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桃山時代 | ![]() |
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桃山時代: 桃山時代とは、歴史上では豊臣秀吉が山崎の合戦で明智光秀の軍を破り、織田信長の仇を討って、天下を握ってから、慶長三年(一五九九年)までの16年間を言いますが、文化史上では広義に解釈して、織田信長の安土築城から、徳川初期の寛永の鎖国政策を採るまでの黄金文化の時代を指します。 この時代の最も著しい特色は、茶道の流行です。これは多分に信長や秀吉の政略的意図もありましたが、貴族や大名、武士はいうに及ばず、町人社会にまで普及し、京都では利休や織部などの大茶人が出て、陶器方面にも多大の影響を与え、桃山という時代をよく反映して、豪放、自由、闊達(かったつ)な数々の名品がうまれました。(⇒瀬戸系) また豊臣秀吉が朝鮮に遠征した文禄慶長の頃、西国の焼き物の本場である九州地方の諸窯はこの戦役の結果、李朝陶器の影響を最も強く受けていた帰化朝鮮人によって開窯されました。(⇒朝鮮系)
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瀬戸系: 桃山初期の頃、鎌倉、室町時代にわたりその全盛を誇った瀬戸窯は一時影をひそめ衰退していきます。これに代わり瀬戸系の美濃窯が急激な発展をします。その主な原因は戦国時代において、瀬戸地方が戦乱の中心地となったことや、徴兵、重税それに陶工間の闘争などによる『瀬戸離散』などの事件がおこったためです。瀬戸よりも近距離の地でありしかも良質の陶土や燃料の豊富な今の岐阜県多治見市や土岐市ならびにその周辺(土岐、可児郡一帯)に陶工達が集まり沢山の窯が創設され、まず黄瀬戸が焼かれ、それらは、瀬戸黒、志野、織部焼へと発展していった。なかでも志野は、我が国で最初の白い焼き物をつくりました。この時代の黄瀬戸は、足利期や徳川時代の黄瀬戸にくらべ、その原料や窯の構成ならびに焚き方など、全ての点で異なり、桃山時代特有の持ち味のある雅味に富み、いわゆる「あやめ手」黄瀬戸がその代表格です。これに対し利休の息のかかった瀬戸黒や志野、織部焼はこの時代の全くの新製品で、一名を天正黒や引出し黒とも呼ばれ、これは利休の発案によるものです。これら瀬戸黒は黒織部と変っていきました。また室町時代の頃から、瀬戸市を中心とした日本古来の伝統(須恵器系統)を守り続けた日本六大古窯が生まれていきました。⇒陶器系(日本六大古窯) |
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朝鮮系: 秀吉の朝鮮の役は、損失ばかりでしたが、唯一つの収穫は陶芸の導入でした。そのため一名焼物戦争とも呼ばれました。またこの戦役がなかったなら、現在のような世界第一位の質量を誇り得る陶磁器の生産は望めませんでした。この戦争により朝鮮から連れてこられた陶工によって数多くの朝鮮陶工達は、九州各地に築窯し、唐津焼、有田焼、高取焼、平戸焼、小代焼、諫早焼などが現在でも有名ですが、なかでも朝鮮の役で佐賀藩の家老、多久長門安順にしたがって、文禄三年帰化した李参平(日本名:金ヶ江三兵衛)が、元和二年に有田川の上流地泉山に白磁用の原料を発見して、上白川天狗谷に窯を築き、我が国で始めて磁器の製作に成功しました。⇒磁器系(有田・伊万里焼) |
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陶器系(日本六大古窯): 瀬戸窯の外に須恵器系統の常滑、越前、丹波、信楽、備前の5ヶ所を指します。
桃山時代から徳川期にわたっては、特に茶陶として名を挙げています。また美濃窯が世相を反映して、新鮮奇抜でしかも豪放な作柄であるのに反し、依然として古法を守り進歩性がありませんでしたが、日本の焼物の中心であったことには違いありません。 |
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磁器系(有田・伊万里焼) 磁器の非常な需要増加は肥前磁器の隆盛を招き、始めはなんの絵付けもない無地の白磁でしたが、中国から長崎に呉須が輸入され、李朝風の粗画が描かれるようになりました。これを肥前では古染付と呼んでいます。その後、李参平は中白川、下中白川などにも窯を増設し大企業主となりました。そしてこれに刺激されて従来の陶器窯も次第に磁器窯に転向し、僅かな人口であった有田の山村は急激に膨張し、磁器生産の中心地として発展の過程を歩んで行きました。また染付磁器は、世の風調に適合し、需要の増大を伴い技術の向上を促がして、錦手、更に進んで染錦の製作へと発展していきました。寛永五年に鍋島焼が開窯され、その後大河内焼となり、精巧華麗な黒線輪郭の色鍋島とよばれる色絵を焼き、鍋島藩を通じて朝廷や幕府、大名などの贈答品用となりました。寛永二十年の頃には磁器焼成の技術が安定し、この頃の初期の染付磁器を初期伊万里と呼び、有田地域で焼かれた磁器は、伊万里の港から出荷されたため、通称「伊万里」と称されるようになりました。かくして出来た伊万里焼は磁器であって唐津焼のような陶器ではありません。そして伊万里焼の色絵は柿右衛門手と古伊万里手それに色鍋島手のものに分類されます。
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| (参照:陶器と磁器の違い) | ||||||||||||||||||
| (参照:有田焼、伊万里焼、古伊万里の違い) | ||||||||||||||||||
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