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7:基礎からの満洲帝国

7−11:満洲事変(5)−塘沽停戦協定


 これまで述べてきたように、1932年2月までに、日本軍は満蒙の主要部分を占領した。しかしながら、それで戦いが終わったわけではなかった。
 そもそも満蒙内部に、まだ反日勢力は残存していた。そしてまた、満洲帝国の一部となる熱河省は、まだ日本軍の支配下とはなっていなかった。更に、日本軍の侵略に憤る中国軍の反撃も、日本に対して実行された。
 日本軍の作戦は、まだ続いたのである。



<7−11−1:熱河作戦・1933年(昭和8年)2月23日〜>

 話は戻るが、もともと「満洲」というのは民族名であり、地名ではない。外国人(実は発端は日本人)が、内モンゴルをのぞく中国東北部あたりを、勝手にそう呼んでいただけのことである。また、当時の日本では、内モンゴルの一部まで含めて「満蒙」と呼ぶ方がふつうだった。

 そして中国では、当時も今も、「満洲」という地名は用いていない。当時は、内モンゴルの一部まで含めて、東三省または東四省と呼んでいた。
 東三省という場合には、黒竜江省・吉林省・奉天省の三つが含まれる。東四省という場合には、これに熱河省が加わる。

 最終的に満洲帝国の領域となるのは、その東四省である。

 ただし、1932年(昭和7年)3月1日に満洲国の建国宣言がなされたとき、日本軍の支配下にあったのは、黒竜江省・吉林省・奉天省だけだった。
 この時点では、熱河省はまだ日本軍の占領下とはなっていない。

 地図をみてもらえば一目瞭然なのだが、熱河省まで含めた「東四省」すべてを支配すると、万里の長城以北の中国東北部をすべて掌握することになる。
 逆に言えば、熱河省が中華民国の勢力下にある状態では、満洲国を統治する上で収まりが悪いと言える。武力により満洲事変(1931年9月18日〜)を遂行し、もはや日中が敵対的な関係にあるとなれば、なおのこと。

 だから、1933年(昭和8年)2月23日になって、当時の関東軍司令官・武藤信義は、「純然たる満洲国の国内問題」と称して熱河省の攻略作戦を開始した。
 この日付は、国際連盟においてリットン報告書を元にした勧告案が採決され、日本が国際連盟からの脱退を宣言する、前日である。それを予期して、敢えて作戦を開始したというわけだ。

 余談だが、その熱河省は内モンゴルであり、「満洲」ではない。
 また、日本が正当に有していた権益(満鉄や関東州)は、南満洲だけである。熱河省には有していない。

 この熱河作戦は、相手となる中華民国軍の資質の低さ(張学良軍を別とすれば、劣等な地方軍閥の寄せ集め)もあり、ほとんどろくな戦闘もないまま、日本軍の電撃的な勝利に終わった。



<7−11−2:長城作戦〜らん東作戦〜関内作戦・1933年3月〜5月>

 以上のような熱河作戦の結果、、日本軍は、万里の長城にまで到達し、その一部を占領した。
 この時点では万里の長城(の大部)はまだ中華民国の勢力圏だが、以北の中国東北部はすべて日本軍の掌握するところとなったのである。
 そして日本軍は、万里の長城に対して攻撃を加え、さらに万里の長城をこえ「中国本土」へ侵入した。

 なのだが、ここで改めて日本側の意図を確認しておく必要がある。
 まず、当時の関東軍司令官・武藤信義である。彼は当初、熱河省のみを占領し、万里の長城は超えないつもりだった。そんなことをすると、それが日本対中華民国の全面的な戦争に発展する可能性がある。だからである。
 しかし関東軍としては、当初から万里の長城を越えて侵攻する構想も、抱いていた。その時点では決定していたわけではなく、構想としてだが。
 つまり、熱河省を占領し、満洲国の安全を確保するためには、単に土地を占領するだけでは足りない。そこにいる張学良軍を撃破する必要がある。そしてそのためには、万里の頂上を越えて、相手に痛打を与える必要がある。そういう事である。
 そしてまた、実際に日本軍が万里の長城に到達した後、それに対して中華民国軍の攻撃が仕掛けられた。
 中華民国にしてみれば日本軍は侵略者であり、したがってそれは、当然かつ正当な行動である。
 が、日本軍としてはそれを防止したいに決まっているわけである。そのためには、万里の長城の内側の「中国本土」にいる中華民国軍に、痛打を与えておきたい。
 だから結局、当時の関東軍司令官・武藤信義も、万里の長城を占領し、さらにそれを超え、限定的に「中国本土」の一部に侵攻する作戦を実行させる。それが、長城作戦〜れき東作戦である。
 念のための確認だが、この時点では(正確には後も)、日本側は中華民国と全面戦争する意図は持っていない。だからといって自衛の範疇を超えた日本の行動は正当化されないが、とにかく事実としては、そういうことである。

 しかしながら、ここでまた、事態はややこしい事になる。
 昭和天皇は、戦火の拡大を決して望んでいなかったのである。だから、らん東作戦の時にも、その旨の言葉をもらされた。(さかのぼるが、実は熱河作戦も、昭和天皇は望んで裁可したわけではなかったのである)。だから、関東軍の侵攻は、そこでいったん停止し、また部分的に撤退も行われた。
 が、素直に昭和天皇の意志を受け入れるような陸軍ではない。そうなら、そもそも満洲事変など起きていない。そして結局、関内作戦として、日本軍の行動は継続されることになる。
 なお、このとき天津特務機関では、板垣征四郎(石原莞爾と共に満洲事変を主導した、あの人物)が北京でクーデターを起こさせる謀略を、進めていた。そのクーデターに乗じ、一気に北京を……という計画も、当時の陸軍は抱いていたのである。(ただし、そのクーデター計画は、中華民国側に露見し、事前につみ取られた。失敗に終わったのである)。

 いずれにしても、とにかく日本軍の攻撃は再開されたのだが……
(余談だが、日本軍が北京に迫るという報を聞いて、溥儀は狂喜した。そこには清朝の宮殿があるからであり、そして溥儀は満洲帝国の皇帝ではなく、清朝の皇帝として復辟したいと念願していた)。
 しかし蒋介石(この時点での中華民国の軍事責任者。政治の責任者は汪兆銘)は、ここでは日本軍と戦おうとしなかった。敢えて前線を後退させ、日本軍との戦いを回避しようとした。
 その理由は、これまで日本との全面対決を避けようとしてきたことと同じである。
 日本は強国だが、中華民国は弱国。そして、中華民国は国内に共産党という内患を抱えている。
 だから、ここはいったん日本に屈する。そして、まず国内統一を成し遂げ、国力をつける。日本と対決するのはそれからだ。と、そういうことである。
 また、この時点で和平を望んでいたのは、日本側も同じである。これまで述べてきたように、日本側の目的は、満洲国の確保である。中華民国との全面戦争までは望んでいない。となれば、ここで停戦したい理由は、日本側にも存在するわけである。(ただし、最前線の将兵の感情としては、それとは逆のものもあったのだが)。

 そして、1933年5月31日。天津東方の塘沽(タンクー)において、塘沽停戦協定が成立する。
 これにより、日本対中華民国の戦いは一区切りとなり、約四年間の短い平和が訪れる。1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件(日中戦争の開始)までの、短い平和が。



<7−11−3:諸外国は不干渉>

 話の流れからすると、次は塘沽停戦協定なのだが、ここでひとつ、当時の諸外国の対応を見てみたい。
 が、これはたった一言ですむ。<不干渉>である。何もせずに傍観する、である。
 じゃあリットン報告書は何だったのか?ということにもなるのだが、要するにそれ、体裁を取り繕っただけって事になるわけでしょう。法と秩序を尊重する文明国家として、表向きの体裁を。

 そもそも、先に説明したとおり、諸外国には日本と対決する意志はさらさらない。
 どだい、当の中華民国でさえ、日本との全面対決を回避しようとしている状況である。それでなおかつ日本に立ち向かおうとするドンキホーテなど、いるわけがない。

 いちおう注釈だが、アメリカやイギリスが中華民国への支援・日本に対する経済的圧迫を始めるのは、1938年も後半になってからである。そしてそれは、1937年7月以降の日中戦争により、万里の長城以南の「中国本土」の彼らの利権が脅かされたからである。
 すなわち、その状況は、1933年の時点とは全く異なっていたのである。そして、状況が異なっているから、異なった行動をとった。そういうことである。



<7−11−4:塘沽停戦協定・1933年5月31日>

 それでは、ここで塘沽(タンクー)停戦協定の内容を見てみたい。とはいえ、この時に取り決められたのは、実は停戦に関することのみである。

 それはこういう内容である。
○日本軍は万里の長城以北へ撤退する。
○中華民国軍は万里の長城以南の一定部分から撤退する。日本軍はそれを監視する。
○上記地域の治安維持は中国側警察機関が行うが、これに日本側感情を刺激する武力団体は用いない。

 「塘沽停戦協定によって中華民国は満洲国を実質的に承認した」と言われることもあるが、それはこの後に行われた交渉によって、である。すべてがその日に取り決められたわけではない。

 ちなみに、ここでも中華民国側は、日本に大幅に譲歩するつもりでいた。
 停戦交渉に際し、当時の行政委員長・汪兆銘は、「東四省の割譲」と「満洲国の承認」以外なら、どんな条件をのんでも良いと、指示している。そして同時に、「中華民国内の対日和平反対派は、なんとしてでも抑える」という旨を、伝達している。
 明らかに、ここでも中華民国は、日本との対決を望んでいなかったのである。……それは単に、<この時点では>に他ならなかったわけだが。

 しかし中華民国の民衆は、少なくともその一部は、ここでも憤激した。中華民国の領土並びに主権を侵害した日本に対して。および、中華民国政府の弱腰に対して。



<7−11−5:塘沽停戦協定にともなう政治的交渉・1933年7月3日〜1934年末>

 そして中華民国の、日本に対する上記のような隠忍自重(ただし満洲国承認だけは拒絶する)は、塘沽停戦協定に付随して行われた交渉でも継続された。
 その交渉は、1933年7月3日から1934年末にかけてである。そして、ここで中華民国は満洲国を実質的に承認したと言われる。

 それはまあ、確かに実質的承認とは言える。しかしそれは、決して正式承認ではない。ちまたには、その違いを認識していない御仁もいるようなので、ここは特に記す。
 例えば、その交渉に当たった顔ぶれである。
 中華民国側の出席者は、「軍事委員会北京分会」および「北京政務整理委員会」のメンバーだったのである。中央政府(当時の所在地は南京)からの派遣ではない。
 では、なぜそうしたか?
 というと、話は簡単だ。とどのつまり、日本との交渉をまとめるためには、実質的承認までは譲歩せねばならないと、中華民国は判断した。しかし、正式承認だろうが実質的承認だろうが、それを中華民国政府として行うことは出来ない。
 つまりは、そのジレンマを解決するための、いうなれば表向きの<言い訳>というわけである。「中華民国政府が認めたのではない」という。
 日本側も、その事情は承知していた。そして日本側としても、ここで休戦に持ち込みたいという意志があった。また、表向きはどうあれ、実質的には中華民国政府との交渉に他ならない。
 だから日本側も、中華民国のそのような態度に異を唱えなかった。そして日本側も、交渉に当たる代表は、政府からではなく、関東軍・支那駐屯軍・公使館から派遣した。

 そういう事情はあるものの、とにかくこの交渉により、1933年7月から1934年末までに、列車の運行・税関業務・電信電話・郵便の相互取り決めがなされた。(ただし航空機の運航はのぞく)。
 そしてこれは、中華民国にしてみれば、満洲国の実質的承認に等しい。

 ちなみに郵便については、『満洲帝国 北辺に消えた”王道楽土”の全貌』(学研・歴史群像シリーズ84)P36に、少し面白い話が記載されている。
「1935年(昭和十)1月、満洲国の存在を認めないという中国側の立場を尊重して、1:満洲国側が切手・はがきに満洲国(もしくは満洲帝国)の国名を用いない、2:消印の日付には満洲国の年号を用いない、3:消印の表示には、新京など満洲国独自の地名を用いない、などを条件に、ようやく郵便物の交換が再開された」
 結局、<実質的承認>とはいっても、それは正式承認とは全く違う、「そういうもの」だったということだろう。

 それは日本側としても承知していたことであり、だから日中戦争の開始後、何回か試みられた和平交渉のたびごとに、日本は「満洲国の正式承認」という条件を持ち出す。
 ……徹底抗戦を決意した後の中華民国にとって、もはや受諾する意志など皆無である条件を。



<7−11−6:そして、1935年1月〜>

 以上のような経緯で、1931年9月18日に勃発した満洲事変は、1934年末までに一応の決着を見ることになった。
 そのような状況で迎えたのが、1935年(昭和10年)1月である。これは、あるいは平和への門出となり得たはずだった。少なくとも国家としては、そして少なくともこの時点では、日本側も中国側も、これ以上の武力衝突は望んでいなかった。

 なのだが……(次項へ続く)。



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