7:基礎からの満洲帝国

7−10:満洲事変(4)−リットン調査団


 ここでは、有名なリットン調査団について見てみたい。
 よく知られたことだが、リットン調査団は、満洲事変を侵略と判断し、満洲国を日本の傀儡国家として否認した。
 この報告を元にした勧告案は、賛成42・反対1(日本)・棄権1(シャム)で可決され、日本はそれを不服として国際連盟を脱退する。



<7−10−1:調査団派遣の要請、合意>

 先の記述と重複するが、1931年(昭和6年)9月18日の満洲事変勃発直後、中華民国は国際連盟規約第11条により、国際連盟への提訴・理事会招請の要請を行った(9月21日)。

 そして実は、この時点で、満洲に調査団を派遣するという提案は、なされていた。(同9月21日夜。イギリス・フランスにより。ただし当初は、「日本の撤兵を監視するために」という発案)。
 しかし日本は、当初それに反対していた。それが、日本の利益に反する可能性があるからである。当時はまだ幣原喜重郎が外相だが、国際協調だけが幣原外交ではない。日本の利益は断固として守ろうとするのが、そのもうひとつの特徴である。

 けれども、1931年12月10日になって、日本も調査団派遣に同意した。これにより、調査団派遣が決定されることになる。



<7−10−2:アメリカの参加>

 当初日本は、調査団にはアメリカ・イギリス・フランスの三カ国だけが加わるよう、希望していた。(現実には、更にドイツ・イタリアが加わる)。

 つまり、アメリカは国際連盟には加盟していなかった。けれども、調査団に加わったことは、不当なことではない。少なくとも日本も、それを希望したのである。

 そしてアメリカは、国際連盟に加盟していないところから、ここでも慎重な態度を示した。
 国際連盟規約15条・16条には制裁の規定があるが、国際連盟に加入していないアメリカはそれに関与出来ない。アメリカはその上で、調査団に加わる。
 そういったものである。



<7−10−3:リットン調査団の旅・1932年2月〜8月>

 リットン調査団は、1932年(昭和7年)2月から8月にかけて、日本・中華民国・満洲国(リットン調査団が訪れる直前、1932年3月1日に建国宣言)を調査した。
 1932年9月4日、調査団は報告書を作成、5人の調査団全員がそれに署名する。同10月、それは国際連盟に提出される。

 旅程としては、まずアメリカに渡り、船路太平洋を横断して、日本へ。その後、上海から上陸し、南京など中華民国を視察。後、北上して満洲を調査。再び日本へ戻り、更に上海からインド洋経由の海路で、ただし下記のハインリッヒ・シュネーらは陸路シベリア鉄道で、帰国である。

 調査団の構成は、次の通り。
   リットン卿(団長。イギリス)
   アンリ・クローデル将軍(フランス)
   H・E・アンドロバンディ伯爵(イタリア)
   フランク・ロス・マッコイ将軍(アメリカ)
   ハインリッヒ・シュネー(ドイツ)
 これらの人々は、日中両国の承認を得た後、1932年1月14日、国際連盟理事会から正式に任命された。
 正確には、調査団には、もちろんこの5人だけではなく、初期や各種の専門家など、更に多くの人員が参加・協力している。

 この調査旅行の有様は、調査団の一人、ハインリッヒ・シュネー(ドイツ人)が記している。(『「満洲国」見聞記 リットン調査団同行記』ハインリッヒ・シュネー著。金森誠也訳。講談社学術文庫)
 ところがこれ、どうもピリピリした緊張感は感じられない。調査団は、日本と中国、それぞれの歓待を受けているし、駆け足ではあるものの、行く先々で名所旧跡巡りも欠かさない。この点、私としては、非常に意外だった。
 とはいえ、これが欧米人式仕事の流儀なのだろう。緊張感はなくても、あるいはそれを上辺は隠していようとも、調査の方に手抜かりはない。当時の日本の状況、また中華民国や満洲国について、実に適切に描かれている。



<7−10−4:日本とリットン調査団>

 そもそも日本も、国際連盟において、調査団派遣に同意していた。しかしそれは、1931年12月10日のことである。
 しかしながら、その後に状況は変わる。
 翌年、1932年1月7日になり、まずアメリカがスチムソン・ドクトリンを宣言。続いて同1932年3月11日、第一次上海事変の直後、国際連盟でも同じく不承認決議がなされる。

 こういう状況とあっては、満洲事変を完遂しようとする日本にとって、国際連盟から派遣されたリットン調査団は、ほとんど敵に他ならない。
 だからリットン調査団は、日本本土では歓待されたものの、満洲国では非常な警戒をもって迎えられた。

 そもそも満洲国の建国宣言は、1932年3月1日。リットン調査団が訪問する直前に、それを既成事実としてしまおうという意図である。

 そして日本が満洲国を承認するのが、同1932年9月15日で、この時交換された日満議定書により、満洲国は日本の完全な傀儡国家となる。
 しかしこの時期は、リットン調査団の報告書が国際連盟に提出される直前である。これもまた、事態を既成事実としてしまうためである。
 これは、国際連盟に対する挑戦であると、受け止められた。



<7−10−5:リットン報告書・1932年10月>

 1932年10月、リットン調査団は、国際連盟に対して報告書を提出した。正式には、「国際連盟支那調査委員会報告書」という。

 非常に長いものであるが、内容は、こういったものである。
 満洲は中華民国領であり、日本はそれを侵略した。日本の行動は自衛とは認められない。
 満洲国も、その実態は日本軍によって造られた傀儡国家である。現地の民衆の自発的な独立運動の結果ではない。

 つまりそれは、日本にとって厳しい内容の報告だった。

 しかしながら、同時にその報告は、日本の要求や必要を完全に無視するものではなかった。それはそれで保護されなければならないことは、認めていたのである。そしてまた、これまでそれが、中華民国によって脅かされてきたことも。だから「単純な侵略ではない」という文言が、そこにはある。すなわち、<侵略ではあるが、そこには複雑な背景があり、それは考慮しなければならない>って事だろう。
 更にリットン報告書は、日本軍を満洲から撤退させ、中華民国主権下に新たな独立政権を立てることも、提案していた。それにより日本を含む諸外国の利益を守ろうとしたのである。同時に、中華民国の領土と主権も。

 ちなみに、リットン報告書中の「満足なる解決方法の一般原則」は、次の通り。(『「満洲国」見聞記 リットン調査団同行記』ハインリッヒ・シュネー著。金森誠也訳。講談社学術文庫。P228より)
(1)日中双方の利益と一致すること
(2)ソ連の利益に対する配慮
(3)現存の多角的条約との一致(どのような解決といえども連盟規約、不戦条約及び中国に関する九カ国条約の規定に合致することが必要である)
(4)満洲における日本の利益の承認
(5)日中両国間における新条約関係の成立
(6)将来における日中両国の紛争解決に関する有効なる規定
(7)中国の主権及び行政的保全と一致するかぎりにおける満洲の自治
(8)内部的秩序及び外部的侵略に対する保証(地方的憲兵隊の設立、それ以外のいっさいの武装部隊の撤退、関係国間における不可侵条約の締結)
(9)新通商条約締結による日中両国間の経済提携の促進
(10)中国の再建に関する国際協力

 つまりそれは、必ずしも日本にとって受け入れられないものでは無かった。

 しかし、このリットン報告書は、日本国内では、朝野の両方から猛反発を食らった。
 もちろん例外もいたのであり、最後の元老の西園寺公望(さいおんじ・きんもち)など、リットン報告書を受け入れて良いという考えだった。また昭和天皇だって、「満洲を張学良に返還してはどうか?」という言葉を口にしていたくらいである。
 だが、当時の日本では、そのように冷静な計算を行う人間は、あまりに少数だった。

 それはまあ、日本としては、既に満洲国を建国させ(1932年3月)、既に満洲国を承認している(1932年9月)。
 だから、「今さら後に引けるか!」となるのは、分からないではない。

 でも、どうなんだろうね?
 それって、日本人的な近視眼性に起因するところも大なんじゃなかろうか? いったん「こう」と思いこんでしまったら、それ以外のことは想起することすら出来なくなる。そういう日本人的な弱点が一因となっているのでは?
 そしてまた、あるいはリットン調査団の報告がまさしく真実と感じたから、ことさら感情的に反発したのかもしれない。いや、それが誤りだったなら、落ち着いて理路整然と反駁することも出来る。しかしそれが真実とあれば、ましてそれを認めたくないとあれば、出来るのは逆上して噛みつくくらいのことだろう。そしてそうしてしまうのが、人間の心理というものである。

 まあそれはともかく、それは自分自身の主張および自分自身の要求しか目に入らない幼児的態度ではあったと思う。
 そしてそのような態度は、まさしく日本の満洲統治に反映されていく。すなわち、日本人だけがいい目を見、他の民族を搾取していくということになっていくのである。(後述)。



<7−10−6:国際連盟の勧告案・1932年2月24日>

 そして1932年2月24日、国際連盟では、リットン報告書を元にした勧告案が採択された。

 それは、まず第一に、満洲事変を日本が行った侵略であると見なしている。
 とはいえ、少なくとも『外交資料 近代日本の膨張と侵略』(山田明編。新日本出版社)P237〜の抄訳では、露骨に「侵略」という言葉は使っていない。日本も調印しているところの国際連盟規約・不戦条約・九カ国条約の規定を引用し、日本の行動は<中華民国の領土ならびに主権に対する不正な侵害である>と遠回しに記述している。そしてそれが軍事力によって強制的に実施されたのであるから、つまりそれ、「侵略」ってことに他なるまい。

 そして勧告案の内容も、リットン報告書と同様である。
 つまり、日本が起こした満洲事変は、自衛とは認められない。満洲国は、自発的な独立によるものではなく、だから承認することは出来ない。満洲の主権は中華民国にある。日本軍が条約で定められた駐屯地以外に展開している状態は違法であり、速やかに撤退すること。そういったことである。

 しかしながら、こちらもやはり、日本の要求・必要を退けるようなことはしていない。満洲国は否認しても、こちらは守られなければならないとしている。
 また、ソ連に対する配慮も忘れていない。先に述べたが、東支鉄道はソ連の権益であり、満蒙北部はソ連の勢力圏である。となれば、ソ連抜きの満洲事変解決もあり得ない。
 もちろん、中華民国の主権と領土を守ること、諸条約(国際連盟規約・不戦条約・九カ国条約)の遵守、ならびに諸外国の利益といったことがらも、報告書は落としていない。

 そして勧告案が提案しているのは、満洲国の代わりに、中華民国の主権下に新たな独立政権を立てることである。そして諸外国が共同で、それに関与するということである。
 これにより、法と秩序を維持し、なおかつ諸外国の利益を守ろうというのである。

 このあたり、<大人のやりかた>といって良いかと思う。
 そもそも、いやしくも文明国家・法治国家である以上、法は遵守されなければならない。もちろん国内法に限らず、対外的な条約も。
 そして満洲事変が起きた1931年においては、当の日本を含め、既に国際連盟規約・不戦条約・九カ国条約が結ばれていた。つまり、少なくとも国際法上は、もはや侵略は容認されない時代となっていたのである。
 しかるに満洲事変は、それらの諸条約に違反していた。だから国際社会は、それを容認できなかったのである。もし認めてしまったら、それは法の精神ならびに文明社会そのものを、否定することになってしまう。

 ここは強調しておきたいのだが、単に日本の行動が侵略だったから、ここで国際社会はそれを否定したのではない。
 それが、日本も調印しているところの諸条約に違反していたからなのである。

 しかし、それはあくまで「表向きの話」ってことである。何度も繰り返すようで恐縮だが、世の中、あるいは大人の世界には、表とは違う裏がある。そして、それに対する配慮を忘れてしまうようでは、「大人のやり方」ではない。
 そして満洲事変に関しては、それは各国(あえて日本だけとは言わない)の既得権益であり、とどのつまりは金の問題である。中国の過熱した国権回復運動により損なわれつつあるそれを、いかにして守るか?
 さしずめ、これが裏って事になるかと思う。そしてリットン報告書は、それに対する配慮も落としてはいない。

 このような点、非常に高い見識があり、また深い洞察だったと思うのである。<大人>としての。
 そして残念ながら、日本はそこまでの境地にいたってはいなかった。戦後マッカーサーは日本人を「12歳」と評したが、こと政治的度量に関する限り、まことに遺憾ながら、それはひとつの真実である。そして更に問題なのは、今現在の日本人も、おそらくはそれほどレベルは向上していないことである。



<7−10−7:国際連盟脱退>

 繰り返すが、1933年(昭和8年)2月24日、上記のような内容のリットン報告書を元にした勧告案が、国際連盟総会で採決される。
 それは、賛成42・反対1(日本)・棄権1(シャム)という結果だった。

 つまりは、ほぼ全世界が、日本の行動を侵略と認め、満洲国を否認したのである。いちおう強調しておくと、満洲の主権を有するのが中華民国であることも。

 この結果を見て、当時の日本代表の松岡洋右は、「連盟との協力は継続し得ない」と宣言し退場した。
 そして、1933年(昭和8年)3月27日、日本は国際連盟からの脱退を通告する。(国際連盟規約では、正確には通告から2年後に脱退となる。そして、その時までは、国際連盟加盟国としての義務を負う)。
 これにより、日本は国際的には孤立の道を進んでいくことになる。

 ただし、よく言われることだが、ここで脱退する必要があったかは疑問である。
 つまり、そのまま厚かましく居座り続けるという選択肢もあったわけだ。となれば、当時の日本のやりかたは、ちと淡泊に過ぎたのではないか? 非難も悪口も平然と聞き流す面の皮の厚さがあって、初めて横車を押し通すことが出来るのではないか???



<7−10−8:制裁されない日本>

 そして、もうひとつ。
 この時点では、結局の所、日本に対して実効ある制裁措置を執ろうとした国は、まったく無かったのである。
 もう一方の当事者である中華民国が、日本製品ボイコット運動を行い、日本の中華民国への輸出が激減したくらいのもので。そしてこれ、現実に自国領土が侵略されているのだから、それくらいはやって当然であろう。

 これは、歴史上の事実を調べていけば、確認できることだ。

 確かに、後にアメリカやイギリスは、日本に対して経済的圧迫を加え、中華民国に対する支援を行った。しかしそれは、日中戦争が激化してからのことである。つまりアメリカやイギリスにとって、それが満洲だけに限られるなら、日本の手にゆだねていても良かった。しかし、中国全土を日本の支配下とさせるわけにはいかなかったのである。だから、日中戦争の激化と共に、方針を変えたのだ。
 繰り返すが、満洲事変の段階では、両国は日本に対し、何ら実効ある制裁は行っていない。

 だから、よく言われることだが、満洲までで止まっていたら、日本にだって成功する可能性があったのである。
 にもかかわらず、そこを際限なく戦線を広げてしまうから、泥沼の日中戦争に陥ってしまうのである。あげく、やらなくても良いアメリカとの戦争を自ら開始する羽目に……



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