日本軍の撤退(条約で定められた駐屯地への)を求めた。
そして1931年9月21日になって、中華民国は、国際連盟への提訴を行い(国際連盟規約第11条「連盟は国際平和を擁護するため適当かつ有効な措置を執る。要請があった場合、理事会を招請する」から)、緊急理事会を求めた。
しかし、ここでは世界の諸国は積極的に対応しようとせず、だから単に提訴しただけに留まった。
それはつまり、日本政府として明言していたからである。
「それは、あくまで自衛のための行動である。日本は、満洲に何ら領土的野心を持っていない。事態の解決後、ただちに日本軍は撤兵する」と。
だから1931年9月30日、国際連盟では、満場一致で、そうした旨の決議が行われた。「日本人の安全・財産の保護が確保された後に、日本軍は撤退する。その後、中華民国は、それを守るための措置を執る」などの内容である。
そして、繰り返すが、この時点ではまだ日本政府(幣原外交)は世界からの信用を失っていなかったのである。そのために、そのように鷹揚なものとなった。
ちなみに、このとき日本は、常任理事国。中華民国は、非常任理事国だった。
<7−8−3:錦州爆撃・1931年10月8日>
しかし関東軍は、日本政府の意向を無視し、1931年10月8日に張学良の根拠地、錦州(奉天を失ったので移転)への爆撃を強行する。またそれに先立つ10月4日には、関東軍は、張学良政権否認の声明も出していた。
そして、この錦州爆撃が、世界的な非難を招くことになる。
「錦州は日本の鉄道所在地から150マイルも離れており、従って、それに対する攻撃は自衛とは認められない」ということである。
また、これらは日本政府の信用も失墜させた。
そもそも信用というものは、上っ面の美辞麗句から生じるものではない。また、悪事をなすことによって、必ずしも失われるものではない。
信用とは、言動の一致ならびに一貫性から、生じるものである。逆に、それらの欠如から、損なわれるものである。
そしてこの時、日本政府の声明と関東軍の行動とは、完全に食い違っていた。それはまた、中央の威令が出先である関東軍に及んでいないという、秩序だった文明国家にはあり得ない状態を示してもいた。
だから、日本政府の信用も損なわれた。
ちなみに、知っている人は知っているだろうが、佐藤賢了という陸軍軍人がいる。「黙れ!」事件で有名になってしまった、あのお方。
その佐藤賢了は、満洲事変勃発当時、アメリカにいた。そして言動が食い違うために「日本政府はウソツキ」となるところなど、『軍務局長の賭け 佐藤賢了の証言』(佐藤賢了著。芙蓉書房)P60〜に記述している。私的には、後知恵で書いているところもあるんじゃ?と疑問を感じるところがないでもないのだが、気負いのない文章で読みやすい。
ただし、である。
そもそも国際社会なんてものは、「悪代官と越後屋の私腹の肥やしあい」みたいなものである。
ヨーロッパ諸国の場合はその最たるもので、例えば、必要とあれば平気で二枚舌・三枚舌を使うし、必要とあれば平気で悪党とも取引する。
ああ、ただし、表向きの大義名分は取りそろえた上で。文明人たるもの、陰で汚いことをやっていようと、表面上は善良ぶっておかなくてはならないし、法と秩序を尊重する態度も示しておかなくては。
(念のため。私はそれを非難しているのではない。その高度な政治的才覚に、感嘆しているのである。そして、惜しんでいるのである。もし日本にそれだけのものがあったら、日本の運命も変わっていたはずなのに……、と)。
しかしアメリカの場合、少し異なる。
アメリカももちろん、第一に考えるのは、自国ならびに自国民の、安全であり利益である。これはヨーロッパ諸国と何ら変わりない。
なのだが、アメリカの場合、「こうであるべきだ」式の理念を、ストレートに推し進めようとするところがある。「お互い悪よのう」よりも、公正な法と秩序の方を、重んじようとする。そういう一面が、どうも見受けられるのである。なお、もちろんそれは<アメリカが公正と主張するところの法と秩序>ということである。この点もご注意を。
そして、この錦州爆撃の時も、そのような光景が現れた。
つまり、アメリカは、まっすぐ日本に対して抗議した。
しかしヨーロッパ諸国は、日本を非難はしたが、単純に日本の行動を否定するだけではなかった。それは、ひとつには中国の加熱しすぎた国権回復運動に手を焼いていたからである。そして、なにより自国の利益を守ることが第一だったからであり、そのために日本の行動を利用できる可能性があったからである。
<7−8−4:国際連盟へのアメリカの招聘・1931年10月16日>
そして、事態がここにいたり、国際連盟にアメリカが招聘されることになる。
そもそも国際連盟は、第一次世界大戦後、アメリカの提唱により設立された。しかし当のアメリカは、議会の反対のため、それに加入できなかった。
だったのだが、今回の満洲事変では、アメリカはオブザーバーとして参加することになる。
それは国際連盟規約第5条第2項によるもので、10月15日の秘密理事会で賛成13・反対1(日本)で可決、翌16日の公開理事会で正式に承認、同日午後からジュネーブ駐在のギルバート米領事が参加することとなった。
ただしアメリカは、オブザーバーとしての立場から、この時は諸国の先頭に立って行動しようとはせず、非常に控えめな態度をとった。
つまりアメリカの意図としては、「今回の事件は、あくまで日本と中国の話し合いで、解決されるべきである。そして第三国は、戦争の防止のみに努めるべきである」というものだった。
だからここでのアメリカは、日中両国に対し不戦条約について注意を喚起する程度にとどまり、しかもそれすら率先しようとはしていない。
ところで、国際連盟は全会一致が原則であるはずなのに、今回はなぜ、日本が反対したのに可決となったのか? そういう疑問を筆者は感じ、国際連盟規約を調べてみた。(『軍縮条約・資料集』藤田久一編。有信堂。P28〜)
国際連盟においては、総会も理事会も全会一致が原則となっている(第5条1項)。だから基本的には、一国でも反対があれば、不成立となる。
が、すべてにおいてそういうわけではなく、過半数で可決される場合があることも、規定されている(第5条2項)。例えば、紛争解決手続きの第15条4項も、「過半数」と記されている。
私自身は国際連盟規約を十分には理解していないのだが、とにかくこのアメリカの招請も、過半数の事例なのだろう。そしてまた、後のリットン調査団報告書も。
ここは、「国際連盟はすべて全会一致制だ」と誤解している人もいるようなので、記してみた。
<7−8−5:撤兵決議案・1931年10月24日>
先にも述べたが、日本は国際連盟において、「日中間で協定が成立したら、日本軍は撤退する」と、主張していた。(ただし、満洲事変の進展とともに変化、一貫していない)。
これに対して中華民国側の主張は、「まず第一に日本軍の撤退。交渉開始はそれから」というものだった。
こういうありさまでは、そもそも日中間の直接交渉が始まらない。しかし諸外国は、日本対中国の戦争は望んでおらず(それにより自らの利益が損なわれるから)、日中間の外交交渉により事態を解決してほしいと考えていた。
だから1931年10月24日になって、国際連盟理事会では、1931年11月16日までに日本軍を撤兵させる決議案が提出された。
それは、まず日本軍を<満鉄沿線とその付属地(条約で認められた、正当な日本軍の駐屯地)>に撤退させ、撤退終了と同時に日中の交渉を開始するというものである。つまりは「解決の始まりを開始させる」ための決議案といえるだろう。
この決議案自体は、賛成13・反対1(日本)で、<否決>される。(原則として、国際連盟は全会一致制。だから一票でも反対があれば、否決)。
なのだがしかし、この決議案は、とにかく国際社会の意思を示したことにはなる。世界は戦争に反対し、平和的解決を望んでいるのだと。
だから、その後の日本の行動が注目された。
しかし、それにも関わらず関東軍は、更に事態を拡大させた。1931年11月19日に、満洲北部にあるソ連勢力圏の都市、チチハルを占領したのである。
もともと日本の勢力範囲は、満洲の南部だけに限られていた。しかるにチチハルはその範囲外にあり、だから関東軍の行動は、明らかに自衛の範疇を逸脱している。
さらに、1931年12月10日になって、これはまた後で述べるが、国際連盟から満洲へ調査団(リットン調査団)を派遣することが合意される。
それには、それまで戦闘行為は控えるようにという取り決めも含まれていたが、日本は「匪賊を討伐する権利を留保する」という条件を付けて、それに合意していた。
それにもかかわらず、関東軍は「匪賊を討伐する」という名目のもと、張学良の根拠地である錦州を占領する(1932年1月2日)。
さらなる事態の拡大であり、さらなる中華民国の主権ならびに領土の侵害であり、さらなる国際的合意の無視であり、さらなる国際連盟規約・九カ国条約・不戦条約への違反である。
関東軍はもちろん、それは自衛のためだと強弁した。
しかしこんな言い分が通るようでは、自衛と称して無限に戦火を拡大し、無限に侵略を行うことが可能になる。論理的には、「錦州」を「北京」や「南京」に置き換えることが出来るわけだろう。
そして事実、関東軍は翌1933年3月に「自衛のため」に熱河省(北京北方の、満洲帝国に組み込まれる内モンゴルの一部)を占領し、更に後に万里の長城以南までも日本の勢力圏とする。それがついには、泥沼の日中戦争に発展していくことになる……。
後の出来事はさておき、これらの出来事により、もはや日本(もしくは政府を無視して暴走しようとする日本陸軍)の意図は明らかなものとなった。
ここにいたってアメリカは、ようやく日本と外交的に対決しようとする。
<7−8−6:スチムソン・ドクトリン−不承認方針・1932年1月7日>
まず、これまでの状況を確認する。
そもそもアメリカは、満洲事変の当初、日本政府に対する信頼を失ってはいなかった。すなわち、日本政府が関東軍を押さえ事態を平和的に解決することを、アメリカは期待していたのである。
しかしそのアメリカの期待は、その後の関東軍の行動によって、打ち砕かれる。もはや日本政府には軍部を押さえる力がなく、そして日本軍は満洲を支配下とする意志であると、アメリカは判断するに至った。
そこでアメリカは、1932年1月7日になり、スチムソン・ドクトリン、不承認方針を、各国に通告した。
それは要するに、<不戦条約・九カ国条約に違反する現状変更、および条約や協定を、アメリカは承認しない>という内容である。
そして各国がこれに続いてくれることを、アメリカは期待した。
念のため。
先に説明したが、アメリカはオブザーバーとして国際連盟に招かれていただけであり、正式な加盟国ではない。しかしこのスチムソン・ドクトリン(不承認方針)は、アメリカが単独で出した宣言であり、国際連盟とは何の関係もない。
そして、アメリカの日本に対する非難は、九カ国条約や不戦条約に、日本が違反しているからである。そしてこれらの条約には、アメリカと日本の双方が調印している。
したがって、アメリカが日本を非難したことは、不当なことではない。
しかし、このスチムソン・ドクトリンは、ほとんど何の効果も生まなかった。
ひとつには、それに同調する国が、ひとつもなかったからである。ただし、この時点に限っては、だが。
つまり諸外国は、ここで日本と実力をもって対決しようとは、全く思っていなかった。
更に、彼らの目的は、自分の利益を守ることであった。となれば、日本の行動によってそれが侵害されない限り、日本と衝突する理由もない。それどころか、日本の行動により、逆に中国の国権回復運動から、彼らの利益が守られる可能性もあった。
もちろん諸外国は、日本の行動を支持するつもりも、さらさら無かった。それは明白に、いくつもの条約に違反しているからであり、法と秩序を重んじる文明国家としては、少なくとも表立っては、それに抗議しなければならなかった。しかし、表とは違う裏が、大人の世界にはあるのである。
また、より大きな理由がある。幼児のけんかじゃあるまいし、単に口先で非難した程度で、一国がその行動を改めるわけが、そもそもない。それどころか関東軍は、政府どころか昭和天皇の意向さえ無視する暴走ぶりである。効果のあろうはずがない。
だからスチムソン・ドクトリンは、当の中華民国の新聞からも、批判された。時機を失している・アメリカは自国の権益を守ることにしか関心がない、などと。
さて。ここで特筆すべき事がある。
実はアメリカは、この時点で、日本に対する経済制裁も検討していたのである。そしてそれは、決定的な効果を発揮するだろうと、計算されていた。
「ボイコット(註:日本に対する経済制裁の意)で直接かつ重大な打撃を受けるのは日本で、アメリカの損失は長い目で見た場合、ほとんどないに等しいというのが彼(註:ホーンベック、当時の極東部長)の結論であった。アメリカの対日輸出額は一九三〇年全輸出額の四.三パーセントで、全生産額の〇.五パーセントにすぎず、輸入額は同年全輸入額の九.一パーセントであるが、主要輸入品の生糸を除くと、全輸入額の一.五パーセントである。これに反し日本は、おそらく経済断交の通告だけで生糸の崩落、綿花の暴騰による恐慌状態におちいると、詳細な数字をあげて経済断交が日本経済に致命的な打撃を与えることを、ホーンベックは予測した。彼は、ボイコット発動後三ヶ月で日本の全産業は痛手を受け、金融は逼迫し、六ヶ月以内に日本は列国に屈服せざるを得ないと判断した。日本の政治家も資本家もこのことはよく知っており、ただ列国がボイコットを発動しないと推測して、世界を無視し反抗していると見たのである」。
(臼井勝美著『満洲事変 戦争と外交と』中公新書P141)
では、なぜアメリカは、そうしなかったのか?
というと簡単な話で、そこまで追いつめられた場合には、日本はそこから逃れようと、必死の行動に出るだろうと予想されたからである。それは中華民国に対するさらなる武力行使(および、そのためにアメリカの権益が侵害されること)、あるいはアメリカとの戦争という事態に発展することも考えられた。
だから、である。
アメリカは、この時点では、日本との衝突は回避したいと思っていたのだ。……ただし、それが満洲だけに留まっていたときは。
後に日中戦争が始まり激化していったとき、アメリカは方針を変える。満洲だけならともかく、それが中国全土となったとき、アメリカとしても、もはや日本の行動を許すわけにはいかなかったのである。アメリカ自身の利益を守るために、日本との衝突の危険を冒してでも。
そしてこれは、日本が満洲事変や日中戦争を起こしていったのと、同種の動機である。だから、もし日本の行動が正当だったというのなら、アメリカの行動もまた正当だったと言うことになる。今現在、日本の右よりの方々は「日本だけが正義だった」かのように主張されているが、それはあまりに不公平というものだ。
さて。
スチムソン・ドクトリンには、当初、追従する国はなかった。
しかしその後、状況はまた急速に変わっていく。1932年1月には第一次上海事変が起こり、そして1932年3月1日には、満洲国の建国宣言が行われる。
これらの動きは、単に日本対中国の争いに留まるものではなかった。日本の、国際連盟ならびに国際社会に対する挑戦という性格が含まれていた。
だから第一次上海事変中の、1932年2月16日、とうとう国際連盟でもスチムソン・ドクトリンに同調しようという動きが現実化する。正式なものではないが、日本と中国を除く理事国(12カ国)が一致して、日本に対して警告を行ったのである。「国際連盟規約第十条に違反した現状の変更は、認めない」という旨の。
そして、1932年3月3日。国際連盟総会は、満洲国を否認する原則を採択した。
更に1932年10月、国際連盟ではリットン調査団の報告が行われる。それは日本の要求を斟酌していたが、同時に日本の行動を侵略と判断し、満洲国を否認していた。そして国際連盟ではほぼ一致してそれを認め、それで日本は国際連盟から脱退していく。
ただし、結局それでも、何ら実行ある対抗策は実行されていない。武力はもちろん、経済制裁も、外交関係の断絶さえも。これでは、日本の行動が変わるわけがない。
<7−8−7:まとめ>
それでは、長い話になったので、ここで一端、まとめておきたい。
満洲事変当時の諸外国の意向は、ほぼ一致している。何よりも自国ならびに自国民の利益を守りたいということである。
だから、ここで日本と実力をもって対決しようという国は、この時点では、ひとつもなかった。また日本対中国の戦争も、どの国も望んでいなかった。何とか平和的に解決してほしいと思っていた。人道的な理由ではない、それにより自国の利益が損なわれるからである。
さらに、中国の国権回復運動に手を焼いていた諸国は、日本の行動により自国の利益が守られる可能性も、考慮した。
ただし、日本の行動を支持または承認しようとする国も、この時点では、ひとつもなかった。それは国際連盟規約・九カ国条約・不戦条約に明白に違反しているからであり、法と秩序を重んじる文明国家としては、それを認めることは出来ない。
ただし、その不承認宣言は、満洲事変当初(1931年9月)ではなく翌1932年1月になってからで、それも当初はアメリカただ一国だけだった。
それ以外の国がそうしなかったのは、とどのつまりは、自分の利益の方が重要だったからである。すなわち、ここで日本と対決するのは不利益だと判断したからだ。また、遅れた要因のひとつは、日本に対する信頼がある。それは、それまでの幣原外交(国際協調重視、しかし既得権益は断固守る)の成果だった。
しかしその後の日本は、信用という、得るに難く失うに易いものを、失っていく。悪事を行ったからではない。言動の一致ならびに一貫性を、欠いたからである。そして、日本以外の世界に対する配慮を、もちろん道義ではなく利害関係に関する配慮を、忘れたからである。
ただし、1932年3月、およびその後のリットン調査団の報告により、国際連盟では、満洲国は否認される。それにもかかわらず、日本に対して、何ら実効ある措置は実施されなかった。
ただし、以上の話は、あくまで<満洲事変の時点では>ということだ。
その後、日中戦争、ヨーロッパでの第二次世界大戦勃発、日独伊三国同盟、などにより、事態は激変する。そしてもちろん、状況が変われば結論も変わるのである。
そして、もうひとつ。
現在の日本でも、日本の戦争は必然だったかのように主張する人はおられる。「世界が日本に対して戦争する腹だったんだ、だから日本は心ならずも戦争に踏み切ったんだ」式の主張をなさる人々が。
しかしそれは、事実と相違する被害妄想に他ならない。
きちんと事実を調べていけば、そうではないことは確認できる。悪党どうし手打ちできる可能性は、いくらもあったのだ。
<7−8−8:日中の動向・1931年12月〜>
それでは、話はやや戻り、ここで日中の動向について、触れてみたい。1931年12月には、両国で政変が起きているからである。
また、その後についても。
まず日本では、その1931年12月、若槻内閣が閣内不一致により総辞職し、犬養内閣が成立する(13日)。これにより、幣原外交も終わりとなる。
繰り返しになるが、このころ、政府としては国際協調を重んじ、事態を拡大させない方針だった。しかし、統帥権の独立という日本の体制上、政府には関東軍の暴走を押さえることが出来なかった。
さらに、そのとき日本国内の世論も、ほとんど一致して軍部の後押しをしており、これも政府の舵取りを困難にした。(ただし、日本人全員が軍部を支持していたわけではない。朝野それぞれに、少ないながらも高い見識を備えた者はおり、彼らは陸軍の行動に、あるいはあくまで満蒙に固執する方針に、反対していた。けれどもそれは、あまりに少数だった)。
若槻内閣後の犬養内閣も、満洲事変そのものは追認したものの、なんとか軍部を押さえようとし、また満洲国承認には慎重な姿勢だった。(犬養内閣時代の1932年3月1日、満洲国の建国宣言が行われている)。しかし、犬養内閣の時代に第一次上海事変が起き、状況は更に難しいものとなる。
そして翌1932年の5・15事件で、犬養毅は暗殺されてしまう。
その後の斉藤内閣にいたり、とうとう日本政府の方針そのものが変わる。積極的に、満洲国を承認しようとする方針へと。
そして、1932年9月15日、日満議定書が交換され、日本は正式に満洲国を承認する。もう引き返せないところへと、来てしまったわけである。
そして中華民国だが、1931年12月に、やはり政変が起きている。
もともと蒋介石は、満洲事変の当初、事態を外交的に解決しようと試みた。また張学良も、先に説明したとおり、ほとんど日本軍に抵抗しようとはしなかった。
しかし当時の中華民国では、朝野で激しい反日運動が起こる。その矛先は、日本に対して積極的に戦おうとしない蒋介石に対しても、向けられた。
そしてその学生運動が激化するにつれ、1931年12月15日に至り、蒋介石は下野。この学生運動は共産党の扇動によるものと思われるが、しかし純粋なナショナリズムがそこにあったからこそ、これほど激しいものとなりえたのである。
後、1932年1月1日になり、孫科政権が成立、これは日本軍に対して戦いを挑もうとする。が、蒋介石派がそれに反対するなど思うようにいかず、これもすぐに辞職。(日本対中国の戦争を望まない諸外国も、孫科より蒋介石を望んでいた)。
1月28日になり、今度は汪兆銘が首班となり、蒋介石が軍事を担当する新政権が誕生する。
つまり、中華民国としての方針は、結局のところ、あまり変わらなかった。
ここでは日本との全面的な武力衝突は避け、国内の統一(共産党の討伐)と国内の近代化を優先しようというものである。
もっとも、その後の第一次上海事変では、中国軍も日本軍に対して激しく抵抗してはいる。が、それも全面的な衝突はさけようという意図の下であり、だから短期間で収拾が図られている。
そして外交的には、少なくともひとつ、治外法権の撤廃交渉が中断された。これも中華民国は性急に撤廃しようとし、諸外国はそれに反対していた。が、満洲事変以降、ここで更に諸外国と対立するのは損と中華民国は判断したのだろう、中断されることになる。つまり、間接的にではあるが、ここでは満洲事変が、諸外国を益することになった。
そして中華民国国内では、満洲事変の勃発後、大規模な反日運動が起き、そして日本製品ボイコット運動が起きた。1931年11月、12月においては、日本の対中輸出額は、前年比8割減という、激減ぶりだった。
このとき日本は、それを非難した。「ボイコットは中華民国国民の自発的行為ではなく、中華民国当局の指導によるものであり、それは武力によらない敵対行為である」として。しかしそれ、私としては<押し込み強盗が詐欺師を非難している図>としか見えない。
また、繰り返すが、結局、世の中すべて金なのである。
関東軍が満洲事変を起こし、日本国民がそれを支持したのも、突き詰めればまさしくそれ、金のために他ならない。
しかし金儲けなら、交易によっても出来るのである。何も軍事行動によって既得権益を守る必要はない。もし当時の日本に、そのような「損して得取れ」式の大きな度量が備わっていたら、わざわざ自滅の道を歩んでいくこともなかったろうに……
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