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日本各地の諸窯(歴史と特色)


 
日本各地の諸窯(歴史と特色)
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福岡県


小石原焼


歴史:

(1) 英彦山権現で使われる土師器を焼いていたのが起源という説
(2) 寛文7年(1667) 、黒田藩主黒田光之の時に、高取焼の初代八山の孫の八之丞が、飯塚市の白旗山から移住し、上座郡小石原鼓ヶ滝の下流鼓村(小石原村鼓)に窯を築き、小石原焼と呼ばれたのが始まりという説
(3) 天和2年(1682)、黒田藩3代藩主の黒田光之が伊万里から陶工を招いて磁器を焼かせたのが始まりという説がある。 
寛文5年(1665)、高取焼2代目の八蔵貞明が小石原郷に開窯し、一部の陶工たちがその後、皿山に分窯した。伊万里から陶工を招き、伊万里の技法も取り入れた。貞享年間(1684-1688) には皿山奉行がおかれるなど興隆した。宝永5年(1708) に藩窯が移された後は、9窯元が世襲制の民窯として日用雑器を焼いた。享保年間(1716-1736)からは、陶器だけを焼くようになった。小石原焼は、半農半陶で9窯元が世襲制で、次男三男は陶工として働いた。2基の登り窯を共同で使っていた。昭和初期までは、英彦山参拝の土産物として徳利が知られていたくらいで、壷、瓶、擂り鉢などの生活雑器を焼いていた。大戦後、民芸運動の主催者柳宗悦が注目し、浜田庄司やバーナード リーチがこの地を訪れて、その素朴な用の美を絶賛したことから一躍有名になった。昭和36 年、日本工芸館小石原分館ができると、全国的に有名になり、世襲制は崩れて、一気に窯元は増加した。昭和50年(1975)には、通産省の伝統工芸品に指定されている。


特徴:小石原焼の伝統的な手法は、素焼きをせす、半乾きの状態で、彫文や飛び鉋を施して、天日で乾燥させてから施釉するというものであった。飛び鉋、刷毛目、大胆な打ち掛け、流し釉などが基本的な技法。 


高取焼


歴史:遠州七窯のひとつ。慶長5年(1600)、朝鮮陶工八山(パルサン)が福岡藩主の命で鷹取山の山麓永満テラ宅間に開窯。八山は鷹取山にちなんで高取八蔵重貞と名乗り、高取焼の初代となった。宅間窯は、元和元年(1615)に幕府の命令で鷹取城が廃城になる前年まで高取焼きを焼いていた。慶長19年(1614)、八蔵は宅間窯の少し北方にあたる内ヶ磯に移り、硬質の茶器を焼いた。内ヶ磯の登り窯は長さ45.5mで焼成室が14個もある巨大なものであった。しかし、内ヶ磯開窯の10年後、八蔵が2代藩主忠之に帰国を願い出たため、藩主の機嫌をそこね、山田村(現在の山田市)の唐人谷へ蟄居を命じられた。内ヶ磯の窯は八蔵が去った後6年間存続した。八蔵一族は、蟄居中も生活のために窯を築き、作陶をおもなった。これは山田窯と呼ばれ、寛永元年(1624)から6年間続いた。寛永7年(1630)、八蔵は許されて再び藩の御用陶工となった。白旗山の山麓に築窯し、35年間続いた。八蔵親子は、京都に赴き、小堀遠州の指導を受け、さびた趣のある茶陶が生産された。遠州好みの高取焼が製作されたことからこの時期を遠州高取時代ともいう。寛文5年(1665)、3代藩主光之の時、初代八蔵の次男八蔵貞明が2代目を継ぎ、朝倉郡小石原村大字鼓釜床に移住し、窯を開いた。これが小石原高取焼の始まりで幕末まで続く。明治維新の廃藩置県によって黒田藩がなくなると、9代清次郎は藩公に殉じるとして高取焼を廃窯してしまう。一方、4代藩主黒田綱政じゃ、宝永5年(1708)、小石原から陶工を呼び寄せ、福岡城下で開窯させた。これは東皿山と呼ばれ、香炉、水差、香合などの藩用品を焼いた。5代藩主黒田宣政は、柳瀬三右衛門に命じて、小石原から5人の陶工を呼びよせ、一般用の擂り鉢や水かめなどの日用雑器を焼かせた。これは西皿山と呼ばれ、明治4年まで160年間続いた。高取焼廃窯90年後、11代高取静山女史は、50才を過ぎてから作陶を始め、高取焼を復活させた。高取焼を名乗っている窯は、福岡市内と小石原の2カ所に数軒ある。


特徴:高麗風のきらびやかさにさびを加えた「きれいさび」という端整さが特徴。きめの細かい粘土で、繊細なろくろ技術でまわし、わら灰釉、鉄釉、土灰釉でしっとりした地肌の上品な仕上がりをしている。端整な器形に、数種の釉薬が掛け合わされた物が有名。


上野焼


歴史:遠州七窯のひとつ。慶長7年(1602)、細川忠興(斎三)が、朝鮮陶工尊諧に命じ窯を上野の福智山の麓に窯を移した。尊諧はこの地にちなんで、名前を上野喜蔵高国と改めた。細川忠興は、茶人でもあり、小堀遠州の指導を受け、茶器を焼かせた。寛永9年(1632)、細川氏が肥後に転封になると、尊諧は長男と次男を連れて肥後に移り、高田焼を起こした。三男の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門をこの地に残し、新藩主となった小笠原氏に仕えさせた。時代によって作風は異なる。上野焼は藩窯として保護を受けるが、明治20年に完全に廃絶した。明治35年(1902), 廃窯を惜しんだ有志が、高鶴 熊谷両家を押し立てて上野焼の再興をはかった。しかし、高鶴家は経営難ら手を引き、熊谷八郎の熊谷家のみが上野焼を守った。昭和13年(1938)になり、高鶴家が再び窯を持ち、大戦後は青柳家も加わって3家の時代がしばらく続いた。1960年代からの陶芸ブームによって、十時家も復活し、窯元も増加した。通産省の伝統工芸品に指定されている。
特徴:当初は地味な釉薬が多かったが、緑の鮮やかな釉薬も使われるようになった。象眼、玉子手、上野木目、上野そうめん流などといった変わった技法も使われている。


蒲池焼


歴史:天正20年(1592)、豊臣秀吉が、肥前名護屋城在陣のさい、土器師家永彦三郎方親の作った土器に目をとめ、天正20年(1592)12月26日、秀吉は方親を肥前名護屋城に招き、土器無類の物に候と言い、御朱印状を与え、その作を褒めた。彦三郎はもと美濃の人で、文禄の役のとき、佐賀の鍋島直茂に従って出征し、朝鮮で焼き物の技法を学んで、帰国後、名護屋で土器を焼いていた。これを陣中の秀吉に献上したところ、大いに賞賛され、「土器の手際比類なし、九州名護屋に於いて司となすべき者なり」という朱印状を受け、「家永」の姓を賜ったと伝えられている。その後は、毎年、春と秋の二回上洛し大阪伏見城で土器を秀吉公に献上することを吉例とした。慶長9年(1604)、柳川藩主立花氏は、当時の肥前佐賀の領主鍋島直茂に仕えていた方親を招いて開窯した。方親は同年11月17日に田中吉政から「筑後国土器司役」の命を受け、三潴郡蒲地村(現在の柳川市西蒲地)に築窯し、幕府献上の土器や御城御用の土器を焼成するようになった。元和7年(1621)、田中忠政にかわり、立花宗茂が筑後柳川藩に封ぜられた。宗茂も方親に「領内土器司役」を与え、毎年3月に風炉、9月に底取灰土器を朝廷や幕府に献上することを恒例とし、御用窯として代々彦三郎を名乗って幕末まで続いた。当時は、藩御止め窯として一般への販売は禁止されていた。明治になって藩の保護を失い、廃窯した。現在の蒲池焼は、昭和48年(1973)に再興したもの。蒲池焼は焼き物の分類上「土器」に属し、素地は緻密だが、焼成温度が低く(700〜800℃)、質がやわらかで脆いため、破損しやすく、現在まで伝わっている古陶はほとんどない。江戸期の作品は、黒陶やくすべ瓦と同様、焼成後松葉など油煙を出す燃料でくすべ、炭素を土器の表面に吸着させて発色させたものと考えられている。斑紋のある黒色は、しっとりとした落ち着きがあり、土風炉や焙烙など茶道具として大いに推賞された。


特徴:土は、水田の粘土にいくつかの土を混入してもちいている。蒲池窯では、釉薬も用いず、十分乾燥した後に、表面を磨きあげる。窯は、通常の登り窯ではなく、土器用の野焼きに近い形態の特殊な窯を用いている。鉄分を含む土のため、焼きあがりは赤褐色になる。松などの薪でいぶして焼きしめると炭素が浸透して黒色に仕上がる。従来の、土器を焼いている窯元は、御用窯の流れをくむ蒲地窯のみ。現在の蒲池焼を名乗る窯元の多くの作品は素地は高温で焼く陶器で、黒色のマット柚を使用して、表面の色は江戸時代の作品に似せてあるが、技術的にはまったく異なっている。


一の瀬焼


歴史:朝鮮出兵の際、一の瀬城主が連れてきた陶工李東成が開いた。その後、明からやってきた呉祥瑞が磁器の技術を伝えた。久留米藩の御用窯として磁器を焼いていたが、明治維新後廃窯になった。現在の一の瀬焼は昭和34年に復興したもの。 


特徴:現在は陶器を中心に焼いている。灰釉、鉄釉、辰砂釉、ソバ釉、なまこ釉などのさまざまな釉薬が使われている。


星野焼


歴史:13世紀初頭、地元の豪族星野氏が、瀬戸の陶工六郎に築窯させたのが始まりと伝えられている。星野氏の没落によって廃窯になった。江戸時代になって、正徳年間(1711-1716)に久留米藩が再興し、高木窯として一時御用窯となったが、後に民窯になった。黄釉、褐釉、なまこ釉などの掛かった、肩に櫛目で波状文を施したりする技法が用いられた。紐を通す耳のついた茶壷も焼かれていた。茶器の中には、夕日に映える夕日釉や朝日に映える朝日釉があったという。明治22年に廃窯になった。現在の星野焼は、昭和44年(1969)に鳥取出身の山本源太氏が復興したもの。


特徴:陶土には地元の粘りけの強い粘土を用いている。焼成によって3割も縮むといわれるくらい扱いの難しい粘土とされている。重量感のある陶器が焼かれている。 


佐賀県


伊万里有田焼


歴史:通説では、元和2年(1616)、朝鮮陶工李三平が有田泉山で磁器陶石を発見し、磁器窯を開いたのが始まりとされているが定かではない。朝鮮陶工集団が磁器の焼成を本格的に始めたことは確かなようだが、それ以前から磁器が焼かれていたという説もある。当初は染付磁器の焼成から始まり、寛永20年(1643)頃には磁器焼成の技術が安定したと推定される。この頃の初期の染付磁器を初期伊万里と呼んでいる。有田地域で焼かれた磁器は、伊万里の港から出荷されたため、通称「伊万里」と称されるようになった。鍋島藩の保護政策により、有田地域では色絵磁器は組織的に生産されるようになった。日本で初めて色絵磁器が完成された時期は正保元年(1644)頃と推定されている。1650 年代には、古九谷様式の色絵磁器が生産されるようになった。主として日本海沿岸地方に出荷されたが、後に、古九谷様式の色絵磁器は石川県の九谷焼古窯で焼かれたものと誤って解釈され、美術史上の長い混乱が生じた。その後、オランダ東インド会社を通じて色絵磁器が東南アジア〜ヨーロッパ方面に輸出されるようになった。オランダ交易が始まる万治3年(1660)年頃までを古伊万里前期と分類している。中国の明王朝滅亡後、清王朝成立、台湾に立てこもった鄭成功一派封じ込めのための鎖国政策などの、王朝交代の混乱により中国磁器の輸出が途絶えた。有田磁器は中国磁器の代替として東インド会社から着目され、万治2年(1659)年から有田磁器の大量輸出が始まった。17世紀半ばには有田地域で焼かれた磁器が世界市場で広く受け入れられた。1660年代から、白く傷のない色絵磁器が完成され、柿衛門様式として確立した。柿衛門様式の色絵磁器は、1670 年代から1690年代にかけての有田色絵磁器の主流をなすようになったが、柿衛門様式の色絵磁器だけが製作された時期は存在せず、古九谷様式も平行して生産されていたと推定されている。古九谷様式の色絵磁器がいつ頃まで焼かれていたか定かでないが、国内向けには古九谷様式、国外輸出向けには柿右衛門様式と使い分けていたという説もある。元禄年間(1688-1704)頃から、染付素地に、金彩や赤絵などの色絵を用いて豪華な装飾を施した金襴手様式が生産されるようになる。金襴手様式の色絵磁器は、ヨーロッパでも珍重され、膨大な数の金襴手様式の色絵磁器が輸出された。しかし、1684年の展海令による中国磁器の輸出再開によって、有田磁器は海外市場での価格競争に敗れていった。また、18世紀にはヨーロッパでも磁器の焼成が成功し、域内需要をまかなうようになった。このため、東インド会社による有田地域の磁器輸出は長くは続かず、1750年代で有田磁器の公式輸出は途絶える。有田磁器のヨーロッパへの輸出は数としては中国磁器に比較すれば非常に少ないもので、東インド会社による買い付けも多くは東南アジア、西アジア地域の需要を満たすためのものであったとされている。「古伊万里」は明和年間(1764-1772) には爛熟期に入り、有田の色絵磁器は庶民階級にまで広く流通するようになった。その結果、量産の時代に入り、品質も徐々に低下していった。明和元年(1764) 頃から、文政10年(1827) 年頃までを、古伊万里爛熟期と分類している。文化4年(1807)以降、瀬戸の産業スパイ加藤民吉によって有田の製磁技術が瀬戸にもたらされると、瀬戸地域で磁器が安価に大量生産されるようになり、国内磁器市場での有田焼の独占状態がくずれた。「古伊万里」も末期に入ると、実用的な製品が主流になり、品質も低下した。文政11 年(1828)以降の江戸末期から明治初期までを古伊万里後期と分けることができる。文政11年(1828)、有田皿山で大火があり、有田磁器の生産は大きな打撃を受け、美術磁器としての格調が失われるようになった。有田大火の後、佐賀藩には罹災した陶工達に援助する余裕がなく、生活苦から多くの陶工が有田を離れ、製磁の技術を全国に広めることにもなった。また、江戸末期は、染付絵皿などの「古伊万里」染付の全盛期であった。町民や農民、漁民などの庶民生活にも「古伊万里」染付磁器は広く浸透した。蛸唐草文様などを特徴とする多種多様な文様の染付磁器が生産された。明治期に入ると、近代的な磁器生産が行われるようになった。明治3年(1870) 、佐賀藩の招請により、ドイツ人化学者ゴッドフリード ワグネルが有田を訪れ、窯業化学を教え、石炭窯を築き、コバルト希釈法などを教授した。明治8年(1875) 、深川栄左衛門は香蘭社を設立し、製陶機械を輸入するなどして磁器生産の近代化を図り、磁器輸出にも力を入れた。明治期以降、有田焼は伝統的な磁器製作に加え、近代的な工場設備で量産磁器の生産も行うようになり、日本有数の磁器生産地としての地位を確立した。

有田焼の系譜、技法的分類
(1)有田陶器系
(2)初期有田磁器系
(3)古伊万里系
(4)柿右衛門系
(5)鍋島藩窯系
(6)有田民窯磁器系
 
特徴:日用生活食器から高級品、工業用磁器製品、ファインセラミックまであらゆる様式の磁器や焼き物が製作されている。有田焼とは一般に磁器をさすが、一部の窯元では陶器も焼成している。有田焼の伝統的な様式としては、エキゾチックな色絵や金彩をほどこしたヨーロッパ輸出用だった金襴手古伊万里様式、白地に赤絵や色絵を用いて花鳥風月をデザイン化した柿衛門様式、鍋島藩窯で製作された格調高い色鍋島様式、江戸時代後期から庶民に出回った細かい染め付けの古伊万里染め付けなどがある。現代的なアレンジを加えつつも、これらの様式の色絵磁器は多くの窯元で制作されている。 

肥前吉田焼


歴史:天正5年(1577)、羽口川の上流、鳴谷川の川底からわが国最初の陶磁石が発見されたと伝承されている。佐賀藩主鍋島直茂は、朝鮮陶工を吉田山に送り込み、磁器を焼かせたという。寛永年間(1624-1644)、鍋島藩の分家である佐賀蓮池藩主鍋島直澄が隠居後、吉田山に窯場を築かせた。享和年間(1801-1804)、副島弥右衛門は制限外の窯場を多数築き、吉田焼は繁栄した。主に生活雑器を焼いていた。天保の初年(1830) には生産過剰になり窮地に陥った。明治13年(1880)、吉田山に陶磁器会社「精成社」が設立され、輸出用の生活食器が生産された。主として中国 朝鮮方面に輸出された。明治44年(1911)には有田から技術が導入され、錦絵も焼くようになった。大正期には朝鮮半島の市場を独占するほどの好景気にわくが、競争相手の出現や戦争にとって衰えていった。肥前吉田焼の窯元は吉田皿山に集中しているが、窯元での展示即売はしていないところが多い。 


特徴:染め付け磁器や色絵磁器で、湯呑み、飯茶碗、コーヒーカップ、酒器、茶器、花器、日用食器などが焼かれている。作風は窯元によって異なる。作品の種類は非常に多種多様である。


肥前尾崎焼


歴史:伝承では、約700年前、弘安4年(1281)夏、再度の元寇にさいして、勲功を得た鎌倉幕府の御家人河野通有が、知行地肥前尾崎の荘で、捕虜とした渡来人に製陶の技法を伝えさせたのが「尾崎焼」の初源といわれている。別の伝承によれば、延元元年(1336)、懐良親王が肥後国菊池郡に征西府を置いた際、従軍していた河内の国の陶工が、現在の神埼町尾崎の地に開窯したのが始まりと言われているが定かではない。さらに別の伝承では、筑後国三瀦郡の土器師家永彦三郎の舎弟で長右衛門右京という陶工が尾崎の地に移住し、茶器を製造して秀吉に献上したのが始まりとも伝えられている。長右衛門は、唐津名護屋に布陣した太閤秀吉から"無類の土器師"との激賞の御朱印を賜った。長右衛門によって、「尾崎焼」焼成の技術は一段と進展をみせ、古い趣と温かい独特の肌合いを持った「尾崎焼」の基礎が確立された。尾崎焼の製品は、無釉で軽く脆弱な軟陶であったという。江戸末期には生活雑器を焼き、かなり盛んであった。伊藤栄左衛門、高柳太郎兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六、等の名のある窯元が知られていた。昭和初期には、5軒の窯元があり、火箱、火鉢、七輪、火消壷、植木鉢、ほうろくなどの軟陶を生産していた。火鉢は黒地に白斑のあるものが生産され、研ぎ出しといって生乾きの製品を何回も磨いて光沢を出した良質の製品であった。大戦後、大半が廃窯になった。一部、土風炉を焼いていた窯が1980年頃まで続いていた。尾崎焼きの一つの特徴である「尾崎人形」という土人形は、尾崎集落の「尾崎人形保存会」の手によって現在も存続している。現在の肥前尾崎焼は、佐賀県神埼町にある陶器の個人窯。昭和55年(1980)、勝田文博氏が神埼町大字尾崎の日の隈山のふもとに開窯したもの。 
特徴:地元で取れる土を用いている。化粧土、釉薬、絵の具も地元産にこだわっている。白く粉引きかけした陶器の地肌に和紙染めという手法で鉄絵付けを行っている。野の草花を丁寧にスケッチし、作品のモチーフに用いている。淡い色彩の絵模様と、暖かみのある陶器が特徴。 


唐津焼


歴史:佐賀県東松浦郡北波多村の岸岳山麓には、飯洞甕上窯、飯洞甕下窯、帆柱窯、岸岳皿屋窯などの古窯が点在しており、少なくとも室町時代後期には唐津周辺で作陶が行われていた。飯洞甕下窯は、北朝鮮系の割竹式登窯の様式であり、現存する登窯としては日本最古のもので、佐賀県の史跡指定を受けている。岸岳古窯群では、わら灰釉、鉄釉、長石釉などの高度な作陶技術が使われていた。生産されていたのは生活陶器であったが、一部茶器も焼かれていた。これらの作品は岸岳古唐津と称されている。釉薬の技法から、飯洞甕窯系と帆柱窯系とに分類分けされている。岸岳古唐津の窯の起源ははっきりしないが、岸岳は倭寇として活躍した肥前松浦党の波多氏の居城があったことから、朝鮮半島からやってきた陶工集団が焼いていたものと推定されている。文禄3年(1594)、波多氏が秀吉によって取り潰され、岸岳の陶工は四散した。文禄慶長の役(1592-1598)は俗に「ちゃわん戦争」とか「やきもの戦争」とも呼ばれるように、西日本の諸大名は競って朝鮮各地の陶工を多数強制連行し、領地で作陶に従事させた。現在の唐津焼の起源も直接は朝鮮陶工の連行に始まる。各地に定住した陶工達は領主の保護の下に、窯を築き、茶陶を中心に古唐津と呼ばれる一連の陶器を生産した。肥前陶器窯は藁灰釉などの様式から変わって、鉄絵をほどこした「絵唐津」とよばれる装飾陶器が主流になった。慶長年間(1596-1615)以降、唐津焼は西日本から日本海沿岸地域に流通し、「唐津もの」が焼き物の代名詞として使われるようにまでなった。朝鮮陶工の技術により、白化粧土の刷毛目、白土象眼の三島手、白化粧の上に緑釉と褐釉で彩色した二彩手などの手法が使われるようになった。寛永14年(1637)、鍋島藩は各地の窯場が燃料の薪を切り出すために山が荒れているという理由で、窯場の整理統合を強行した。朝鮮陶工を除く日本人陶工824 人を追放し、伊万里地域の窯場4カ所すべてと有田地域の窯場7カ所を取り潰し、有田地域東部の13カ所の窯場に統合した。このため、陶器の窯場は大打撃を受け、伊万里地域から陶器の窯は姿を消した。唐津藩領内にはいくつかの窯があったが、椎ノ峯窯出身の4代中里太郎右衛門は坊主町御用窯を開いた。後に、享保19年(1734) 、藩命により町田唐人町に御茶碗窯として窯を移した。唐津焼は茶陶を焼く御用窯として存続した。この窯で焼かれたものを献上唐津といい、茶陶を中心に多くの種類の生活食器も焼かれた。東日本で焼き物のことを「瀬戸物」と呼ぶように、西日本では「唐津物」と呼ぶ。庶民の日常生活に密着した生活雑器を西日本各地に移出した。明治維新後(1867)、多くの窯元が廃窯に追い込まれた。現在、唐津焼を名乗る窯元は、唐津市を中心として佐賀県内各地に開窯している。 
古唐津窯場起源の違い

松浦系古唐津焼 波多氏の領地を継いだ来沢志摩守は茶道に通じた武将で、岸岳陶工を迎えて松浦地方一帯に窯を築かせた。慶長年間(1596-1615)には現在の伊万里市一帯に多く窯が築かれた。元和年間(1615-1624)には、南波多に椎ノ峯諸窯が築かれ、市ノ瀬高麗神諸窯ともに松浦系古唐津の主流をなした。 
武雄系古唐津 朝鮮出兵の際、佐賀藩主鍋島直茂に従軍した武雄領主後藤家信が保護し、起こした窯が起源。内田山、黒牟田山を中心に窯が築かれた。家信は、朝鮮出兵の際、宗傳をはじめとする多くの陶工を連れかえって領内で作陶させた。宗傳を含むグループは現在の武雄市北部の内田山、黒牟田山、平古場などで開窯し、武雄北部系古唐津と呼ばれる品を焼いた。また別のグループは、現在の武雄市南部の大草野、小田志、内田皿屋などに開窯し、武雄南部系古唐津とよばれる製品をやいた。 
佐嘉唐津 佐賀藩主鍋島直茂が朝鮮出兵の際、帰陣に際して多数の陶工を連行した。当初は、現在の佐賀市唐人町付近に集落を作り住まわせたが、李参平らの陶工集団は多久領に預けられた。佐賀本藩領内で朝鮮陶工が唐津系の陶器を作陶したという確実な文献は残されていないが、現在の伊万里市大川内山に残る数ヶ所の窯址が初期の朝鮮陶工の築いた窯ではないかと推定されている。 
多久系古唐津 鍋島直茂に仕えた、多久領主多久安順が朝鮮から連れてきた李参平が当初開いた窯が起源となる。参平が初めて築窯した窯が、唐人古場窯とされている。数年後、参平は窯を高麗谷に移し多くの陶器を焼いた。元和年間、参平は泉山に磁石を発見し、窯を有田方面に移し、磁器製作に移行した。その後も多久領内の陶器窯は継続した。 
平戸系古唐津 平戸藩主松浦鎮信が朝鮮から連れ帰った、巨関 金 引ら100数十人の陶工らが築いた諸窯が起源となる。初めは平戸の皿山に窯を築いたが、燃料不足や良質の陶土がなかったことから、数年後には同藩の領内である三川内付近に窯を移し、広瀬山、黒牟田山、南川良山方面に築窯するようになった。 
諫早唐津 鍋島藩の支藩であった諫早領主上総介道安が朝鮮から連れかえった陶工道珍によって開窯されたもので、窯跡は、現在の諫早市郊外の「土師の尾」に1ヶ所確認されている。
特徴:唐津焼は、「一井戸、二楽、三唐津」と多くの茶人から好まれた。その様式は非常に多種多彩で、陶器のあらゆる技法が見られる。高麗茶碗を模した奥高麗、本手と皮鯨手の瀬戸唐津、藁灰釉と鉄飴釉を掛けた朝鮮唐津、鉄絵ほどこした上に透明釉をかけた絵唐津、藁灰釉の青い斑紋のある斑唐津などが主な様式である。唐津焼きでは土灰釉を基本釉としてよく使用する。これは淡色の渋い地肌になる。絵唐津は花鳥草木などの図案を単純化しておおらかな文様を描いた物。化粧土をほどこした粉引唐津、黄唐津、青唐津、黒唐津、刷毛目唐津、櫛目唐津、彫唐津、蛇蠍唐津、献上唐津などの様式がある。

白石焼


歴史:平安時代からこの地域では、須恵器や瓦を生産していたらしい。享保年間(1716-1736) 以来、この地域では農業のかたわら副業でわずかな雑器が焼かれていたと記録にある。宝暦年間(1751-1764)、佐賀県杵島郡鳴瀬の陶工枡谷金右衛門が製陶業に失敗し、妻子を伴って中国地方へと旅する途中でこの地に投宿した。白石の山方役人だった深掘丹作がこの地にとどまって作陶することを勧めた。金右衛門は白石の粘土を使って火消壷などの生活雑器を焼き始めた。製品は隣国の久留米藩などに出荷され、評判になった。寛政12年(1801)、大川内山の鍋島藩窯の陶工藤崎百十は、この地で天草の陶石を用いて軟質磁器を焼いた。磁器焼成は御法度であったが、土地の役人はこれを保護した。文化3年(1806)、佐賀鍋島藩の分家である、白石鍋島家が、本藩御用窯があった伊万里の大川内山から陶工を呼び寄せて、御用窯を築かせ、本格的に磁器の焼成を始めた。色鍋島と同じく、磁器を焼かせていた。文化年間(1824-1818)の末、土地の役人曲淵和右衛門は有田の陶工を招いて、地元の粘土を使って磁器を焼かせた。染め付け磁器などは南京焼と称されて佐賀藩内でも珍重された。また、京都の陶工澤田春山を招いて京風の茶器を焼かせた。安政年間(1854-1860)、京都の陶工臼井走波を招き、雅陶が焼かれるようになり、現在の白石焼の基礎が築かれた。京風の名品が多数制作された。このため、白石焼は古くは、走波焼と呼ばれていた。走波は滞在中に失明し、京都に帰郷したが、野田吉次郎 中村吉兵衛という2人の名工が跡を継いだ。御用窯時代には、有田の西目の皿山に対して、東目の皿山と呼ばれるほど盛んであった。明治維新により藩の後ろだてがなくなり、白石焼きは急速に衰えた。明治10年(1878) 、白石藩士だった城島主静は中国視察で青味を帯びる新しい釉薬を持ち帰り、「松下堂」の窯印のある作品を多数焼いた。明治31年(1899)には、製陶組合が結成され、国外輸出用の磁器を生産するようになったが振るわなかった。明治35年(1904) には、磁器の生産が消滅してしまった。その後、陶器のみを焼くようになり、地元の粘土を用いて、土鍋、火鉢、甕、丼、植木鉢などの生活雑器を近隣に出荷していた。昭和初期には窯元数は10軒まで減少した。

特徴:白石焼は鍋島藩窯から陶工を招いて始まったが、土は唐津焼に使用されるような陶器用の土を用いている。天草陶石の粘土に加えて、「ごこくさん」と呼ばれる地元産の良質な粘土を混ぜて使用している。現在の白石焼は、しぶい民芸調の作品が主流。飛び鉋や焼き締め、かきおとしなどの技法が使われている。茶器、花器、日用食器などが作られている。 


武雄古唐津焼


歴史:昭和63年(1988)、武雄市地域で焼かれていた。唐津焼、黒牟田焼、多々良焼などの陶器窯が、「武雄古唐津焼」として通産省指定の伝統工芸品となった。「武雄古唐津焼協同組合」や武雄市などが中心になって、武雄古唐津焼を一般に宣伝するようになり、武雄市で焼かれている陶器を武雄古唐津焼とする名称が行き渡るようになってきた。武雄市の陶器の窯自体は、桃山時代末期(天正年間)から約400年の歴史のある 武雄系古唐津 の流れをくむ非常に歴史のある窯である。秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀藩主鍋島直茂に従軍した武雄領主後藤家信が朝鮮陶工を連れ帰り、領内数カ所に窯を築かせたのが始まり。家信に連れてこられた朝鮮金海の陶工が、深海氏と改め、深海新太郎宗傳と名乗り武内の地に開窯した。宗傳ら朝鮮系陶工によって武内の黒牟田と内田の数カ所に窯が築かれた。これらの窯で焼かれた陶器を武雄系古唐津と呼んでいる。江戸時代には武雄地域では、もっぱら生活雑器が焼かれた。絵唐津、刷毛目ものを焼いていた。三島唐津、藁すぼみ、打絵、櫛書き、絵唐津、黒釉、飴流しなどの技法が使われた。で有名だった二彩唐津の鉢や半胴瓶はこの系統に属する。二彩唐津の技法は福岡県の二川焼に伝えられている。昭和30年代(1955-1969)までは、武雄市地域の陶器の窯場は、生活習慣の変化によって、苦境に立たされていたが、昭和40年代(1965-1975)に始まる焼き物ブームによって活況を取り戻した。現在は、 黒牟田焼 や 多々良焼 、古田志焼に加えて、唐津焼系の陶器の窯が、武雄古唐津焼系の伝統を受け継いで、製品を焼いている。

武雄系古唐津焼は、窯場の作品の特徴と胎土の性質の違いから、更に、武雄北系古唐津と武雄南系古唐津の2つの系統に分けられている。

武雄北系古唐津 現在の武雄市の武内町、若木町、朝日町などに分布している古窯に伝承している陶技とその製品をさす。一般に素朴な作りの焼き物で、鉄絵や丹ばんなどで簡単な絵を描いた作品もあった。 黒牟田焼 や 多々良焼 はこの系統の窯に属する。
武雄南系古唐津 現在の、杵島郡山内町板の川地区の古窯、武雄市東川登町と西川登町の古窯藤津郡塩田町大草野地方に分布した古窯などに伝承した陶技術とその製品をさす。
特徴:生活雑器に加えて、茶陶意識は強く反映された製品や、絵唐津の製品が作陶された。松絵土のぬくもりを感じさせる唐津焼風の陶器が特徴。絵唐津、朝鮮唐津、刷毛目、叩きなどの技法を用いて、あらゆる種類の製品を焼いている。

黒牟田焼


歴史:桃山時代末期(天正年間)から約400年の歴史のある 武雄北部系古唐津の流れをくむ民窯。秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀藩主鍋島直茂に従軍した武雄領主後藤家信が朝鮮陶工を連れ帰り、領内数カ所に窯を築かせたのが始まり。家信に連れてこられた朝鮮金海の陶工が、深海氏と改め、深海新太郎名宗傳乗り武内の地に開窯した。宗傳ら朝鮮系陶工によって武内の黒牟田と内田の数カ所に窯が築かれた。これらの窯で焼かれた陶器を武雄系古唐津と呼んでいる。江戸時代には黒牟田地域では、もっぱら生活雑器が焼かれた。絵唐津、刷毛目ものを焼いていた。三島唐津、藁すぼみ、打絵、櫛書き、絵唐津、黒釉、飴流しなどの技法が使われた。瓶、壷、鉢、椀、徳利、片口、菱形土瓶などの生活雑器が焼かれた。のちに磁器も焼くようになる。明治期には50軒ほどの陶家があったが、昭和初期には陶器の窯元が約10軒にまで激減した。大戦後も8軒ほどの窯元が残っていたが、昭和30年代(1955-1964)に丸田窯1軒にまで衰えた。丸田正美氏は、伝統ある黒牟田焼を再生させるため、民芸運動の指導者の一人であった栃木県益子に窯を開いていた浜田庄司氏に指導を仰いだ。正美氏は伝統的な黒牟田焼に加え、民芸調の作風を導入し、新生黒牟田焼を完成させたが、惜しくも昭和54年(1979)に体調を崩されて亡くなられた。黒牟田焼は、昭和40年代(1965-1974) 以降の焼き物ブームによって黒牟田焼は復興した。黒牟田焼を含む武雄地方の陶器窯は、「武雄古唐津焼」として国から伝統工芸品の指定を受けている。 
特徴:薪と共に岩塩を窯に入れる塩釉技法を用い、透明感を出した作品を焼いている。また、鉄釉の絵柄などの黒牟田焼の伝統が守られている。天目の打ち掛け、辰砂釉、黒釉、緑釉、菊絵文、ソロバン玉などの作品や、大胆な刷毛目の作品も焼かれている。 


多々良焼


歴史:桃山時代後期以来約400年の歴史のある、武雄北部系古唐津の流れをくむ民陶。秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀藩主鍋島直茂に従軍した武雄領主後藤家信が朝鮮陶工を連れ帰り、領内数カ所に窯を築かせたのが始まり。家信に連れてこられた朝鮮金海の陶工が、深海氏と改め、深海新太郎宗傳名乗り武内の地に開窯した。宗傳ら朝鮮系陶工によって武内の数カ所に窯が築かれた。これらの窯で焼かれた陶器を武雄系古唐津と呼んでいる。「多々良」という呼称については、 松浦系古唐津 の窯のあった椎の峰に、上多々良、中多々良、下多々良という窯跡があり、多々良の神と称して高麗神を祭っている。武内の内田や朝日村の繁昌、長崎県三河内の長葉山などにも多々良もしくは多々良窯の地名があり、多々良とは陶器に関係がある名詞らしい。多々良地区にある窯跡からは、灰色釉に金茶を流した茶碗、褐色釉に白の刷毛目をほどこした茶碗、天龍寺青磁の茶碗などが出土しており、軟質磁器が焼かれていたらしい。最近の窯跡発掘調査では、1650年代以降に有田地区で焼かれた古九谷様式の色絵磁器の絵付け前の磁器の素地が多々郎の窯で焼かれていた可能性が高いという報告もある。多々良では、江戸時代には、大瓶、壷、日用雑器のほか、「もどりかめ」という土葬用の大型の甕棺も焼いていた。甕棺の表面の縄文土器のような隆起文を全体に巡らしてあるのが特徴で、民芸愛好者の評価が高い。ろくろ成形の職人と荒仕子と呼ばれるろくろ蹴りの二人がかりで、紐作り叩き技法という手法で大型壷を製作していた。乾燥した壷は7昼夜かけて登り窯で焼いていた。巨大なものでは五石入りといった直径90cm高さ180cmの大甕も製作されていた。大正から昭和初期かけては、沖縄地方から泡盛甕としての注文や、福岡県久留米地方から久留米絣の藍染めに用いる藍甕の需要もあった。昭和初期はまだ5軒ほどの窯元があり、穀物や味噌、醤油などを貯蔵するための大瓶や大鉢などを叩きの技法で製作していた。伊万里の問屋を通して、長崎県の島々などへ水瓶として多くを売り出していた。農家向けの生活雑器も盛んに焼かれていた。中でもたる型の塩壷は民芸愛好者の評価も高かった。昭和初期は高さ約1.2mの四斗甕が1日に8本できて職人と荒仕子の日当が出るといわれるくらいの重労働だった。大戦後、生活様式の変化やプラスチック製品の流通などで衰退し、昭和30年代(1955-1964) には土管や甕、蛸つぼ、湯たんぽ、塩壷、徳利、雲助、こね鉢などを細々と製作する状態にまで落ち込んでいた。昭和34年、民芸運動の理論家であった柳宗悦が「多々良の雑器」という小文を発表し、名が知られるようになった。昭和40年代(1965-1975)、佐賀県文化課職員だった永竹威氏は、佐賀県の伝統的な工芸品である大甕製作が衰亡の危機にあることを危惧し、多々良の大甕作りを記録映画に撮ったり、博物館で展示したりして、その伝承に努力した。金子窯の御当主である金子氏は、農業のかたわら大甕作製の技法を伝承していたが、永竹氏の熱心な勧めもあって、金子窯で作陶を精力的に行うようになった。昭和40年代(1965-1974)以降の焼き物ブームで、全国各地の民窯が注目されることとなり、多々良焼も復興した。

 
特徴:多々良焼を含む武雄地方の陶器窯は、「武雄古唐津焼」として国から伝統工芸品の指定を受けている。多々良焼は、紐作り叩きの技法で作成する大型の甕や壷、半胴甕などが特徴である。伝統的な大甕は、腰の強い田の土を粘土紐にして、内側に木を当てて巻き上げ、外から叩き板で叩き締める。荒仕子と呼ばれる職人が地面に横に寝そべって足でろくろを蹴る。大物では7段から8段も粘土をつぎ、巻き上げ、叩き上げを行って大瓶を仕上げていく。土の量が多いので形が崩れないように火鍋を中に入れて乾燥される。釉薬は灰釉薬で、窯焚きの後、黒褐色になる。


小田志焼


歴史:桃山時代末期(天正年間)から約400年の歴史のある武雄南部系古唐津の流れをくむ民窯。秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀藩主鍋島直茂に従軍した武雄領主後藤家信が保護し、起こした窯が起源。当初は、内田山、黒牟田山を中心に窯が築かれた。家信は、朝鮮出兵の際、宗傳をはじめとする多くの陶工を連れ帰り、領内で作陶させた。宗傳を含むグループは現在の武雄市北部の内田山?黒牟田山?平古場などで開窯し、武雄北部系古唐津と呼ばれる品を焼いた。また、別のグループは、現在の武雄市南部の大草野、小田志、内田皿屋などに開窯し、武雄南部系古唐津とよばれる製品を焼いた。北部系古唐津には、黒牟田焼や多々良焼などもこれに入る。北部系古唐津は釉掛けしただけか、絵付けも単純化されたせいぜい鉄絵程度であり、無骨で素朴な製品が多い。これに対して南部系古唐津は、松絵に代表されるような色絵も見られ、象嵌、掻き落とし、三島手、色絵象嵌、刷毛目、櫛目、へら書き、松絵の二彩唐津、等の比較的と華やかな品が多いのが特徴だとされている。小田志は南部武雄古唐津系の窯場で、生活雑器を焼いていた古窯跡が点在する。小田志焼を含む武雄地方の陶器窯は、「武雄古唐津焼」として国から伝統工芸品の指定を受けている。


長崎県


波佐見焼


歴史:文禄の役で大村藩主が朝鮮から連れてきた陶工李祐慶兄弟と朴正意らが開窯。慶長4年(1599)、波佐見村村木の畑の原、脇の谷、古皿屋に窯を築いた。その後、磁器の原料となる陶石が村内で発見され、磁器の焼成に成功した。慶長10年(1605) 開窯の三ツ又窯、元和年間(1615-1624)開窯の中尾窯、寛文6年(1666)開窯の永尾窯、寛文年間(1661-1673)開窯の卑古場窯などで、大村藩の御用窯として使われた。主に青磁や染付の日用品が焼かれた。淀川の船で酒食を売るために用いられた「くらわんか茶碗」などの多くの食器を出荷し、伊万里焼の名で、多くの磁器を出荷した。江戸時代末期には世界最大ともいわれる中尾窯(全長160m以上) をはじめ100m以上ある巨大登り窯が数基焼かれていた。

特徴:日用品の磁器を中心に生産している。国内日用和食器の約18%が生産されている。隣町の有田焼のブランド名で出荷される物も多い。品質は有田焼と違いはない。透き通るような白い磁器が波佐見焼の特徴。透かしり彫りや、編み目細工も有名である。従来の磁器よりも耐性の強い強化磁器は「われにっか」というブランド名で、学校給食や病院用、業務用としても出荷されている。波佐見焼の窯元は現在役110軒。窯元は町内各所にあるが、中尾山にとくに密集している。中尾郷、井石郷、永尾郷、湯無田郷、折屋敷郷、宿郷、村木郷の各皿山にかっもとが集中している。その他、鬼木郷、三股郷、小樽郷、長野郷にも窯元がある。


三川内焼


歴史:慶長3年(1598)、平戸藩主松浦鎮信が、慶長の役で連れてきた朝鮮陶工約100 人を使って藩窯を築かせた。最初は、平戸の中野村に開窯されたが、寛永11年(1634) 、三川内の地に移された。寛文2年(1662)からは、佐世保の早岐港に荷揚げされた天草の砥石を原料に磁器を焼くようになった。天草陶石の利用を始めたのは三川内焼が最初である。純白の磁器の地肌に、呉須の藍色の染め付けや、精巧な赤絵が特徴で、諸大名への贈答品として生産されてきた。平戸焼ともいわれた。山水に中国風の唐子模様の呉須の絵付け皿が有名。昔は唐子の人数によって、献上品と庶民用を分けていた。


特徴:透かし彫りの香炉や壷は非常に精巧である。主に天草陶石を原料に用いている。現在、窯元は三川内皿山に多くが集中しており、江永皿山、木原皿山などと併せて40軒あまりの窯元がある。


現川焼


歴史:矢上焼ともいう。元禄5年(1692)、田中宗悦が開窯した。唐津風と京風が混じった作風で、蓮華刷毛、縮緬刷毛、小波刷毛、蛍手、流描き、地図描きなどの技法を用いた独特なもの。茶碗、皿、鉢、向付などを焼いていた。開窯後わずか約50 年で、寛保年間(1741-1744) に廃窯になった。現川焼では、開窯の際、皿、茶碗、鉢などに限るという条件が佐賀藩から付けられ、伝世している製品のほとんどが皿や鉢類に限られている。一時期、ごくわずかに香炉や香合などが焼かれた。壺や徳利のような上部がすぼまっている袋物はほとんど作られなかった。伝世している現川焼の徳利などは、すべて唐津焼の刷毛目物とされている。明治28〜38年にかけて馬場藤太夫が再興した。昭和になって横石臥牛によって古現川焼が復興された。 


特徴:鉄分の多い土で作られる。繊細で上品なつくりが特徴。赤土でつくられた薄手の素地に白い化粧泥を刷毛で施した作品が有名。刷毛目の入れ方によって、雲、波、縮緬などのさまざまな刷毛目文様があらわれる。窯元は佐世保市三川内の臥牛窯現川焼窯元の1軒と長崎市現川の2軒。 


大分県


小鹿田焼


歴史:開窯は寛文5年(1665)説と宝永2年(1705)説の2つがあって定かではない。宝永2年(1705)、大鶴村の代官黒木十兵衛が、小石原から陶工柳瀬三右衛門らを招いて開窯した。小鹿田の仙頭(地主)坂本家の提供した土地に朝鮮系の登り窯を築いたという。小鹿田郷に開窯されたのは、当時この日田一帯は天領であり、郡代が地元の産業奨励を理由に、小石原が領地にある黒田藩に申し入れて可能になったといわれている。地元では「日田の皿山」と呼ばれる。窯元は一子相伝で守られ、開窯に関係のあった、柳瀬、黒木、坂本の3家しか認めていないのは小鹿田焼の特徴である。半農半陶で、日田天領内で使われる生活雑器が焼かれていた。昭和6年、民芸運動の主催者柳宗悦がこの地を訪れて紀行文「日田の皿山」を著して有名になった。小鹿田焼の命名も柳のよるものといわれる。昭和26(1951) 年に柳の再訪、昭和29(1954)年には英国の陶芸家で民芸運動の推進者でもあったバーナード リーチが滞在し、3ヶ月間、作陶を行った。小鹿田焼は1970年代の民芸ブームによって脚光をあび、昭和32年(1957)には大分県の無形文化財、昭和46(1971)には国の記録文化財の指定を受けている。平成5(1993)年には小鹿田焼の製作過程全体が国指定の重要無形文化財となった。小鹿田焼は、日田天領内の生活雑器を自給する目的で始まった民陶窯であり、機械類を一切使用せず、すべて手作業で行われる。陶土の粉砕から焼成まですべて手作業が守られている。


特徴:陶土は付近の山から採取され、赤褐色で、あまり上質でないため約1カ月かけて精製して胎土とする。山取りの対は2週間かけて唐臼でつく。これを水槽の水につけて桶でこし、鉢に入れて水分をのぞく。乾燥専用の亀型をした窯の上に土を載せて乾燥させる。 
ろくろは小物用を除き基本的に足けりろくろを用いている。施釉はすべて生がけで、素焼きを行わない。釉薬も地元の物を用いている。釉薬はセイジ(緑釉)、アメ(飴釉)、クロ(黒釉)が主に用いられる。白絵、刷毛目、指書き、櫛書きなどの技法で、壷、土瓶、徳利、茶碗などが作られている。民芸運動に参画したイギリス人の陶芸家バーナード リーチの伝えた水差しの技法も使われている。小鹿田焼の技法の代表格のように思われている打刷毛目や飛び鉋の技法はさほど古い技法ではない。打刷毛は壺などに簡単に施していたものを皿に応用するようになったのは昭和初期からで、飛び鉋の技法は大正年間に日田の医師が伝えたという。取って付きの水差しは、小鹿田焼独特のもので、リーチも注目した。 


熊本県


小岱焼


歴史:寛永9年(1631年)、丹波国の陶工源七(牝小路家)が、細川家の肥後転封によって、小代山北麓の竜ノ原に開窯した。ほかに豊前国の葛城安左衛門も焼物師として召された。天保7年(1836)、当時の山役人であった瀬上林左衛門によって瀬上窯が興された。小岱焼は以後、この3家が窯を守った。松風焼、五徳焼、牝小路焼、竜ノ原焼とも呼ばれた。 細川藩の御用窯として隆盛をみせたが、明治維新後急速に衰退した。牝小路窯は明治10年(1877)に廃窯し、最後まで残っていた葛城窯も大正10年(1921)に廃窯になった。昭和6年、石見出身の近重治太郎によって熊本市内の健軍に健軍窯として復興された。大戦後、有田出身のホテル経営者、城島平次郎が、荒尾市にしろ平窯を築いた。これは城島氏が裏庭に窯を築き、趣味で始めたものであるが、その後、高田焼で修行し、昭和28年(1953)、小岱焼専門の窯として再出発した。現在、弟子筋の窯が新たに開かれるなどして、小岱焼の窯元は10軒以上に増えている。 


特徴:小岱山で取れる良質の赤黒い陶土を用いている。小岱山の粘土は花崗岩が熱水変成した良質のものであるが、素地は砂の混じった粗い褐色の土である。近年は、小岱山の土を単味で用いることはなく、各地の粘土を混ぜて使っている。藁灰や木灰、笹灰の釉薬を用い、高温で焼きしめる。褐色の鉄釉の上に、白釉を豪快に流しかけする作風が代表的。また、鉄釉の上から、器胎の上半分に白釉を施したものもある。黒から朽ち葉色まで変化する鉄釉と、藁灰、笹灰を用いた白釉の朝鮮唐津と呼ばれる技術も小岱焼きの特徴である。 


内田皿山焼


歴史:天草陶石の発見に伴って、17世紀に興った窯で古窯の発掘調査からも裏付けられている。内田皿山焼近くの下皿山の丘陵地には、300年前の古内田皿山焼の窯跡があり、今でも無数の磁器片が見つかり、熊本県最古の磁器窯があったことで知られている。しかし、正確な開窯の時期ははっきりしない。東南アジア方面の輸出品を主に生産していたという。現在の内田皿山焼は昭和45年(1970)に復興されたもの。1981年には熊本県の伝統工芸品の指定を受けている。


特徴:最も優れた磁器陶石とされる天草陶石を用いて焼いている。白磁、染め付け、青磁などが主流品で、染め付けはすべて手書き行われている。青白磁の素地はわじかに青みがかった釉薬を掛けたもの。この釉薬には天然のイスノキの灰を用いている。


高浜焼


歴史:宝暦12年(1762)、高浜の庄屋上田家6代目の上田伝五右衛門が、肥前の陶工山道喜左衛門を招いて高浜皿山に築窯したのが始まり。輸出用に磁器を焼いた。天草では、砥石用に掘っていた石が磁器用の陶石としては最上のものであることがわかり、元禄年間から三河地焼などに出荷していた。伝五右衛門は長崎奉行に製品の良さを認められて、顔料や釉薬(「茶碗薬」)の購入の便宜をはかってもらっており、安永7年(1778)から3年間ほど、長崎出島に出店して、オランダ人と交流している。そのころは、色絵と染め付けを用いた華麗な染錦手を焼いていた。7代目の宣珍の頃が高浜焼の絶頂期で、瀬戸の陶工加藤民吉が肥前磁器の技術を盗むために、徒弟として潜り込んでいたことは有名である。明治中期にいったん廃窯になったが、昭和27年(1952)、陶石の販売を行っていた上田家の上田陶石合資会社が復興した。
特徴:美しい磁器で、異国情緒ただようキリシタン風のデザインが特徴。


高田焼


歴史:豊前国の上野焼に従事していた尊楷(上野喜蔵)が、細川藩の肥後転封に伴って、長男 次男と共に八代郡高田郷奈良木村(八代市奈良木町)に窯を開いた。万治元年(1656)、息子の忠兵衛(木戸家)と特兵衛(中家)が平山新町に移った。その後、徳兵衛の2男太郎助が正徳元年(1714)に分家して、奥家となった。藩の御用窯として代々、茶器を中心に焼いていた。当初は、古上野焼風の釉薬をかけた荒い土の、野趣あふれる陶器を焼いていたが、江戸時代中期に細かい漉土をもちいるようになり、象眼手法が主流になっていった。 平山窯は明治24年(1891)まで経営されていたという。3家のうち、木戸の上野家が明治25年(1892)に日奈久温泉に移って上野窯を守っている。


特徴:象眼青磁が主流。象眼は半乾きになった素地に竹へらなどで文様を彫り込み、白泥を埋め込む技法である。文様は、雲鶴文、吉祥文、草花文、畿何文などで、茶器、花器、皿、湯呑み、鉢、壷などが焼かれている。 


宮崎県


都城焼


歴史:1781年、都城藩主島津倫の招きによって、薩摩焼堅野の陶工有村喜平次が、都城市東町に藩窯として開窯した。白薩摩風の茶器類を焼いたとされるも、遺品が確認できていない。1794年に民窯に移行したが、数年後に廃窯になった。都城では、小松原焼が御用窯として続いた。都城では、瓦の生産が盛んで、現在まで都城瓦として焼き続けられている。現在の都城焼は、先代の宇都野新太郎氏は中学校の教員をしながら焼いていたものを、独立して都城焼として開いたもの。先代は、独学で作陶を収得し、当初は薩摩焼風の民芸陶器を焼いていた。釉薬も付近の山から取れる石を使って調整していた。当代になって、民芸風のものよりも、青磁貫入釉に辰砂釉を組み合わせた明るい作風の製品が主流になった。


特徴:民芸陶器のほか、薩摩焼の黒薩摩系統の作品も焼いている。現在の都城焼の特徴は、青磁貫入釉に辰砂釉を組み合わせたもので、透明な緑色の釉薬に細かい貫入が入った器体に、辰砂釉の赤い色がアクセントを添えたもの。焼き締めなどの施釉しない作品も焼いている。 


鹿児島県


薩摩焼


歴史:文禄慶長の役(1592-1598)で、薩摩藩主、島津義弘が連れてきた約80人の朝鮮陶工達の開窯に始まる。薩摩焼の渡来年代については、文禄4年(1595)説と慶長3年(1598)説がある。文禄説は寛政年間の古文書、白尾国柱著「鹿藩名勝考」がもっとも古く、「府県陶器沿革陶工伝統誌」などが、同説を引用している。その後、白尾国柱は「薩摩勝景百図考」で慶長渡来説に改め、「三国名勝図会」その他の諸書がこれにならった。小山富士夫 田沢金吾共著の「薩摩焼きの研究」をはじめ、現在は慶長渡来説が定説のようになっている。慶長説の資料でもっとも信頼されるものに、苗代川の古文書「先年朝鮮より召渡留帳」があり、諸著はこれを一次資料としたものが多い。「留帳」によると「慶長三年戊冬被召渡候朝鮮人串木野の内嶋平、市来の内神之川、鹿児島の内前の浜に着船候」とある。慶長3年8月に秀吉が亡くなったため、義弘は軍をまとめて11月に帰還している。陶工集団が上陸したのもその時ということになる。上陸地点は、串木野市の島平と、東市来町の神之川、そして鹿児島港の三カ所である。上陸した陶工の人数は、「留帳」は、島平43人、神之川10余人、鹿児島20余人の計70余人の男女と記している。その姓は、串木野が、安、鄭、李、張、卞、朴、黄、林、東、朱、盧、羅、燕、姜、何、陳、崔、丁の18姓、神之川へは、申、金、盧の3姓、鹿児島には李、姜、朱の2姓で、三カ所合わせると20姓ということになる。一方、「鹿藩名勝考」は、前記20姓に、白、沈、の2姓をあわせて22姓とし、男女80余人が渡来したと述べている。保護を与えるべき島津義弘は慶長5年(1600)まで鹿児島に帰らなかった。朝鮮から博多に着いた義弘はそのまま上洛し、秀吉亡き後の天下の帰趨を見定めていたが、関ヶ原の合戦では豊臣方について敗退し、慶長5年(1600)10月に鹿児島に逃げ帰った。義弘は隠居し、徳川氏にひたすら恭順の意志を示した。このような状況下で、連れ帰った朝鮮陶工は放ったらかしの状態にされていた。串木野に上陸した一団は、衣食にも事欠き、住民たちの迫害をうけつつ山野をさまよい歩く有り様であったが、数年後に東市来の苗代川(現在の美山)の地に窯を築き、生活雑器を焼いて周辺の住民に提供し、生計の一助とするようになった。慶長6年(1601)、桜島の蟄居を解かれた島津義弘は、陶工集団の長だった金海(星山仲次)に命じて茶陶などを焼かせるようになった。金海は帖佐(姶良郡姶良町)の城内に宇部窯を興し、藩窯のもとになった。芳仲は、帖佐八日町に開窯した。苗代川の朴平意らは、後に、元屋敷、土平、御定式にそれぞれ窯を開いた。島津義弘が加治木に城を移すと金海 芳仲も加治木に窯を移した。加治木窯は後に廃窯になったが、島津家久が鹿児島に居を移すと、金海は藩命を受けて堅野(鹿児島市冷水)に堅野焼を興した。朴平意とその息子の貞用は、領内で白土を発見し、その後の薩摩焼白物を焼成する基礎を築いた。寛文年間(1661-1673)には、星山嘉入が苗代川で朝鮮系陶工を指揮して五本松窯を起こした。宝永年間(1704-1711)には、苗代川の陶工達が大隅に移住して、笠野原窯を築いた。安政年間(1854-1860)には、島津斉琳が藩庭に磯御庭焼を起こした。これらの藩窯のほかに、民間の窯も開かれるようになった。寛文年間(1661-1673) 、碗右衛門は山元窯を起こした。延宝年間(1673-1681)には湯ノ谷窯、元禄年間(1688-1704) には竜門司窯などが加治木周辺に開かれた。明治維新後、薩摩焼は藩の保護失い苦境に立ったが、パリ万博(1867)に朴正官の大花瓶が、ウィーン万博(1873)に12代沈寿官の大花瓶が出品され、サツマウェアーが欧米で知られるところとなった。当時のヨーロッパではジャポニズムと呼ばれる日本趣味が流行しており、多量の薩摩焼白物の注文が殺到した。 白薩摩の名品の多くがこの時代に制作され、欧米に輸出された。当初は横浜商人によって輸出されていたが、12代沈寿官は直接横浜に赴き海外のバイヤーと交渉して直接輸出を手がけるようになった。素地だか薩摩で焼かせ、バイヤーの注文を受けながら上絵つけは横浜で行うということも行われた。近年、これらの名品が日本に買い戻されている。大正年間から昭和初期に始まる、柳宗悦らによる民芸運動は薩摩焼の民陶の素朴な美しさに注目し、黒薩摩も全国的に有名になった。 

薩摩焼の窯の系統 

苗代川系諸窯  薩摩半島西岸一帯の諸窯を苗代川諸窯と呼んでいる。慶長3年に渡来した朝鮮陶工集団によって最初、串木野島平に開窯され、5年ほど後(1603)に、東市来の苗代川に移った。元屋敷、堂平、五本松、笠野原、御定式、東打通、ウチコク、南京皿山(磁器窯)などがこの系統になる。苗代川の焼き物は、当初から李朝民陶の技法を守り、素朴な日用雑器を中心に焼いていた。苗代川系の窯には、宝永元年(1704)、現在の鹿屋市笠野原に移住させられた人々が開窯した笠野原窯、高尾野町の高尾野窯、宮崎県都城市の小松原窯などがあったが、いづれも廃窯している。 
堅野系諸窯  島津義弘が金海に命じて作らせた帖佐の宇都窯が起源になる。加治木の御里窯、のちに現在の鹿児島市に移って堅野冷水、田の浦、堅野長田、稲荷、磯御庭、市来仙厳窯などかこの系統に含まれる。東市来神之川に上陸した陶工たちは、島津義弘の居城のあった帖佐(姶良町)に招かれた。このうち、金海は慶長6年(1601)、帖佐宇都窯を開窯した。その後、藩主の居城が移るのに合わせて窯を移動し、慶長13年(1608)には加治木町反土に御里窯を開いた。 義弘の後、藩主は鹿児島に移り、元和6年(1620)、金海を招いて堅野冷水窯を築かせている。この諸窯は、藩主の御用窯として特別の庇護を受け、金海、金和(星山弥右衛門)、有村椀右衛門、金貞(星山仲兵衛)、重久元阿弥などが、藩主の命によって、京都、瀬戸などの先進陶業地に派遣され、技法を取得して作品の質を高めた。その後、島津斉杉は安政2年(1855)に磯の集成館内に磯御庭窯を築窯し、西欧の釉薬や絵の具の研究を行って、従来の薩摩焼の近代化を図った。白磁に染め付けで「JAPAN SAKE」などと書かれた染め付け白磁の徳利も焼かれ、醤油や酒が長崎祐二から海外に輸出された。斉杉の死後、御庭焼窯は廃絶した。その後、仙厳窯や新御庭焼(1907-1927)ち続いたが、経営が民間に移り廃絶した。この系統の諸窯は、明治維新後、藩の保護を失って、廃絶した。
龍門司系諸窯  慶長年間の終わり頃、渡来陶工の卞芳仲らによって始められた。吉原、山本、湯の谷、龍門司の各地に窯が築かれた。寛文の頃の山本窯では、抹茶茶碗などの雅陶も焼かれたが、元禄初期から現在まで続いている龍門司窯では生活雑器を焼き続けた。龍門司の川原芳工(1727-1798)は薩摩焼中興の祖と言われた名工で、53歳の時に肥前、68歳のときに再び、肥前、筑前、長門、備前、京都、尾張をめぐって技法を収得して帰り、新しい薩摩焼を興した。川原家は名工を輩出し、芳工の子の芳寿、芳平以下、芳右、芳光、芳次などが続き、技法も鮫肌釉、龍門司三彩、三島手などの多岐にわたる手法が開発された。
西餅田系諸窯  寛文年間初期、渡来陶工の窯の系列に属さない窯が帖佐の西餅田に興された。この地の修験者だった小野元立が肥前磁器の流入を押さえることを目的として、肥前の陶工であった北村伝右衛門を招請して作らせたもので、西餅田窯、小松窯からなる。延享3年(1746)に5代小野元立らが龍門司窯に移って廃絶した。製品は鉄釉をかけた皿、鉢、徳利などの日用雑器が主だが、土灰釉のものや白磁も焼かれた。 この窯の特徴的な作品は、釉の二重かけの蛇蠍釉と呼ばれる物で、茶碗に多く用いられ、現在でも伝世品は珍重されている。 
平佐系諸窯  安永年間(1772-1781)、平佐郷の今井儀右衛門が出水郡脇本村に、有田から陶工も招き、天草陶石を使って、磁器窯を築いたが、資本力が続かず2年で廃絶した。このあとを受けて、領主本郷久陣の家臣伊地知団右衛門が、領主の後援のもとに有田から陶工を招いて、天明6年(1786)頃、天辰村に北郷窯を開窯した。文化7年(1810)になると陶工の数も増えたために北郷窯の北側に大窯を築いて移った。文政11年(1828)には、有田で大火があり藩の援助を得られない有田陶工が全国に分散した。平佐では絵付け師を有田から呼び寄せ、活況を呈した。弘化3年(1846)には赤絵窯ができて精巧な色絵磁器も焼けるようになった。有田磁器に変わる領内用の染め付け磁器が中心に焼かれたが、一部、色絵磁器も焼かれた。赤絵や鼈甲釉などの特徴的な製品も焼かれた。その後、発展し、琉球列島方面にまで販路を拡大した。明治維新後、大窯の改築、田中窯、勝目窯、柚木窯、永井窯などの個人窯が開かれ、平佐焼は最盛期を迎えるが、次第に近代化に成功した有田地方の製品に押されるようになり、昭和16年(1941)に焚かれた窯を最後に閉窯になった。
特徴:薩摩焼きは、藩窯の「しろもん」と呼ばれる錦手白薩摩と、「くろもん」と呼ばれる庶民の使った黒釉の硬質な陶器がある。白薩摩は、2代朴平意と初代沈当吉が指宿郡成川で白陶土を発見し、製作され始めた。錦手や金襴手の豪華な陶器に発展していく。現在の沈寿官家は代々この白ものを焼いていた陶苑である。作品は窯元によってかなり異なるが、薩摩焼の伝統的なものとして、黒薩摩(黒もん)と白薩摩(白もん)がある。白薩摩の胎土には、指宿カオリン鉱床の白色粗粒で粘性の弱い「バラ」と白色微粒で粘性の高い「ネバ」に笠沙の白色軟質陶石「笠沙陶石」を配合している。釉薬は、珪長石である京ノ峯石が主原料で、これに木灰を混ぜて使っていたが、現在は市販の石英分の多い長石釉を用いている。白薩摩は独特の糸ヒビ状の貫入が入ることが特徴である。これは、冷却時の釉と器体の膨張係数の違いによって生じる。まず、冷えていく窯内で釉ガラスが固化する810℃付近で釉ガラスは斜め(成型時の轆轤回転と逆方向)に糸のように長く深く粗く切れる。これが第一の貫入で、白薩摩釉の主貫入である。ついで560℃付近になると無数の細かなひびが一挙に入り、このヒビは分岐しながら長く続く。これが第2の貫入である。このヒビは上絵つけされて錦窯で再加熱されると生成が止まる。第一の貫入は深く釉と器胎の境界層まで達し、第二の貫入は細かく浅い。このため釉ガラスの層が厚い部分では、深浅2種類の釉層があるように見えて二重貫入と呼ばれたが、2層に釉薬をかけている訳ではない。黒もんには、現在、さまざまな技法が使われている。鮫肌釉、蛇蠍釉、三島手、飛鉋、白釉に緑釉と飴釉の竜門司三彩など。茶器、花器、酒器、皿、鉢、壷、生活食器など多彩な製品が生産されている。薩摩焼は、窯の起源も手法、材質の多種多様であり、鹿児島県内の窯場では独自の焼名を名乗っている場合も多い。 

種子島焼


歴史:江戸初期の頃から中種町能野付近に能野焼があった。地元の粘土に灰釉を施して、壷、瓶、七輪、徳利、土瓶、仏具、植木鉢、墓石まで焼いていた。明治35年に廃窯になった。昭和43年(1968)、唐津の陶工中里隆氏を招き、新しく種子島焼きとして新窯を興した。古陶磁研究家で、作陶家として南蛮手にも理解があった小山冨士夫氏の力添えがあったと伝えられている。


特徴:釉薬を用いない焼き締めで高温で焼くのが特徴。硬質の陶器で地肌は茶褐色。素朴な味わいがある。このような焼き締め陶は「南蛮手」と呼ばれ、東南アジアからポリネシア諸島まで広い地域で焼かれている。 


沖縄県


壺屋焼


歴史:沖縄ではやきもののことを「やちむん」といいます。また壺屋とはもともと窯場のことを意味していました。壷屋焼は大別すると焼き締めの荒焼(あらやち)と色絵の上焼(じょうやち)の二つの系統がある。歴史的には荒焼が古い。14世紀〜16世紀頃、琉球王国は中国や東南アジア方面と活発な交易を行っていた。その頃、南方から焼き締め陶器の南蛮焼きの手法がもたらされ、荒焼がやかれるようになったという。当時の製品は、酒や水を貯蔵するための甕や壷が主流だった。1609年、島津家久が琉球に侵攻し、琉球王国は薩摩占領時代に入る。貿易面でもさまざまな制約を受けることになり、このため王府は域内産業の振興策をとった。尚寧王は朝鮮式の作陶法を学ぶために薩摩に朝鮮陶工の派遣を申し出た。その結果、3人の朝鮮陶工が来琉し技法を伝えた。以来、上焼と呼ばれる製品が焼かれるようになった。朝鮮陶工のうち張一六(仲地麗伸)は琉球に留まり、焼き物の発展につくした。17世紀初頭には、古我地、喜名、知花、宝口、湧田などに窯があった。1671年には、宿藍田平田典通を中国に派遣し、赤絵の技法を学ばせた。1682年、尚貞王は、沖縄各地あった窯(美里村知花窯、首里宝口窯、那覇涌田窯)を現在の壷屋地区に集めた。明治期以降、本土から安価な焼き物が流入するようになり、壷屋焼は苦境に立たされた。1939年、柳宗悦ら民芸協会の一行が沖縄を訪れ、壷屋焼を絶賛し、全国的に知られるようになった。壷屋地区は沖縄戦でも奇跡的に破壊をまぬがれ、約60軒あまりの窯元の建物は半壊程度で残った。1945年の敗戦の年から早くも作陶を再開した。那覇市壷屋周辺に古くからの窯場があるが、都市化に伴い煙害が問題になり、読谷村に移る陶芸家が増えている。荒焼は南蛮焼とも呼ばれ、釉薬をかけないで約1000度で焼きしめる。もともとは、泡盛や味噌などを入れる壷などの大物が中心だったが、近年は酒器や食器などの小物も焼かれている。 


特徴:上焼は釉薬をかけ、約1200度の高温で焼く。釉薬は、灰釉、黒釉、飴釉、呉須、緑釉などを使う。砕いたサンゴと籾殻を混ぜて焼き、粘土とあわせた灰釉は壷屋焼独特のものである。粘土としては、島尻粘土、喜瀬粘土、古謝知粘土、石川粘土、前兼久粘土、山田粘土、喜名粘土、安富祖粘土などが用いられている。陶土は鉄分が多いために、白土で化粧かけするのが上焼の大きな特色となっている。この化粧を掻き落としたり、線刻したり、飛び鉋をほどこしたりして、素地の土の色とのコントラストをつけた模様を出す手法も独特なもの。色絵は、赤、緑、青、黄色などの絵の具をい用いる。赤絵の渋い赤色が特徴的である。おおらかな絵がらと、カラフルな色彩が壷屋焼きの特色である。抱瓶(だちびん)という、携帯用の三日月型の水筒が独特の物である。泡盛を入れる嘉瓶(ゆしびん)、魔除けの獅子像である「しーさー」、骨壷である廚子かめなども沖縄の焼き物独特なものである。


琉球焼


歴史:伝統的な壷屋焼以外の沖縄県の諸窯を総称して琉球焼と呼んでいる。沖縄の焼き物の発祥は15世紀頃と推定されているが、元和3(1617)に薩摩から招聘された朝鮮陶工の一六、一官、三官によって朝鮮の技法がもたらされて飛躍的に発展した。寛文10(1670)には陶工の平田典道が中国に渡り、中国式製陶を学んで広めた。このため、琉球の焼き物には、赤絵や飛び鉋などの多種多様な手法が使われている。天和2(1682)、首里王府は、湧田、宝口、知花の3カ所にあった窯場を壷屋にまとめた。この窯場はその後、壷屋焼として発展することになる。そのほかにあった、喜名、古我地、山田焼などの古くからあった窯場はその後もしばらく存続したものと推定されている。しかし、大半の窯場は廃絶した。現在、琉球焼と言われている窯は約80ほどあり、復興した古我地焼や知花焼もこれに含まれる。 


特徴:原材料としては、石川粘土、恩納粘土、前兼久粘土、大湿帯粘土、江洲粘土、喜瀬粘土、喜瀬武原粘土、具志頭白土などが用いられている。技法としては壷屋焼と大差はないが、自由な発想で新しい感覚の作品もたくさん焼かれている。泡盛を保存するための壷、シーサーと呼ばれる魔除けの獅子の置物、抱瓶(だちびん)とよばれる携帯用の水筒、そのほか、花器や日用食器なと多種多彩な作品が生産されている。

 

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