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日本陶器の発祥説は出雲地方:
大和民族の話はの昔に溯(さかのぼ)る。つまり天照大神の御弟スサノウノミコトが、朝鮮出兵の帰り路、出雲国大原郡簸(ひ)の川で、八頭の犬蛇を退治された際、大蛇のくちに合せて、八個の甕(かめ)を造らせ、これに毒酒を入れて飲ませ、名剣『蛇韓鋤之剣』(おろちからさびのつるぎ)を用いて、これを退治し、奇稲田姫を救われたことが、古事記に記されています。これは多分に神話的な意味も合まれていますが、これが日本歴史に初めて現われたやきものに関する物語です。そこで出雲地方がわが大和民族の陶磁器発祥の地とされているゆえんです。この甕をつくった者は命に従って朝鮮に遠征し、彼の地で新しい朝鮮の製陶の術を修得した人だったのです。この新しい製陶法は、その後、逐次(ちくじ)全国にひろまっています。その一例として中国山脈を一つ越えた吉備国(岡山県)にも早く伝わり、伊部焼(備前焼)の起源となっています。元明天皇の和銅六年にできた『出雲風土記』の島根郡の条に『大井浜に海鼠海松あり、又陶器を作る』とあり、古事記に『陶器は神代よりあるにや大巳貴命(おおみきのみこと)のとき、茅淳県に大陶抵という陶器をつくる者あり』と記し、神代にすでに焼きものがつくられていたことを証明しています。垂仁天皇の御代には朝鮮の新羅の王子、天日槍の率いる帰化人によって、直接我が国に大陸の製陶法が伝えられ、これらの帰化鮮人によって、日本の陶業に一大革新が行なわれました。即ち従来の手造りよりもずっと進んだ、離輸の方式や強火度焼成の処置が採用されています。この方法は後代の陶器制度の発達を促進し、陶質の硬度化や形状の端正化をもたらし、使用上でもこわれにくく便利になりました。さらに垂仁天皇は大和国笠縫の里より、伊勢国五十鈴川の現在の地に天照大神の御神体を奉遷し、伊勢神宮の基礎を築きました。これにより神宮用のものとして、古来の方法による陶法(現在でも各神社や結婚式の三、三、九度の際用いられを素焼の白い焼もの)が土師御器として採用され、制度化が確立し、爾来(じらい)今日まで継承されています。またこの時代に野見宿彌(のみすくね)によって、埴輸の制度が設けられ、殉死の禁止を見るに至り、これに代って埴輪の制作が始まりました。
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