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日本各地の諸窯(歴史と特色)
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甲信越地方 |
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山梨県
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能穴焼
歴史:韮崎では瓦の生産が有名で、瓦屋が7軒ほどあった。林家は代々鬼瓦を焼いていたが、先代茂松氏は陶芸を志し、鬼瓦と縁を切った。昭和の初期、初代茂松氏はマイセン磁器にあこがれ、父の励ましもあって、京都国立陶磁試験所に入所した。当時、ドイツから来ていたマイセン製陶所にもいたことのあったランゲという技師について作陶を学ぶことができた。現在も磁器を中心に焼いている。
特徴:地元の土は5種類くらい採れるが、鉄分が多くて粘りに欠け、大物作りには適していない。
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長野県
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松代焼
歴史:松代焼とは、寺尾焼、天王山焼、荒神町焼、代官町焼などの松代藩城下で焼かれた陶器の総称である。寛政のはじめ頃(1795頃)、松代藩真田城下の東寺尾の嘉平次という人が肥前唐津で技法を学び、東寺尾山根組名雲に開窯したのがはじまりという。藍甕などを焼いていたという。その後、文化13年(1816)に松代藩10万石の藩窯になった。時の藩主7代真田幸専は、殖産興業の目的で、家老恩田民祇の下に嘉平治窯を買収し、京都から陶工を招いて陶器を焼かせた。これを寺尾焼と呼んだ。同年、信楽からも陶工を招聘して天王山の南麓鍬崎に窯を築かせた。この窯を、天王山焼と呼んだ。天王山焼は2年余り、寺尾焼は10年あまりで廃窯になった。また、浦野与平が常滑から陶工を招いて、荒神町会船所(千曲川の舟発着所)の跡に窯を築いて、明治15,6年ぐらいまで焼いていた。他に、藩士岩下左源太が代官町に窯を築いて焼き始めたが10数年で廃れた。同じ頃、田町の藩士藤田傳蔵方でも楽焼きの窯を築いたが、5,6年で廃窯になった。岩下窯は、弘化嘉永年間(1844-1853)に、須坂から陶工吉向一郎とその弟子加藤房造を招いて再興し、その子孫の、信太郎とその孫の常太郎が後を継いで昭和の初期まで焼いていた。このように、城下に、寺尾焼、天王山焼、荒神町焼、代官町焼などの諸窯が起こって生活陶器を焼き、総称して松代焼と呼ばれていた。いずれも大正末期までに廃窯になった。現在の松代焼は、昭和47年(1972)、松代町の八田家で発見された江戸時代の古文書と、残された古松代焼を手本に復興されたもの。
特徴:青味を帯びたなまこ釉の地肌に、豪快に流しかけされた緑色の釉薬が特徴。独特の釉薬は、松代篠ノ井付近の鉄分の多い土と、灰釉が反応して発色する。
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高遠焼
歴史:文化10年(1813)に、城内に水を引くための土管を焼くために美濃焼の陶工が開窯した。土管の他に、生活雑器を焼いていた。その後、高遠藩の御庭焼きとなって続いたが、天保12年(1841)に木曽屋九左衛門らによって民窯となり、日用雑器を焼いていた。明治中期に廃窯となり、窯跡も高遠湖の湖底に沈んでしまった。昭和50年(1975)、瀬戸で製陶業を営んでいた唐木米之助氏が郷里の高遠町から招かれて、町営の窯として復興された。
特徴:地元の鉄分の多い土で焼いている。緑釉、白釉、灰釉が用いられ、掛け分けも行われる。
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尾林焼
歴史:飯田藩の御用窯として、篠田得斎が開窯したと伝えられている。長野県最古の焼き物で、美濃系の窯と言われる。慶長14年(1609)銘の鉄釉狛犬が伝世している。いったん廃絶していたが、江戸時代の末期に飯田藩の御庭焼きであった風越焼の指導にあたっていた水野義儀三郎が尾林に移って再興した。江戸時代は主に、茶器や酒器を焼いていた。黒い釉薬で仕上げられ白釉で流しかけされた徳利や、志野風や黄色瀬戸風の作品も伝世している。尾林の窯業が盛んになると、多くの陶工が集まり、九谷風の色絵や独特の篆刻を施した作品が焼かれた。明治期には衰退して瓶類や土管を焼いていた。明治30年頃、萩本陶斎が天竜焼として、てん刻を陶器に応用したものを焼いている。
特徴:地元の土を用いて、灰釉を用いたものを中心に焼いている。
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天竜峡焼
歴史:1902年頃、篠田得斎(四郎)と萩元かん斎藤(貞次郎)が尾林焼で始めた篆刻陶器。1921年にとく斎と三輪託二が長野県飯田市竜江の天竜峡に開窯した。土にねばりがあることに注目して、茶器や花器に篆刻をほどこし、以後、「篆刻陶器」としてみやげ品を中心に焼いた。昭和35年頃(1960)から、ミニ花器やミニ鉢をつくるようになって当たった。特徴:土が鉄分を含んでいるので、地肌は茶色っぽい色をしている。篆刻を施した焼き物が特徴。篆刻の作品はは江戸時代の尾林焼では焼かれていたが、その技術は天竜峡焼に受け継がれている。文字を陰刻や陽刻したものを中心に製作している。ミニ花器は「豆つぼ」と呼んでいる。
特徴:盆栽用の鉢も小型の物を中心に焼いている。豆つぼや盆栽鉢は、常滑風、黄瀬戸、織部風と色彩も技法も種々の物を持ちいている。湯呑みや土瓶は「天竜峡」と篆刻がほどこされており、外側は薄茶色の釉薬がかけられている。内側は薄緑色の釉薬が掛けられている。
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新潟県
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無名異焼
歴史:天保年間(1830-1844)に、加賀の陶工伊藤甚兵衛の5代目になる伊藤富三郎が開窯し、その子伊藤富太郎(初代赤水)が金山から出る無名異土に陶土を混ぜて焼いたのがはじまり。弘化年間(1844-1848)初期には、伊藤甚兵衛が楽焼風のものを焼いた。明治初年に、三浦常山が改良し、常山焼とも言われた。明治期に、三浦常山が1200度の高温で焼き締める手法をあみだし、非常に硬質の現在の無名異焼が誕生した。佐渡の金山坑道の中から排出される「無名異」と呼ばれる酸化第二鉄を多く含む赤土を用いている。無名異は漢方薬の名前で止血剤として用いられた。
特徴:土質は中国産の朱紫泥に似ている。釉薬を用いずに赤土を焼き固めたものが特徴。赤土を用いるので釉薬がなくても朱色に焼きあがる。
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庵地焼
歴史:江戸時代末期の開窯された陶器の窯。甕や擂り鉢、蓋壷などの荒物を焼成する窯として開かれた。もとは安田焼と呼んでいた。現在の旗野家の前に、村山与三郎という人物が陶器を焼いていた。新津の西潟藤市のもとで焼き物つくりの技術を学んだ。慶応2年に庵地に戻って陶器を焼き、明治22年からは瓦も焼いた。与三郎は大正2年に没したが、兄の与一郎とその長男の与栄が後を継ぎ、特に与栄は朝鮮にわたり朝鮮古陶の研究をしたりして技術の向上に努めた。その頃、京都で知られた陶工甚兵衛が庵地を訪れ、釉薬を考案したり、新しい技法を伝えた。このため、一時期は「甚兵衛焼」とも称された。
特徴:釉薬は、さくら、えのき、けやきなどの灰から取っている。釉薬は黒が多く、これは「庵地の黒」として有名。
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